【ひとしずく、未満】
風送りの街、ベルミード。
この街は、街道と、広大な農地、川に囲まれた平地にあった。
街門は東西南北に四つ。ルシアンたちがやってきたのは東門。夜明けの回廊へ出かけたのは北門。街自体が大きな街だった。
宿屋でルシアンが借りている部屋の窓は南向きについており、そこから街並みを望めばはるか遠くに海がちらりと見える。当然潮騒も聞こえなければ、潮の香りもしない。海風など上がっても来ない。
セレフィーネではすぐ目の前にあったきらめきが、今はあんなに遠い。随分歩いてきたものだ、と思った。
朝の陽射しが、穏やかに窓枠を照らす。早朝の散歩に行こうかと思っていたが、ちょっとだけ寝坊したため見送ることとする。街着に着替えて外套を羽織り、ルシアンは部屋を後にした。
廊下へ出れば、隣室から同じくガルドも顔を出したところだった。こちらも街着で、外套は羽織っていない。大剣も部屋に置いてきたようで、背負っていなかった。
「おはよう、ガルド。食堂に行こうか」
「……ああ」
こつ、こつ、と三歩ほどで歩み寄ってきたルシアンが、ガルドの隣……というより、目の前で足を止めた。
わずかにガルドが顎を引く。どこかふわりと笑うその表情は、問う……いや試す……違うな、確認……ともかく――ガルドの勘違いかもしれないが、……嗅ぐの?というような笑顔。つまり、"待っていた"。
思わずガルドの背筋が伸びる。……仰け反ったのかもしれなかった。
確かにほぼ毎朝――嗅いでは……いるが……。
……黙したままに、ほぼ引き寄せられるように、足が一歩だけ近づいた。ルシアンは逃げない。問わない。むしろもはや、"いつものでしょう?"という顔。
喉がごくりと動きそうで、けれど硬く耐えて、視線を逸らすでもなく、睨むでもなく、ただ鼻先を、静かに。
「…………」
街着のシャツ、襟元までぴたりと留められたその胸元の辺りに、緩く顔を寄せる。
――すん。
鼻腔をつくのは、まだ新しい……木と花の香り。何が新しいって、体温と混じっていない。ああ、ダメだ。自分から嗅ぎに行くのと……さし、差し出されるのはちょっと……ちょっとわけが違う……。などなどと。
それらがガルドの頭を巡ったのは、ほんの一瞬のことで。
「……ンンッ……」
軽い咳ばらいをしながら、身を起こす。恐らく嗅いでいた時間も、数秒に満たない。――はず。
ルシアンも、朝の日課を終えたような顔をして、廊下の向こうへ目をやっている。
「今日の朝食は何だろうね」
「……混んでなきゃいいが」
そうしてふたり、何事もなかったように、踵を返して歩きだす。ほんのわずかに視線が泳ぐガルドの隣を、淡い外套が並び歩く。
よくよく考えれば、宿の廊下であった。周囲に人がいなかったのはほぼ偶然。
(……な、も、誘われたら……俺ァ……)
今の"くんくん"は決して誘われたわけではないものの、――もしもを考える。
もしもたとえば、仮に、万が一、ルシアンに「嗅いでどうぞ」なんて言われようものなら……。
(……、嗅ぎそうだ俺……)
自分の堪え性のなさに、どこか唖然としたままに――、ガルドは食堂への階段を降りていった。
その背に、香りがひとつぶだけ、溶けた。
そうして降りてきた宿屋の食堂で、ふたりは朝食をとっていた。
今日のメニューは卵を使ったサラダと芋のポタージュ、白パン。食堂は宿泊客でそこそこ賑わっており、ガルドもわずかに落ち着いた。
「今日は鍛冶屋に行こうか」
「……ああ」
短く返事をする。視線は正面で、水のグラスを持つ、ルシアンの手元に。
鍛冶屋。鍛冶屋な。そう思いつつも、どこかぼうっとしていた。朝のあの一瞬で、考える力を使い果たしたような気すらしてくる。
そういや――と、先日見せられた、"なだめて"という生活魔法が頭に浮かぶ。
ぼんやりと記憶をたどる。――今までいくつ教えてもらったか。"しずく"、"なだめて"……セレフィーネの茶屋で、船乗りの服を乾かしたのもあった。……あれは何と言っていたか……。
ガルドは魔法に明るくない。使いたいと思ったこともないが、――便利なもんだな、という感想は持ち合わせている。
「……どうかしたかい?」
視線に気づいたルシアンが、不思議そうな顔をしてガルドを見上げた。
その細い指先が、食器のそばで止まっている。朝の光が窓から差し込み、銀の瞳に淡い反射が浮かぶ。
素直にただ、問いかける視線だった。自分を見据える護衛に、警戒も揺さぶりもない。
「……ああ、わりぃ」
ガルドは息を吐き、小さく頭をかく。そっぽを向いて、……唇の端をわずかに動かす。
「……お前の、……生活魔法だか……思い出してただけだ」
「ああ」
にこ、と目の前の表情が和らいだ。どことなく嬉しそうに、肩を緩く落とす。
それを見て、ガルドも思わず肩の力が抜けた。
「……他にもあんのか、ああいうの」
