第一章6 祭りの日、来たる。
早朝――
ユノは、外のざわめきにうっすらと目を開けた。
窓の向こうから、人々の声がいつもよりわずかに高く聞こえる。
木箱を置く乾いた音、遠くで弾ける町の人の笑い声――
まだ、朝の冷えが残る部屋に祭りの日特有の“熱”が薄く漂いはじめていた。
「……んん…はぁ……あぁ……祭りか……」
寝ぼけた意識のまま呟いた時、戸を軽く叩く音がした。
「ユノ、起きてる?」
聞き慣れた声だった。
「……今、起きた」
少し間を置いてそう返すと、戸の向こうで気配が止まった。
「入っていい?」
「……うん」
戸が静かに開く。
そこには、ルアナが部屋に顔をのぞかせ、それから一歩中へ入ってくる様子が見えた。
髪はまだ結びかけで、肩には作業用の布を掛けており、袖口には朝の作業の粉がわずかに残っていた。
「ちゃんと寝られたみたいでよかったわ」
ルアナはユノの顔を一度見て、そう言った。
声はいつもと同じ、落ち着いた調子だった。
「……まあ、うん。」
ユノは軽く目をこすりながら答える。
まだ体は完全に起ききっていない。
「お願いがあるんだけど、少し手伝ってもらってもいいかしら?」
「いいけど……何?」
そう言いながら、ユノはゆっくり布団から体を起こした。
「ちょっとこっちに来てほしいわ」
「わかった」
ユノは少しだけそのまま座り込んでいた。
それから重たい体を引きずるように、ようやく布団から立ち上がる。
二人は部屋を出て、奥の倉庫部屋にある方の廊下を進んだ。
ルアナが先に立ち、倉庫部屋の戸を開ける。
その先の一角には、箱や籠がいくつも積まれていた。
「これ」
ルアナは纏まった荷物を指さした。
「外に荷台を出してあるから、そこまで運んでほしいのよ」
布で覆われた瓶の入った箱。
紐で縛られた袋。
果物の入った籠。
そこには、祭りで出す加工食品と外国の果物がまとめて収められていた。
透明の瓶に詰まれた果蜜餡。
干し果実。
果汁に漬けた肉や野菜。
この辺では見ない海外の果物たち。
それらの数は思ったより多かった。
ユノは目を細め、積まれた荷物の高さを見上げる。
「…へ……こんなに?多くない?」
「ふふっ、商人って感じがするでしょ?アナタたちには言ってなかったけども、去年、大好評で予想をしていたより売れてしまってね、完売しちゃったのよ。だから、今年は多めにね?仕入れるの大変だったわよ」
ルアナは口元をわずかに緩め、軽く袖を整えた。
「あ、そうそう。荷物なんだけど、重い箱は下。その次は、籠類。1番上は、袋でまとめた荷物ね。袋の荷物は上に重ねると安定するからね」
ユノは一番近い箱に手をかけ、持ち上げる。
持ち上げた瞬間、箱がわずかに軋んだ。
「……重っ!」
「でしょ?これルイには任せられないと思って、ユノにお願いしたのよ」
ルアナはくすりと笑ってから、箱の並びへ視線を流した。
「キッチンにも荷物があるから、私はそっちをまとめてくるわ。キッチンもそれなりに荷物あるから。
ここはユノに任せるわ」
そう言って、戸の方へ向き直る。
「…ぅ……わかった。頑張るよ」
ユノは、持っている箱を持ち直した。
軋む床を抜けて、玄関抜け扉を押し開けると、朝の空気がそのまま流れ込んできた。
一歩外へ出て、家の前に据えられた荷台へ向かい、荷物を下ろす。
箱を下ろしたその時、通りの向こうから、人の声と荷車の音が重なって聞こえてくる。
「……みんなも朝から忙しそうだな」
通りのざわめきが朝の空気と一緒に流れ込み、祭りの気配がユノの肌に触れた。
ユノは荷台に箱を積み、また倉庫の方へ戻り、次の箱に手をかける。
それを何度か繰り返すうち、背中にうっすらと熱がこもっていた。
