【秋風と緑の香り】
太陽が高く昇るまでたっぷり休んだルシアンは、ガルドを探して宿屋から出た。
先ほど訪ねた隣の客室は留守で、護衛はどうやら出かけていることが伺えた。
ギルドへ依頼の報告か、昼食を食べにでも行っているか。
宿前の通りで、一度立ち止まる。……さて、彼の行きそうな場所は――そのまましばし硬直。
ギルドか……酒場……はまだ開いていない……ならば鍛冶屋か……物資の買い付け……はわざわざ今行くか……?露店通りならあちらの道……屋台通りならそちらの道……ううん……。
まぁ、ひとまず、と広場のほうへ歩き出そうとして、遠くから歩いてくる目立つ影を見つける。人波から、頭ひとつ分飛び出ている、仏頂面の男。
あ、と思わず笑みを浮かべれば、向こうもつい、と顔を上げたような気配。
迷わず、そちらへ向かって歩み寄る。ルシアンの足取りは軽く、淡紫の髪が陽光に揺れていた。そして何より、見つけた、というような笑顔。
赤い瞳は、――どことなく眩しそうに眉根を寄せていた。
「ガルド、早起きだね」
「ああ……、目ェ覚めちまってな」
ぼそりと返しながら、ガルドも立ち止まってルシアンを迎える。
腕を組んでいたのは、あまりに嬉しそうに近づいてきた雇用主に対する、……もはやなけなしの自己防衛。あと懐の包みを意識の外に逃がすため。
「もう昼だぞ」
「うん、たっぷり寝たよ。君、お昼ご飯は?」
「……まだだ、行くか」
頷きが返ってきたのを、目の端で見て――通りへと振り返る。歩き出す歩幅は自然と、横に並ぶ外套に合わせていた。
街並みを抜ける陽射しはやや強く、木の影がまだらにふたりの肩を照らす。
「向こうに、あんまり騒がしくねぇとこ、見つけた」
ぼそりと言いながら、片手で通りの先を示す。チラ、と横目でルシアンの顔色を伺う。
満足げに微笑む姿に、少しだけ目を細める。
「街の探索でもしていたのかい?」
「……まぁ、んなとこだ」
何とはなしに気まずそうな声は、風に流れてしまうほど低かった。
わずかに首を傾げる気配が返ってきて、けれどもそれきり、ふたり黙って歩を進めた。
ガルドに案内された食堂では、テラス席に案内された。くすんだ赤茶のレンガ調の外壁、落ち着いた木目のデッキ、装飾の少ないテーブルとイス。
そこに花を添えるかのように優雅に微笑むルシアンと、無骨でやや悪人面の大男。
ふわ、とルシアンで和らいだ空気が、ガルドの視線でギシッと固まる。――いつもの光景だった。
運ばれてきたパンは、湯気を立てている。中はふんわりと。
スープも黄金色に透き通って、様々な野菜の味が奥から香る。
サラダのみずみずしさも、またそこに彩を加える。
「ふふ、ガルドの"嗅覚"はさすがだね」
またも、にこり、と笑顔が向けられる。相反するように、ガルドの眉間には皺が寄った。
最近……ルシアンの、こんな表情しか見てないような気すらする。何がそんなに楽しいんだ、と、――文句にもなりきらない文句が浮かぶ。
怒った顔とか、悲しむ顔……、困った様とか、……泣くだとか、そういう……のが、見たいわけでは、ない、多分。
だが、少々ざわつく部分もある。その笑顔を向けられる価値が、自分に――
「これ、多いからお願いね」
――半分にもぎられたパンが、皿に乗る。
……一気に気が抜ける。やれやれと、口角すら上がる。ちょっといたずらっぽい、食べられるよね?の微笑をされた。
「……食えるぶん頼むって頭はねぇのか」
「だってガルドが食べてくれるから」
「……てめぇ……」
ぼそりと返しつつ、皿の上のパンに手を伸ばす。サク、と外が割れて、中はしっとりと柔らかい。
噛めば香ばしく、鼻から抜ける小麦の香りに、気づけば少し目を細めていた。
「……チッ、うめぇ」
短く言って、もう一口かじる。ふふ、と正面から向けられる、――笑み。
味も、今のこの空間も、昼食として十分に上等だった。なにより、目の前に座る魔術師の機嫌が良さそうで、それだけで空気が違う。
……ふと、懐に意識が向く。
重さはほとんどないが、存在感はある、包みの中の小瓶。それを、どう始末するか。
一口分のスープを飲み込んで、タイミングを測る。向かいの銀の瞳は、いつものように穏やかで、まっすぐで。
…………まぁ、どうせ。
どうせ――あの目で、何を言っても笑われる。
