【廃教会の歌声】
廃教会へ再び訪れるころには、すっかり夜も更けていた。
昼に見た、切なくもどこか神聖さのあった佇まいとは打って変わり――今はただ闇を抱いてそびえたっている。
また、ガルドが先立って中を確認する。――なんの気配もない。
いいぞ、――そんな視線を受けて、ルシアンは中に足を踏み入れた。
あの暖かな陽光は消え、今は青白い月の明かりが、頼りなくステンドグラスを照らしていた。昼間あれほど色彩を描いたその色付きのガラスは、今やその絵柄すら判別できぬほどに、ただの影となって壁に浮かんでいる。
静かな闇は、ただそこにあるということに執着するかのように、ひっそりとこの廃教会を包んでいる。
……風さえも、音を潜めているようだった。
ガルドの足音が、がらんとした聖堂に静かに響く。月に照らされて、朽ちた女神像がかすかに陰影を帯びる。
入り口付近に立ち止まったまま、ルシアンがそっと耳を澄ませた。
息を潜め、風の流れを感じ取るように。
――聞こえない。
「……何も、いねぇか」
そう呟くように口を開いたガルドの言葉に、ルシアンが静かに頷く。
けれどその瞬間――
「…………ん、」
どこというわけでもない、ふと、どこからか、かすかな音が聞こえた。……音――いや、声。
それはあまりにも淡く、言葉にするには不確かで、耳を疑うほどに儚い。それでも確かに、歌だった。
言葉ではなく、旋律だけが残るような女声。古の祈りを紡ぐような、詠唱に似た、しかし明らかに"唄う"という意思をもった声。……叫びか……。
「…………」
緩く、ルシアンが視線を周囲に這わす。息をのむことはない。肩がすくむこともない。けれどその横顔を見たガルドは、すぐに視線を奥へと向け直した。
「……手でも繋いでやろうか」
「……ふふ、子どもじゃあるまいし」
ガルドの言葉を受け、やや肩の力が抜ける。ああして小馬鹿にするようでいて、するりと引き戻してくれる。ルシアンは静かに瞳を閉じた。
その仕草は子守歌を聞くような、夜想曲を待つような、そんな静かな儀式のようにも見えた。
魔力の気配を感じる。人ではない。どちらかと言えば、……そう、魔物だ。
かすかに、歌声が……いや、歌うような鳴き声が、誘うように耳をかすめる。
「――うん、バンシーかな……」
ルシアンの声が、鳴き声の響く暗闇に溶けた。瞳は閉じられたままである。
聞こえてくるその音色には、悲しみも、慈しみも、切なさも、ないまぜになったような響きがあった。それがひどく、幻想的でもあった。
「ガルド」
「……ああ」
「バンシーは、死の前触れを告げる。どこにも死の気配がなければ、その原因にすらなろうとする」
ああ、あの歌はどこから聞こえてくるのだろう。叶うのならば、ぜひともあの声の主をこの目で見てみたい――そう、思わせるような、音。
「"死"を糧とする彼女らは……残念ながら、魔物だよ」
その声はいつの間にか、すぐそばで聞こえるほどに近づいていた。
ルシアンは、決してまぶたを開かない。まるで、美しい世界に浸りたいかのように。――あんなに美しい声なのにね、なんて、穏やかな笑いすら聞こえてきそうだ。……が。
「バンシーは、首に魔力核を持つ」
「…………」
「私は見ない。あとはよろしく」
「……ったく」
ガルドは静かに、舌打ちを落とした。
剣を抜く音さえ憚られるほど、教会は"声"に満たされていた。それは、魂を引き裂くような悲鳴でも、狂気をはらむ唸りでもない。
女のような声で、泣くように、歌うように、叫びながら、どこか懐かしむように、誰かを呼ぶように。
けれど、そう聞こえるだけで、理由は明快。……ただの狩りだ。
ガルドの足が、ひとつ――軋んだ床を踏みしめる。
その瞬間――薄闇の奥、祭壇の脇に残った石柱の陰から、すうっと影が伸びた。
それは形を持たず、髪のように流れ、布のように揺れ、月光の逆を漂うようにして。……歌はたゆたい、思わず耳を澄ませ、手を伸ばしたくなるようで。
はっきりとした輪郭は見えない。だが、こちらを見ているのが、分かる。
ちらり、ガルドの視線が伏せた石像を捉える。教会に魔物。随分陳腐な脚本家がいたもんだ、と、口の端で笑う。
きちり、剣が鳴る。輪郭がなくとも、たとえ姿がぼやけていようとも、いわゆる不死系の魔物であっても……"核"を斬れば、斬れる。
「……まぁ、ぶった斬りゃあいい」
その構えに入った瞬間、ガルドの背にそっと空気の揺れがあった。
振り返らずとも分かる。ルシアンが笑っている。目を閉じ、歌声を聞き、何もせず、ただ"そこにいる"。
――任された。
それだけで、ガルドの意志は研ぎ澄まされる。
「……サンビカでも歌ってりゃ、見逃したか?」
「ふふ」
闇を裂くように、一閃。
教会の中に、風が走り、……"歌声"は、それきり止まった。――断末魔は、聞こえなかった。
ただ、ひとつの存在が消えたかのような、ただそれだけ。
ルシアンが、静かに目を開ける。仄暗い聖堂の中、もう何の痕跡もない。歌声も、もう聞こえない。
けれど、青白いステンドグラスからの月光を受けて、ガルドの巨躯が影を作っていた。
どこか優しい眼差しだけが、逆光の中、こちらを向く。
「……、素敵な景色だ。ありがとう、帰ろう、ガルド」
ルシアンの笑顔は、やはり満足そうで――もはや、ガルドも返す言葉はなかった。今のはさすがに、何を以てして"素敵な景色だ"などとほざいているのか、……それがわかってしまった。ただ……小さく頷く。
その仕草に、先ほどまで戦っていた男の影は薄い。鋼の剣を手にした護衛ではなく、ただ隣を歩く、ひとりの"同行者"のような表情だった。
ステンドグラスの欠片から、また月光が零れていく。割れた椅子。崩れた像。静かに沈黙する廃教会。何も変わらず、何も残さず、ただ夜だけが深まっていく。
半分外れた扉から、ルシアンが外へと出る。ガルドもまた、その背に続く。入り口の瓦礫を跨ぐ直前、肩越しに建物内を振り返る。
かつての女神像に、青白い月光が降り注いでいて、――一拍、二拍、そこへ目をやり、また踵を返す。
空には、ひときわ冴えた星がひとつ。秋の風が吹いて、草葉を鳴らす。
教会の扉が、そっと風に閉じられた。
――【廃教会の歌声】
《旅の記録》
・場所名(通称):旧聖堂(廃教会)
・最寄り街:ベルミード
・景観種別:静/謎/怖
・特徴メモ:西の丘に建つ旧聖堂跡。昼は色ガラスの光が差し込み、崩れた像の前で祈るには十分の静謐さ。夜は、ただ静かに闇を抱いている。
・時期・時間帯:初秋・昼〜深夜
・再訪:慎重に判断
・個人的メモ:
「昼も夜も、美しかった。けれど、どちらも違う色のまま、同じくらい寂しかった。」
――ルシアンの手帳より




