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3-1 夜が明ける前にて

 アドレナリンを知っているだろうか。


 腎臓の上にある副腎髄質より産出されるホルモンであり、血中を通し全身に巡ることで身体を緊張状態にする。先のチャンとの戦いでは、アドレナリンの多寡により、限り限りの致命傷を目視、判断。常時より機敏な動作で回避することが出来た。いわゆる誰もが持つ交戦状態というものである。


 また、私の脳もかつてないほど集中し、心臓が早鐘のように鳴り響いていた。しかし、これはアドレナリンによるものではない。


 アドレナリンは全身に作用するものだが、脳の働きには作用しない。記憶や感情に作用するのはノルアドレナリンというものである。


 ノルアドレナリンは交感神経から産出されるホルモンであり、感情や記憶といった脳の機能に影響を与える。つまり、先ほどの戦いではアドレナリンと共にノルアドレナリンも私の中で活発に巡っていたという訳だ。


 さて、何が言いたいのかと言うと。


 先程繰り広げられた激闘では、こちらに攻撃を仕掛けるチャンに反撥するため、私の心身は両方のアドレナリンが巡っていた。一時の興奮状態は、私が次の目的地に着くまで続いていた。まぁ、到着と同時に泥のように眠ってしまったのだが...


 その夜、夢を見た。


 ヒナゲシ区からこの場所までの短い旅路、そこで死んで行った数多の人間。死体を見たのは三人だけであったが、その姿は鮮烈に脳裏へと焼き付いていた。


 病気や不慮の事故ではなく、一人の人間あるいはメガスロットが持つ悪意によって零れた生命。


 殴打により惨殺された、焚き火を囲んでいた人たちは表情が見えず。輝きを喪った目を見開いたチャンは蝋人形のように何も言わなかった。


****


「───来ないでっ!」

 

 私エスはがばっ、という音が鳴るほどの勢いで上半身を起き上がらせ、深い眠りの縁から現へと覚醒した。


 眠っていたというのに心臓はバクバクという駆動音で存在を主張し、指先にはピリピリという痺れが残る。眠気が覚めるのには時間を要さなかった。


 一呼吸し、状況を確認する。


「そっか、来たんだったね。私は」


 私は仮組みで作成した1R程の無垢な部屋の壁に手を当て、電子板を操作する。直後、手を当てた部分にスリットが走り、1立方センチメートルの単位となってばらばらと屋外に散っていった。ヒナゲシ区でもよくやった動作だが、ここは人生の大半を過ごした区ではない。


 区を四角状に囲む高さ20mほどの壁、その屹立する壁の上に、ちょこんとキュービットの急ごしらえな部屋を作っていた。


 区の中心には遠目でも分かるほどの広闊な空地があり、その空間を見下ろすように、空地の北側に白一色ではあるが表面のディテールに意匠を凝らした巨大な尖塔が屹立していた。


 周辺には標高が低い建物が乱立しており、まとめると、長方形の外壁で囲まれた市街地の中心に、外壁の倍ほどある建造物と(おそらく)それが保有する空地がある街。


 それが私たちがたどり着いた場所であるイトスギ区の全容であった。


****


「......歩こう」


 午前一時二十五分。思いもよらない夢に起こされてしまった私は、未踏の地にひと足早く降り立つことにした。


 キュービットで昇降機を作り、外壁の上から地面へと降り立つ。視線を一瞥、人の気配がない住居を睨めつける。


「なんというか、肩透かしというか...これじゃ、ヒナゲシ区と変わらないじゃん」


 住居の高さがわりかし低いくらいは街の様式は変わらないようだ。私はキュービットでタイル状に舗装された路面に降り立つ。


 キュービットが1cm四方で形成されており、隙間なく積み重ねている以上1cm未満の段差は作れないはずだが、降り立った地面は白と凹凸により出来た影が成すモザイク状のタイルであった。それはどういう訳かキュービット同士で5mmにも満たない段差によって象られている。堅固な印象を想起させるタイル敷きは、躓くこともなく快適に歩きやすかった。


「別の区があるとは聞いていたけど、思っていたより違いはないんだね」


 静まり返った夜闇の中、私は一階建てであろう立方体の建造物にもたれかかる。自重を掛けてもびくともしない背中を支える感触は、一抹の安心を私にもたらした。だが、ヒナゲシ区と代わり映えしない風景は、私に寂寥も感じさせる。


「なんだか、遠くまで来たって気もしないなぁ...はは」


 目の前に広がる巨大な壁を見つめる。あの壁を外から見つけ、壁を凌駕する威容を誇る塔が見えた時は早足になった。憩いと同時に新鮮さも追い求めていたのだろうか。


「ん、まだ明るくならないと分からないよね」


 ここイトスギ区の外壁で休もうと提案したのはライムだ。基本的にそれぞれの区では人間の出入りが固く管理されている。そのため、余所者である私たちが立ち入るのは好ましくない。今ライムが区内を見回っているらしい。くたびれて泥のように眠っていた私とディエゴが入っても問題ないかを確認しているようだ。


「..さっさと戻ろ。ライムにどつかれるかもしれない」


 私は先ほどまで眠っていた場所に戻ろうとする。しかし、遠方から響いてくるささやかな地鳴りによって私は足を止めた。


「誰か、走ってくる」


 壁と建物に挟まれた直線上の路地、その向こうからいくつかの人影がこちらに向かっていた。


 男性が、三人。いずれも軽装ではあるが、頭部に頭蓋の形を覆うような軽量かつ丈夫そうなグレーの被り物をし、手には取り回しが良さそうな長柄の棒を持っていた。まるで悪い奴を捉える為に出張ったといった風貌だったが、身なりに反して追われて逃げているという様子だった。