ガルドの視線が低く落ちる。目じりには柔らかな色が浮かぶ。もう、だったら、と。
言葉を選ぶのはやめた。
「……あのよ」
「うん?」
「……、……ん」
テーブルの上に、少し雑に、だが丁寧に傷つかぬように、包みを差し出す。
茶色の小箱と麻紐に包まれた、小瓶。
「…………」
「…………」
それきり何も言わず、椅子の背にもたれ、腕を組み直す。視線は合わせない……いや、合わせられない。けれど、耳だけはそちらを向いていた。
その懐から包みが出て、テーブルに置かれ、こちらに差し出される一連を、銀の瞳が見つめていた。
――くれた、のだろうか、と……それに視線を落とす。目の前の男を見ても、もう目を逸らしてしまっている。……ふわり、とルシアンの口元が微笑んだ。
「……、私にかい?」
そう言う自分の声は、……思った以上に嬉しそうだった。
包みを引き寄せる。程よい重さが手に収まった。
「開けてもいいの?」
「…………勝手にしろ」
ギリギリ届くほどの声で、返事が返ってきた。
麻紐をほどき、ふたを開けば、小さな香油の小瓶。
きゅぽ、とわずかに栓をずらし、香りを嗅ぐ。
柔らかな緑の香り。陽の注ぐ、深い森のような――。……じわり、銀の瞳が、細くなる。
「……、いい匂いだね」
「…………」
ルシアンは食事もそこそこに、テーブルに両肘をついて、手のひらの中で香油の瓶を眺めた。
指先に少量だけ取り、街着の襟をほんの少し緩め、首元のその下……わずかな窪みに香りを落としこむ。
――いつも一番、強く香る場所だ、と……ガルドが思わず目を逸らす。
何度も、その――そこの匂いは嗅いだ。しかし、つけているところは初めて見た。
本人は何も気にせず、どう?といったふうにガルドに微笑んでいる。
「ッ……」
ガルドはスープを啜るふりをして、視線を皿に落とした。こくり、と喉を鳴らす音が、やけに大きく耳に残る。
熱くもないスープなのに、妙に体温が上がったような気がした。
――見た。つけるところ。見た。
自分の選んだ香りが、今、あいつに……、……あいつが、まとっている。
「…………悪く、ねぇ」
ぽつりと落とした声に、軽やかな笑みが返ってきた気がした。心底嬉しそうにすら……見えた。
その仕草が、この秋の風のように柔らかくて、優しくて。
なのに、なんでこんなにも、自分は落ち着かないんだか。
「ガルド」
「…………」
「ありがとう、ガルド」
「…………ああ」
コト、と香油をテーブルの上に置き、ルシアンは静かに昼食を再開した。
皿に視線を落とすたびに、自分の胸元から深い緑の香りが漂う。
いつも使っていた木と花の香りのする香油も好きだが、こちらもなかなか好みである。
何より、この護衛が選んでくれたもの。きっと門外漢だったろうに、……悩んだだろうか。それとも何かのついでに片手間に、数秒で選んだか。どちらでもあり得そうで、けれどどちらでも嬉しい。
――毎朝の身支度で、どちらの香りをまとうか悩んでしまいそうだ。
最後の一口を食べ、水を飲む。テーブルの上の香油を、一度丁寧に包んで革鞄にしまう。
美しい景色や不思議な場所を巡るのももちろん好きだが、ルシアンはこうした穏やかな、落ち着いた時間もたまらなく好きだった。
「ねぇ、楽しいね、ガルド」
頬杖をついた手の上で、ルシアンは屈託なく笑えた。
思わず視線を上げたガルドも、ふん、と小さくだけ鼻を鳴らして、視線を通りに向ける。
――眩しい、などと。
そう思ったのは、空の陽光ではなく、目の前のその笑顔のせいで。
美しいものが好きだと、不思議なものを求めると、そう言っていたはずのこの男が……今はまるで、自分の隣の時間そのものを、楽しんでくれているようで。
「……ああ」
短く返事をしながら、ガルドは通りから視線を戻せなかった。
自分が選んだ香りが、その肌からふわりと立ちのぼる。いい匂いだ、と言った。嬉しそうに、笑った。
……参った。
「……くそ、ほんとに……」
小さく、誰にも届かぬほどの声でぼやく。
だが風はやさしく通り抜け、ルシアンの髪をふわりと揺らしていく。
そして、その香りをまたガルドの鼻先へと運んでくる。
この昼の光の中で、どうしようもなく、心が騒ぐ。
――どうしてこんなにも、と思うほどに。
――【秋風と緑の香り】




