第三十話 北の森の兄妹
北の森の空気は、村の周辺とは明らかに違っていた。
一歩踏み込むごとに魔素の濃度が増す。全員が闇属性を持つ黒猫族であっても、容易に突き進める場所ではない。肺の奥が重く沈むような感覚があった。
村の外れにあった獣道は、すでにどこにも残っていない。
北へ進むほど木々は天を隠すほどに太くなり、幾重にも重なり合った枝葉が空を覆っていた。昼間であるはずなのに、森の中は薄暗い。
湿った土。
腐葉土の匂い。
見たこともない色の苔。
複雑に絡み合った太い根が地面を這い、歩く者の足を掬おうとする。足元では小さな虫が這い、ところどころに時おり青白く光るキノコが生えていた。
村の近くの森とは、まるで別の場所だった。
「兄さん、右」
タムの声が飛ぶ。
タオは反射的に身をひねった。
次の瞬間、茂みの奥から飛び出してきた灰色の影が、彼のいた場所を鋭い爪で薙いだ。
狼に似た魔獣だった。
だが普通の狼よりも一回り大きく、背中には骨のように硬い突起が並んでいる。赤く濁った目を光らせ、低い唸り声を上げていた。
骨背狼。
村の近くでも、稀に見かける魔獣だ。
単独なら、タオにとって恐れる相手ではない。
「下がっていろ」
タオは妹へ言うと、剣を抜いた。
骨背狼が地面を蹴る。
真っ直ぐに飛びかかってくる骨背狼を、タオは半歩だけ身を引いてかわした。獣の爪が革の防具を掠める。
次の瞬間には、剣が振り抜かれていた。
銀色の刃が、魔獣の首筋を深く裂く。
骨背狼は数歩よろめき、血を撒き散らしながら倒れた。
タオはすぐに剣を構え直し、周囲を見回す。
仲間はいない。
気配が消えたことを確かめてから、ようやく剣を鞘へ納めた。
「怪我は?」
「ない」
「服、少し切れてる」
「掠っただけだ」
タムは心配そうに近寄ったが、タオの言葉を聞くと、少しだけ息を吐いた。
北の森に入ってから、魔獣に襲われるのはこれで四度目だった。
最初に現れたのは、巨大な牙を持つ猿型の魔獣だった。木の上から襲いかかってきたそれを、タオは矢で牽制し、近づいてきたところを剣で仕留めた。
次に出会ったのは、土の中から飛び出してきた蛇型の魔獣。
そして、群れで現れた小型の獣。
どれも村の周辺では危険とされる魔獣だったが、タオは一歩も引かなかった。
剣を振るう姿は迷いがなく、相手の動きをよく見ていた。
黒猫族の中でも、彼は強い。
冒険者として登録したなら、少なくともCランクには届く。相手や状況によっては、Bランクの魔獣とも戦えるだろう。
だが、北の森は広い。
強いからといって、安全ではない。
「タム。採れそうなものはあったか」
「うん。少し待って」
タムは、さきほどから気になっていた木の根元へ近づいた。
そこには、濃い緑色の葉を広げた草が群生していた。葉の表面には白い筋が走り、朝露のような雫がいくつも残っている。
タムはしゃがみ込み、葉の形と茎の色、根元の香りを慎重に確かめた。
「……青雫草」
「使えるのか」
「熱を下げる薬になる。村の近くで採れるものより、葉が厚い。魔力が濃い場所で育ったんだと思う」
タムの声が少し弾んだ。
恐ろしい森の中で、それでも彼女の知識と興味を引くものは多かった。
タオが周囲を警戒している間に、タムは必要な量だけを採取する。根を傷つけないように葉を摘み、群生地のすべてを採り尽くすことはしない。
薬草を布で包み、採取袋へ入れると、手書きの地図を取り出した。
村を出る前に、シルと一緒に書いた簡素な地図だ。
曲がった川。
大きな岩。
目印になる木。
そして、歩いた道を記しながら、採取した薬草の場所にも印をつけていく。
「ここに青雫草。少し先には、月露草もあった」
「帰りに寄れそうか」
「うん。この大きな根のある場所を覚えておけば大丈夫」
タムは地図に小さな印を書き込んだ。
兄は剣で村を守る。
自分は薬草で村を守る。
まだ小さかった頃には分からなかった役目が、今は少しずつ形になっている気がした。
その後も二人は北へ進んだ。
途中で、タムは痛み止めに使える赤葉草を見つけた。
傷の治りを早める銀糸苔もあった。
毒消しに使える苦味草は、村の周辺で見かけるものよりも香りが強く、葉の色も深かった。
「これなら、シルも喜ぶと思う」
タムは採取袋を抱え、嬉しそうに言った。
「星霜花は、まだ見つからないけど」
「見つける」
タオは短く答えた。
その声に迷いはなかった。
絶対に見つける。
母を助けるために。
村へ持ち帰るために。
森へ足を踏み入れてから六刻ほどが過ぎた頃、二人は大きな岩陰で休むことにした。若い獣人である二人の足は速く、すでに世界樹までの想定距離である百リルの八割ほどを進んでいた。
岩の周囲には背の低い木々があり、少しだけ見通しがいい。タオはまず周囲を一周し、魔獣の気配がないことを確かめた。
その後で、背嚢を下ろす。
「少しだけ休もう」
「うん」
二人は乾いたパンと干し肉を分け、水袋の水を少しずつ飲んだ。
森の水は豊富そうに見えたが、どこに毒や病があるか分からない。持ってきた水は貴重だった。
「兄さん、腕を見せて」
「大したことない」
「見せて」
有無を言わせない声だった。
タオは少しだけ困ったように笑い、左腕を差し出した。
骨背狼の爪が掠った部分に、小さな切り傷ができている。そのほかにも、枝で擦った傷や、最初の戦いでできた打撲があった。
タムは水で傷の周りを拭き、持ってきた軟膏を塗った。
「沁みるかも」
「平気だ」
「本当に?」
「平気」
少ししてから、タオは付け加えた。
「……ありがとう」
タムの手が止まった。
「急にどうしたの」
「いや」
タオは視線を逸らした。
「昔のお前は、転んだだけで泣いていたから」
「それ、今言う?」
「泣き虫だった」
「兄さんだって、昔は虫を見て逃げたことある」
「それは違う。毒虫だった」
「ただの毛虫だったよ」
タムが少し笑った。
森へ入ってから、初めてだったかもしれない。
タオも、わずかに口元を緩めた。
小さな妹だったタムが、今は自分の傷を手当てしている。
危険な森の中でも、薬草を見つければ目を輝かせ、迷わず採取し、地図に場所を記している。
誇らしかった。
そして、嬉しかった。
守るべき存在であることは変わらない。
けれど、ただ守られるだけの妹ではない。
「休んだら、もう少し北へ行く」
タオは立ち上がった。
「無理そうなら戻ろう。日が落ちる前に、休める場所も探さないといけない」
「分かってる」
タムも頷く。
「でも、星霜花は見つけたい」
「ああ」
二人は荷物を背負い直し、再び森の中へ進んだ。




