【しずく】
虫の音も聞こえないほどの、――深夜。
ちゃぷ――と水の音が耳に触れて、ガルドの意識が浮上した。
焚き火が爆ぜる音もする。その中で、しゅる、ちゃぽ、という音。
ぼやりとした頭で、……目線だけを動かす。焚き火のそば、夜番をしているルシアンからだ。
携帯用の小さな木桶に、水を溜めている。
手のひらから水が滴る。ついで、小瓶から薬草のオイルを数滴。
ちゃぷ――。そこに、布をひたす音だった。
次に、旅装を外していく。
淡い色の外套を脱ぎ、ローブを外し、シャツの前をはだける。
腰装備の編み上げを、するりと――、
(――まずい)
ガルドが咄嗟に、目をつぶった。
……清拭だ。野営時は、宿と違って風呂には入れない。
どこかのタイミングでしているのだろうとは思っていたが、そうか、夜番の時だったか。
薄く目を開けて天の月を見る。位置的に、まだ交代の時間ではない。
――だが、完全に目が冴えてしまった。
相変わらず焚き火のほうから、水の音と布を絞る音がする。それがしゅるりと肌を撫でるような音も。
薬草の香りが漂ってくる。
そういえば、確かに野営明けのルシアンからは、こんな香りがしていた。
なるほど――と思いながらも、なるほどじゃねぇ……と自分を戒める。
(……くそ……)
吐き出すことすらできない声は、枕にした腕の中に沈む。
寝返りを打つふりをして身体ごと反対を向いたが、背を向けても意識だけはいやに冴えて、音を拾いすぎる。
――ぴちゃ、しゅる、くしゅ。
湿った布が肌を拭うたびに、かすかに布が擦れる音がする。
それが妙に柔らかく、しっとりとしていて、想像力を否応なく刺激する。
ただでさえ夜は静かで、すべてがよく響くというのに。
(……なんで声ひとつ立てねぇんだ、あの野郎)
悪態をつくように思いながら、そりゃそうだとも思った。向こうはこっちを寝ていると思っているのだから、起こさないように声も潜めているのだろう。
気配も、息遣いも、極限まで抑えている。
だがそれがまた妙に真面目で、……余計に引っかかる。
ガルドはもう一度だけ月の位置を確認して、さらに深く寝床に沈み込んだ。
それでも脳裏には、見えてしまった肩口の一瞬の輪郭と、香りと、音の残滓が焼きついて離れない。
(……っざけんな、今度から夜番、全部やる)
ムキになり、そんなバカげた結論にたどり着く。はるか背後で、再び焚き火がぱちりと爆ぜた。
その音を合図にしたように、薬草の香りがふんわりと鼻腔を撫でる。
理性という名の糸が、夜風にひやりと軋んだ気がした。
――起きたふりをするか、寝たふりをするか。
――寝返りを打つか、唸ってみるか。
様々なことを考えながら、永遠とも思える時間を、ガルドは過ごしていた。
いつの間にか清拭は終わっていたのだが、身動きが取れない。
そのうちに、パタン、と手帳が閉じられるような音がする。
土を踏んで立ち上がる気配があって、ルシアンが寝床のほうへやってきた。ガルドの横に屈み、腕に触れてくる。
「ガルド、そろそろ交代だよ」
……それは、まるで救いの声のように思えた。あたかも今起きたかのように、片目を開ける。
のどがカラカラで、「おう」と出た返事は、とても寝起きのようだった。
ガルドが上体を起こすと、先ほどの薬草水の香りがする。……無意識に、眉根に皺が寄った。
「……あ、ごめん、匂うかい?さっき清拭したから」
ガルドの表情を見て、ルシアンが少し眉を下げた。
清拭の話題に一瞬息が詰まりかけたが、手近にあった外套を無造作に羽織る。
「いや……水、まだあんのか」
「清拭の?……出せるけど、それでもいいなら」
「……ああ?」
"出せる"とは――と、ガルドが怪訝な顔をする。それを見とめ、ルシアンも小さく首を傾いだ。
ガルドの眼前で、上に向けられたルシアンの手のひらから、滾々と水が溢れてくる。
ぎょっとする。川で汲んできた水じゃなかったのか、と。
「……てめぇ、……なんだそりゃ、何の水だ」
「"しずく"っていう生活魔法だよ。……人にあげたことはないけど」
「……、……飲めん、のか」
「飲めるけど、魔力で作られた水だから、多飲するのはおすすめしないよ。清拭に使う分には全然問題ない。ガルドも使うかい?」
ぱた、ぱたた、と足元に、澄んだ水が滴る。落ちた水滴にガルドが指先でだけ触れてみれば――ひやりと心地よく湿った。
「……っ、いや、使わねぇ」
その温度を払うように指をこすり合わせ、顔を逸らすようにして立ち上がる。
「……交代だろ。寝とけ」
「うん、ありがとう」
そのやりとりの後に静かに寝床に入っていく背を見て、――ガルドがやっと息をつく。
傍らに置かれていた皮の水袋を拾い、無言のまま腰にぶら下げる。喉の渇きも、清拭の水も、いつも通り調達してくる。それでいい。
それでもあの手のひらから滴り落ちていた"水"の光景は、……やはり頭の奥にこびりついて離れなかった。
闇の中で静かに溢れる、あまりに自然な魔力の水。指先に感じた冷たさは、まだ拭い切れない。
"人にあげたことはない"――そう聞かされて、内心、訳のわからない焦りすら滲んだ。
(……くれてたまるか、あんなもん、誰にも)
焚き火に薪をくべ、夜番の位置につきながら、ガルドは深く息を吐いた。
視線を村跡の方へ向け、もう一度、闇に沈む壁画も見上げる。
「……調査どころじゃねぇ……ったく」
ぼやく声には、諦観の色が見えた。薬草の香りだけが、まだ薄く周囲に残っている。
その香りが夜の静けさに滲み込んでいくのを感じながら、ガルドは夜番としての静かな時間に身を預けた。
だがやはり耳だけが、ずっと熱を持っていた。
――【しずく】