ユノが最後の箱を荷台に乗せると、家の戸が開き、そこにはルアナの姿が見えた。
ルアナは、箱の並びを一度見たあと、小さくうなずき、そのまま荷台の方へ歩いてきた。
「助かったわ、ユノ」
ルアナは荷台の紐を軽く引く。
箱が動かないのを確かめると、視線をユノに戻す。
「うん!よしよし。これで、大丈夫わね」
それから戸の方へ向き直る。
「朝ごはん用意するから、ルイ起こしてきてくれるかしら?」
「……うん」
「ふふっ、すぐにできると思うわ」
そう言って、ルアナは家の中へ戻り、ユノも続けて家に入り、ルイの部屋へ向かった。
ルイの部屋の扉を開けると、朝の光が細く差し込む小さな部屋が見えた。
壁際には低い棚があり、その上には髪留めや小さな布袋がきちんと並べられている。
窓辺には薄い布のカーテンが下がり、揺れもないまま淡い明るさだけを部屋に落とし、干した布のやわらかな匂いに、眠りの残るぬくもりがかすかに混じっていた。
寝台の上で、ルイは布団にくるまるようにして眠っていた。
肩まで引き上げた布団の端を指先で軽くつかみ、頬を枕に預けたまま眠っている。
寝乱れた淡い金の髪が頬にかかり、眠っている時だけ、年相応の幼さがそのまま残っていた。
「ルイ、起きろ。朝だぞ。」
布団の中で、もぞ……と小さく揺れる。
続いて、眠気に引っ張られたままのくぐもった声が漏れた。
「……ん、……や……だぁ……」
まだ言葉になりきっていない。
声というより眠気に押された空気がそのまま漏れたような音。
それだけで、まだ起きていないことが分かる。
「相変わらず寝坊助だな。母さん、朝ごはん用意してるぞ。ほら、起きろ」
「……んん……」
反応は文句にも返事にもならず、ただ眠気の奥から押し出されたような小さな声。
数秒遅れて、布団の端がふわりと持ち上がる。
まぶたが重そうに持ち上がり、焦点の合っていない瞳がゆっくりこちらを向いた。
「……ぁ……ん……」
顔を出したルイは目が半分しか開いておらず、髪も跳ねたまま。
それでも、起き上がる動きは先ほどより素直だった。
「おはよう。リビングに母さんが待ってると思う」
「……わかった……」
声はまだ眠そうで小さいのに、足取りだけは兄の方へ向く。そんな“幼さの習慣”が滲んでいた。
二人でリビングへ向かうと、ルアナが準備した朝食が並んでいた。
焼きたてのパンからは香ばしい匂いが立ちのぼり、
香草の香りが強めのスープが湯気を揺らしていた。
祭りの日のせいか、いつもより彩りがあり、少しだけ華やかに見えた
テーブルのそばにはルアナの姿もあった。
ユノが椅子に座ると、ルイもとことこ歩いてきて、
まだ眠たげな顔のまま席に着いた。
「あら、ルイ。起きたのね。」
手には小さな瓶を持っていた。その中には、赤い果実の色を閉じ込めたようなトロりと艶のあるものが詰まっていた。
ルアナはそれをテーブルの中央に置く。
「今日祭りで出す果蜜餡よ。先行販売しちゃうわ。家族のと・っ・け・ん。わね!」
ルイの目が少しだけ開いた。
「……果蜜餡」
「パンに塗って食べるのよ。私の自信作だからおいしいわよ」
ルアナはそう言って、外套を肩に掛ける。
「あ、そろそろ行かなきゃ。ユノ。今日もルイをお願いね」
「わかった」
ルアナは小さくうなずき、玄関へ向かった。
扉を開けると、外の空気がふっと流れ込む。
通りの方から、人の声と荷車の音が重なって聞こえてきた。
ルアナは一度だけ振り返る。
「いってきますわね」
そう言い残し、外へ出る。
ぱたん、と扉が閉まった。
ざわめきだけが、少しの間残っていた。
リビングには、焼きたてのパンの匂いだけが静かに漂っている。
ルイはまだ少し眠たげな顔のまま、テーブルの上をぼんやり見ていた。
