第二十七話 牙猪の死骸
村長のティーシャの家へ向かう途中、タオは背後からついてくる足音に気づいた。
「兄さん」
妹のタムだった。
タムは小さな革袋を肩から下げ、心配そうに兄を見上げていた。戦士ではないが、村医者シルの手伝いをしており、薬草や毒に詳しい。
「六体もの牙猪がまとまって死んでいるなら、病気が発生するかもしれない」
「わかってる」
「調査に行くなら、私も行くよ」
「だめだ。危険すぎる」
兄妹の言い合いを聞いていた年配の女が、静かに口を開いた。
「タムを連れていきな、タオ」
女戦士テルマだった。
タオとタムの母であり、村で最も経験を積んだ戦士でもある。左頬に古い傷跡があり、年齢を重ねた今も、その目には鋭さが残っていた。
「死骸には触らない。途中でも、異常があればすぐに引き返す。それを守れるなら、薬草に詳しい者の目はあったほうがいい」
「母さんまで……」
「怖がるのと、備えるのは違う」
テルマはそう言って、タオの肩を軽く叩いた。
「わたしも一緒に行くから」
村長のティーシャへの報告を済ませ、結局、裏山へ向かったのはタオやテルマを含む戦士四人と、村医者のシル、そしてその補佐役であるタムを加えた六人だった。
村から少し離れるだけで、道はすぐに獣道へ変わる。木々の枝葉は濃く、昼間だというのに山の中は薄暗い。湿った土を踏みしめながら進むうち、先頭を歩いていたタオの鼻先に、腐りかけた肉の臭いが届いた。
猫の耳が、ぴくりと震える。
「止まれ」
全員が足を止めた。
鼻を覆いながら慎重に斜面を登ると、木々の切れ間に黒い塊が見えた。
牙猪だった。
太い牙を持つ成獣が、折り重なるように倒れている。七体。報告より一体多かった。どれも巨体で、村の大人が数人がかりでも運べないほどの大きさがある。
タオは剣の柄に手を置いたまま、周囲を見回した。
敵の気配はない。
鳥の鳴き声も、獣の動く音もない。
ただ、腐臭と不自然な静けさだけがあった。
「……傷がない」
タムが小さくつぶやく。
近づきすぎない位置から観察すると、死骸には牙や爪で裂かれたような傷がほとんど見当たらなかった。腹部が膨れ、目は濁り、口元には泡のようなものがこびりついている。
シルが、長い枝で死骸の周りの土をつつきながら言った。
「毒か?」
「分からない。でも、普通の死に方じゃない」
タムの声は硬かった。
「病ならなおさら、ここに置いておけない」
死骸を放置すれば、腐肉を食べる獣が集まる。虫が湧き、水が汚れ、村へ近づく魔獣も増えるかもしれない。村の畑や井戸は裏山の水脈とつながっている。何らかの病があるなら、放置することはできなかった。
「埋めるしかないか」
通常、魔獣の処理には「焼却」が最も適している。腐敗による病を抑え、残った骨や角を素材として利用するためだ。しかし、湿った森の薪だけでこれほどの巨体を焼き尽くすことはできず、かといって黒猫族には魔法で燃やすこともできない。
黒猫族は、生まれつき火の属性魔法に対する適性が極端に低く、火魔法を使える者はめったに生まれないのだ。
焼却できない以上、選択肢は限られている。
村から離れ、井戸や沢へ水が流れ込まない場所を選んで深い穴を掘り、死骸を埋める。土を厚くかぶせ、獣が掘り返せないよう石を重ねる。それしかない。
「七体全部は、今日中には無理だ」
タオは死骸を見ながら言った。
「できるところまでやる。放っておくよりはいい」
テルマは迷わなかった。
その日、見張りと幼い子供の世話をする者を残し、働ける大人たちは皆で裏山へ向かった。
