【魔術師の弱点】
ロープを登りきったルシアンが崖の上部に手をかけると、がしりと掴まれた腕ごと強い力で引き上げられた。
驚いて何とか地面に足をつければ、目の前では赤い瞳が顔をしかめ、怒ったように――いや、恐らく心配そうにこちらを見ている。
視線が上から下へ這う。……本当に怪我はないのか、そんな目にも見えた。
「あ、ありがとうガルド……」
「…………」
ルシアンを見やるガルドから、返事はない。
やはり顔色が悪いわけではない。怪我をしている様子もない。……ではなぜあそこで休むと言ったのか。
――ガルドの視線が、細くなる。
その後ろでは、子どもの家族や団員たちが、慌ただしく状況の報告や手当、連絡を行っていた。
「っあの!ありがとうございました!本当に!!」
「誰も命を落とさずに済みました!!」
父親らしき男と団員が駆け寄ってきて、ふたりに頭を下げる。
しかしガルドはそれを視線の端で見ただけで、大して興味もなさそうな顔で、ぶっきらぼうに手を挙げるだけ。
ギルドの職員へ視線を投げれば、こちらからもぺこりと一礼があった。
……ならば、しまいでいいのだろう。
ルシアンの腕を引いたガルドが、帰りの馬車へ向かって歩く。
雑な動きで以てして扉を開け、もはや持ち上げて押し込む形でルシアンを馬車の中へ。ついで自分も馬車の踏み台に足をかけながら、一度だけ背後を振り返った。
「……ガキ、さっさと休ませてやれ」
唖然とする一同にそう吐き捨てて巨躯が車体に乗り込み、がちんと扉が閉められる。
馬車の窓の向こうでは、慌てて頭を下げる人々。
そちらへ柔和な笑みを返したルシアンを、……正面でじろりと睨む赤い瞳。
扉の向こう、馬のいななきと車輪の音が聞こえる中、馬車内に再び、ふたりきりの静寂が戻っていった。
ルシアンは座席に身を預け、窓の外を見ていた。
先ほどまでの、あの地底の光景。花の海と、小さな地底湖から湧き上がる銀青の光。
そして、腕に感じた子どものかすかな呼吸。
「いいものが見れたよ」
「…………」
何を、とは言わない。あの場所で見たものは、総じて見る価値があった。ただそれだけの、素直な感想。
一方腕を組んだガルドは、しばらく無言だった。だが鋭い眼差しはいまだ静かに、ルシアンを見ている。
「……、……さっき、」
咳払いに混じるようにようやく落ちたガルドの声は、……やや掠れていた。
「うん」
「……なんで、"あとから行く"っつった」
「…………」
――真正面からの問い。
語気は抑えている。だが明らかに、戸惑っているような気配があった。
心配のこもった、怒りにも聞こえた。
ルシアンの足元には、光源の玉がまだひとつだけ、ぽつんと浮いている。
それがふわりと揺れて、沈黙を照らしていた。
「…………」
「…………」
ふ、とルシアンがいつもの微笑みを作ったものの――目の前の護衛は騙されてはくれない。
決して尋問ではない。だが逃がしやしないというような眼差しは、何をどうしても誤魔化されてくれそうになかった。
ひとつ大きく息をして、ルシアンが正面から、ガルドの赤い瞳を見やる。
「――君、今までに魔術師の仲間は?」
「……ああ?……組んだことはあるが、……短期間だ」
「では、魔術師については?」
「……知るかよ。何が言いたい」
的を得ないルシアンの言葉に、けれど苛立ちは抑えて、ガルドが答える。
その返答に、ルシアンはどこか納得した表情を見せた。
「なるほど。……あのね、君ね、魔術師の腰は掴んじゃいけない」
「……あ゛ぁ?」
「いいかい、仙骨周辺に魔力溜まりがあってね――」
言いながら、ルシアンの細い指が、そのへその下あたりを指さした。
ぴくりと眉の片方を上げ、これは――見てもいいのかと、一瞬だけガルドが逡巡する。
「――下腹部奥、骨盤の中に魔力核というものがある。魔術師はこの二点を軸として、全身に魔力を巡らせる。つまり腹部や骨盤周りへの外部からの圧迫・衝撃は、魔力放出の妨害になる。特に――」
無意識に、ガルドの喉が上下した。唖然だ。
加えて妙に、とんでもないことを聞かされているような気すら、してくる。
「私は、魔力を高精度に制御する訓練を受けてきたから、振動や気配も繊細に捉えてしまう。だからこそ、さっきみたいにちょっとでも腰回りを強く握られると魔力も思考も乱れる。わかるかい?」
「……わかっ……」
るかと言われても、――ガルド、絶句である。
一つの単語が……頭の中をぐるぐると回るが、果たしてそれを口にしていいものか。
今度はこちらの思考が乱れるようだった。
黙ったままの護衛に、ルシアンが小さく首を傾げる。
「あれ、わからない?……まぁ、魔術師にとっては構造上鋭敏な、――性感帯のようなものだよ。さっきは動けなかった」
自分の頭に浮かんでいたドンピシャの回答を出され、ガルドが再び絶句した。
視線はルシアンの腹から離せない。眉は困惑するようにしかめられている。
「だから、魔術師の腰は掴んじゃいけないよ。……言うのが遅れてごめんね、ガルド」
――ドカッ。
次の瞬間には、ガルドは勢いよく後頭部を背もたれの壁にぶつけていた。
馬車の揺れなどではなく、情報の衝撃だ。
「……っは、あ?」
赤い瞳が、混乱と羞恥と後悔のすべてを含んだまま、宙を泳ぐ。
言葉にならない。――いや、言葉にしてはならない。
(魔力乱れ……動けな、……性感帯……?)