その視線が、ゆっくりパンへ落ちる。
小さな手が、そっと一つつまみ上げた。
パンを手に取った瞬間、むすっとしていた眉がほんのわずかにゆるむ。
「……おいしい……」
「だよな。母さんが焼いたパン、なんかいつもいい匂いするよな。」
ルイはこくりと小さく頷き、そのままパンへそっと歯を立てる。
一口目はまだ眠気の影が残っているような動きだった。
けれど二口目をかじったとき、眉のこわばりがふっとほどける。
その微かな変化を見て、ユノは胸の奥が少しゆるむのを感じた。
テーブルの中央には、小さなガラス瓶が置かれていた。
朝の光を受けて、赤い果実の果蜜餡がやわらかく透けている。果肉がところどころ残っていて、トロりとした艶がゆっくり揺れていた。
ルイの視線がそこに止まる。
まだ眠気の残る目で、瓶を少しだけ覗き込んだ。
ユノが瓶を軽く指で押して、ルイの方へ寄せる。
「それ、母さんがさっき出してくれてた果蜜餡だよ」
ルイは小さく頷き、パンを手に取る。
果蜜餡をそっとすくい、白いパンの上へ塗った。
赤い色がゆっくり広がる。
一口かじる。
「……あまい」
「俺も食べたいから真ん中に置いて」
ユノもパンをちぎりながら言う。
ルイは手元にあった果蜜餡の瓶を、テーブルの中央へ寄せた。
ルイはもう一口かじる。
「……おいしい。いっぱい売れそう」
小さく呟くと、ユノは肩をすくめた。
「だね。去年いっぱい売れたからって、母さんから聞いたよ。多分今年も売れると思うよ」
ルイは小さく頷き、テーブルのスープに手を伸ばした。
口元まで運び、湯気に少しだけ息を当てる。
スープをひと口飲んだ瞬間——
ルイの中に残っていた眠気の影が、ふっと薄れていった。
「……お兄ちゃん……そういえば。今日、いつ出るの……」
言葉は淡々としているのに、その声の奥に楽しみにしている気配が、かすかに滲んだ気がした。
「そうだな。カイルとの待ち合わせまで、まだ時間あるけど……ちょっと早めに家出ようか」
ルイはこくこくと頷いた。
言葉よりもその動きの方が、期待の色を明確に伝えていた。
そんなふうに祭り当日の朝は、静かで穏やかに始まった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
朝食を片づけ終えると、朝食を片づけ終えると、二人はそれぞれ出かける準備を整える。
「忘れ物ないよな……」
ユノはテーブルの端に置いた荷物を手に取り、中身を軽く確かめる。
忘れ物がないことを確認すると、ルイの様子を見に部屋へ向かった。
「ルイー? 支度終わった?」
扉を開けると、テーブルの上にはハンカチと小さな財布が出たままになっていた。
ユノは小さく息をつく。
「まだ終わってなかったのか。これ、鞄に入れておくね」
それらを拾い上げ、ルイの鞄の中へ入れる。
ルイは不機嫌そうに、触るなとでも言いたげな目でユノを見た。
ユノはそれを気にした様子もなく、ルイの前にしゃがみこんだ。
「ほら、前髪。まだ寝癖ついてるぞ。」
「……ん……」
ルイはむすっとした表情のまま、ユノの手が近づくと小さく肩がふわりと緩む。
拒否の気配はまるでなく、眠気の名残と照れが混ざった空気だけが表情の端に残っている。
ユノは指先で前髪をそっと整え、続いて肩紐のずれを直し、服の袖のボタンをひとつ留めてやる。
手元に集中しているユノの横顔は落ち着いていて、ときどきルイの髪の流れを確かめるように視線がわずかに動いた。
そのたび、ルイの頬の色がじわっと薄く変わる。
むすっとした顔を保っているのに、どこか落ち着かない。
「……お兄ちゃん、そこまでしなくていいのに……」
ユノは軽く手を離した。
