【咄嗟の手】
廃祠はそこからわりとすぐ、山道を登っていった先にあった。
――正しくは、祠があったであろう基礎。そして腰丈の石の柱。
もう誰の手も加えられておらず、ただ自然のままにそこにあった。
ルシアンが屈み込んで、基礎の辺りに指先を滑らせる。
崩れた社には草が茂り、残った石の柱には何かしらの文字が彫られていた跡があったようだが……もう、ほとんど風化している。静謐な朝の空気の中、ゆっくりとこの森と同化していくようなそれ。
「おい、泉ってあれじゃねぇか」
背後から届いたガルドの声に、ルシアンが緩く振り返った。
今登ってきた山道から、少し斜面を脇に下ったところ――緑生い茂る森の中に、澄んだ青色が映える水場があった。
足場を探してみれば、木の丸太が数段、斜面に埋め込まれている。
「降りられそうだね。行ってみよう」
斜面を降りていけば、泉の周りには何もない。願いが叶うだなんだという噂話の割に、変に観光地化されているわけでもないようだった。
その水際に立ち、ルシアンが泉の上に軽く手のひらをかざしてみる。
魔力などを流してみれば、水面に落ちた魔力は静かに跳ね返り、ゆっくりと手のひらへと戻ってくる。
セレスの街で見た"西の泉"とはまた少し違う魔力波。確かに何らかの魔力を湛えているかのようではあるが、……害はなさそうだった。
「……オイ、飲むのか」
警戒心丸出しで、ガルドが低く呟く。……ルシアンも、小さく笑みを返すだけだ。
「成分的には、多分魔力回復薬みたいなものだと思うよ。人体に害はないはず。飲んでみようよ」
「…………」
そうっと手套を外したルシアンが、泉に手を差し込んだ。ひやりと冷たい水が、手のひらに心地いい。
片手ですくい、ひと口飲む。口当たりはよく、けれどどことなく硬めの水質。願いは当然、『美しい景色が見たい』。
隣では、ガルドも同じように泉の淵にしゃがみ込んでいた。
眉間に皺を寄せながら、こちらも水をひと口含む。……何を願ったのかを、口にすることはない。
「つめてぇ……」
そうぼやきながら、ぐい、とガルドが口元を拭った。
味はない。ただ、山の湧き水らしい清らかさが、体の内側にすっと染み込んでいくようだった。
傍らでは、ルシアンが手のひらにすくった水を陽にかざしている。水面に反射した光が、銀の瞳に淡く映る。あまりにも自然に、その姿が泉の風景に溶け込んでいた。
(……願い、か)
ガルドはちらりとルシアンを見て、そっと立ち上がった。
剣帯に親指をかけ……しばし空を仰ぐ。――雲一つない、朝の青。
「……お前ほど願いがわかりやすい奴もいねぇな」
「ふふっ」
足元では、泉の水が音もなく揺れていた。木々が風にざわめき、どこか遠くで鳥が鳴く。
それだけで、この朝の空気は十分に満たされていた。
……さて、と立ち上がり、ルシアンが周囲を見回す。
さらりと木々の合間を流れる風が、朝の空気を押し流していく。
――アウルグレイに向かおう。
ふたりの間に、そんな暗黙が流れた。
踵を返したルシアンが斜面まで戻り、丸太の階段を登っていく。苔の生えたそれは、ひっそりと長くこの場に在り続けたようだった。
その後ろをガルドが追従――していたが、途端に目の前、ルシアンが苔で靴底を滑らせた。
軽い身体が斜面で体勢を崩し、ガルドが咄嗟に手を伸ばしたものの――抱えた場所が、場所だった。
「わっ」
「ッ!っぶね……!」
思わず差し出した両手は、しっかりとその腰を……しかも咄嗟の事で、がっちりと勢いよく掴んだ。
ビクッと一瞬だけ肩を勢いよく跳ねさせ、……大変申し訳なさそうに、銀の瞳が胸元から見上げてくる。
倒れ込んできたルシアンは、そのままガルドの懐に体重のすべてを預けるようにしていて。
「ご、……ごめんガルド……腰……あの、腰抜けた……」
「ッ……!」
ガルドの全身が、びきりと硬直する。謎の羞恥心からその身体を弾き飛ばしそうになる腕と、護衛として守らなければという頭が拮抗している。
