【酔客】
宿に荷を置き、夕食のために街の酒場に入る。これは、ルシアンからの要望だった。
大衆酒場というものに、入ってみたかったらしい。
……その希望の時点ですでに、自ら"平民ではない"と言っているようなものだったのだが、……ガルドも黙って店を選んだ。
酒場は冒険者や街の人で賑わっており、店員の女がその合間をぬって忙しく注文を取っていた。
壁に掛けられた木札に、店のメニューが並ぶ。壁際のテーブル席に座るか、背の高いテーブルで立食とするか、選べる形の店だった。
やや眉をひそめて、ガルドが隣の男を見下ろす。
「……お前が酒飲めんの、意外だよな」
「ふふ、そうかい。そんなに強くはないけど、お酒は好きだよ」
腰かけられるテーブルがすべて埋まっており、店の中ほどの立食席につく。店員に料理を数点と酒を注文をして、ルシアンは物珍しそうに、ぐるりと店の中を見回した。
くすんだ板壁は年季が入っている。すすけたような天井の梁は、けれど不潔ではない。壁際にエールやミードの樽が横置きに並んでおり、とりつけられた蛇口から酒がぽたりと滴っていた。
依頼帰りの冒険者、仕事を終えた職人たち、商人たち。――皆、思い思いにこの場を楽しんでいる。
「……潰れたら置いてくからな」
横合いから投げられた護衛の軽口に、ルシアンも顔を向けてにこりと頷いた。
……ったく、とひとりごちて、赤い瞳がふと店の奥に視線をやる。
「……トイレ行ってくる。ここにいろよ」
「うん」
まだ店内を観察する彼の、そんな返事を確認し、……ガルドがふん、と一つ鼻を鳴らす。背を伸ばすように軽く首を回し、テーブルから一歩離れた。
大衆酒場のざわめきと、立ち込める肉と酒の匂い。
混雑する店内を睨むように見渡し、ルシアンの立つ席を一度だけ確認する。
「……すぐ戻る」
それだけ言い残し、店の奥に向かって歩き出す背中。
木の床板が軋む。冒険者らしき男たちの笑い声が背後で弾ける。
酔客が立ち上がりざまにぶつかってきたが、ガルドの体にはびくともしなかった。
(……あの席、目立つな)
視界の端で振り返りながら、そんなことを思った。
入り口から中央へ抜ける通路のすぐ脇。立食で、なおかつ視線が集まりやすい場所だ。
ルシアンの立ち姿は、街着に着替えていても隠しきれない品が滲む。
柔和な微笑を浮かべたまま、周囲を観察するその姿は、街の者にとってもどこか異質だった。
――だが、それを"美しい"と感じてしまう者も、確かにいた。
ちら、とルシアンに視線を送る者。
注がれた酒を止めたまま、立ちすくむ者。
連れの話も聞かず、じっと見つめる者。
ガルドは、それらすべての気配を背に感じながら、眉をしかめて店の奥へと歩を進めた。
――ふ、とルシアンの背に当たる手があった。
席を外した護衛が戻ったか、と顔を向ける前に……隣に寄り添う気配。見れば、見知らぬ冒険者。恐らく酔っ払い。
「無哭においてかれた?あっちで一緒に飲まねぇ?」
「……ふふ。結構です」
酒臭い呼気に、ルシアンが柔和な笑みで返すが、生憎相手は……酔っていた。よりにもよって"無哭の仲間"に、正常な判断ができないほど。
――そのため、笑顔の盾にも、気づかなかった。
「アンタなぁんで無哭なんかと一緒にいんのよ~」
「…………」
にこり、の笑顔は崩れない。だがしかし、それをよしととったのか、男の手が背中から首にかけて撫であげてくる。ルシアンが、――ううん、とやや眉を寄せた。
せっかくの酒場、楽しく過ごしたい。このままガルドが戻ってきたら騒ぎになりそうだし、自分が追い払って逆上されるのも、また面倒。
周りは見て見ぬふり……いや、見ている者のほうが多い。異分子がどうするのか。そんな視線だった。
「私なんかより、綺麗な方がいるでしょうに」
