【ふたりの役割】
厨房から芳ばしい香りが漂ってくる。
香草と獣肉、焦がしたにんにくの香り――腹の虫が鳴りそうなほどの、しっかりとした食欲の刺激。
「……飯が来るまで、静かにしとけよ。……余計な笑顔ばらまくな」
見られてんだよ、お前は、と。
……ガルドはそう続けかけて、やめた。
それを言ったところで、あの男はきっとまた、にこりと微笑むだけだろうから。
窓の外、赤く染まった通りを視界に入れながら、ルシアンは一度深く息を吐いた。
野営の夜とはまるで違う、街の夜の匂い。焚き火の煙ではなく、焦がし油と焼きたての肉の匂いが漂う。
やがて、注文した串盛りと炭焼きが運ばれてくる。
香草とスパイスで焼かれた三種の肉。付け合わせには炙り野菜、そして彩りの果実ソースが添えられていた。
「そういえば、君、言動は粗野なのに、食事をするさまが下品ではないね」
――エールをあおるガルドを見て……自身は果実酒を飲みながら、ルシアンがそう笑った。
「……あ?」
「暴力をふるう、物に当たる、品位が疑われる、そんな気配がない」
それはどこかささやかでいて、ガルドを認めるような意思が滲んでいた。
ガルド自身、そういった乱暴な立ち居振る舞いをする奴らをバカバカしいと思う節がある。だがそれを、目を見て褒められたことなど、一度もない。
「……チッ」
遠慮せずに、舌打ちをする。居心地が悪いわけではなかったが、むず痒かった。
思えば、こうして面と向かって座ったのは、初日に食事をして以来のような気がする。
どこか気を張っていたあの時とはと違い、目の前の男はただただリラックスしているようにも見える。
「……言われ慣れてねぇ、そういうのは」
串をかじりながらぼそりと漏らした言葉は、いつもの不機嫌とは違った。……苦笑に近い。
だがその手は止まらない。串の合間に野菜を挟み、焦げ目のついた玉ねぎを噛みしめる。
酒の味も、炭の香りも、どれもじんわりと身体に馴染んでいく。
「つうか、お前はどうなんだよ」
「私かい?」
あえて頷くこともなく、ガルドは向かいの銀の瞳を一瞥した。
粗野でもない、品もある、けど何者か分からない――そういう意味の視線だ。
「……妙に人を見てやがる」
肉をかじる合間の、短く静かな言葉。
にこにこと親だかな振る舞いの奥にある眼差しが、時折やけにガルドを射抜く。
「見られてっと、落ち着かねぇ。まぁ……妙な企みはなさそうだが」
呆れたようにそう呟いたあとで、ガルドは肩をすくめた。自嘲とも取れるが、どこか清々しい響きだった。
続く食事の席で、赤い瞳がふと窓の外を見やる。夕暮れに赤く染まった通り。行き交う街の人々。
その風景の中に、確かに自分たちの夜が存在している。
……だからこそ。
「……お前、やっぱり名乗らねぇつもりか?」
串を置いて、再び視線がルシアンに戻った。それは、問いというよりも確認。信用があるかないかではなく――ただ、知っておきたいと思っただけの、静かな熱を孕んだ眼差しだった。
「…………」
まっすぐなガルドの声に、ほんの少し、銀の瞳が揺れたものの……やはりそれにも、ルシアンは笑顔と沈黙を以てして返事とした。
――が、少しして。
「……家族には、ルシって呼ばれてるよ」
微笑みはそのままに、視線をわずかに伏せ、皿の主菜を切り分けながらルシアンが静かに呟いた。ひたり、ガルドの手が止まる。
……けれどそれは一瞬で、また何事もないように食事の手を再開した。目線は、ルシアンの手元に。
――洗練されたナイフの運び。耳障りな音のない動き。
鹿肉。三種の串。ガーリックの骨付きロースト……そうして切り分けた食事を、自分の皿に取り分ける。
「君は量を食べられる?」
ふいにルシアンが、顔を上げてそう笑った。
串に刺された鹿肉を口に運びながら、ガルドがくい、と頭を傾ける。
「まぁ、……食う方だな」
「私はたくさん種類を食べたいんだけれど、小食なんだ。私のものを君に分けたら、怒るかい?」
そう尋ねながら、皿の上に残る料理を、丁寧にガルドのほうへ差し出す仕草。
護衛の眉がぴくりと動く。赤い瞳が、料理とルシアンを交互に見た。
たとえば――騎士や傭兵たちの間で、ひと切れの肉を与えることが、"命を預ける覚悟"を見せるという言葉に代わる表現だと。
……この雇用主は、知っているのだろうか、と。
(……わかっててやってんのか……?)
