【星屑の湖】
ヴァルクレッサたちは、明らかに警戒を見せ始めていた。
己らの外皮をも貫く力を持つ相手――そして挑発の奥に佇む、"喰らいの気配"。
にげろ、にげろと、魔獣の本能が恐れている。危機を叫んでいる。
だがもうどこにも、逃げ場はない。
一体が地面を割って、潜った。
一体が跳躍し、林の方へと逃れようとした。
最後の一体が、唸り声と共に、なおも足を踏み出そうとする。
だが、地を揺らすような踏み込みがひとつ。
剣は振るわれていない。拳もまだ構えていない。
それでも――気配だけで、縛られる。
「……逃がさねぇ」
声が落ちた次の瞬間、消えるような加速で、ガルドが駆けた。
一閃。
跳躍していた個体の腹が裂け、空中で赤い帯が咲いた。
着地することはなく……断末魔も、夜風に溶けた。
続けざまに、大地を穿って逃げた一体の痕跡へ――大剣を逆手に握り、ためらいなく地面へ。
「ここか」
瞬間、突き刺さった刃が大地ごとヴァルクレッサを貫いた。
地中から噴き上がる赤黒い血と、潰れた音。
「あぁ、牧草地が……」
「文句言うな」
ぽつり呟いたルシアンに、ガルドの背中から抗議が上がる。その傍ら、最後の一体が、悲鳴のように唸った。
震える前肢を一歩、また一歩と――それでも、逃げるでもなく、向かってくる。
……ガルドは迎え撃たなかった。ただ、正面に立ち、構えたまま、動かずに待った。
獣が踏み出す。唸る。
吠えるように顎を開き――、
「芸がねぇな」
――その声を最後に、獣の身体はそのまま、崩れた。
体重をかけた、頭蓋への踏み込み。ヴァルクレッサが力なく、土に伏す。
生への執着を喰われたように。
ゆっくりと息を吐き、ガルドは地面に突き立てていた大剣を引き抜いた。
一拍、周囲を見回す。……もう、気配はない。
「…………」
夜の空は静かで、風すら止んでいた。
振り返れば、どす黒い魔力は霧散するように消え、そこに立っているのは、柔らかく微笑むいつもの魔術師。
「……ったく、お前は……」
「うん?」
ぼやきながら、ガルドは血塗れの外套を翻した。
静寂が戻ったその場所で、ぱちぱちと小さく拍手をする彼は、囮をしていたようには見えない、とても満足そうな笑みを浮かべている。
「すごいよガルド。やっぱりこうして正解だった」
汗ひとつなく、満足そうな軽口。
ガルドが片眉を吊り上げる。ガルドは魔力に明るくない――にしても、それでもあの量の魔力を"放出し続けて"けろっとしている魔術師は、心当たりがない。
「もうなんの気配もないよ。残念ながら、森の動物や小さい魔獣も逃げてしまったけど。……牛たちにも、悪いことをしたね?」
ルシアンが、少し困ったように首を傾げる。
はっ、と小さな、ため息とも笑いともとれぬ息が、ガルドの口から漏れる。
「……後で、謝っとけ」
「……牛に?」
「ああ」
ガルドは短く返しつつ、背後に転がるヴァルクレッサたちを見やった。
既に息絶えたそれらは、もはやただの"肉塊"だ。――静かに剣を振り、血を地面に払う。
大剣を背に収め、すぐ傍に立ったルシアンを見下ろすと、彼はやはり笑っていた。何もなかったような顔で。
だが、その淡い銀の瞳には、確かに――ガルドの姿だけが、映っていた。
風が吹く。夜明け前の、冷たい風だった。
「ひとまず、村の様子を見に行こうか」
「……ああ。村の奴らも逃げちまってるかもな」
――む、と肩をすくめるルシアンの前髪を、風が揺らす。自分も満足げな顔をしていることに、ガルドは気づかない。
混沌の去った静寂の中、ふたりだけがそこに立っていた。
外皮を叩き伏す音や、魔獣の咆哮は、どうやら村にも届いていたらしい。
村人たちが避難していた村長の家へふたりが向かうと、気づいた数人が慌てたように駆け寄ってきた。
「ごっご無事でしたか!!」
「お、恐ろしい気配と、魔獣の声がたくさん……、牛たちの嘶く声も……っ!」
――恐ろしい気配と牛たちの悲鳴は恐らくルシアンの仕業なのだが、彼の柔和な微笑みに、反省の色は見られない。
「ふふ、無事を祈ってくださって感謝します。魔獣は彼が討伐してくれたので、もう安全ですよ」
ルシアンに手で示され、ガルドが小さく鼻を鳴らす。
