第二十六話 黒猫族の小村
深い霧が立ち込める「禁忌の森」の南端。幾重にも重なった木々が陽光さえ拒むような、湿った谷間にその村はあった。
そこに暮らしているのは、黒猫族。
漆黒の毛並みに覆われた耳と尾を持つ亜人であり、北の大地に古くから暮らす土着の民である。
かつて彼らは海辺に広がる草原を生活の場とし、狩猟を中心に穏やかな暮らしを営んでいた。
しかし王国歴八五一年、当時の教皇グレゴリウスが「黒き徴の教書」を公布したことで、その運命は大きく変わることとなった。
教書では、黒い毛や鱗、角、翼を持つ種族を、魔族の呪いを受けやすく、神の祝福が定着しにくい存在と定めた。精神を侵される危険が高く、呪いを周囲へ広げるおそれがあるとして、教会による監督を求めたのである。
なかでも黒猫族の漆黒の毛並みは、「夜の魔物の眷属であり、神の光を吸い取る呪われた徴」と宣告された。
この教えはヴァレンティナ王国の各地に広まり、黒猫族は「不吉の象徴」として忌み嫌われるようになった。
もっとも、当時も北の大地はヴァレンティナ王国の領土ではなく、王国との正式な国交もなかった。
そのため、この教書も当初は遠い他国の噂にすぎず、北の大地に暮らす黒猫族への影響はごく限られたものだった。
状況が変わったのは、およそ七十年前――王国歴九一〇年頃のことである。
ヴァレンティナ王国では、犯罪者を大陸北端――のちに第一セクターと呼ばれる地域へ送る「北方流刑制度」が本格化した。
その結果、多くの流刑囚がこの過酷な地へ送り込まれた。
大半は環境に耐えられず命を落としたが、一部は監視の目を逃れ、比較的温暖な南部へ流れ込んだ。
同じ頃、未開拓の土地で一旗揚げようとする開拓者や商人たちも、北の大地へ足を踏み入れ始めていた。
流刑囚と開拓者。
異なる理由でこの地へやって来た二種類の移住者たちは、ヴァレンティナ王国で広まっていた「黒き徴の教書」の教えを北の大地へ持ち込んだ。
それまで遠い国の噂にすぎなかった教書は、やがて黒猫族を排斥するための口実へと変わった。
さらに、その偏見は移住してきた人間たちにとどまらず、白猫族をはじめとする北の大地の他部族にまで広がっていった。
黒猫族の集落は襲われ、住居や土地、蓄えていた食料を奪われた。
抵抗した者は殺され、捕らえられた者の中には、奴隷として南方へ売られた者もいた。
長く暮らしてきた海辺の草原を追われた彼らは、いくつもの小さな集団に分かれ、人の少ない場所を転々としながら北へ逃れていった。
彼らが深い霧に閉ざされた森の近くまで逃げ延びたのは、決して自ら望んだからではない。
ボレアリア大陸北部の大半を占め、半径百リルに及ぶ未開の大森林――通称「禁忌の森」。
そこは魔物が徘徊し、冷徹な魔女が住むと噂され、人間が恐れて近づかない魔境だった。
そのそばでなければ、彼らは追跡者から逃れることができなかったのである。
禁忌の森の危険こそが、皮肉にも黒猫族を滅亡から守る最後の壁となったのだ。
現在では、かつてのような公然とした襲撃や奴隷狩りは減少している。
しかし、「黒き徴の教書」が残した偏見は、今なお人々の心から完全には消えていない。
黒猫族は現代においても、不吉と疑念の目を向けられながら、禁忌の森の外縁でひっそりと暮らし続けていた。
だが、どれほど人目を避けても、森の中だけで全てを自給自足することはできない。
生きていくには塩や布、金属製の道具も必要になる。
そのため、村で採れた薬草や毛皮、魔獣から取れた素材を、遠い町の行商に売ることがある。
ただし、黒猫族であると知られれば、正当な値を払ってもらえない。
最初から「穢れた品」と決めつけられ、買い叩かれる。
ひどい時には、品だけを奪われる。
それでも村人たちは耐えてきた。
生きるために。
現在、この小村に住むのは生まれたばかりの子供から、長い年月を生きた老人まで合わせても、二十人しかいない。
かつて海辺で豊かな集落を築いていた黒猫族の一部は、今やこうしてわずか二十人で身を寄せ合うだけの小さな共同体となっていた。
家は木材と石を組み合わせた小さなものばかりで、村の中央には共同の井戸、薬草を乾かすための棚、獲物をさばくための台が置かれている。
村の外周には粗末な柵が巡らされていた。
魔獣を防ぐには頼りない。
人間を防ぐには、もっと頼りない。
それでも村人たちは、毎朝その柵を見回った。壊れていれば直し、獣の足跡があれば警戒し、知らない靴跡があれば、その日から夜番を増やす。
黒猫族にとって、外から来るものは、いつだって脅威になり得た。
「……裏山に、魔獣の死骸がある」
その朝、見張りから戻った若い男が、村の広場で低い声を上げた。
水汲みをしていた者たちの手が止まる。
干し肉を切っていた老婆が顔を上げ、子供たちは母親の服の陰へと身を寄せた。
「一体か?」
村の戦士であるタオが尋ねた。
まだ若いが、村の中ではもっとも剣を扱えた。黒い髪の間から覗く猫耳をぴんと立て、報告に来た男を見据える。
男は首を横に振った。
「……いや、パッと見ただけでも六体はあった。牙猪だ。山の斜面に転がっている」
「六体?」
誰かが息を呑んだ。
イノシシに似た魔獣――村では牙猪と呼ばれるそれは、単独でも危険な相手だ。硬い毛皮と鋭い牙を持ち、畑を荒らし、人を見れば突進してくる。群れで現れれば、村の戦士全員で迎え撃たなければならない。
そんな魔獣が六体。
しかも、死んでいる。
「他の魔獣にやられたのかもしれない」
タオが言った。
「傷は?」
「遠くから見ただけだ。だが、食われた様子はなかった。血も……あまり見えなかった」
それを聞いて、広場の空気がさらに重くなる。
他の魔獣が餌にするために襲ったのなら、肉や内臓を食い荒らした跡があるはずだ。それに、六体もの牙猪を一度に殺したのはいったい何者なのか。
食うためでないなら、なぜ殺したのか。
遠目の報告だけでは判断できないが、一つだけ確かなことがある。
それだけの牙猪を容易く葬り去る「何か」が、村のすぐ裏まで来ていたのだ。
「先に村長に知らせてから、調べに行く」
タオは険しい表情で、短く言った。