 私は壁にもたれかかったまま、じっと息を潜める。夜中で視界が十全でない事もあり、男らは私に気づかず駆けていった。そうして建物を左折し、私の視界から消えていった。


「おかしいな...地響きが、鳴り止まない」


 地面から伝わるガチャガチャといった響音は、男らが去ることで減るどころか、むしろ大きくなっていた。存在を増す地鳴りの正体は、男らが走ってきた通りの奥から現れた。


「...大きい、あれ、人?」


 全長は2m程か。私の身長を遥かに超えた体躯を持つカーキ色の鎧がこちらに向かっていた。甲冑というのが正しいのだろうか。板金を一つ一つ繋げ合わせただろう佩楯と袖に、胸部を保護する厚みのあるプレート、頭部から肩まで伸びる兜はいかにも重厚そうに見えた。顔はおどろおどろしい面で隠されており素性が見えない。しかし、私の身長ほどもある角材の様な棒を左手に持ち、大股で地面を揺らしながら歩く姿は私に原始的な恐怖を覚えさせる。


 金属が擦れる音と地面を揺らす微かな振動が徐々に近づいてくる。一歩、また一歩。このまま影に隠れてじっとしていれば気付かれないだろうか...


 いや、やらなければ殺される。


 そう思った瞬間、私は巨躯の甲冑に向かって吶喊していた。


「うわぁぁぁっ!!」


 周囲の視界は溶け、敵の姿のみがくっきりと映る。冷や汗が首筋を走っているのが分かった。数メートルほどの短い距離を詰めただけなのに、私の身体は動悸により酸欠に陥りかけていた。


「っ!女!?」


 鎧から聞こえてきた声は、芯が通っているが意外にも甲高かった。つまり、女性の声。


 私はそれにも意識を向けず、停止した甲冑の腰に両手を張り押し倒そうとする。


「ぐっ...!」


 思い切り勢いをつけ、全体重を載せて吶喊したにも関わらず、鎧武者の偉丈夫は一寸も動かなかった。まるで、巨大な壁を押している感覚。


 不意に、狭窄していた視界に光が導通する。


「はっ!?私は、何で...?」


 鎧武者と小柄な私が膠着する状態で、私はなぜ急に走り出し、肉薄している鎧武者を倒そうとしているのか。一瞬の間に欠落していた理性を取り戻し、冷静に状況を俯瞰する。そして虎の尾を自ら踏みに行ったということを理解した。


「あら、ちんちくりん」


 真上からの声に私が顔を上げる間もなく、私の身体が鉛直にスライドした。どうやら私が身につけているレモン色のパーカーのフードを掴まれ持ち上げられたようだ。摘まれたような体勢のまま、画面越しに鎧武者と目が合う。


「やるじゃないの、私に正面から挑もうなんて。その小さな身体で...いや私も最近は食事制限とかしてて前よりは細くなったんですけど」


「ちんちくりんじゃないです。ごめんなさい私はエス、貴女のその姿をみてつい突っかかってしまいました」


 それを聞いた鎧武者は、がしゃんと首を鳴らした。


「それって、私の容姿が太すぎるってこと?もっと痩せろってことかしら?」


 何故か鎧武者の険が強くなったような気がした。仮面越しでわからないが、少し鬼気迫るものを感じる。


「えっ、いや違くて...」


「なら何でよ、どうせ貴方もぽっちゃりとデブの狭間とか思ってるんでしょ!」


「ちょ、ちょっと落ち着いて!」


 フードを支点に吊るされた私は、ぐらぐらと揺さぶられる。どうやら女性の鎧武者が無意識で手を前後させているようだ。ただ、間違いないのは一つ。


 (すごい力...あんな重そうな鎧を身につけながら、私を軽々と持ち上げてる)


 鎧武者の膂力は凄まじいものだった。この女性を倒そうとした先ほどの私は軽挙だったとしか言いようがない。


 そもそもなぜ彼女に私は突っかかったのか?それは...


「やらないと、やられると思ったから」


 鎧武者の手が止まった。そのままぼとりと私は地面に落ちる。


「...まあいいわ。女子供はこんな時間に出歩かないでさっさと寝なさい」


 そういうと、鎧武者は再び歩き出した。私はその大きな背に呼びかける。


「あの!貴女の名前は!?」


 兜が干渉するのか、首だけを僅かにこちらに向けた鎧武者はこう言った。


「あら、私の名前を知らないの?聞けば男どもは恐れおののくのに」


 私は立ち上がり、ひたと彼女を見据える。


「私は武紗士、ちんちくりんな貴方とはもう会う機会が無いでしょうけどね」


 そう言うと、武紗士は路地の向こうへと去っていった。


****


「何だか、へんだ...」


 武紗士との遭遇後、私は元の拠点、壁の上に建った簡易住居で横になっていた。


 私はなぜ彼女に突撃していったのか?その答えが出せなかった。


 否、分かっていながらも解答を理解したくなかった。


 閉鎖された空間の中、私は今度こそ瞼を伏せ眠りの揺籃に身を任せる。


 そして、無意識の中でまた悪夢に苛まれるのだった。

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