2-6 ある男の記憶
ワシが歩く力を失ったのは、出生から半世紀を折り返し齢が68になった初春の頃であった。
メープルの木々に囲まれた木造の一軒家。春には新緑が芽を紡ぎ、夏にはアゲハ蝶やアカギツネといったあれやこれやの来訪、秋には肉厚の葉が燃えるような朱色に染まり、冬には自己主張しすぎた木々を白の点描で覆いつくすような白雪の情景。
何べんも、何べんも繰り返した通年の光景である。
ワシはくたびれた革張りの椅子に腰かけながら、アルミサッシの窓枠内に目を凝らす。
数日前までは深紅を保っていた葉は、いまや無残に地に突っ伏している。色素を失った葉は不規則に重なり、壮気を霧散させたぐずの死骸となって自然のカーペットを成している。
ワシはこれらの葉を掃除するのがいささか嫌いではなかったが、移動を車椅子に頼る生活となってからは箒を握ることもできなくなってしまった。遠方からの冷たさを孕んだ風が北から吹くたび、これらの葉がかさかさと音を立てながら舞う。
ワシは目線を戻し、ウッド調の室内に置いてあるピアノに手を置く。
代謝も落ち、手のしわはそれこそ樹皮のようになってしまったが、ピアノをつま弾く指は昔と変わらない。とりわけうまい訳ではないと自負しているのだが、鍵盤を跳ねるは軽快だとも思う。弾いているのは、ショパンの幻想即興曲。アップテンポなこの曲に集中する時が、外界からの何もかもを忘れることができる。
悦を味わっている最中を中断させたのは、一件の呼び鈴であった。旋律に入りこむ不協和音と、自分の時間を邪魔されたことから軽く苛立つ。ワシはすっかり慣れた車椅子を回し、玄関へと向かった。
ドアを開けたところに立っていたのは、紺色のスーツに身を包んだ、ブロンドの髪を整髪料でひとまとめにした一人の男だった。
「フォックスさんで間違いないですか?」
「人に挨拶する時は自分から名乗れ」
「失礼しました。私はこういったものです」
顔色一つ変えない男が手渡してきた名刺には「the Engels Development corp.[エンジェル開発株式会社]」と書かれていた。
「何の用じゃ、ワシにはおまえさんらと縁がないだろ」
「実は、この辺りに大規模な道路を建設する計画が立ってまして…」
男の言い分はこうだ。
近々、この場所を通る高速道路を建設するという。
そのためにこの場所に住んでいる住民に聞き込みに回っており、必要があれば退去を依頼しているという。
「無理に決まっている!何十年ワシがこの家とともに暮らしていると思っているんだ!」
「移転費用は負担しますので…どうか何卒諒承できませんか」
「帰れ!お前に掛ける言葉はない!」
ワシは強引に営業の男を追い払い、門戸をぴしゃりと閉めた。乱暴に車椅子の車輪を動かし部屋に戻る。
「全く、変な奴が増えたもんじゃな…」
ワシは手を開閉させながら、窓のカーテンを閉める。この家には自分以外の人間はいなかった。両親が早々に死に、この家は実質的な占領状態となった。一時期ゴールデンレトリバーがいたこともあったが、誰かを招くこともないがらんどうの家にはほこりが堆積する事もなかった。一人には広すぎる一軒家は、外界からの情報を遮断するととても静かであり、ワシはそれを好んでいた。
翌日。別の男が訪問してきた。
「しつこい奴らじゃ!この家からは立ち引かん!失せろ!」
激しい剣幕で怒ると、男は面倒そうに立ち去って行った。
このような事が多々続き、半月が経った頃。
拒絶の姿勢を崩さなかったワシの元に男がめっきり来なかった。
「フン…とうとう腰を折ったか」
もともとこちらが上手であり、わざわざ立ち退く義務もないのだ。今日もピアノの前に座し、鍵盤に指をあてがう。
「んむ…今日は調子が出ないのう」
普段なら弾けていた曲も、些かずれているように感じる。何がずれているのか、それは…
「もうええわい!さっさと寝るとしよう」
冷蔵庫から取り寄せた生ハムの塊とプレーンのベーグルを取り出す。壮年の印象が伝わるナイフを利き手で持ち、ハムの表面を削ぐように切り出す。必要量を切り出し、安物のベーグルに粗雑に挟み込む。
噛みしめたベーグルは、生ハムの塩味が効いていた。巷に流通している添加物まみれのファスト・フードよりはこちらの方が好ましいと思う。素朴な味わいだが、噛みしめるたびににじみ出る旨味は食事をしているという実感がある。
「ふぃ~、ごちそうさん」
誰が聞いているわけでもないがひとりでに呟く。ありきたりの縞模様が淵に彩られた皿とハムを切るのに使ったナイフを洗い、早々に床に就く。
目を閉じ、暗闇を知覚したころには眠りに入っていた。