「……おま……お前なぁ……っ」
掠れた声は、喉の奥から。怒鳴るでも突き放すでもなく、ただ耐えるように、必死に。
両手に確かに伝わる感触。魔術師の腰、その芯。腰を支える手に添えられる腕……見上げてくる瞳……だ、ダメだ。
「くそ……な、なん、立てねぇのか……」
「う、ん……ちょっと……」
ガルドの背筋に汗が滲む。……多分手のひらにも。ルシアンの体重はしっかりと両手と懐に乗っており、確かに立てていない。
ドワーフの一件よりかは……まぁマシには見えるものの……今の状態が"いつもと違う"ことだけは、目に見えて明らかだった。
「……チッ……」
舌打ちがひとつ。だが手はやはり、離せない。
しばしの静寂は、少々お待ちくださいの構図である。
ぐ……、と眉間に皺を寄せるガルドを見て、ルシアンが困ったように笑った。
「ガルド、いいよ、地面に降ろすか……持ち上げるかして?」
「……じゃあ、持つ……持つからな」
「うん、お願い」
念を押すように言った後、がしりとルシアンの身体が持ち上げられた。そのまま体勢を反転させられ、正面から抱えられる。
その動きにすらルシアンの肩がわずかに震えるが、ガルドは心を無にして山道へと戻った。これは荷物だと。
――そうして今、片膝を立てたガルドの腿に……ルシアンの身体を横向きに座らせている次第である。
護衛からは、誤魔化すような咳払いがひとつ。効果があるかは不明だが、厚手の外套でそれとなく細い背中を包む。身体には触れていない――はずだ、なんとか。
空いている方の手はどこを支えるわけにもいかず、空を切る。
どこかを支えようとすれば膝か、腿か、肩か腕か……いやもうすべてダメな気がする。
「……調節、だか、いるのか」
「うん、けどちょっと休めば大丈夫だよ」
「……そうか……、……悪かった」
「ううん……膝ありがとうね」
懐の中で、軽く呼吸を整えるルシアンから、香油の匂い。
あえて香りを嗅ぎに行かなくとも、この距離では逃れようもなかった。
腰。魔力核。やらけぇ。
体重。匂い。体温。
腰。呼吸。ぐッ、ダメだ、死ぬ。
ガルドは――悟りの境地にいた。
(……こんなん……願ってねぇぞ、俺ァ……!)
俯くまつ毛から視線を逸らしながら、ガルドがきつく目を閉じた。泉よ泉……俺の願いこんなんじゃなかったはずだが……くそが、といった具合。
けれど視線はわずかに懐へ戻す。山道の木漏れ日が、斑にルシアンの髪を照らしている。
そのふわりとした淡紫が膝の上で息を整えるたびに……その毛先がガルドの喉元でかすかに揺れた。
目は閉じられ、意識を魔力核の調節に集中させているのか、……ガルドにわずかにもたれかかっていることも、こちらの視線に気づく様子もない。
どちらにしても、その姿を凝視するのは――あまりにも。
(……ダメだ。動くな。触んな)
(見るな。嗅ぐな。息するな……)
ガルドは片手を固く握りしめ、それを……座るルシアンの腰を迂回して、己の膝の上に置いた。
もう片方の手は、未だ空を彷徨っている。
触れてはならぬ。だが今後、触れたいなどという邪な思いが、万が一でも湧いたら――それは護衛失格だ。
(なんだこれ……なんなんだ……護衛だかバディだかなんかもうわかんねぇ……)
それだけがわかる。わからないことがわかっている。投げ出しそうな思考は、きっと投げ出したらもう取り返しがつかなくなる。……けれど。
けれどひとつだけ、わかってきたことも、ある。
(……こいつにとって、"俺"は……安心して、核の調節ができる"場所"なのか……?)
ぞくり、と背筋に熱が走った気がして、ガルドは視線を上に向けた。懐の気配は、少しずつ落ち着いてきている。
……ああ、空が青い……などという現実逃避は、腿に感じる体温に勝てるはずもなく。
(ダメだろこれ……)
泉よ泉……俺を助けてくれ……というガルドの願いは……どこにも届かず、空へ消えた。
――【咄嗟の手】




