一、浄化
かぐや姫に天の羽衣が掛かる。
彼女は人としての心を無くし、目の前にいる男性が帝である事しか覚えていない。
彼女が最後の最後まで愛し、その実らなかった恋の相手でさえ、ただの他人と認識している。
「…」
彼女は翁と媼を、静かに見つめる。
もう、その二人が自分にとって何なのかですら。
判らない。
リンリンリンリン
鈴の音が響く。
両側に付く二人の天人が金剛鈴を振る。
先頭にいる、一番着飾った女性の天人が、後ろを振り向いた。
「帰りましょう。」
透き通った声が響く。
ゆっくりと、雲が近づいてきた。
その薄い桃色の雲の小さな建物、釣殿のような所にかぐや姫が座る。
そして、その雲『天月霧之船』がゆっくりと、上昇を始める。
リン
高く、透き通った鐘の音がした。
その音と共に、その雲船が光を放ちながら霞のように薄れていく。
「…かぐや…」
翁が呟く。
…その瞬間、わずかにかぐや姫が振り向き、微笑んだのが翁の目に映った。
―――
月の空は昼夜問わず暗い。
見えるのは数多の星と、地球だけだ。
「月での生活は慣れましたか。」
かぐや姫が宮殿の隅で独り、暗く黒い空を眺めていた所に現れた二人の天人のうちの一人が横槍を入れた。
「はい。」
彼女は返事をする。
「そうですか。」
もう一人の天人が呟き、かぐや姫に目も向けずさっさと何処かへ行ってしまった。
天人は心が無い。
いや、正確には人間としての喜びや愛などの感情が無い。
そもそも愛だの恋だの、文明と種の進化に不要な感情は無駄と判断し、いつの間にか消滅してしまったのだ。
天人はみな、感情の『真似事』をしているのだ。
「かぐや姫、王がお呼びです。」
今度は雲船に乗った男性の天人が、空からかぐや姫に近づく。
「…なんでしょう。」
「そろそろかぐや姫にも、浄化の責務を…などとおっしゃっていました。」
「浄化?」
「はい、地の者が死すと一度その穢れた魂が月へ昇って来るのです。 その魂を浄化、つまり清めてから地上へ戻すのです。」
「なるほど…」
かぐや姫が小さくささやき、その雲船に乗る。
「いきましょうか。」
その男性もまた、小さく呟くように促した。
―――
「お呼びでしょうか、王」
かぐや姫が神社に似た神殿の広間に座る。
「…きたか、」
低い声が聞こえた。
その声の主の姿はどこにも見当たらない。
「はい。」
かぐや姫が呟く。
「そなたにも、浄化の責務を始めてもらう。」
「浄化…ですか。」
「そうだ。この世の魂は死すと一度…」
「あぁ、それは存じております。」
「なるほど、なら責務の内容は知っているか?」
「えぇ、なんとなくですが、その魂の穢れを消し、また世に放つ…」
かぐや姫が言う。
王は「そうだ。」と呟く。
すると、かぐや姫の正面の祭壇に納めてある槍が輝きだした。
「これは…?」
かぐや姫が不思議そうに、その槍を見つめる。
「これをそなたに授ける。 使い方は…そこの者…女官に尋ねよ。 では。」
声が引いていく。
「わかりました。」
主が去った神殿にかぐや姫の声が静かに拡がった。
かぐや姫は、正座からつま先を立ててすくっと立ち上がり、祭壇のその槍を両手で捧げ持った。
柄はみっちりと詰まった木でできており、矢じりは青白い光を放っている。
重いはずだが、かぐや姫の手には不思議と馴染む。
槍を縦に持ち換え、後ろに控える者に近づく。
「…あの、」
かぐや姫は、恐る恐る声を掛けた。
「まぁ、とりあえず、見て覚えてください。」
その女官が呟き、歩き始めた。
声からすると三十代半ばのようだ。
結い上げた黒髪に、刺さっている小さな赤いかんざしが、
先ほど通った鳥居の朱色を思い出させる。
迷いなく歩を進める背中に、かぐや姫は遅れじとついて行く。
神殿を出てどのくらい歩いただろう。槍が少し重く感じ始めたころ、先ほどのものより少し大きな神殿についた。
王と謁見した神殿とは違い、この神殿は細部まで作りこまれており、中心には神々しく光り輝く鏡があった。
その鏡からは不規則に青白い光の球体が飛び出し、辺りにその光の球体がいくつも浮いている。
「祓へ給へ、清め給へ、神ながら守り給へ、幸へ給へ。」
女官は、かぐや姫を一瞥することもなく、鏡に近づくと目を閉じ、祈るように手を組み、肚から声を出し、唱え始めた。
「全ての魂への平穏を望み奉る。」
女官が、そっと目を開ける。
すると、あたりを漂っていた光の球体が一斉に、助けを求めるよに女官へ集まる。
女官は光に包まれていく。
リーン
澄んだ音が静寂を破る。
女官が手に持った金剛鈴を鳴らしたのだ。
「我は、汝らに許しを与える。」
神殿に女官の凛とした声が響き渡る。
すると、光の球体は散る桜のごとくはらはらと女官から離れ、流水の様に散らばっていく。
「綺麗…」
かぐや姫が呟く。
すると、女官がかぐや姫に近づき、こう言った。
「さあ、やってみてください。」
――――――
「はい?」
かぐや姫が数秒考えて出した言葉はこれだった。
「とりあえず、私の言葉を真似してください。」
女官がかぐや姫の手をとり、両手で槍を握らせる。
かぐや姫は、その槍の先端を右上に少し突き上げた。
「祓へ給へ、清め給へ、神ながら守り給へ、幸へ給へ。」
女官が今度はささやくように唱える。
「は、はらえたまえ、きよめたまえ、かむながらまもりたまえ、さきわえたまえ。」
かぐや姫は、必死に女官の言葉を追って唱える。
「全ての魂への平穏を望み奉る。」
女官は、小さな声で「目を瞑って。大きな声で。」と、かぐや姫に言いお鈴を鳴らした。
リーン。
かぐや姫は目を瞑り、「す、全ての魂への平穏を望み奉る。」と、声を張る。
すると、残っていた光の球体がかぐや姫に集まってきた。
「我は、汝らに許しを与える。」
女官が呟く。
青白い光に包まれたかぐや姫も大きな声で続く。緊張で声が震える。
光の球体は、一瞬ふわっとかぐや姫から離れ、そのまま散らばっていくように見えた。
が、
ヒュッ
刹那、その光の球体は、かぐや姫目掛けて一斉に進行方向を変えた。
それは、一種の矢の様にかぐや姫に牙をむく。
「え、」
かぐや姫は、とっさのことに理解が追い付かず、呆然と立ち尽くす。
美しい光が恐ろしい。恐ろしいと自分が感じていることだけしかわからない。
「消えなさい!」
女官が、俊敏な動きでかぐや姫から槍を奪いその光の塊を切り裂く。
光がすっと薄れる。
「ふぅ」
女官が、安心したように胸をなでおろし、かぐや姫に目を向けた。
「え、」
消えたはずの光の球がかぐや姫の目の前に迫っていた。
「ああっ、姫様っ―――」
女官は、必死に手を伸ばした。
「あ、」
かぐや姫が呟いた。




