【都市セレス】
食事を終えて宿に戻る頃には、すっかりと夜が更けていた。
ルシアンが取っていた宿屋は、街の表通りから一本ずれた場所にある二階建ての宿。
年季の入った佇まいだったが、店の前の通りや植え込みが綺麗に手入れされており、受付カウンターの上で猫が転がっていた。
「ああ、これは、お帰りなさいませ」
ルシアンに気づき、帳場にいた主人が深々と頭を下げる。
おずおずと鍵を二つ差し出し、ルシアンとガルドが二階に上がるまで、頭を下げ続けていた。
妙な態度に、またもガルドの眉が吊り上がる。……その不審の目は、宿の主人ではなくルシアンに向かった。
「……何かしたな」
「何もしていないよ。君、私を悪いやつだと思っていないかい」
階段を上りながら、ルシアンが肩越しにガルドを見下ろす。
受け取った鍵の一つをガルドに手渡しながら、足取りは穏やかで……しかしふむ、と口元に手を当て、少し思い返すような仕草も見せた。
「しいて言うなら、私を見て値段を吊り上げようとしたから、話し合いをしたくらいかな」
「話し合い、な……。ビビらせてやんなよ」
「ふふ、そんなつもりはなかったよ」
咎められたと思っていないのか、ルシアンは肩をすくめるように笑みを浮かべただけ。
足取りも呼吸もまるで乱れていない。やましいことはしていない、という自負すら感じる態度だった。
「……だから、そういうとこだっつってんだよ」
階段を上りきり、客室が並ぶ二階の廊下を静かに歩く。低く零れたガルドの声に、怒りはない。
ただ、妙に人を手玉に取るこの男の"笑顔の使い方"に、警戒を通り越した諦めが滲みはじめただけだ。
「脅してねぇつもりでも、脅されてんだよあれは。……お前の顔で、な」
「そんなつもりはないのになあ……」
一つ、また一つと過ぎていく客室の扉を眺めながら、ルシアンからぽつりと不服そうに落ちた一言。その後ろを歩く男の、すこし呆れた吐息。
だがその気配にはほんのわずか、"仕方ねぇな"と笑うような、乾いたぬくもりも混じっていた。
やがて進んで行った廊下の先で目当ての客室を見つけ、ルシアンが足を止めた。ガルドの部屋は、廊下を挟んで向かい側。
「じゃあ、また明日」
「ああ」
鍵を扉に差し込みながら、ルシアンがガルドを振り返って笑う。ぶっきらぼうに答えるガルドも、肩から荷を下ろしながら部屋の扉に手をかけていた。
街道沿いの野営とは違い、今夜は屋根と壁と、鍵のかかる扉がある。
「……ちゃんと鍵かけとけよ」
言葉の意味は深く掘るまでもなく、ただの護衛としての助言。
ルシアンも軽く頷き、扉を開いて部屋に入っていく。……内側で、静かに鍵が閉まる音。
赤い瞳は一拍だけその扉を見据え、それからゆっくり視線を外した。
「……ルシ、……」
どこにも届かない声は、低く、素朴だ。その音を、もう一度確かめたかっただけだったのかもしれない。
踵を返して、ガルドは自分の部屋の扉を開ける。
まるで、それ以上言うと何かが崩れそうで――、早く眠りにつきたかった。
扉の向こう、廊下の静かな気配が、この夜をふわりと照らしていた。
――【都市セレス】