「いやぁ、アンタみたいな上玉なかなかいねぇよ」
「それはそれは……オススメはしませんがね」
「いいじゃねぇか、一杯だけさぁ、減るもんじゃねぇしよ」
酔いの回った手のひらが、ルシアンの腰元にずるりと滑る。
意図的に触れるそれは、もはや不快の域だった。柔和な笑みはなお崩れなかったが……銀の瞳がやわく細まった。
「……、……では」
「――どけ」
ルシアンの声にかぶさるように、……低い声が落ちた。
温度もなく、重く、酒場の喧騒すら一瞬だけ止まるほどの圧。
顔を上げかけた酔客の肩に、がし、と大きな手が乗る。
そのまま無遠慮に引き剥がされるように、男の身体がルシアンから大きく傾いた。
「い、ってぇな――、ッ!!」
振り返った先で、男の言葉が止まる。赤い瞳が、まっすぐに睨んでいる。
無表情。だが、冷たい殺気が滲んでいた。
「触って、減らねぇかどうか、試すか」
「いッ……!」
――ぎちり、と、掴まれた男の肩が、鈍い音を立てる。
酒の匂いも、笑い声も消える。見ていた者たちが、音も立てずに視線を逸らす。
冒険者であれば誰もが知っている、無哭……それが、怒気を隠さず立っている。
「ぐっ……ま、待てって、ただの冗談っ……ちょっと声かけッ、だけで――」
「……なら、これも冗談で、いいな」
ガルドの声が、さらに低く落ちる。
掴んだ肩にさらに力を込めれば、骨が軋む音すら聞こえた。
「あ゛ぁ!っわ、わかった!悪かった!許してくれ!!」
「…………」
捻り出されたその悲鳴に、ガルドが無言のまま手を離す。
もつれるようにして男が逃げていけば、周囲の空気はおずおずと動き出した。
「ま……まったく……だから酔っ払いは嫌なんだよ」
「おっおい姉ちゃん、もう一杯――」
どこか遠くの席から、やり直すように声が上がる。――お前ら、ただ見ていたな、という無哭の睨みから、逃げるように……店の空気が、ゆっくりと元の喧騒へと戻っていく。
ガルドは最後の警告のように周囲にきろりと一瞥をくれ、やがてルシアンを見た。
言葉はない。ただ、赤い瞳に一瞬だけ、明確な"怒り"が浮かんでいた。それは、先ほどの酔客か……もしくは自分への、抑えきれぬ咎め。
「…………」
「ありがとう、ガルド」
周囲に聞こえるかどうか、という声で、ルシアンが呟いた。酒の入ったグラスを手に、……銀の瞳は手元に伏せられている。
それを見て、ガルドが――ぐ、と眉根を寄せた。
こんな目立つやつを、こんな場所に連れてきたのは間違いだったか。
いくら男といえど、ああした不躾な扱いを受けて何事もないはずがない。
――「気にすんな」と言おうとしたところで、ルシアンの指先が、ガルドに近寄るように指示をする。
はた、とそれに気づいたガルドが小さく屈むと、そこに顔を寄せて、その眼差しがちらりと見上げてきた。
「君があと少し遅かったら、彼の心臓を凍らせていたかも」
にこ、と笑う顔は、どこかいたずらっぽくて、けれども冗談を言う顔ではなかった。
体内に氷を生成する。何故かこの男ならば、それが容易にできそうで。
「本当に助かったよ、ガルド」
「……それ、助かったのは誰なんだ……」
ぼやきながらもガルドは、静かに視線を逸らした。
思わず顔を寄せたが、面前での囁きの威力が思った以上だった。上目で見つめられたのも、至近距離で見てしまった。
――なんとか、体裁を取り繕う。
「……お前に、やな顔させたくねぇだけだ」
苦々しげに、ぼそりと喉の奥で呟くような声。
人目を気にしてではない。だが、声を張るには余りある重さがあった。
背を伸ばしたガルドが、グラスを一つ引き寄せ、なみなみと注がれた酒を半分ほど一息に呷る。
喉を鳴らして飲み干すその音が、やけに耳に残った。
――【酔客】