「地中に潜むトカゲ型の魔獣が計十一体でした。本日はもう遅いので、明日の朝に確認をお願いしても?」
「そんなに……!ああ、ありがとうございました!!」
村長と村人たちに、ひとしきり頭を下げられ、ルシアンがガルドを見やった。
家畜の喪失に関する調査は、対象を討伐という結果を以てして完了。しまいだ。
――が、ぴく、とガルドの眉が、わずかに揺れた。ルシアンが、終わっていない顔をしている。
「……なんだ」
「星屑の湖を、見に行こうか」
そして、にこり、である。……はた、とガルドが目を見開く。――そういえば、そうだった。そして、こういう男だった。
ガルドの眉間に皺が寄る。まったく、敵わない。
細められた銀の瞳は、"私の感知に挑発を"――よりも、よっぽど楽しそうな顔をしていた。
「……ああ」
深いため息――というには、どこか緩んだ声が返る。
あれだけの戦闘のあとだというのに、ルシアンのその笑顔が、すべてを"なかったこと"のように見せるから不思議だった。
「……付き合う」
「ふふ、うん」
呆れたようにぼやきながらも、肩の力はすでに抜けていた。
魔獣の咆哮、血の臭い、焼けるような集中の熱。それらすべてを背に置いて、今、ルシアンの目は"湖"だけを見ている。
肩をひとつ回し、そばの村人に声をかける。
「……おい、近場に湖があるな?」
「は、はい……!ここから……四半刻もかからないかと」
「そうか。……夜明けにまた戻る」
ガルドがそう言えば、村の衆からはぽつぽつと会釈が返ってきた。背負った剣の重みをかすかにずらし、家を出る。
星屑の湖――その名にふさわしい景色が、本当に待っているのなら。
後を来る軽やかな足音に、もう少し付き合ってやってもいいかと、思った。
目的地はハス村から南、そんなに遠くはないところにあった。
ルシアンが先の戦いで、周辺の魔獣を軒並み追い払ってしまったのもあり……その道程はどこかのんびりとしたものだった。
湖に着くと、辺りはしんと静まり返って、夜明けを待つ風が水の匂いを運んでいる。
畔には、ぽつぽつと夜光苔らしき光のちらつきも見える。
「夜光苔、初めて見た。自発光しているんだね」
「ああ……水ん中にもあるな」
足元にしゃがみ込んだルシアンに、ガルドが短く返事をした。
ルシアンが手元の苔に指先を触れれば、……土と湿った草の香りがする。
――顔を上げて湖を見渡す。水は澄んで、夜光苔が水深の浅い湖底を這うように覆っていた。
それはまるで林の中、丸く切り取られた大きな舞台に、空の星が沈んでいるようにも見える。
いつかの山間の星見の湯も、幻想的で美しかったが、――こちらは、規模が違った。
上を見上げれば星空はどこまでも高く、それを映す湖面はどこまでも澄み渡り。
「……綺麗だ。……連れてきてくれてありがとう、ガルド」
呟くルシアンは、その銀の瞳いっぱいに、星空を湛えていた。
その声に、――ガルドは、少しだけ視線を向ける。
湖の縁に立つ、ルシアンの横顔。
月はなく、淡い暗闇の中、その姿は星空の中に立つようで。目元は柔らかく、口元には微笑。
だがそれ以上に、星を映したその瞳が――澄んだ銀が、あまりにも。
「……ああ」
ぽつりと落ちた言葉は、夜の風にすぐ掻き消える。
けれどそれでも、ルシアンの耳には届いていたのかもしれない。
彼はふわりと目を細め、再び空を見上げた。
ああ、やっぱり、だめだな――と、ガルドは思った。
こんなにも満足げに笑う姿を見せられたら。
こんな景色を一緒に見てしまったら。
もう、きっと――どこへだって、ついていくことになる。
音もなくさざ波が寄せ、ふたりの影を、ゆらりと揺らした。
空と湖が繋がるような、静かな星の舞台の上で。
――【星屑の湖】
《旅の記録》
・場所名(通称):星屑の湖
・最寄り街:ハス村
・景観種別:美/静
・特徴メモ: ベルミード南西のハス村近郊にある湖。夜光苔が一面に自生し、晴れた夜は星空と相まって水中にも天体が広がるようだった。
・時期・時間帯: 初秋・夜
・再訪:可
・個人的メモ:
「まるで星空の中に立つようだった。いつか、また。」
――ルシアンの手帳より




