第十三話 魔法陣の解析
最後に外核を描き終え、レインは筆を置いた。
机の上に置いた札を、じっと見つめる。
中心核を起点に、第一環、第二環、第三環、第四環、第五環、第六環、そして外核が、外側へ向かって幾重にも重なっている。外核からは一本の細い線が引き出され、その先には温める器を置くための小さな指定枠が描されていた。
湯を沸かすための札。
作業台の脇には、検証のために水を入れた小さな金属鍋が置かれている。
エルシアが普段使っている生活用の札を借りて、レインが最初から最後まで寸分違わず写し取ったものだ。
「……再現できた」
「うむ。見たところ、線の狂いも間隔のズレもなさそうじゃな」
エルシアは札を覗き込み、満足そうに頷いた。
「では、早速使ってみるがよい」
レインは枠の中に金属鍋を据え、札の中心核へ指を置いて魔力を流した。
体内の光の魔器から、細い糸のような魔力を指先へ導く。
しかし、魔力は指先から紙の表面に触れた途端に霧のように散り、術式の円環へ伝わることはなかった。
レインは流す量を慎重に変えて、もう一度試した。だが、結果は同じだった。
エルシアが普段発動させている状況を見る限り、少なくとも内側の環が淡く光るはずだ。
しかし、紙に反応はなく、金属鍋も静かに沈黙している。中心核は光らず、入力は拒絶されていた。
「反応がない。魔力が術式へ入力されていない」
「魔力が少ないのではないか?」
「入力する魔力量を変えても反応はなかった。魔力量の不足が原因とは考えにくい。エルシア、一度試してほしい」
エルシアはレインから札を受け取った。
中心核に指を置き、いつものように魔力を流す。
その瞬間、中心核に置かれた『三角形』が、ほんのわずかだが淡い赤色で明滅した。
直後、同心円の環全体へ滑らかに赤い光が走り、引き出された線を通って鍋の底へと熱が伝わる。流れている魔力が火属性であるため、術式全体が赤く染まっていた。
鍋の中の水が細かく震え、やがて底から小さな気泡が上がり始めた。札は間違いなく正常に発動している。
「やはり動くのう。写しに間違いはないようじゃ」
エルシアは何気なく札を机へ戻した。
だが、レインは札の中心核から目を離せなかった。
エルシアが触れたとき、外側の円環が光るよりも前、最初に反応したのは中心核内の三角形だけだった。
「エルシア。中心核内の図形について確認したい」
「どれじゃ?」
「中心核の内部に配置された図形だ。今、魔力を流した瞬間、そこにある三角形だけが赤く光った」
エルシアは札の中心核を覗き込んだ。
「母上から教わった形をそのまま描いておるだけじゃ。家紋か何かと思っていたが……我が家で使っていた魔法陣には、大概その五つの図形が入っておったのじゃ。意味などはわらわも知らん」
「今の魔力は、火属性か?」
「わらわは、そのようなことをいちいち意識したことはないが……、おそらく火属性じゃろう。湯を沸かす魔法陣なのだから、火が起きるよう火の魔力を流すのは当たり前じゃろ?」
エルシアの答えを聞き、レインの頭の中に一つの論理的な仮説が浮かんだ。
中心核の模様は飾りなどではない。入力された魔力の性質を受け取る『入口』なのではないか。
「エルシア。次は水の魔力を流してみてほしい」
「水を?」
「そうだ」
「この札は火を起こすものじゃぞ? 水を流したら消えてしまうか、札が駄目になるだけだと思うのじゃが……」
「確認したい仮説がある。試してほしい」
エルシアは不思議そうに眉を寄せたが、レインの真剣な視線に押され、やがて肩をすくめた。
「よかろう。何が起きるか、わらわにも興味があるしの」
エルシアが再び札の中心核へ指を置き、今度は冷たく澄んだ水の魔力を流す。
中心核の右下に配置された三角形は光らなかった。代わりに、中心核の右上に置かれた二本の波線が、鮮やかな青色で光った。
直後、札の円環が内側から外側へと青い光を走らせる。
鍋の中の水は、先ほどと同じように温まり始めた。しかし、沸騰するまでにはかなり時間がかかり、立ち上る湯気も明らかに細い。火の魔力を入れたときよりも、火力が明らかに落ちていた。
「動いた……」
エルシアは目を丸くして鍋を覗き込んだ。
「じゃが、火力は少し弱まっておるのう。水属性を流したのに、なぜ火が起きるんじゃ?」
水属性の魔力でも火が起きるのは、この陣のどこかで火属性の魔法に変換されているからだろう。
火力が落ちたのは、変換による損失ではないだろうか。
だが……それよりも重要なことがある。
「そうだ。……エルシア、今度は闇の魔力を流してみてほしい」
エルシアは札を見つめ、中心核にある模様をまじまじと見つめた。
「火で三角形、水で波線が光ったのじゃな。……図形は五つしかないが、もしやこの札には、闇を受ける形がないかもしれぬ。そういうことじゃな?」
「まだ分からない。だから確認したい」
エルシアは神妙に頷き、指先に闇の魔力を集めて札の中心核へ流した。
札は沈黙した。
中心核は光らず、第一環へも魔力は到達しない。六つの環の一本さえ動くことはなかった。闇の魔力は紙の表面で弾かれ、どこにも入ることなく霧散した。
「動かぬな」
「闇属性の入力部は存在しない。少なくとも、この札にはない」
レインは手元に置いてあった『光魔法初級書』へ手を伸ばした。
古い紙面の巻末注釈には、古代の略式記号が数行だけ記載されている。木、火、土、金、水、それぞれに対応する簡略化された図形――長方形、三角形、正方形、円、二本の波線。
さらに注釈を追うと、端の方に、札の中心核には描かれていない二つの図形が記されていた。
一つは、正八角形。
もう一つは、内側へ向かってへこんだ凹の形。
レインは指先で二つの図形をなぞった。
「光と闇に対応する記号だ。光は正八角形、闇は内側へへこんだ形として記されている」
「おお……! では、これを札に加えればよいのではないか?」
「追加すれば動く可能性はある。だが――」
レインは魔法陣の中心核を厳しい目で見つめた。
中心核の中央には正方形がある。
正方形を中心に、対角線上の四方向へ、左上に円、右上に二本の波線、左下に長方形、右下に三角形が配置されている。
すでに五つの図形が、寸分の狂いもない均等な配置で組み合わされている。
中心核の周囲には空いているスペースもいくつかあるが、それが構造上「動かせるもの」なのか、「厳密に位置が固定されたもの」なのかは、現時点の観測データでは判断がつかない。むやみに描き足すことはできなかった。
しかし、少なくとも一つだけ確かなことがある。
教本にあった光の正八角形も、闇の凹形も、この札の中心核には存在しない。
レインは教本と札を交互に見比べ、小さく息を吐いた。
「……いや、対応する形は見つかったが、配置位置が分からない。空いているスペースに描き足せばいいというものではないはずだ。術式がどう変化するかを予測するための前提条件が、まだ足りない」
エルシアも札の中を覗き込み、腕を組んだ。
「小さいころに、この八角形が描かれた魔法陣を見たかどうかは定かではない……。里の者たちなら誰でも使えるように、木火土金水の五つの属性だけを描いておったのかもしれぬ。わらわも、光と闇の図形の正しい位置はわからん」
レインは、まだ反応しない冷たい札に視線を落とした。
中心核そのものが、魔力の入口なのだ。
そして内部に並ぶ図形は、そこから受け入れる魔力の属性を指定している。
しかし、この札には、光と闇を許可する指定が存在しない。
それだけは、もう確信できていた。




