【旅の空へ】
目の前のメニュー札は、木板に手書きのものだった。
焼き立てパンの盛り合わせ、香草焼きの肉、魚のスープに地元野菜の炒め物など、どれも地味だが、旅の胃には嬉しい品が並んでいる。
「……パンと、肉。あとスープだ」
店員に手早く注文を告げるガルドの横顔を、ルシアンが楽しげに見ていた。
注文の手慣れ方、料理の選び方。意外と常連ではないかとでも言いたげな視線。
「何だ」
「いいえ?」
赤い目がちらりと向けられると、ルシアンはまたも肩をすくめるだけ。
そのたびに、店の奥からは料理の香りが濃くなってくる。
「……んで、貴族なのかお前」
――ぽつり、ガルドが言う。詰問の口調ではない。
あの店員の慌てぶりは、この無骨な男にとっては見慣れない反応だったのだろう。
「俺はどう扱われようが知ったこっちゃねぇが……お前、さっきのアレ、慣れてんな」
赤い瞳はまっすぐ。声音には特別な興味も追及もなく、ただ、向かい合って座った"旅の仲間"としての、初めての会話だった。
問いを受けたルシアンが、わずかに首を傾げる。やや薄れた笑顔。けれども、口元はまだ微笑んでいる。
「――まぁ、どうにも、私は意図せず視線を集めるようでして」
「…………」
返されたルシアンのそれは、何の打算も、悪びれた様子もない声色だ。
驕りや自惚れではなく、ただそういう事実として受け取っているだけのようである。……要は、興味のない事柄らしい。
「私も誰にどのように見られようとかまいませんが、それにより行動が制限されるのは困りますね」
カウンターの奥、ルシアンを覗く店員の頬が、かすかに染まっている。気づけば、周囲の客もちらほらと、こちらの卓を見ている。
ルシアン自身、その視線には気づいている。が、気にするまでもない、という姿勢。
それよりも、と向かいの赤い瞳に視線をくれる。
ギルドのホールで唯一、自分に"そういった視線"を向けてこなかった男。
それどころかルシアンを値踏みし、見定めるような気配すらあった。見た目や先入観で物事を図る輩とはわけが違う。
――非常に、好ましかった。
……低く落とされたルシアンの言葉に、ガルドはしばし黙っていたが……その赤い瞳は、じっと銀のそれを捉え続けていた。
「……ふん」
返事の代わりに鳴らされた鼻は、嘲りではなく半ば納得、半ば苛立ち。
どこまでが素で、どこまでが作為か――。その境界が見えないこういう奴が、一番厄介だ。そんな表情だ。
……けれど。
「視線を集めるのが"意図せず"なら、そう装うのも、お前の得意分野ってことか」
小さく呟いたその言葉に、ぴくりと反応するルシアンの肩先。
やはり笑みは崩れないが、否定も肯定もない。
「…………」
「…………」
咎めるでもない、両者の眼差し。
――なるほど、という眼差しにも、見えた。
そこに、焼きたてのパンが盛られたかごと、香草の香りが立つ肉料理が運ばれてくる。
店員がルシアンを見る目は、やはりどこか緊張と陶酔が混じっている。それを横目に、ガルドは目の前の食事を無言で見つめた。
「……ま、確かに行動が制限されるってのは、俺も嫌いだな」
一言だけそう返すと、ナイフを取り、肉に刃を入れる。赤い瞳がまたルシアンを見据える。
「……俺は戦うだけだ。貴族様のお飾り従者なんかできねぇぞ」
続けられた言葉は静かだが、どこか――試すような響きもあった。
ふふ、と正面から、小さな笑みが漏れる。
「飾りだなんて、……守っていただければいいのです。あえて付け足すとすれば……」
ふつりと途絶えたルシアンの呟きに、ガルドが鋭い視線を向けた。何事かと向けられた眼差しを受けて、ルシアンの笑みも深まる。