「うん、あるよ。全部で五つ」
そう笑うと、ルシアンは自分の手のひらを一度見た後、もう一度ガルドを見た。
上向きにした手のひらをそのままテーブルに置き、小さく首を傾げる。
「これはもう見せたことがあるよね。水を精製する魔法」
じわり、とルシアンの手のひらに、澄んだ水が湧いた。
いつかの村跡で、壁画調査の際に見せてもらった"しずく"。今にも手のひらから零れ落ちそうな水を、ルシアンが空になった自分のグラスに注ぐ。
「これは"しずく"だね。飲めるけど、魔力水だから多飲はお勧めしない」
「……ああ、覚えてる」
「生活魔法はね、ごく初級の簡単な魔法で、魔術師なら誰でも使えるよ。"きよら"、"そよぎ"、"ほむら"、"しずく"、"なだめて"」
急にぞろぞろと並んだ言葉に、ガルドが、ぐ、と顎を引いた。
脳が一瞬だけ学習を拒んだ。けれど、知った名前もいくつか。
「"なだめて"は、こないだ見たな。……"そよぎ"……は、乾かすやつか」
「うん、風が吹くよ」
「……"ほむら"っつのは?」
ふわ、と柔らかな微風を起こしていた手のひらを、ルシアンが緩く握った。
再び、ガルドに笑みが向けられる。――にこり。
「大体は名前の通りだよ。"きよら"は洗浄。"ほむら"は火種。"しずく"は水」
「ほぉ……」
「君も、汚れた服を宿の洗濯に出したりするだろう?」
わずかに首を傾げたルシアンに、ガルドも同じ角度で首を傾げる。
……する。泥や汗で汚れた服も、ベッドのシーツも。……もちろん宿の価格帯によるが、ルシアンが選ぶ宿は全て"洗濯"付きの宿だ。
「ああ……出すな」
「あれもね、宿についている生活魔術師が綺麗にしてくれているんだよ。"きよら"や"しずく"、"そよぎ"を使って」
「……はぁ……」
ガルドの口から、シンプルに、感嘆のため息が出てしまう。
なるほど、自分が知らなかっただけで、"生活魔法"は意外と近くにあったらしかった。
眉間に皺を寄せるガルドを見て、小さくルシアンが笑う。聞いてくれて嬉しい、そんな顔だった。
「鍛冶屋さんに行くのに、支度をしてくるね」
食事が済み、食器を端に寄せ、ルシアンが席を立った。ガルドも頷く。
椅子が軽く鳴る音。淡い外套が揺れ、テーブルの端に触れる。
食堂の卓の合間を縫って、二階の階段へと向かう後ろ姿。それを確認してから、ガルドも自分の食器を手早く寄せた。
今日は鍛冶屋に行って、時間があれば、昨夜ギルドに持っていったゴロツメ素材の査定結果を受け取りに行って。
あとは依頼掲示板でも覗いてみて――。
そんなことを考える中、テーブルに残された水のグラスに目が行った。底にほんのわずかに溜まった、"しずく"。
……透明で、どこか、澄んだ気配のある水。
魔術師なら、誰でも使えるってか、と……グラスを手に取ってそれを掲げる。――あれは、あの男は、不必要に魔法を使わない奴だ。
よって、それをこうして見せる相手は、……限られている気がした。
グラスを鼻先にもっていく。魔力の水に匂いはない。つい、とそのまま傾け、唇にひやりと水が――。
……。……、……これ、アイツのグラ、ス……。
びく、と指先が跳ねたりは、しなかった。水を口に含むことも、なかった。
ただ静かに、何事もなかったかのように、……コトリと、グラスを卓に戻す。
――まぁ……。
……便利なもんだな、生活魔法ってのは。
そう、思考のすり替えをして、……ガルドは静かに、食堂を後にした。
ひとまず、街着の上に、大剣と外套を背負って……ガルドは、自室の前で待っていたルシアンと合流をした。
互いに頷いて、宿の階段を降りる。そのまま街へ出て、通りを北側に。
この街の職人通りは、東門と北門の間に位置している。
鍛冶屋、革工房、仕立て屋や武器屋など、そのほとんどがこの区画にあり、朝から活気にあふれ、商人や職人、冒険者がひっきりなしに往来していた。
「んで、何買うんだ」
通りを歩きながら、ガルドが隣の淡紫にそんな声をかける。
赤い視線は立ち並ぶ工房をじっと見やっている。飛び散る火花、鉄と汗の混ざった空気。警戒――というよりは、見極めや選別のような眼差しだった。
「うん、防具をね」
明るい口調でそんな答えが返ってきて、ガルドの視線がそちらへ向いた。――眉間に皺。
歩みは崩れないが、一瞬だけ返答が送れた。
「……防具ってお前……」
そりゃあ……と、言葉は続かない。魔術師が言う"防具"なんて、今のガルドにはひとつしか思い浮かばない。
職人たちの間をすり抜けながら、さりげなくルシアンとの距離を詰める。
それでも、ルシアンは涼しい顔で歩いていた。周囲を楽しげに見回し、まるで散策にでも来たかのよう。
「……ドワーフだったら却下だ」
「ええ……?」
誰に向けたかもわからぬ呟きは、ルシアンの笑みと、金床の音にかき消されていった。
――【ひとしずく、未満】




