【奇妙な気配】
願いの泉を後にして、街道を一日歩き通す。
斜面を登り切れば、下っていく道の向こうに小さく街が見えた。
峠越え街道の途中にある、旅人の街アウルグレイ。……セレフィーネに比べれば小さな街だったが、山間に位置していることもあり、交通の要衝であった。
そのアウルグレイに続く街道をふたり、ゆっくりと下っていく最中で。
「……ッ」
ふとガルドの視界の端に、何かの影がちらついた。……盗賊や魔獣、ではない。気配も害意もない。
「どうしたんだい、ガルド」
隣を歩いていたルシアンが、不思議そうに覗き込んでくる。
言葉で何かを返す前に、すっと後ろ手でその歩みを止め……しばらく周囲を警戒したが、護衛の視界と野生の勘には何も引っかからなかった。
「……いや、……なんかいた気がした」
「何か?……小動物は……いるようだけど、人や魔獣の気配はなさそうだよ」
ルシアンが、じわりと視線を周囲に流す。感知魔法を張るでもなく、魔力の波のようなものを読み取っているようだった。ガルドが一拍置いて、わずかに頷く。
自分と同じくらいに気配に敏感な彼が言うなら、……そうなのだろう。……警戒の手を解いた。
また街道を下り始めながら、隣を歩く気配にも注意を払う。幸い今は、斜面を吹き上げるような柔らかな風が吹いており、空気は前から後ろに流れている。……つまり、香油の香りが届かない。
(……いや、……)
――何も別にくさいってわけじゃねぇんだ、と何度目かの言い訳を自分にする。ただちょっと、今までの自分の冒険者人生において馴染みがなかった香りというだけで。
しかも別に"女の匂い"というわけでもないのに、どうにもそれがいい匂いで、嗅ぎたい自分と……嗅いだらダメだという自分と、それでも耐えきれずについ、朝だけ嗅ぎに行ってしまう自分と……。
さっきからそのようなことばかりを考えている。
朝だけ、というのは、朝なら何とかおかしな雰囲気にならず健全に匂いが嗅げるのではないかと思い至ったためなのだが、……匂いを嗅ぐこと自体が健全なのかどうかは、ガルドは思考の外に追いやったようだった。
何よりも、ルシアン自身が叱らず、追及せず、逃げずの姿勢でいるのだから――ガルドも"じゃあいいか"といったところ。
(――抱えても怒られねぇし)
……願いが叶う泉での出来事を……ふと思い出す。
悪路で足元を滑らせたルシアンに、咄嗟に手が伸びた。転がって怪我をするよりはマシだったかもしれないが、魔術師の構造上の急所である腰をしっかりと掴んでしまい……けれどそれでも怒らない、責めない、ため息のひとつもつかない。
(……信頼、されてんのか……)
(だから匂い嗅いでも……)
(……わかんねぇ……)
そう、現在のガルドは、"結局考えてもわからない"ということがわかっている。そんな考えから気を逸らすように、赤い眼差しは足元へ。抱えた体温が、まだ手のひらに、腕に、懐に残っているような気すらしてくる。
思い出しそうになって、――また視界の端に黒い影を見る。
「っ――!」
ガルドは今度はそれを、しっかりと視界に捉えられた。遠く岩場の上に、黒い大型の魔獣。
豹のようで、狼のようで、けれど見たことのない魔獣だった。
「?……ガルド?」
立ち止まったガルドにルシアンが不思議そうな声を上げるが――ガルドも持ち上げた腕で、その細い身体を背に庇った。
「……魔獣だ。見たことねぇ。あそこの岩の上」
指し示すのは、顎と目線。見たことがない、生態もわからない、危険度も不明。視線は逸らせない。
けれどガルドの腕越しに覗き込んだルシアンから返ってきたのは、
「……何もいないよ?」
――そんな答えだった。
首を傾げたまま、ルシアンが視線を流していく。岩の上、と言われても、それらしき岩の上には何もいない。なだらかな丘陵と、下草は夏らしい鮮やかな草原。
岩場らしい岩場は一つしかなく、ガルドの視線は今も確かにそこに向けられている。
巨躯がルシアンの言葉にわずかに振り返るような仕草を見せるが、視線はそちらに向いたまま。
見つめているその岩場は、ただの風にさらされた薄褐色の塊。小鳥の影の一つもない。
「……なんで見えねぇ……、いや……ンッ、いねぇ」
苛立ち混じりに目を細めながら、ガルドは庇うようにしていた腕を下ろした。視界に残る残像。先ほどまで、確かにそこにあった黒い影。
「……いま確かに……んん?」
「……消えたのかい?」
「――あぁ……、わりィ」
「ううん。けど、いたんだろう?」
下げられた腕の陰から一歩隣に出てきて、ルシアンが静かに岩場を見渡していた。
この護衛が、そんなつまらない嘘をつく男だとは思っていない。だが魔力の流れもなにも感じないのも、また確か。
その淡紫を一瞥し……やや間を空けて、ガルドが小さく鼻を鳴らした。
「……敵意は……なかったように見えた」
「そう。私も見てみたかったよ」
視線をわずかに岩場に留めたまま、ルシアンが街道をまた進み始めれば、ガルドもそれに追従する。前を歩く後ろ姿は、こちらを疑うでもなければ、非難するでもない。
風が吹き抜ける。その一瞬――ガルドの視界の端で、やはり影が揺れた。
黒い。大きい。だが、音もなく、気配もなく、ただそこに"いた"。
(……なんだありゃ……?)
ガルドが目線を向けるが、次の瞬間にはまた消えていた。
無言のまま、ルシアンの隣へ歩み寄る。ため息をひとつ。――"これ"は確かに隣に在る存在。その横顔をちらりと見る。
「行くぞ。……もうすぐ、陽が暮れる」
「うん」
淡い午後の日差しの中、今日もふたりの影は立ち並んでいた。
――【奇妙な気配】




