【喰らい】
今夜、村の放牧地に魔獣をおびき出してみる――。その旨をハス村の人々に伝えると、皆の表情がにわかに揺れた。
不安、恐れ、希望、心配。その色は、様々。
だが、ぶれることなく柔和な笑みを浮かべるルシアンに、
「こちらに集中するようにしますので、皆さんは村のほうで待機なさっててください。何かあれば街のほうへお逃げください」
と……そう言われ、少し場だけが落ち着いた。
「……牛は、夜は牛舎か」
ガルドの短い一言に、数人の村人がはっとする。
「はっ、はい」
「なら、放牧地から一番離れた牛舎に移動しておけ。可能なら、ひとところに集めろ」
「わかりました……!」
村長が短く応じ、すぐに数人の若者が、手早く牛の移動準備に取り掛かった。
古びた木柵を支えながら、草を手で払って牛を誘導していく。それを横目に見ながら、ガルドは再び、村人たちのほうへ振り返った。
「陽が沈んだら、全員こもれ。外には出るな」
最後にそう釘を刺し、村人たちの返事を待たずして、視線を横に滑らせる。風が冷え始めている。日が落ちれば、ヴァルクレッサが動き出す時間帯だ。
「おい」
「うん?」
「……しっかり後ろにいろよ、"囮"」
魔獣が、"挑発"を辿っていく可能性は、十分すぎるほど。
低く、短いその声には、命令ではなく確かな信頼と抑えきれない本能が滲んでいる。
――その身を盾にすることを、当然のように選んでいた。
空気が静まり返る中、獣たちの咆哮を迎える夜が、近づいていた。
牛舎の裏手――放牧地の北寄り、地盤のやや柔らかな地点に立つと、ガルドはすぐさま広範囲に目を走らせる。
ここが、誘き出すにはもっとも適した場所。地中の音や振動も通りやすい。
視線での合図を受け、頷きは穏やかに。ルシアンが、ガルドの肩に触れた。
「じゃあ、よろしくね、ガルド」
「……ああ」
ひたり、その指先から防御の膜が張られ、ガルドを包む。
ルシアンの表情にはやはり緊張はなく、これから始める一幕を心待ちにするかのように笑った。
「……んで、どうすんだ」
「うん、めいっぱいの挑発を」
にこやかなルシアンが言い終わらないうちに、ぞわり、と足元から絡みつくような気配が、周囲一帯を包んだ。
敵かと一瞬、ガルドが身構えたが……すぐにその中心が、ルシアンであると気づく。
――先ほどとは比べ物にならない、気配、質量、無遠慮さで、まるで重く暗い油膜を打ち広げるように、魔力を張っていく。
「ッ……、……おいおい……」
小さく、だが口角を上げて、ガルドが笑う。
ガルドには魔力のことなんてわからない――が、これはもうそんなレベルではなかった。
その野生の勘が、ルシアンの挑発の全てを感じ取る。
――おい見えているぞトカゲども。
――さぁ頭から食ってやろう。
――貴様らの肉はさぞ、うまかろうなぁ……。
「おや、十一体も」
微笑む声は、涼しげであった。
地面を内側から抉りながら、森から放牧地へと迫りくる複数の土塊。――まっすぐに、ルシアンへと向かっていた。
「ッ……多いなオイ」
ガルドが低く唸るように呟いた刹那――地面が爆ぜた。
ぶわ、と土が弾け、暗い地中から黒ずんだ鱗が覗く。
平たい胴体、ずんぐりとした四脚。赤く光る小さな目が、地上の獲物――魔術師を射抜くように睨みつける。
再び鋭く潜ったその影が、そのまま地面を突き進んでくる。だが緩慢とルシアンの前に出てきたガルドが、大剣を引き抜き、……――ドパッ、と土を散らして地面から飛び出すヴァルクレッサへ、刀身を叩きつけた。
「――ごぎゃああっ!」
耳障りな咆哮が放牧地に響いた次の瞬間、四方から同時に、地を割ってヴァルクレッサたちが姿を現す。
「おい、全部来たか」
「うん。土中に四体、向かってきてるのが二体」
――今叩きつけたのも合わせて、十一体。ふん、まぁ、よし、と……ガルドは低く唸りながら、すでに間合いを詰めてきた二体目の顎をかわし、その喉元を大剣で薙いだ。
血飛沫。土の匂い。そして、魔獣の唸り。
「全部斬るまで、逃がすなよッ」
「うん、錯乱させとくよ」
あっけらかんと言ってのけるルシアンに、やはり口角が上がった。
ああ、じゃあ背負わせてもらおう。あの凄まじい"野蛮"の気配を放ちながら、魔獣群に動じる様子もなく、こちらを見つめる魔術師を。
だからこそ、ガルドは前だけを見据え、すべての猛りと本能を剣に乗せる。
――狩りの時間だ。
ガルドは一歩、前へ出た。
魔力の膜が肌の上にぴたりと貼りつき、筋肉に沿うように守りの力が走る。
視線はすでに正面、対峙した"脅威"へと定まっていた。
全身にじわりと力を込めると、足元の土が沈む。
外殻というよりも、岩を削ったような質感の、鈍い茶褐色の硬皮。
赤い目がぎらりと光り、大口を開いたその姿。
ガルドの剣が一閃する。
石にも似た外皮を、一撃で叩き砕く重さと鋭さ。
跳ねた牙がガルドの肩口に届きそうになるが、寸前で拳が抑え込む。
四体目が横合いから突進してくる。だが、ガルドは振り向きざまに肘を叩き込む。
刹那、魔獣の骨が砕ける音が、夜の風に消えた。
(――お前たち、相手が悪かったね)
そんなことを考えながら、微動だにせず佇むルシアンは、まるで舞台装置の一部のようだった。
何の武器も持たず、ただその身を"囮"として晒すことを選び、なお美しく立っている。
放たれた魔力の気配は、今もなお周囲に挑発の波を流し続けていた。
しかしそれは同時に、その衝動に駆られた魔獣にとって、二度と逃げられない檻のようでもあった。
「はっ、……どんどん向かってきやがる」
嘲るような笑みの瞬間、ガルドの重心が沈む。
地面を抉るような踏み込みとともに、突進してきた五体目のヴァルクレッサが宙を舞った。
振り上げた大剣がその胴体を裂き、吹き飛ばした肉塊が土の上を転がる。
――咆哮。殺意。血の匂い。
それでもガルドは一歩も引かない。攻撃の波に、真っ向から立ち塞がる。
六体目、七体目が左右から迫る。
片方は大剣の腹で薙ぎ払い、もう片方には拳を叩き込む。
刹那、背後の土が盛り上がる気配――、
「……チッ」
舌打ちが落ちるより早く、跳び出してきた魔獣の顎を、ガルドは拳で殴り落とした。
石を砕く音。魔獣の悲鳴。
その背後――決して見ぬ場所に、ルシアンがいる。
この魔力の檻の中心で、何も言わず、ただこちらを信じている男が。
それのなんと、居心地のいいことか。
「……あと、何体だ」
「あと三体」
「っし」
血に濡れた剣を引き、ガルドは真っ赤に染まった視界を切り裂くように、次の敵へと歩を進めた。
夜の大地に、金属の音と獣の呻きが響く。
魔獣たちの死は、……もう、すぐそこだった。
――【喰らい】




