【二度の手】
ガルドはそれ以降、席を離れることはなかった。食事をし、渋面ながらも他愛のない話をしながら、酒を飲む。
ルシアンも同じように過ごしながら、周囲から聞こえてくる会話にも耳を澄ませていた。
村の家畜が。学術ギルドで。
坑道の崩落事故が。渡り蝶が。
なるほどこれは確かに情報の宝庫だと、ルシアンが目の前のグラスを見つめる。
酒も二杯目。果実酒は口当たりがよく、とても飲みやすかった。
ガルドはといえば、料理を食べ、こなれたように酒を呷っている。料理屋で座って食事をした時とは違い、一口ががぶりと大きい。
食って、飲んで、戦って。元来、そういう性分なのだろう。
「……何見てやがる」
ごき、と酒を飲みながら、少し顔をしかめてガルドが言う。
――これは、ちょっと照れた顔。ルシアンも、だんだんとその変化がわかるようになってきた。
「ふふ、楽しいよ、ガルド」
「……ああ、そっかよ」
ガルドはそっぽを向いたまま、皿に残った肉を骨ごと掴んで噛みちぎる。
がぶりと噛みつけば、骨の先から肉片が引きはがされた。
「そんなら、なによりだ」
淡々とした声。だが、耳の先がわずかに赤い。
照れているのか、酒がまわってきたのか、あるいは両方か。
「……にしても、意外と飲むな、お前」
「そうかい?……普段よりはちょっと進んでるかもね」
軽やかな返答を耳に、ちら、とルシアンのグラスを見やる。――ほのかに甘い果実酒。確かに飲みやすい部類だが、酔いが回るのは早いはずだった。
「……顔に出ねぇな。強ぇのか、鈍いのか……」
再び、ぐび、と自分の酒を飲み干しながら、ぼやくように呟く。
だが、その視線は始終ルシアンの手元に落ちていた。
その眼差しはまるで、“次に誰かが触れようとしたら、その瞬間に叩き落とす”と、黙して言っているかのような――静かな、けれど確実な護衛の構えだった。
ルシアンが何を感じ取っているかは分からない。
だが、ガルドはもう、酒の味だけを楽しんではいなかった。
ガルドの牽制の効果もあり、それ以降、狼藉を働こうとする者は現れなかった。
酒場を出て、宿に戻り、主人から部屋の鍵を受け取る。
――結局、ルシアンは三杯飲んだ。久々に量を飲んだ酒は、心地よく体に回っている。
階段をゆっくりと上がると、後ろからガルドの大きな手が背中を支えてきた。
「おい、転がるなよてめぇ」
「おや、ありがとう。大丈夫だよ」
ふふ、と笑いながら、そのまま登りきる。後ろからため息が聞こえる。
あとは風呂に入って眠るだけ。何とも贅沢な夜だ。
鍵穴に、鍵を挿し込む。
扉の開いた自室に入る直前、ルシアンが向かいの扉の前に立つガルドを振り返った。
「あ、ガルド、ちょっと頼まれてくれるかい」
「……何だ」
ほろよいのままに微笑を浮かべ、ルシアンが外套を外す。
そのまま、街着の背中をガルドに向けた。
「ちょっと背中から腰にかけてさすってほしい。一度でいいよ」
――なんだそれは。とガルドが止まった。
いくら護衛といえど、自ら背を向けるか。しかもさすれとは?
肩越しにこちらを見るでもなく、向こうを見たままルシアンが言った。
「酒場で触られたところが、気持ち悪くてね」
思わず、ガルドの喉が、ひくりと鳴った。
それは酒のせいではない。
目の前の背中、その細い肩、薄い身体。
その服の布越し、柔らかい気配が夜の灯に浮かび上がっていた。
「……、……ああ」
声は掠れていた。
だがその言葉の裏に、どれだけの感情が詰まっていたか――隠し切れたかもわからない。
「一度、だな」
大股で詰め寄り、手を伸ばす。
酒の匂いが混ざった体温が、すぐそこにあった。
片手をその肩に置き、もう一方の手のひらでゆっくりと、背中をなぞる。
大きな手が、肩甲骨のあたりから、脊椎の両脇を辿って、腰まで。
布越しとはいえ、肌の張り、骨のライン、わずかな熱までもが、手に伝わってくる。
酔客とのやりとりの、全容を見ていたわけではない。
どこに触れられたのか、あいまいな部分もあった。
「……どこ、だ?」
掠れた声。返事はない。だがルシアンの肩が、わずかに揺れた。
そのまま、もう一度。今度はさらにゆっくり、少し深く、手のひらで撫で下ろす。
腰に近づいたとき――指先に、かすかな震え。
それがルシアンのものか、ガルドのものか、分からなかった。
「……もう、いいか」
「うん、ありがとう」
向こうを向いたままの返事を聞き、――そろりと手を離す。その背の温もりが、手のひらに残っていた。
それを振り払うように、ガルドは背を向け、自室の扉を乱暴に開けた。
「さっさと寝ろ」
そう吐き捨て、扉を閉める。
背中に、向かいの部屋の扉が閉じられる音。
誰もいなくなった廊下には、かすかな酒と体温の残り香が漂っていた。
――【二度の手】




