【村跡の夜】
ガルドは、布の端を支柱にくくりつけながら、わずかに奥歯を噛んだ。
自分で気づいた瞬間にはもう遅く、相手の反応が返ってきていた。
それでも顔は上げない。ただ無言で、幕を張る手に集中する。
「……くそ、油断した」
絞るような声が、風の音にかき消される。ルシアンの方を見ずに、きっちりと張りを整え、固定の確認をしていく。
ほどなくして張られた幕は、風にばたつかないよう、布端はしっかりと石で押さえられ、光の加減で壁画が見えやすいよう角度も調整されていた。
「……よし」
そう低く呟いて、ガルドはようやく手を離した。そのまま背中を向け、拠点のほうへ戻っていく。
背中はまるで何もなかったように見えるが、耳の先だけが、ほんのわずかに赤かった。
幕が張られたことにより、まるでこの空間だけが、特別になったようだった。
ルシアンは改めて、石碑の真正面に立つ。祠か、記念碑か、祭壇か。……判断はつかないが、目を伏せて一礼し、敬意を払う。
一歩引く。構造全体を視界に収めれば、家と人の群像の上に、いくつかの台形の形がみえるようだった。
苔に侵食されているところもあるが、手は触れない。それらを取り払うことが善とは限らない。
ルシアンの指先が、壁画へ向いた。細い魔力の息を吹きかけるように、極めて低出力で。
壁画に当たったそれが、ごく自然にふわりと拡散していくように。
ガルドにルシアンのやっていることはわからなかったが、やがて壁画の模様が浮き上がるのだけは見えた。
絵具かなんなのか、その色素がじわりと滲み、消えていく。目に見えない魔力の波が、壁画の色彩の変化によって視覚化される。
中央から外側に、幾重の波紋を描くように、浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
「……ほぉ」
ルシアンにも聞こえない声が、ぽつりと漏れていた。
派手ではない。語りかけるような調査。壁画に眠った記憶を、少しずつ呼び覚ますような、絵との魔力の交感にも思えた。
大きな背が幕の端に預けられたまま、じっとその様子を見つめる。
ガルドに魔力のことはわからない。けれど、ただ綺麗だと感じた。
「……こりゃ妙に……見入っちまうな」
誰にともなく吐いたその感想に、応える者はいない。
だが、銀の瞳がこちらを向いて微笑んだとき、ガルドは視線を逸らすこともせず、そのまま真正面から受け止めた。
やがて壁画の明滅が終わり、最初よりもほんの少し、模様が濃い状態で落ち着いていた。
数分のことだったようにも思えるし、数十分やっていたような気もする。
振り返ったルシアンは、ガルドを見てまた一つ微笑んだ。
「よし、今日はこの辺にして、明日記録やスケッチを取ろう」
その魔術師は、巨大な壁画に魔力を流し続けてなお、汗一つかいていなかった。
「……ああ、わかった」
答える声は、それだけ。腰を上げ、下の段に設えた野営地へと戻る。
焚き木に火を入れ、夕餉の支度に取りかかる。小鍋を火にかけ、湯を沸かす手つきにも、無言の“了解”が滲んでいた。
石段の上、幕の向こうでは、壁画が再び静けさに沈んでいる。風がふわりと布を揺らす。
野営地に落ちる夕暮れは、静かで、どこか神聖だった。
「夜番、今日は私が先にしようか」
簡単な食事を終え、焚き火を眺めながら、ルシアンがガルドにそう尋ねた。
野営時の見張りは、月が天を回った深夜に交代することになっている。先に夜番をしていた方が、深夜に眠っている方を起こして交代。仮眠をとる。
ふたりは特に順番は決めておらず、その日の気分で後先を決めていた。
「夜番の間に、ここでのんびり記録しておくよ。本格的な記録は、夜が明けてからにするけど」
革鞄から手帳を取り出しながら、ルシアンがやわらかく微笑んだ。焚き火がぱちりと音を立て、火の粉がひとつ、夜の空へと跳ねた。
茜から群青へと変わりゆく空の色が、周囲の静けさをさらに深くしていく。
ガルドは焚き火の反対側に腰を下ろし、無言でルシアンを見た。燃える火を挟んで、かすかに揺れる淡紫の輪郭を捉える。
淡い瞳は手帳にペンを走らせながら、夕方の壁画を思い出し、時たま村跡へ視線を投げていた。
「……ん、じゃあ、お先」
ぼそりと呟いたガルドは、火に一本薪をくべ、背中をぐいと伸ばした。
そのまま天幕の中へ引っ込んでいき、外套を毛布のように被る。
焚き火の明かりが、天幕にちらちらと影を落とす。目は閉じていたが、呼吸は浅く、すぐに眠る気はなさそうだった。
それでもルシアンの気配を、息遣いを感じれば、彼はそのまま黙り込む。
信頼の形には、いろいろある。言葉ではなく、こうして背を向けて預けることも、その一つ。
夜風が、焚き火の炎を揺らした。村跡の静けさは変わらず、虫の声すら遠い。
その夜は、不思議なほど、時間の流れがゆるやかだった。
――【村跡の夜】




