第二十八話 広がる病魔と魔女の森
テルマが倒れた翌日になっても、熱は一向に下がらなかった。
シルが煎じる薬草湯を飲ませると、ほんの少しの間だけ荒い呼吸が落ち着く。だが、しばらくすればまた激しい熱にうなされ、苦痛に顔を歪める。
そして何より恐ろしいことに、腕や首、胸に浮かんでいたあの不気味な赤い斑点は、ゆっくりと、しかし確実にその数を増やし続けていた。
かつて村の誰よりも早く剣を握り、誰よりも遅くまで周囲の見回りをしていた屈強な女戦士が、今では一人で寝床から起き上がることさえできない。
うつるから近づくなという母の制止を振り切り、タオは口元を布で覆って寝床の横に座り込み、水で濡らした布を母の額に当てた。
だが、その布もテルマの放つ尋常ならざる高熱によって、瞬く間にぬるくなってしまう。
「……そんな顔をするな、タオ」
目を閉じたまま、かすれた声でテルマが言った。
「母さん。起きていたのか」
「お前がずっと傍らにいて、一睡もしていないことくらい……気配で分かる」
声は弱々しく、息を吸うたびに胸がかすかに喘いでいる。
けれど、その口調には、かつて幾多の魔獣を退けてきた戦士としての芯がまだ残っていた。
「大丈夫だ。少し深く眠れば、すぐに治る……」
「嘘だ」
タオは即座に、鋭く否定した。
テルマはそれには何も返さず、ただ浅い呼吸を繰り返すだけだった。
その沈黙が、タオの胸を余計に締め付け、恐怖を煽った。
タオの父親であるタンジは、かつて村一番の戦士だった。
タオがまだ幼い頃、以前暮らしていた村が大勢の白猫族に襲撃された際、タンジは仲間や逃げ遅れた子供たちを守るために殿を務め、命を落とした。
父の死後、まだ幼かったタオと、さらに幼いタムを一人で養うため、テルマは女戦士として最前線に立ち続けたのだ。
雨の日も、凍える雪の日も森へ分け入り、獲物を狩り、迫り来る魔獣を退けた。
黒猫族特有のしなやかな身のこなしと鋭い太刀筋で戦い続け、腕に傷が増え、左の頬に深い爪痕が残っても、母は幼い兄妹の前で一度として弱音を吐かなかった。
その誇り高き母が、今は得体の知れない病に侵され、身動きすら取れずにいる。
タオの胸の奥には、焦りとやり場のない怒りが黒い渦を巻いていた。
この病は山に潜む自然の疫病なのか、それとも牙猪に施されていた何者かの呪いなのか、何も分からない。
怒りをぶつけるべき相手の姿すら見えない無力感が、重く心を蝕んでいた。
そして異変は、テルマ一人では終わらなかった。
その日の午後には、牙猪の死骸を運ぶ作業に参加していた壮年の男が高熱を出して倒れた。
さらに翌日には、裏山で深い穴を掘っていた女が激しい悪寒を訴えた。
続いて、死骸を縄で引いていた若い戦士の腕にも、テルマとまったく同じ禍々しい赤い斑点が浮かび上がった。
発症者は、テルマを含めて瞬く間に四人に達した。
わずか二十人しか暮らしていない小さな隠れ里において、成人の戦士や働き手が四人も動けなくなるという事態は、村の存亡に直結する致命傷だった。
病人を看病する者たちにも日に日に疲労が溜まり、幼い子供たちは感染を防ぐために家の外へ出ることを禁じられた。
井戸のそばから響いていた日常のささやかな笑い声は完全に消え失せ、村の中央にある薬草棚には、魔除けと気休めのための苦い匂いを放つ乾草が幾重にも吊るされた。
村全体が、目に見えない巨大な手に首を絞められているかのように息を詰めていた。
その夜、村長ティーシャの家に、動ける大人たちが招集された。
狭い丸太小屋の中には、使い古された粗末な卓と椅子が並んでいる。土壁には狩猟用の古い弓や刃こぼれした短剣が掛けられ、夜の冷え込みを和らげる火鉢には、わずかな炭火が赤く燻っていた。
