第三十一話 毒針の隙
北の森中層部に位置する薬草園。世界樹に近いこの場所は濃厚な魔素に満ち、青雫草や月露草といった希少な薬草が淡い燐光を放っていた。
レインは刈り取った薬草の下処理を終え、籠へと整然と収めた。
「収穫量は十分だな。前日の降雨による魔素の循環が、成長を促したようだ」
「うむ。状態も極めて良好じゃな」
エルシアが銀髪を払いつつ薬草の出来を確かめると、レインの右耳からエルバの澄んだ声が響く。
《エルシア、保管棚の空き容量および乾燥網の整備は完了しています。受け入れ態勢に問題ありません》
「重宝する。感謝するぞ、エルバ」
籠を抱え直したレインは、森の奥へと視線を向けた。
「エルシア、帰路の途中で昨日見かけた倒木へ立ち寄ることを提案したい。食用と思われる菌類を確認したため、安全性の判断を仰ぎたいのだ」
「菌類か。中層部の外れなら遠くはないが……わらわから離れるでないぞ」
「了解した」
二人は木々の根が複雑に隆起する樹林へと歩を進めた。倒木に群生する白いキノコを指差し、レインが問う。
「この個体は可食か?」
「それは駄目じゃ。魔獣が縄張りを示す分泌物の影響を受け、人に有害な毒素を帯びておる」
「外見のみでの判別は困難だな。生息環境の要因も考慮せねばならんか」
《映像と一緒に記録しておきます》
『よろしく頼む』
「当たり前じゃ。だから勝手に口にするなと言うておる」
エルシアが苦笑を浮かべた、その時だった。
――キィィン!
静寂を裂き、甲高い金属打撃音が木霊した。次いで地響きのような低い唸りが届く。
《音響解析――高密度の硬質外殻と金属製薄刃の衝突音を検知。前方約百二十メルにて、物理攻撃を伴う交戦が行われている可能性は九十八パーセントです》
「魔獣同士の衝突ではないな。刃物が使われている」
エルシアの表情が険しくなる。森の外では彼女は「禁忌の魔女」と恐れられ、出会った者は恐怖で逃げ出すのが常だった。中層部まで踏み込む侵入者など、警戒すべき対象でしかない。
「人間か?」
「おそらくはな。だが、近づくべきではない。北の森へ踏み込む者が善良とは限らん。魔女と見なされ攻撃される危険もある」
「切迫した交戦音だ。負傷者が生じている可能性が高い」
レインは冷静に音の方向を見据え、順を追って進言した。
「視認可能な位置まで接近し、事実を確認したい。介入の可否はエルシアの判断に委ねる。だが、状況を観測もせずに立ち去るのは合理的ではない」
理路整然とした弟子の眼差しに、エルシアは小さく息を吐いた。
「……離れるでないぞ。エルバ、周囲の索敵を」
《了解。索敵範囲を拡大します》
低木を遮蔽物に慎重に接近すると、樹間に激闘の光景が広がった。
漆黒の耳と尾を持つ若い黒猫族の剣士が、一体の巨大な魔獣と対峙していた。人間の胴ほどもある黒い甲殻、八本の歩脚、凶悪な鋏。そして背後から反り返る太い尾の先端には、紫黒色に濡れる毒針が光る。
「キラースコーピオン……猛毒の魔獣じゃ」
エルシアが低く呟く。青年の剣技は鋭く、関節の隙間を的確に突いているが、度重なる攻撃で疲労は色濃く、肩や腕から血を流していた。
『エルバ、右眼の焦点を望遠モードへ移行してくれ。さらに奥の座標を確認したい』
《視覚補助を展開します》
レインが左目を細めると、大木の根元に横たわる黒い影が鮮明に引き寄せられた。
「大木の根元に、小柄な黒猫族の少女が倒れている。呼吸促迫、多量の発汗、腕および頸部に顕著な赤い斑点を確認した。起立を試みているが筋力低下が著しい」
「赤い斑点じゃと……? 毒や疲労によるものだけではないかもしれん」
エルシアの眉根が寄る。青年は少女を背後に庇い、退路を塞がれた状態で戦っていた。
「エルシア、介入は――」
「まだじゃ」
エルシアは即座に制止した。
「あの毒をまともに注ぎ込まれれば、命はない。不用意に乱入すれば巻き込まれ、共倒れになる。……エルバ、奴の尾の付け根にある毒嚢を走査できるか?」
《走査完了。毒嚢器官に高濃度の毒液が流入中。キラースコーピオンは尾を掲げ威嚇姿勢をとっていますが、毒嚢への充填プロセス中は全身硬直が発生します。硬直時間は約十秒です》
「毒を満たす間は、完全に動きが止まるのか。……青年が尾の攻撃を回避し、次の再充填の隙を突くことができれば、勝機はある」
エルシアは杖を握りしめ、レインの肩に手を置いた。
「ここで待て。あの黒猫はまだ戦える。次に毒を満たす隙を狙うはずじゃ。もしあやつが動けぬようなら、その時はわらわが仕留める」
「わかった」
広場では、青年の息が限界まで乱れていた。
唸りを上げて振り下ろされた尾の毒針を、青年は間一髪で側方へ跳躍して躱す。地面に深々と突き刺さった針から毒液が流れ込み、抜けたあとの土が腐食して黒く変色した。
《毒の排出を確認。現在、毒嚢は空です》
「兄さん……っ」
「大丈夫だ、絶対に守る!」
青年――タオは叫び、直後の巨大な鋏の殴打を剣の腹で受け止めた。骨を軋ませる衝撃に耐えかね、受け流しながら横腹へと回り込む。
甲殻の薄い脚の付け根へ刃を突き立てた瞬間、死角から尾が跳ね上がった。
不可避の軌道。タオはとっさに左腕の革防具を盾にした。
ギャリと嫌な音が響き、毒針が浅く腕を裂く。針に残っていたわずかな毒のせいか、傷口に激しい熱感が広がったが、タオは怯まず剣を深く押し込んだ。
黒い体液を撒き散らし、魔獣が狂乱して暴れる。払い落とされたタオは地面を転がったが、剣だけは手放さなかった。
キラースコーピオンが仕留めんと尾を高く掲げ、威嚇の姿勢をとる。
《対象、毒嚢への再充填を開始。――十秒間の全身硬直に移行しました》
エルバの冷徹な報告がエルシアとレインに響く。
自然と二人とも全身に力が入っていた。
タオもまた、これまでの攻防から魔獣が尾を掲げた直後に硬直することに気づいていた。
罠かもしれない。だが、体力の限界を迎えた今、選択肢は残されていなかった。
「うおおおおっ!」
血を吐くような咆哮とともにタオが地を蹴る。
掲げられたまま静止した毒針の下を掻い潜り、魔獣の頭部、装甲の継ぎ目へ全体重を乗せた刃を一気に突き立てた。
甲殻を破る鈍い破壊音が森に響く。
キラースコーピオンの巨体が痙攣し、鋏が力なく垂れ下がった。尾が数度地面を叩いた後、巨躯がどさりと崩れ落ち、動かなくなった。
訪れる完全な静寂。
タオは震える手で剣を引き抜き、荒い息を吐きながらタムの元へと足を引きずった。
その背後から、茂みを分けて静かに近づいてくる二人分の足音が響いた。