「はいはい。祭りの日なんだから、ちゃんとして行こうな。」
軽く笑ったような声色だった。
叱るでもなく甘やかすでもなく、言い方は軽いのに、その声にはどこか安心させる調子が混ざっている。
ユノの手が離れたその瞬間、ルイの足先と肩の向きが、ほんのわずかに兄のほうへ傾いた。
「……もう……」
小さくこぼした声は、さっきまでのむすっとした調子よりずっと弱い。
視線はそらしたままなのに、頬に残っていた赤みだけが消えずにいた。
「よし、準備はできたし。外に出るか」
ルイに問いかける声は、いつも通りのゆるいものだった。
「……分かった」
そう答えながらも、ルイの足先がほんの少し先に動いた。
むすっとした顔のままなのに、動きだけがわずかに軽い。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
家を出ると、朝の光に照らされた通りにはすでに人の気配が広がっていた。
家々の戸が開き、声を掛け合う気配があちこちから聞こえてくる。
まだ祭りは始まっていない。
それでも村の空気は、どこか浮き足立っていた。
通りの先では、露店の布が揺れ、準備をする人の姿が見える。
焼いた肉の匂いや甘いソースの香りが、風に乗って、子どもたちの笑い声と共に流れてきた。
ルイの足が止まり、少し遅れて視線がユノへ向いた。
「お兄ちゃん。どこに向かうの?」
ユノは通りの先を見ながら、少しだけ考える。
祭り直前で、人の気配は増えているが、まだ本格的に始まる時間でもないし、集合時間よりも早かった。
「んー……」
頭をかきながら、小さく息を吐く。
通りの向こう、屋根の合間から見える空の端に、淡く広がる枝の影が揺れていた。
「そうだな……世界樹のところ行くか」
ルイが首を傾ける。
「……世界樹?なんで?」
「特別な理由はないけど...時間的にちょうどいい時間つぶしになると思ってさ。散歩がてら、国のシンボル(世界樹)を見に行くぐらい見に行ってもいいじゃないかな?」
ルイは少し考えるように目を細め、それから小さくうなずいた。
「……うん」
ユノはその様子を見て、軽く肩の力を抜く。
通りの先、屋根の向こうに揺れる世界樹の枝へ、もう一度だけ目をやった。
「よし、行こうか。」
二人は町の外れにある向かう世界樹につながる道へ足を向ける。
祭りの準備をする声が背後で重なり、通りの賑わいはゆっくりと遠ざかっていく。
家々の屋根の間を抜けるたび、遠くに世界樹の枝がちらりと見え隠れした。
村の端へ出る頃には、朝の匂いが少し変わる。
土の湿った匂いと、草を揺らす風の気配。
やがて道がゆるく開け、草原が広がった。
その先で、空を支えるように世界樹の枝が大きく広がっていた。
根元の草は朝露で淡く光り、 すぐそばでは、小川が変わらない調子で湿った空気が朝の匂いを運んでいた。
二人はそのまま歩き、世界樹へとたどり着く。
世界樹の枝の間から朝の光がゆっくりと落ち、草原を渡る風がゆるく世界樹の枝先にある葉を鳴らす。
世界樹の太い根が地面を広く覆うその先に、ひとつ人影が立っていた。
それを視界に入ったユノは、歩みを少しだけ緩める。
枝が揺れ、草が風に流れてもその影だけは動かない。
「あれ……?」
ユノの口から小さく声が漏れる。
ルイの視線もその人影へ向く。
太い幹のそばに、茶の髪に赤い筋を混ぜた背の高い男が立っていた。
その瞬間、風が一度抜け、葉が激しく鳴る。
その音の中で、男の肩がわずかに動き、ゆっくりと顔がこちらへ向いた。
口元がわずかに緩み、喉の奥から低い笑いがこぼれた。
「・・・・ん?あ、ユノとルイちゃんじゃねぇか。がっははははは!おはよう、まさか朝からここで会えるとは想定外だ」