村に残った年長の子供たちも、井戸水を汲み、食事の準備を手伝った。山では穴を掘る者、太い枝と縄を使って死骸を引く者、土をかぶせる者が汗を流す。黒い毛並みは汗と土で汚れ、爪の間には泥が入り込んだ。
牙猪の死骸は重かった。
一体を動かすだけでも、何度も息を整えなければならない。日が傾く頃には、村人たちの腕も脚も震えていた。
それでも、四体は埋めた。
五体目に取りかかったところで、シルが首を振った。
「今日は終わりにしよう。このまま続ければ、怪我人が出る」
「まだ残っている」
タオは言った。
「分かっている。でも、倒れたら意味がない」
テルマも頷いた。
「明日、続きをやる。穴はもっと広く掘ろう」
残された死骸の上には、厚い布と枝をかぶせた。気休めにしかならない。夜の間に何かが近づくかもしれない。腐敗はさらに進むだろう。
それでも、その日は引き返すしかなかった。
村へ戻る頃には、空は赤く染まっていた。
誰も、裏山の話を大きな声ではしなかった。
子供たちを不安にさせたくなかったからだ。
しかし、眠りについた後も、タオは何度も目を覚ました。
山の方から、何かがこちらを見ている気がした。
死骸をすべて埋めるまでには丸二日かかった。
埋めた場所からは、なおも腐臭が漂っていた。村人たちは作業を終えるたびに手を洗い、衣服を湧き水で洗い流し、シルが用意した苦い薬草湯を飲んだ。
それでも、不安は消えなかった。
最初に異変が現れたのはテルマだった。
「母さん?」
朝、タオが家の戸を開けると、寝床にいる母が起き上がれずにいた。
いつもなら夜明け前には剣の手入れをし、誰より先に外へ出るテルマが、薄い毛布を握りしめて横たわっている。
顔が赤い。
呼吸も荒い。
「大丈夫か」
タオが近づくと、テルマはかすかに笑おうとした。
「少し、熱があるだけだ」
だが、テルマの袖がめくれた瞬間、タオの表情が固まった。
その肌に、赤い斑点がいくつも浮かんでいた。
小さなものから、手の爪ほどの大きさのものまで。
それは腕だけではない。
首元にも、胸元にも、広がっている。
「シルを呼ぶ」
「待て。近づくな」
テルマは反射的に言った。
その言葉が、タオの胸を強く締めつけた。
近づくな。
うつるかもしれない。
誰も口にはしていないのに、二人とも同じことを考えていた。
タオはすぐにシルを呼んだ。
診察を終えたシルは、長い間、何も言わなかった。
赤い斑点を確かめ、熱を測り、瞳の濁りを見て、何種類もの薬草を煎じた。
しかし、顔色は晴れない。
「分からない」
やがてシルは、絞り出すように言った。
「見たことのない病だ。裏山の死骸と関係がある可能性は……否定できない」
「治せないのか」
タオの声は低くなった。
シルは目を伏せる。
「今ある薬草では、熱を抑えることくらいしかできない」
その後、しばらく沈黙が落ちた。
外では、何も知らない子供たちの声が聞こえる。
いつもと変わらない朝だった。
けれどタオには、その声すら遠く聞こえた。
「……星霜花なら」
シルが、ようやく言った。
「世界樹の近くに咲く星霜花なら、効くかもしれない。あれは強い毒や病を鎮めると聞く」
「どこにある」
「北の森の中心、世界樹のたもとだ」
タオは息を止めた。
北の森、半径百リルの大森林。
北の大地と呼ばれるこの地の九割ほどの面積を占めるその森の奥は、村人たちも足を踏み入れることを避ける場所だ。
凶悪な魔獣が棲み、深く入れば戻れないと言われる森。
そして、その奥には禁忌の魔女が住むという。
黒猫族にとって、外の世界にはいくつもの恐ろしいものがある。
だが今、タオは理解していた。
母を救うためには、その恐ろしさの中へ踏み込むしかないのだと。