――全部、あの抱え上げたときの話だ。自分の肩で、腕の中で、確かにあったあの震え。
びくりとした揺れ。呼吸の乱れ。……を、思い返すほどに汗が噴き出す。
「お、おまっ……っざけ……っ」
拳を握りしめて、ガルドが言葉を止める。
こんな話を、魔術師本人の口からされてどうしろというのか。本当に、どうしろと――。
「……てめぇな……っ……ふざけんなよ……」
「……うん、ごめんね」
「ごめんじゃ……いや……」
低く、喉の奥から絞り出すように呻く。この場合、"ごめん"はこっちなのか、と。
そう言われてみれば、魔術師と組んだことなんてほとんどない。ギルドの依頼で討伐隊だなんだを組む時も、直接関わってきてなどいない。
顔が熱い。腹も熱い。脳まで火照っている気がする。
「……くっそ……っ」
ルシアンが、申し訳なさそうに微笑む。
怒っているでも呆れているでもない、いつもの微笑み。
ただその笑みだけが、ガルドの混乱にさらに拍車をかけていた。
馬車が街へ着き、揃って冒険者ギルドへ歩を進めながら――。
(――待てよ)
ガルドはぴたりと、その歩みを止めていた。
「…………」
思い起こされるのは、つい昨夜のこと。
大衆酒場に行きたいと言ったルシアンの望み通り、酒場で夕食を取っていた。
そこでガルドが少し席を外した際に、酔客に絡まれたルシアンが、あろうことか腰と背中をその男に触れられていた。
今も思い出しても腹が煮えるようだが、ルシアンが事を荒立てたくなさそうにしていたこともあり、静かに酔客を牽制した。そのまま食事と酒を済ませ、宿へ。
そうして宿に帰ったルシアンが、自室に入る直前、ガルドに背中を向けた。
『背中から腰にかけてさすってほしい』
『気持ち悪くてね』
それを受けた自分は、『ああ、そりゃそうだろうな』という軽い気持ちでさすったが、……あの時一瞬、かすかに肩が揺れていなかったか。
前を歩いていたルシアンが、立ち止まったガルドに気づいて振り返る。
その表情はなんということもなく、いつもの表情で小首などを傾げている。
「どうしたんだい。何かあった?」
「……い、や、……いや、後でいい……ギルド行くぞ」
……ちょっと我が身の――いや心の安寧のためにも、後ほど境界線のようなものを確認せねば、と。
眩暈のする思いで、ガルドは決意した。
夕暮れの中、冒険者ギルドの大扉を引く。
ギルドホールに足を踏み入れた瞬間、受付から職員の声が響いた。
「ッ……お帰りなさいませ!」
職員らの視線が一斉にふたりに注がれるが、ルシアンの柔らかな微笑ひとつで、場がふわりと和らぐ。
そしてその隣では、ひどく仏頂面のガルドが無言のまま中へと進む――が、その眉間にはいつも以上に深い皺。
何故か魔獣との戦闘よりも険しい顔をしているのは、……誰の目にも明らかだった。
「ご、無事で……!救助対象者は……!?」
「衰弱しておりましたが、救護班に引き渡し済みです」
「そうですか……!」
報告のやり取りをするルシアンと職員を、ガルドは横目で見ていた。
いつもの調子で、柔和に場をこなす魔術師。報告書に記入する所作も、所見をまとめたメモを渡す仕草も、いつも通り。
だが今となってはその仕草の一つ一つに、余計な情報が付随する。
――「腰はダメ」?
――「性感帯」?
――「動けなかった」?
一つ一つのワードが脳裏に並び立ち、さすがの"無哭"も視線が定まらない。
「ガルドさん……?何か、ありましたか?」
心配そうに声をかける職員に、無言で首を横に振りながら、……ガルドはこの世のすべてから逃げ出したい気分で、一歩だけ身を引くのだった。瀕死。
――【魔術師の弱点】
《旅の記録》
・場所名(通称):星花の盆地
・最寄り街:セレス
・景観種別:美/謎/儚/危険
・特徴メモ:地底崩落で露出した“星花”の群生地。魔力反応によって発光する花々と銀青の湖が織りなす光景は、まるで夜空のようだった。
・時期・時間帯:夏・昼過ぎ〜夕刻
・再訪:不可(地形変化/崩落の危険あり)
・個人的メモ:
「魔力の揺らぎが収まるまで、ほんの少しだけ動けなかった。
——“あとから行く”と告げた言葉に、疑わず待っていてくれたこと。
あのときの安心は、今でも胸の内に灯っている」
――ルシアンの手帳より




