【護衛だって人間】
店から出ると、街は夜風に包まれていた。
不安を拭い去るような優しい風に、ガルドはほんの少し周囲を見やる眼差しを緩める。
……一人で警戒しているのが少々バカバカしくなる。が、それでもあの黒い獣はいる。
屋根の上でこちらを見下ろしていたかと思うと、いつの間にか路地の陰に。
人波に紛れていることもあれば、少し後ろをついてきていることもあった。
「ギルドへの依頼の報告は、明日でいいね」
隣を歩くルシアンが、穏やかにそう言う。気づいていないのか、とガルドが視線を送ったが、不思議そうに軽く首を傾げるだけ。
やれやれと、やはり頭が痛くなった。
宿に帰り、それぞれの部屋に分かれる。
ベッドと机、椅子。
それだけの素朴な部屋だったが、ガルドにとってはセレフィーネの高級宿より、こちらの方がよほど馴染みが良かった。
セレフィーネでの海中戦。護衛契約の更新。街から街への移動。
ルシアンの香り。魔力核への不可抗力の接触。正体不明の黒い獣。
――ここ数日、気を張ることが多すぎた。
気だるい身体をベッドに沈める。枕に頭を預ければ、寝台が軋む音がかすかに響く。だがそれすらも、束の間の安らぎの合図のようだ。
重たいまぶたを閉じる。……目を閉じたほうが、よほど楽だった。
(……ありゃ追ってきてる……いや、張りついてるか)
脳裏に焼き付いた黒い尾の揺らぎが、まだ残像のようにちらつく。ぬるりとした動き。けれど害意はない。
しかも魔獣や気配に対してあれほど鋭敏なルシアンが、姿以外なにも感じ取れないというのは――本当にそうなのか?
「…………」
いや、もしその正体に気づいていれば、いつものように噛み砕いて、わかりやすく教えてくれる。――あれはそういう男だ。
「……つーことは、わかんねぇってことだな」
俺と同じじゃねぇか、とガルドが鼻で笑う。目元を腕で覆い、ごろりと天井を見上げた。
部屋の灯りはすでに落とした。月明かりだけが、窓の隙間から淡く差し込んでいる。
風呂と着替えは――明日でいい。今日は疲れた。
街の音がどこか遠い。窓の外、通りの笑い声や誰かの足音、風鈴のような何かが揺れる音。
だがそれらの音の中にもう一つ――何かが屋根を歩く、重さのない"気配"があった。
「……ならせめて……番犬の真似でもしてろ……」
独り言のように呟きながら、ガルドは目を閉じた。
背中の緊張はまだ完全には解けていない。それでも、疲れには勝てなかった。
夜は深まっていく。
誰のものとも知れぬ黒い影が、宿の屋根をそっとよぎっていった。
翌朝ルシアンが目を覚ますと、ベッドの傍らにほのかな温もりがあった。
おや、と思う。そこを手で触るが、――気のせいだった。
「……?」
あの獣がそばまで来たのだろうか。
そう思ったが、やはりどこをとっても何の気配もない。どうやら考えても無駄で、頭を切り替えて身支度をした。
――時刻は、早朝。
ルシアンは、朝の街を散歩するのが好きだった。
手早く身なりを整え、部屋を出る。隣室、護衛の部屋の前で……扉の向こうに声をかける。
「ガルド、散歩に行ってくるね」
ノックはしない。返事が欲しいわけでもない。護衛にきちんと声をかけた、という建前が欲しいだけ。
けれどこの日は、中から感じた気配が少し違った。
「――……ガルド?入るよ」
ルシアンが取っ手を回せば、扉は施錠されていなかった。
部屋の中を覗き込むと、ベッドに護衛が沈んでいる。そばまでいくと、薄く開く赤い眼差し。
じわ、と汗が滲んだ額。呼吸は喉元で掠れている。
「……珍しいね、体調不良かい」
そう言いつつも、それもやむなし、とルシアンは思った。
額に手を当てれば、なかなかの高熱。目線は合っている気がするが、少々ぼうっとしているようだった。