ぎし、とガルドが椅子に背を預ける。
目の前の男は、腹に一物を抱えていそうに見える。……けれどまったく真面目に、"食べきれないんだよ"と笑っているようにも見えた。
「もちろん、人の食べかけが嫌なら、いいんだよ」
「……怒るかよ、そんなことで」
くぐもったガルドの声が、喉の奥から落ちる。
けれどそれは、拗ねでも皮肉でもない。ただそう扱われることに、どうにも慣れていないだけの声音だった。
差し出された皿に視線を落とし、――少ししてからガルドは手を伸ばす。
無造作に見えて、指先は丁寧に一切れを掴んだ。
「……食えるぶん頼めや」
「だっていろいろ味わいたいじゃないか」
鹿肉の切れ端。炭の香りと果実ソースの酸味が鼻を抜ける。
咀嚼しながら、ガルドはしばし黙って、それからぽつりと声を零した。
「……ルシ、ね」
その呼び名を、ゆっくり噛みしめるように呟く。家族以外で音に出したのは、たぶん彼が最初だった。
自分の声で聞こえたその名があまりにもしっくりくるのが、腹立たしいようで、やはりむず痒くて――どうにも。
「…………」
ガルドは、言葉の先は続けなかった。
だが、きっとその呼び方は、この雇用主にとって深く意味のあることで。
名前を名乗らぬ相手が、恐らく自分だけに許した……小さな情報で。
「ま、お前が許すまで、それで呼ぶのはやめといてやる」
「ふふ、なんだい、それ」
不器用な誠意を、あえて口にしてみる。それを、目の前の彼が笑ったりすることがないと、わかってきたから。
「……代わりに、俺が食ってやる。全部な」
鹿肉をもう一切れ取って、無造作に口へ放る。咀嚼の合間、ふと目を上げて、赤い瞳が銀と交差した。
「……ごちそうさん、ルシ」
その一言だけが、やけに穏やかに、静かに響いた。
ルシアンも、一つだけ頷いて、目を伏せる。たったそれきりと、互いにわかった上での、一度。
果実酒のグラスが、その手元でくるりと揺れる。琥珀色の輝きが、銀の瞳に映るかのようで。
――やや、沈黙。
食器の音だけが、ふたりの間に落ちる。
出した言葉を引っ込めるつもりもないし、引っ込めることも不可能だが……"ルシ"は踏み込み過ぎたかと、……ガルド、黙食。
「…………」
「…………」
「……そういうお前はあれだ、魔術師なら杖は使わねぇのか」
苦し紛れに出た言葉は、奇跡的に落ち着いた声音だった。顔を上げたルシアンも、小さく首を傾げる。
ルシアンの手に剣ダコはない。だが、杖も魔道具も持っている様子はない。
「うん、そうだね。杖は出力が高くなりすぎてしまうんだ。素手が一番制御しやすい」
なんのことなく返された答えに、そんなものか、とガルドが眉を吊り上げた。
ガルドは魔法には明るくない。だからこそ、魔術師である本人が言うのなら、そうなのだろうと思う。
エールの杯をテーブルに戻す手が、ごつりと木面を打つ。
「普通は、威力を上げるために杖を持つんじゃねぇのか。……素手で制御ってのは、聞いたことねぇな」
呆れ半分、感心半分。だがその声音には、明らかに"好奇心"が混じっていた。
自分への興味が尽きない護衛に、ルシアンは面白そうに笑った。
「ふふ、なかなか身軽でいいよ」
「……ったく、何者だよお前」
杯をもう一度傾けながら、ガルドが息を吐く。
まるで、底の見えない水面を覗き込んでいるような目だった。
「素手の魔術師なんざ、初めて見た」
赤い瞳が、対面の細い指先をちらと見やる。
器用な動き。無駄のない所作。それでいて、人を押し退ける力強さもない。
「……けどまぁ、お前が杖振り回して歩いてたら……今の倍は目立ってるな」
そう言って、またも赤い瞳がちらりとルシアンを見る。
淡紫の髪、銀の瞳。丁寧な仕草と、静かな笑顔。
――杖を持たずとも、既にどこにいても異質で、……整っている。
「……俺が前に出る。お前は後ろで構えとけ」
飲み干し、すっかり空になった杯を、トン、とテーブルに戻す。
その音が、ふたりの間に妙な心地よさを残した。
「頼りになるね、君」
「はっ。素手の魔術師と、剣より先に睨むだけの護衛だ」
小さく笑ったガルドの横顔は、酒の熱も手伝ってか、どこか柔らかかった。
そしてそんな掛け合いは、もう"雇い主と護衛"のそれだけではなかった。
それは確かに、そばにいる者として――旅を共にする相手としての言葉だった。
――【ふたりの役割】




