【風に乗る尻尾】
「豹のようで、狼のような、黒い獣?」
「ああ」
街門を通りながら、ルシアンは口元に手を当てていた。
ガルドが見たというその魔獣の特徴を聞いてみたのだが、やはり心当たりはない。
「私の魔力では何も感じなかったな……星を見る子のような霊体でさえ、ほんの少しは感じられたけど」
「……すぐ消えてた」
「そう……まぁ……害意がないならね?ガルドに何か用があるとか?」
言いながら、ルシアンがくるりと周囲を見渡した。
アウルグレイの街は、昼と夕方の合間にあった。市場通りこそ賑やかだが、少し中心部から離れると、穏やかな日常が流れている。
洗濯を干す母親。小さな妹の手を引く子ども。立ち話をする老人。――ふ、とルシアンの目が細くなる。こうした人々の営みも、彼が求める"美しい景色"のひとつだった。
「……飯どうする」
ルシアンの景色の邪魔をしないよう、抑えられた声でガルドが尋ねた。はっと視線を戻して、ルシアンもそちらに向き直る。
「じゃあ、宿を取ってくるから、美味しそうなお店を探しておいてくれるかい?」
「ああ……」
小さく頷いて、ガルドは視線を市場通りへ戻す。周囲には、焼き魚の匂いや果実の甘い香りが漂い、人々の暮らしが色濃く息づいている。
そんな中に溶け込んでいくように、けれどどこか浮いた淡い外套が、軽やかに離れていく。その背を見送りながら……ガルドは短く鼻を鳴らした。
「…………」
雑踏の中、どちらへ向かおうかと鼻をひくつかせる。街の住民は、大きな体躯の冒険者を物珍しそうに見て、それを避けながら通り過ぎていく。
やがて足を踏み出し、肉料理の香る通りのほうへ。
(なんだったんだ、ありゃあ……)
あの岩場で見えた影を、ぼんやりと思い出す。自分に見えて、ルシアンには見えない。直視はまれで、視界の端に映るだけ。気配も、音も、実体があるのかすら不明。
(見間違い、ではねぇ。……けど、……)
見たことはないし、正体も知らないが、何故か"知っているかもしれない"という……本能的な違和感が、まだ背筋にこびりついている。
「……、……わかんねぇ……」
"わからない"がまた増える。こうなりゃ保留だ。ギルドで適当な依頼でも受けて、街の外に行くときにもしも、いれば……その時にまた考えればいい。
くん、と鼻を鳴らし、食事処に目をつけて――ガルドは、先ほどルシアンと分かれた小さな広場へと踵を返した。
ガルドと別れ、ルシアンは手頃な宿屋を探していた。
行きついたのは市場の近くにある宿。壁掛け看板には、冒険者ギルドの印章。信頼できそうだった。
ギルドへの距離はそこまで近くはないが、露店通りを通って行けばすぐ、といったところ。活動もしやすいだろう。
宿に入る直前、視界の端に長い尾のようなものが見えた。
――いる。
ルシアンは、そちらを見なかった。
気が付かないふりをして、宿の扉から手を離す。
黒い、長い尾だ。大型の獣のような。恐らく街へ着く前に、ガルドが見たと言ったもの。
なるほど、あれのことか、とルシアンは一人納得していた。
ゆらりと視界の端で、けれど滲むようなそれ。……気配はない。魔力も感じない。敵意も感じない。
それでもこちらを見ていて、どこか――見守られているように思えた。
ひとつ深呼吸をして、ゆっくりそちらに顔を向ければ、その黒い獣は溶けるように消えた。
「……なるほど」
宿で部屋を二つ取り、市場の通りに戻る。遠目でもよく目立つ護衛を見つけ、足取り軽やかにそばへ。
「お待たせ、ガルド。美味しそうなお店は見つかった?」
「……ああ。向こうの路地。肉だがいいか」
「いいね」
顎でそちらを示しつつ、ルシアンの無事を確認するように視線が動いた。身なりのいい旅人は、人混みや雑踏で、スリやかどわかしに遭いかねない。この淡紫の男がそんなものにやられる奴ではないと、思ってはいるが。
だが一瞬だけ――何かを感じたように、ガルドの眉がわずかに動く。……が、ルシアンが何も言わないのであれば、それまでだ。
くい、とやはり顎だけで行き先を示したガルドに、ルシアンも頷いて着いていく。夕暮れの市場は、人々の営みと喧騒にあふれていた。
ガルドの勧めの、通り沿いの料理屋――窓から通りを見渡せる席で、ふたりは向かい合って座っていた。
「そうだ、私もさっき見たよ、黒い獣」
「……ああ?」
運ばれてきた食事を切り分けながら、ルシアンは軽やかに言った。
その中性的な魅力に周囲の視線が集まるも、ガルドの一瞥で皆、目を逸らす。
「全容はほんの一瞬しか見えなかったけど、かなり大きいね?体高が君の胸くらいはありそうだった」
「……ああ、まぁ、確かに……」
唯一、しっかりとその姿を見ていたガルドが、もう一度反芻する。
確かに、自分の胸元に届くかどうかの大きな獣だった。ルシアンであれば、肩の高さ。
それが、街中にいたという。けれど、誰も騒いでいない。
そしてもうひとつ。
店を探すために、ガルドが一人で行動しているときには現れず、ルシアンは一人の時にも見えている。
――今も……視界の端にいた。
「……お前についてんのか?」
「君にしかしっかりと見えていないのに?」
……両者、視線を合わせ、押し黙る。眼差しは互いに。けれど意識は窓の外に。
肩をすくめ、自分の食事を取り分けたルシアンが、多い分を当然のようにガルドのほうへ。
猪肉を香ばしく焼き、香辛料と香草がちりばめられた料理だった。――ちら、とその皿を見たガルドが、それを引き寄せる。
穏やかな夕食と、果実酒。……こちらを見守る影は、窓の外。
「ああやっているだけなら、それでもいいかもね」
「いいもんかよ……気味悪ィ」
「ふふ」
ルシアンの柔らかな歓迎の言葉に、黒い尾がゆらりと揺れた気がした。
窓の向こうは、夕焼けに染まりかけた街の通りだ。往来もあり、今も住民や旅人がひっきりなしに行き交っている。そんな中に、大きな獣がああしていて、けれども誰も立ち止まらない、騒ぎにもならない。
ゆら、ゆら、長い尾が、静かに風に乗る。
それが獣の一部か、幻影かすらわからぬまま、また輪郭が滲んで消えていく。
「……考えるだけ無駄だな。頭痛の種だ」
ほんの少し首を振りつつも、低いぶっきらぼうな声。赤い瞳が、再び窓の外をちらりと見る。何もいない。だが確かに、"いた"気配が残っている。
「…………」
「気になるかい」
柔らかな声に、ガルドはその視線を正面に向けた。脅威としては、もう気にならない。気味は悪いが、不穏な気配がするわけではない。街やこちらにも、いまのところ実害も出ていない、が。
「……お前に近ぇ」
そのたった一点だけが、気になった。杯に口をつければ、果実の香りが鼻を抜けた。いつもなら苦手な甘さが、今だけは妙に染みる。
……文句を言ったところで、相手が聞いているかはわからない。それでも――護衛としては看過できない、いやに気になる存在だった。
だが真正面、ふわ、と笑った表情に、気が抜けたように肩が落ちる。――気にするな、といったところか。
外の影は、もうどこにも見えなかった。ただ、今もどこかで、こちらを"見ている"気配だけが、消えずに残っていた。
――【風に乗る尻尾】