その声は、世界樹の下の静かな空気の中でやけに自然に響いていた。
ルオエンの声を聞いた瞬間、ユノの胸の奥に昨日のことがふっとよぎった。
自分に何が足りないのかも、どうすればこのもやもやが晴れるのか、まだはっきりしない。けれど、目の前のルオエンを見ていると、その曖昧さだけが静かに浮かび上がってくる。
ユノは小さく息をつき、その揺れを胸の奥へ押し戻すように口を開いた。
「おはようございます。ルオエンさん」
ルオエンは空を見上げるように顎を少し上げる。
「今日は、ずいぶん天気がいいな。まるで絵に描いた祭日の天気だな、ユノ」
ユノもつられて空を見上げる。
枝の隙間に高い雲が流れ、葉の間からこぼれる光が細かく揺れていた。
そのまま空を見上げたまま、ユノの口元に小さく笑みが浮かぶ。
肩の力が少し抜け、呼吸がゆるく整った。
「はい、本当に天気がいいです。祭りの日なんで、朝から天気が良くてよかったです。」
ルオエンは小さく頷き、腕を組み直す。
「おう、そうだよな。年に一度の祭りの日だ。雨なんぞ降ったら、たまらんよな。無事晴れてよかったな。にしても本当にいい天気だよ。今年の祭りも盛り上がるな」
ルイは黙ったまま空を見ていた。
枝の先を追うように視線がゆっくり動き、葉の揺れをしばらく眺めている。
風がもう一度、草原を渡る。
世界樹の枝が鳴り、葉の影が三人の足元でゆっくりと揺れていた。
ユノは世界樹の幹のそばに立つルオエンを見上げ、少しだけ首を傾けた。
「ルオエンさんは、なんでここにいるんですか?」
風が枝を鳴らす中、その問いを受けて、ルオエンは空を見ていた視線を幹へ落とし、世界樹の幹へ軽く手を添えた。
「……まぁ、こいつは、国のシンボル様だからな。一応、ここらも含め、不審なことが起きてねぇか……見に来たってところだ。まぁ、あとは、ちょっとした休息も兼ねてる。こんなに晴れているんだ。これから忙しくなりそうだからこうしている」
世界樹の下の空気は変わらない。
小川の音が遠くで続き、湿った風が草の匂いを運んでいた。
ユノが小さくうなずく。
「見回り、ってことですか」
ルオエンは頭の後ろを軽くかき、視線を少しだけ外した。
「まぁ、そんなところだな。防衛団総出で、町ん中も町の周りも警備が回ってる。今年の祭りは、ちっとばかし外から来る連中が少し増えるみてぇだ。旅人だの、商人だの、観光ついでに寄るやつだの」
そこで言葉を切り、ルオエンの視線がユノとルイへ順に向く。
「変な奴に目ぇつけられるなよってこった」
ルオエンは表情を変えないまま言った。
ユノはまっすぐその言葉を受け取る。
ルイも黙ったまま、わずかに顎を引く。
ルオエンはそれを見て、口元を少し緩めた。
「まぁ何かあったら、近くに防衛団のメンツもいるだろう。困ったときはそのへんのやつに声かけろよ」
「わかりました。まぁ、何もないと思いますが、気を付けるようにはします」
ユノの返事は素直に落ちる。
その横で、ルイも小さく口を開いた。
「……うん」
風が通る。
葉の影がまた細かく揺れ、三人の足元を静かに横切っていった。
ルオエンはそのまま幹から手を離し、今度は少しだけ首を傾けた。
「んで、お前らは、こんな朝っぱらからここに来てんだ? 祭り前にわざわざここまで歩いてくるってのも、何か理由あってことか?」
ユノは一度だけ頭の後ろをかいた。
通りの賑わいから離れてきた道の方を、少しだけ振り返る。
「いや……その……ただの暇つぶしで……まだ集合まで時間があったんで、散歩がてらここの世界樹を拝めようとしましてですね」
「はっはは、今日は、一応”世界樹が誕生したと言われている日”だもんな。こんな朝っぱらから子供二人でわざわざ足を運んで来るとはな。んでその集合する件は、カイルか?」
