第十二話 光魔法初級書と幾何学の札
測定の儀式を終えた翌朝、エルシアは台所の竈から立ち上る白い湯気を眺めながら、深い思案に沈んでいた。
昨夜判明したレインの魔力は、規格外という言葉すら生ぬるいものだった。
部屋中を満たしてなお余りある膨大な魔素、そして何よりも、不純物の一切混ざらない無色の輝き――純粋な光属性の魔力である。
この世界に満ちる魔力は七つの属性に分かれており、魔法使いは生まれ持った体内の魔器を通じてそれらを行使する。
光属性とは、傷を癒し、命を再生させ、穢れを浄化する尊い力を司るものだ。
その魔器を生まれ持つ者自体が極めて稀であることに加え、レインは生きるための基本である五行の魔器を一つも持たない。この星の理から完全に外れた、前例のない唯一無二の身体だった。
それは紛れもなく、奇跡のような特異点であった。
だが同時に、生活の上で一つの不便を抱えていることも事実であった。
世の大半の魔法使いが宿すのは、火や水、木や土といった自然の現象を司る魔器である。
火を熾して湯を沸かし、乾いた土を潤すために水を呼ぶといった、暮らしを支える日常の現象はそうした魔器から生み出される。
光の魔器しか持たないレインは、どれほど巨大な魔力を誇ろうと、そのままでは生活に必要な火や水の魔法を直接生み出すことができないのだ。
(あやつに生活の魔法を教えるには、古代魔法を使うしかないじゃろうな……)
太古の時代に使われていた古代魔法の陣を用いれば、属性の壁を越え、光の魔力を熱や水、あるいは物質を変化させる別の性質へと変換させることができる。
もっとも、その深遠な理のすべてをエルシアが解き明かしているわけではない。
幼い頃、エルフの里で母が見よう見まねで使っていた生活用の陣を、形として覚えているに過ぎない。
それでも、基礎的な変換の手ほどきなら十分にできる。
もしレインがそれ以上の理論や深奥を望む日が来れば、その時はエルフの森を訪ねるか、王都の王立図書館に眠る古い文献を紐解けばよい。
(じゃが、それとは別に、あやつ本来の光魔法も伸ばしてやりたい。わらわが直接教えられずとも、使える道は用意してやらねばならぬ)
エルシアは書棚の奥へ手を伸ばし、一冊の革装の書物を取り出した。
昔、旅の途中で手に入れた『光魔法初級書』である。
飴色に変色した羊皮紙と煤けた背表紙が、この書が記されてからの長い歳月を物語っていた。
レインの理解力なら、自力で読み進めていけるはずだ。まずは本人の資質である光魔法の初歩がどれほど扱えるのか、確認してみようと考えたのだ。
居間へ戻ると、レインは椅子に座り、机の木目を静かに観察していた。
エルシアの足音に気づくと、自然に顔を上げる。
「おはよう、エルシア」
「うむ、おはよう。体調はどうじゃ?」
「睡眠時間は十分だった。体調にも問題はない」
レインは淡々と事実だけを答える。
エルシアはその古い書物をことんと机の上に置いた。
「おぬしにこれを渡しておく。光魔法の初級本じゃ。全属性を持つわらわであっても、光魔法の厳密な体系や扱いまでは直接教えることができん。じゃが、おぬしなら、自分で読んで理解できるはずじゃ。まずは目を通してみるがよい」
「分かった」
レインは本を引き寄せ、静かに表紙を開いた。
指先でページをめくりながら、淡々と視線を走らせていく。
文章の合間には、術式の構造を示すいくつかの簡素な幾何学記号が載っていた。
現代の魔法使いは、頭の中で描く明確なイメージと詠唱によって術を編み上げるため、わざわざ陣や図形を描き残すことはない。
しかし、この教本が記された遠い時代には、起点から現象化を経て収束に至るまでの構造を、独特な回路図のように書き記す習慣があったのだ。
レインは類まれな理解力で、本の構造を瞬く間に把握していった。
「……術式の構造は理解できた。起点を作り、光魔素を集束させる。まずは最小出力で、手元を照らす光を発生させる」
「おい、待て、レイン――!」
エルシアが制止の声をかけるのと、レインが指先を立てたのはほぼ同時であった。
レインが意識を指先に集中させた瞬間、部屋の空気がぎしりと軋むように張り詰めた。
初級本に記されていたのは、手元を照らす豆粒ほどの小さな光球である。
だが、レインの指先に凝縮され始めたのは、そんな慎ましい光ではなかった。