そのすらりと丁寧な人差し指が、指先だけで店内をぐるりと示した。それを追うように、ガルドの眼光が店内を一巡すれば、不躾な視線たちが波のように引いていく。
咳払い。わざとらしい雑談の再開。慌てて店内に目を逸らす視線。
「…………」
「このように、あなたが隣にいるだけで、十分助かります」
肉料理を切り分けながら、目を伏せたルシアンが微笑む。
ちらりと向けられた銀の瞳が、必要だと語っているようにも見えて。
――赤い瞳が、わずかに細められる。
「……そういう使い方かよ」
くぐもったような声が、喉の奥から漏れる。咎めるでも、怒るでもない。だが確かに……苦い笑いが滲んでいた。
けれどルシアンも何一つ動じない。むしろ真っ直ぐに"その価値"をこの場で肯定しただけの笑顔だった。
諦めたようにして、ガルドが黙って皿の上の肉を切り取る。その手つきは乱暴でも粗野でもなく、実に正確で、無駄がなかった。
「……だったら、逃げんなよ」
ぽつりと呟かれたそれは、脅しの温度ではなかった。
もちろんルシアンにも放たれたが、どこか、己にも言い聞かせるような――低く、抑えた声音。
その言葉が届いたかどうかも気にせず、肉を口に運ぶ。パンをちぎり、スープに浸す。
もう視線は正面には向いていない。ただ、さっきの言葉が胸に何かを残していたのは間違いなく。
"飾り"じゃないと、本気で言われたのは――きっと、初めてだった。
――翌朝。
ガルドが宿屋のロビーに降りてくると、ルシアンがソファに腰かけて待っていた。
にこり、と柔和な笑み。傾げた首の角度も、計算されたように完璧だった。
「おはようございます」
「……ああ」
交わす言葉はそれだけで、並び立って宿を出る。街はまだ、朝靄の中にある。
日が昇る前の世界は、どこか現世と乖離したかのようだった。
石畳を歩く軽い足音と、ごつごつとした重い足音。歩幅も重みも違うが、つかず離れずであった。
街の北にある街門を出て、街から外、原野へと続く街道へ。
歩き出すルシアンのその背に――乗合馬車は、と言おうとして、ガルドは口を閉じた。
目の前の雇用主は、当然のように街道を歩き始めており……なるほど、漫然たる"お坊ちゃん"ではないらしい。
「……俺が来ねぇと思わなかったのか」
少し前を歩く淡紫の髪に、道脇の茂みに目を向けながら、ガルドがそう声をかけた。
ルシアンはこちらを振り返りもせず、肩を少しだけすくめる。
「それならそれまでですが、あなたは来ると思っていましたよ。それに、あの試し金だけでは当座の酒代にもならないのでは?」
皮肉なのか本音なのか、微妙にわかりにくい返答。
――だが、ガルドには十分だった。
「……はっ」
小さく吐き捨てるように笑った声が、朝の空気に溶ける。
気づけば、足取りが少しだけ軽くなっていた。
「試し金がどれくらいの価値か、知ってて渡してんだろうが」
淡い靄に包まれた街道の先、銀の瞳はちらりともこちらを見ない。けれどもどちらともなく、確かに歩幅を合わせていた。
わざとらしさのない自然な距離感。それが、昨日の出会いからわずか一晩で形作られたというのが、なんとも――癪だ。
「……行き先は?」
「ひとまず、次の街を目指しましょう」
「……ねぇってことだな」
言いながらも、赤い瞳はすでに周囲を見回している。
空の具合、草の動き、獣の気配。一歩街を離れれば、そこはもう野生が普通に潜む世界。
「……ま、魔獣が出りゃ、ぶっ飛ばす。それが俺の仕事だな」
可笑しそうに、ルシアンの肩が揺れた。
無骨で、粗雑で、それでもどこか、信頼に足る声音だった。
――【旅の空へ】