「はい、そうです。この後カイルと合流する予定です。まぁ、具体的にどの出店に行くとかそういった予定は決まってませんが」
ルオエンの眉が、ほんのわずかに上がる。
次の瞬間、喉の奥から低い笑いがこぼれた。
「がっはははは!そうかそうか。めぇいっぱい楽しんで来い!にしても、子供二人でここにくるとはなァ。祭りが始まるまで家におとなしく待つなり、町の中にいりゃよかったんじゃないか?」
ルイの視線がすっとルオエンへ向く。
口元がわずかに尖り、そのまま小さく黙り込んだ。
拗ねたような、幼い棘だけがそこに残った。
その空気に、ルオエンの眉がわずかに動く。
喉の奥で笑いかけたまま、少しだけ間が空いた。
「……おいおい、俺ぁなんか悪ぃこと言ったか?」
少しだけ戸惑いが混じった声だった。
ルイは視線を横へ逃がし、唇だけが小さく動く。
「……知らない」
短く落ちた声は、そっけなく、わずかに尖った空気だけが残っていた。
ルオエンは、頭をかき、逃がすように視線をユノへ向ける。
「ま、まあいいや。お前ら、時間は大丈夫なのか?」
ユノはその空気を受け取りながら、小さく笑う。
頭の後ろを軽くかき、来た道の方へ目を向けた。
「はい。長くいるつもりでもなかったので、そろそろ集合場所に向かいます」
そのまま世界樹の幹から手を離し、村の方へ視線を向けた。葉の隙間から落ちる朝の光が、肩や腕の輪郭をゆるくなぞる。
「おうよ。そろそろ祭りも開幕の時間だ。俺も町に戻んねぇと。その前に、もう少し巡回するところあるからいそがねぇと」
さっきより少しだけルオエン声の調子が落ち着いていた。
世界樹の下にあった静けさが、そのまま一度途切れる。
ルオエンは口元をわずかに動かした。
「タイミングがいいし、出発するとするか」
ユノはその言葉に素直にうなずく。
「はい」
ルイは黙ったまま、そのやり取りを横で見ていた。
不機嫌の名残みたいなものはまだ少しだけ口元に残っていたが、もう言葉にするほどではないらしい。世界樹の根元をひとつ見てから、ユノの歩き出す気配に合わせて足を向けた。
少し歩いた先に、道が左右に分かれている場所があった。
ルオエンは巡回の続きへ向かい、ユノとルイは町へ戻る道を歩き出す。背後では、世界樹の枝が風に鳴っていた。
草の匂いが少しずつ遠のき、代わりに人の気配が近づいてくる。
家々の屋根が見え始め、通りへ近づくにつれて、準備の声や荷を運ぶ音が重なっていった。
その先から、祭りの匂いがふわりと流れてくる。
町がもうすぐ祭りに変わるのだとわかる匂いだった。
その瞬間、ルイの指がそっとユノの袖をつまんだ。
引くでもなく、しがみつくでもなく――
祭りが近づいた空気に、わずかに浮き足立つような幼い距離だけが、そこにあった。
「集合場所、噴水……だよね……?」
ルイの視線が、人の流れの方へそっと向く。
露店の布が揺れ、朝の光が店先のガラスに淡く跳ねていた。
焼けた肉の匂いが風と混ざり、人々の話し声が低く重なる。
「うん。街の中心の噴水のところで集合することになってるね」
「……うん。」
返事は小さいのに、歩き出した足取りだけ朝よりずっと軽い。
むすっとした顔は変わらないのに、横顔の空気はどこか弾んでいて、
ユノは前を向いたまま、その変化に気づいたように息がほんの少しだけゆるんだ。
祭りの飾り布が頭上で揺れ、色の影が二人の足元に細く落ちる。
その影の中をルイは兄の歩く速さに自然と合わせるように進み、視線だけが静かに左右へ移って、飾りや露店をなぞるように流れていった。
祭りの空気に少しずつ染まっていくように、二人はゆっくりと噴水の方へ歩いていった。




