第8章 小国
ダニエル・オルヴィスが故郷エルティア共和国を愛していた理由は、国旗でも国歌でもなかった。
中央駅の時計が、いつも3分遅れていること。
駅前のパン屋が、閉店間際になると商品を半額にすること。
妹のアリナが、パンの端に付いた焦げ目を嫌がること。
母が冬になると、必ず同じ赤いマフラーを巻くこと。
ダニエルが愛していたのは、そういうものだった。
22歳の彼は、電気機器の修理工だった。
古いラジオを直すのが得意だった。
故障の原因がわからないときは、昼食を忘れて作業を続けた。
母には、いつも叱られた。
「ご飯くらい食べなさい」
「あと5分」
「あなたの5分は、1時間あるんだから」
アリナは笑った。
エルティア共和国は、小さな国だった。
国境の向こうには、巨大なヴァルド連邦があった。
昔から両国の関係は悪かったが、ダニエルにとって国際政治は遠い話だった。
彼は、ラジオを直して生きていければ、それでよかった。
しかし、ある冬の朝、ヴァルド連邦軍が国境を越えた。
大国による、一方的な侵略だった。
エルティアの支援国は、軍事介入の準備を始めた。ヴァルドの同盟国も動員を発表した。
中央駅の待合室では、世界大戦という言葉が、1日中テレビから流れていた。
ダニエルにとっては、国境を越えてきた戦車だけで、すでに十分すぎた。
エルティア政府は総動員を宣言した。
徴兵対象は、男性だけだった。
ダニエルは召集令状を受け取った。
「なんで男だけなんだよ」
台所で、彼は呟いた。
母は答えなかった。
アリナが尋ねた。
「お兄ちゃん、戦争に行くの?」
ダニエルは妹の頭を撫でた。
「すぐ帰ってくるよ」
自分でも、信じていなかった。
軍では、銃の扱い方を教えられた。
ダニエルは銃が嫌いだった。
だが、自分の町が占領されるのも嫌だった。
侵略されたのはエルティアだった。
国境を越えたのはヴァルドだった。
この戦争で、悪いのはどちらか。
少なくとも、その点だけは、ダニエルには明白だった。
1か月後、前線の陣地にいる彼のもとへ、見慣れない制服の兵士たちが現れた。
敵国の兵士ではなかった。
腕章に、青い鎖の断片が描かれていた。
男性解放軍。
彼らは、ダニエルたちに武器を置くよう命じた。
陣地は、すでにヴァルド軍との連絡路の奪い合いで孤立していた。
解放軍の兵士たちは、投降すればヴァルドの兵員にはされず、別の収容先へ移すと告げた。
ダニエルのそばで、誰かが銃を置いた。
抵抗は短かった。
解放軍はエルティア軍の兵士たちを捕虜にした。
ダニエルは不思議に思った。
「ヴァルドの軍じゃないのか」
若い解放軍兵士が答えた。
「違う」
「じゃあ、どうして俺たちを捕まえる」
「助けるためだ」
ダニエルには、意味がわからなかった。
「俺たちは、侵略されてるんだぞ」
兵士は答えた。
「知っている」
「俺たちが戦わなきゃ、国がなくなる」
「君が戦わなければ、君は死なずに済む」
その言い方が、あまりにも穏やかだった。
ダニエルは初めて、目の前の兵士を殴りたいと思った。