空間が歪むほどの濃密な魔素が急速に集まり、眩い白光が爆発的に膨張していく。
巨大な湖の水門が一気に吹き飛んだかのような、底知れぬ魔力の奔流。
わずか数秒で、居間全体の影が白く焼き切られそうになっていた。
「魔力を止めよ、レイン!」
エルシアは即座に踏み込み、レインの小さな手首を両手で包み込むように掴んで魔力の流れを遮断した。
レインが即座に指先の魔力供給を断つと、膨れ上がっていた白光はふっと霧散し、部屋には元の穏やかな朝の光が戻った。
「止めてくれて助かった。すまない、エルシア。術式の構造は理解できたが、出力制御を再現できなかった」
「謝ることはない。じゃが、魔力制御ができぬうちは、魔法をむやみに発動させるでないぞ。よいか」
エルシアは優しく首を振った。
責めているわけではない。だが、今のままでは危険すぎる。
初級魔法でさえ、レインの手にかかれば制御を失い、部屋全体を白光で満たした。術式を理解する力があっても、流す魔力の量を調節できなければ、魔法はただの災害になる。
「小さな術でも、おぬしが使えば大きな現象になる。光魔法を学ぶ前に、まずは出力を絞る方法から覚えねばならぬ」
針の穴に糸を通すような、極小の魔力制御。
それを身体に叩き込まなければ、次の段階へ進ませることはできない。
「光魔法の実技は、いったんお預けじゃ。その代わり、別の基礎から始めるぞ」
「別系統の基礎へ移るということ?」
「そうじゃ。おぬしは火や水を起こす魔器を持たん。だが、古代魔法を使えば、おぬしの光を熱や水、金属や土へと変えることができる」
エルシアは立ち上がり、台所の竈の脇や、薬草を乾燥させている天井の梁を指し示した。
そこには長方形の紙札が何枚も貼られている。
家の温度を一定に保ち、湯を冷めにくくし、薬草へ穏やかな熱を与えるために、エルシアが日頃から使っている生活用の札である。
エルシアは棚から予備の札を数枚取り出し、机へ並べた。
そこには、中央から外側へ向かって幾重もの円が重なった、精密な魔法陣が墨で描かれていた。
中心には小さな入力領域があり、その周囲をいくつかの円環が取り囲んでいる。
さらに最も外側には、陣全体を固定するように太い境界線が引かれていた。
「これは……同じ円が、いくつも重なっている」
「うむ。母上が使っておったものを、わらわも見よう見まねで覚えたのじゃ。今の世の魔法は、術者が対象を見て、その場で判断し、魔力を注ぎ続けることで形を保つ。じゃが、太古の魔法は、こうして陣そのものに役目を刻み込むのじゃ」
エルシアは、湯を温める札を指先で押さえた。
「これを使えば、おぬしの魔力を別の性質へ変換し、力の行き先と働きを陣の側で定められる。もっとも、好きなだけ魔力を流してよいわけではない。許容量を超えれば札が焼け、術も壊れる」
「つまり、札を壊さずに動かすには、変換効率と許容量を確認したうえで、流す魔力を調整する必要がある」
「その通りじゃ。今のおぬしに最も足りぬものを、これで覚えてもらう」
レインは机に並ぶ札へ視線を落とした。
中心部の配置、円環の間隔、線の太さ、外側の境界。
どれか一つでも狂えば、別の働きになるのだろう。
「古代魔法のすべてを、わらわが理解しておるわけではない。幼い頃、母が使う姿を見て覚えたものが大半じゃ。じゃが、ここにある生活用の札なら、正しい形も使い方も教えられる」
「この札より高度な術式を調べる場合は?」
「その時はエルフの森へ行くか、王都の王立図書館を訪ねるのじゃ。今も古い記録が残っておれば、わらわの知らぬ理も学べるじゃろう」
エルシアは白い紙と墨壺を用意し、細い筆をレインへ差し出した。
「まずは、この札の線を正確に書き写せ。それができたら、完成した札へほんの少しずつ魔力を流す。線を覚え、札を壊さずに働かせる。その二つが最初の修行じゃ」
「構造の再現と、出力の制御。その二つが最初の課題ということだ」
レインの紫紺の瞳に、新たな課題への静かな集中が宿った。
光魔法初級書は、そのままレインの傍らに置かれている。
そこに記された知識を学ぶことまで禁じられたわけではない。
ただし、実際に光を生み出すのは、少量の魔力を扱えるようになってからの、地道な基礎固めからだ。
巨大すぎる力を、指先一つの精密な技術へと落とし込むための鍛錬が、ここから始まろうとしていた。