「散歩、行くのやめるよ。宿の人にお湯とご飯もらってくるから、待ってて」
ガルドから返事はない。ルシアンの足音がゆっくりと遠ざかる。
扉が静かに閉まる音。――部屋には再び、静寂。
赤い瞳が、ゆっくりと閉じた。
喉が焼けるように熱い。だがそれ以上に、指先が、頭が、どこもかしこも重たく鈍い。身体の芯が火照っているようで、意識の端が常に霞んでいた。
(……なんだ……)
思考がまとまらない。言葉を繋げるのも億劫だ。ただ先ほど耳に触れた声だけは、やけにくっきりと聞こえた。いつものように穏やかで、けれどいつもよりも少しだけ、柔らかかった声色。
(……今いた、な)
……あの"獣"のことではない。気づいた時には、淡い気配と共にルシアンがそこにいた。
額に手を触れられた瞬間、ひやりとした指先が熱を奪った。その温度が、記憶の中に妙に鮮やかに刻まれている。
(……、……だせぇ……)
ぐるぐると思考が巡る。熱のせいか、あるいは昨日の黒い影のせいか。頭の奥が、妙に騒がしい。
だがそれもやがて、静かに遠のいていく。さっきふと香ったのは、香油の匂いだったか……どうも鼻が利きにくい。どこか遠い香りと、ここにいたような温もりだけが、在る。
朝の光が窓から差し込む。その下で、護衛は一度、深く息をついた。
――ひやり。
ガルドの額に、再び冷たい手が触れる。
まぶたを震わせて目を開けると、銀の瞳が覗き込んでいる。湯を絞ったタオルが、ガルドの額や首元を拭いていた。
「おや、起きれそうかい?」
「…………」
そう訊ねてくるルシアンは、手にしていたタオルを横に置き、水のグラスを持ち上げたところだった。
ガルドも声では答えられなかったが、応えることはできそうだった。ぐ、と軋む背に力を入れ、片肘を立てて上体を半端に起こす。
関節が痛む。頭痛もした。差し出された水のグラスを受け取って、ひと口……枯れた喉に沁みた。
「……、……わりぃ……」
やっと絞り出した声は、ガサガサに掠れていた。それでも目の前の彼は、なんとも涼しげに笑っている。
「ゆっくり寝てていいよ。宿の人が食事を作ってくれてるから、後で持ってくるね」
「……お前、……行くなよ、どこも……」
礼よりも先に口をついて出たそれは、護衛としての忠告だったのか、個人的な願望だったのか――ガルド自身わからなかった。
言ってもどうせ、ふらりと市場に行ったりするのだろうとも思う。ところがまっすぐに向けられた笑顔は、なんとも興味深げにこちらを見ていた。
――こいつ、楽しんでやがるな、と……護衛、やや肩を落とす。
「ふふ、善処するよ。あとでギルドに依頼の報告にだけ行くけれど」
「…………」
ギルド……と赤い瞳が宙を泳ぐ。この宿からならば、行き帰りでも大した時間かからない。……許容範囲内だ。
鈍く寝台を軋ませながら、ガルドがまた横になる。
「……てめぇ、……おもしろがってんな」
「うん?……そんなことないよ」
やけに静かな返しと、細められた銀の瞳。タオルをそばに置いた木桶に戻しながら、ルシアンは柔らかな笑みを浮かべるだけだった。
身じろぎひとつで、淡い香りが揺れる。――ああ、やっぱりいまいち鼻が利かねぇ、と……ガルドの目が伏せられた。
「……出んなら……変なのに……つかまんなよ」
声はまだ掠れていたが、水を飲んだからか、ほんの少しだけ力が戻っていた。
すぐ隣、椅子に腰を下ろしたルシアンの姿が視界の隅に残る。すぐには立ち上がる様子もない。ただ静かにそこにいた。
(……いや……行くなとは言ったが……)
"ここ"にいるのかと……ぼんやりとした意識の中、そんなことを思いながらガルドが再び目を閉じれば、額に触れる、いやに冷たいタオルの感触。
……さっきまでお湯だったのにな――の思考を最後に、眠りに落ちた。
――【護衛だって人間】