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ワシが陥っている境遇には、弱みがあった。
一つは、周りに民家がないこと。このメープルの木が生い茂り、野生動物たちの集会所になっている過疎地には他に住んでいる人間がいなかった。そのために道路建設の算段が立ったのだろう。
もう一つは、この家にはワシ一人しか住んでおらず、頼れる知己もいないこと。幸か不幸か配偶者には恵まれず、このぽつんと建った一軒家で暮らし続けてきた。疎開状態であったため、交友を深めるような人間もほとんどいなかった。
その弱みに、ワシは付け込まれることになった。
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「ん…なんじゃ…息苦しいのう」
変な時間に起きてしまった。外には光源が無く何も見えない。夜間はいつもそうなのだが、現在は仄かな燐光が知覚できた。
「なんじゃこれは…火?」
五感を凝らすと今陥っている状況が異常事態であると分かった。オレンジ色の光源を背景にチリチリと耳障りな音が聞こえる。どこから発生しているのか見当もつかない。鼻孔に不快な焦げ臭さが届き、皮膚には汗がにじみ出ていた。苦い唾を飲み込むと、目覚めから一気に覚醒していった。
「なんで火が…火の不始末か!?」
そうはいっても、調理には火を使っていないため火の元には心当たりがない。
「やめろっ...やめろ!」
炎は見えていないが、長年寝食を共にしてきた家を蝕んでいるのは分かる。ベッドから転げ落ち、床を這い、隣室のドアを開ける。
途端ごうごうという音と共に熱気が押し寄せてきた。木造の壁は火炎で彩られ壮気盛んな生物のように炎は勢いを増していた。
「ひっ...!火が!」
どうしようも出来ない事を一瞬で悟った。すぐさま後退し、車椅子の元に行こうとする。
そこで見えてしまった。
窓枠の向こう、床から見上げる構図。
窓を介した反対側には、ブロンドの髪を纏めたスーツの男がこちらを見下ろしていた。
すなわち、土地開発を行おうとしていた連中。
「お前が...!火を!放ったのか!」
不審火の原因に辿り着いた。男はワシの姿を見ると、役割を終えたようにどこかに去っていってしまった。
「殺す...殺すぞ!お前も!お前以外の奴も!必ず!」
ワシは怒りと緊張で胸中がはち切れそうだった。見開いた目は男を追おうとするが、隣の部屋から侵食してきた火が視界に入る。
「っ!くそっ!どうにか...誰かっ!」
しどろもどろになりながら助けを呼ぶが、屋内にも屋外にも人はいない。本能的な恐怖が肌を撫でる。
「死ね...死ぬ!うおぉぉっ!誰か!」
もはや冷静になることは不可能だった。足の自由がないワシに炎が襲いかかる。
「熱っ!ひっひいっ!!」
身体を末端から炎で焼かれる感覚は恐ろしいの一言では言い表せないものだった。恐怖によるショックか、二酸化炭素の吸入か。そこからの記憶はなかった。つまり、ワシは炎に焼かれながら失神したのだ。
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「うわっ、ひどい火傷!もう死んでるんじゃないのか?」
「これでも生きてるらしいぜ。人間の生命力ってのは大したもんだな」
セラミック造りの白を基調に彩られた空間。無機質な部屋には小型から大型までハイエンドの医療機器がずらりと設置されている。その中心、しわ一つない合成レザーのベッドに全身に痛々しい大火傷の跡が残る男が寝かされていた。
「しっかし…この手術も意味がわからねぇよな。お前は知ってんだろ?これが何なのかってのも」
全身を白衣で覆ったメガネの男は、シリコンで出来た板を指さしながらもう一人の背の高い男に向き直る。
「黙って私の言うことを聞け、って言わなきゃいけない場面だがな…俺も疑っているんだよ、【人格のプリント】なんてできるかどうかさ」
「へぇー…そりゃ大層な事をするんだな、クローンでも作るのか?」
「いや、言葉の通り本人の意識をこの板に移し替えるらしいぞ」
二人の男はてきぱきと手を動かしながら他愛ない話を続ける。ぴくりとも動かない火傷の男を傍目に、億は下らないであろう機械が最低限の駆動音を発する。
「この火傷野郎の名前なんだっけ、書類に記入しないといけないんだよ」
「えーと、ちょっと待てよ…あった。身内が誰もいない可哀そうなじいさんだったんだよな」
長身の男がノートパソコンのキーボードを叩くと、名前が画面に表示された。
「ロン・フォックス、その書類に記載しとけよ」
塵一つ舞うことがない空間で、無残な姿になった老人の頭ににメスが入れられた。