卓の最奥に座るのは、村長のティーシャだった。
六十八歳。黒猫族の寿命は人族と大差ないため、ティーシャはこの過酷な北の大地において稀に見る長寿の長老だった。背は曲がり、かつて漆黒だった髪には白髪が混じり、特徴的な三角の黒耳の先にも白い毛が目立っている。
だが、その双眸だけは、今なお刃のように研ぎ澄まされていた。
迫害を逃れ、住処を何度も追われ、多くの同胞を失いながらも、この最後の避難所を守り抜いてきた指導者の眼光だった。
「……シルの話を聞こう」
ティーシャが短く告げると、重苦しい沈黙に包まれていた室内で、村医者のシルが口を開いた。卓の上には、近隣で採取された何種類もの薬草が並べられている。
「現在手に入る薬草で作れるのは、症状を一時的に抑える薬だけだ。熱をわずかに散らし、痛みを和らげることはできる。……だが、病そのものを根本から治す手立てが、今の村にはない」
「本当に、治す術はないのか」
テルマと共に死骸の埋葬に当たっていた戦士が、悲痛な声で問いかけた。
「手に入りさえすれば、効く可能性のある薬草はある」
シルは卓上の乾草を指先で払いのけ、まっすぐに顔を上げた。
「もっとも確実なのは、古くから伝わる『星霜花』だ。猛毒や病、魔力による侵食を鎮め、蝕まれた身体を元へ引き戻す奇跡の薬草とされている」
「世界樹のふもとに咲くという、あの花か……」
誰かが掠れた声で呟いた瞬間、部屋の空気が凍りついたように静まり返った。
世界樹。
この村の遥か北、深い原生林――立ち入ることすら禁じられた「禁忌の森」の最深部にそびえ立つ、黒く巨大な霊樹。
その周囲は極めて濃密な魔素が渦巻き、地上で最も希少な薬草が芽吹く反面、人族などをひとたまりもなく食い殺す凶悪な魔獣の巣窟となっている。
そして何より、世界樹の周辺には、魔獣以上に恐ろしい存在がいた。
「……禁忌の魔女の領域だ」
若い女戦士が、震える声でその名を口にした。
誰も、それを否定できなかった。
禁忌の魔女。
その悪名は、辺境の黒猫族だけでなく、大陸全土の人族や他部族に至るまで恐怖とともに知れ渡っている。
北の深奥には決して近づくな。森の奥には、世界樹の魔力を独占する不老不死の魔女が潜んでいる。
森に足を踏み入れた者は忽然と姿を消し、出会った者は魂を抜き取られ、二度と生きて戻ることは叶わない――。
「行商から聞いたことがある」
壁際に立つ男が、身を縮めながら言った。
「北の森へ分け入った腕利きの冒険者たちが、これまでに何十人も消えている。魔女が見回りをし、生きた人間を見つけるたびに呪いで嬲り殺しているのだと」
「俺が聞いた話では、人の骨を世界樹の根元に埋めて苗床にしているらしい」
「子供をさらって、異形の使い魔に変えてしまうという噂もある……」
薄暗い部屋の中で、不吉な噂話が次々と重なっていく。
見た者は誰も生きて帰ってこないと信じられているからこそ、その影は底なしの怪談となって人々の心を縛り上げていた。
「北へ行くなど、死にに行くようなものだ」
重苦しい絶望が充満する中、卓の端で話を聞いていたタオは、膝の上の拳を白くなるほど強く握りしめていた。
母の熱に浮かされた苦しげな顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
母のそばを離れがたく、村に残された僅かな戦力を減らすこともためらわれ、ここまで踏み出せずにいた。だが、もう迷っている時間はない。
このまま噂を恐れて震えていれば、母は確実に死ぬ。
他の仲間たちも死に、やがて村そのものが崩壊する。
タオは静かに立ち上がった。
「俺が行く」
迷いのないその一言が、狭い部屋を貫いた。




