第98話 覗かれたくない夜
知られることは、奪われることに似ている。
クラウディオ・ルジェリウスは、ずっとそう思っていた。
血を奪われる。
声を乱される。
喉に牙痕を残される。
床へ落とされる。
皿から飲まされる。
それらはすべて屈辱だった。
だが、心を知られることは、それとは違う。
もっと奥だ。
血よりも深い場所。
王冠よりも、喉よりも、命令する声よりも、さらに内側にあるもの。
そこを見られることだけは、許せない。
地下牢の空気は冷えていた。
石壁には湿気が残り、足元には古い水の匂いがある。銀鎖は以前よりわずかに緩められているが、自由ではない。手首と足首を縛る枷はまだそこにあり、首には雷鎖、脇腹には灰銀印、喉にはルストの牙痕がある。
身体は少し戻っていた。
声も戻りつつある。
だが、血の奥に踏み込まれた感覚だけは、まだ消えなかった。
焼けた砂糖。
火刑台。
菓子屋の女。
王城の冷たい廊下。
妾の子と笑った声。
それらは自分のものだった。
誰にも渡すつもりはなかった。
なのに、ルストは見た。
全部ではないと言った。
匂いだけだと言った。
内容は残さないと言った。
そんな言葉で済むはずがない。
触れた時点で、もう同じではない。
クラウディオは、低く息を吐いた。
「……くだらぬ」
声はまだ少し掠れていた。
だが、王の形は戻りつつある。
低く落とせば、地下牢の石床へ沈む。
命令の声としては完全ではない。それでも、獣の唸りではない。
それだけは、取り戻した。
扉の外で足音がした。
クラウディオの視線が鋭くなる。
重い鉄扉が開き、ルストが入ってきた。
灰銀の髪。
鋼色の瞳。
相変わらず、何を考えているのか分からない顔。
だが、その目が何を見ているのかを、クラウディオはもう知っている。
反応。
血。
声。
記憶。
隠したものへ触れられた時の、ほんのわずかな揺れ。
全部だ。
「見るな」
クラウディオは言った。
ルストは止まる。
今日はいつものように、すぐ「見ている」と返さなかった。
その沈黙が、クラウディオの眉をわずかに動かす。
「……何だ」
低く問う。
「いつもの不愉快な返答はどうした」
ルストは静かに答えた。
「見ている」
「なら最初からそう言え」
「言えば怒る」
「言わなくても腹が立つ」
「知っている」
「知るな」
短いやり取り。
それだけで、少しだけ形が戻る。
クラウディオは自分の声を確かめるように、低く続けた。
「何をしに来た」
「確認だ」
「またか」
「ああ」
「我の血か。喉か。声か。雷鎖か。灰銀印か。それとも、また記憶を覗くつもりか」
最後の言葉だけ、わずかに冷えた。
自分で分かった。
ルストにも分かっただろう。
だが、ルストは踏み込まなかった。
ただ、短く言った。
「今日はしない」
クラウディオの瞳が細くなる。
「今日は、か」
「ああ」
「貴様は本当に、こちらの神経を逆撫でする返答を選ぶ天才だな」
「事実だ」
「その事実という言葉も嫌いだ」
「知っている」
「知るなと言っている」
クラウディオは銀鎖の中で指を握る。
まだ警戒は解けない。
ルストが近づけば、身体は喉を守ろうとする。
噛まれるかもしれない。
血を奪われるかもしれない。
記憶をまた開けられるかもしれない。
そう思ってしまう。
それが屈辱だった。
王が、牙を恐れる。
血を恐れる。
知られることを恐れる。
ありえない。
あってはならない。
クラウディオは、表情を冷たく整えた。
「灰銀」
「何だ」
「我の中を見るな」
「今日は見ない」
「二度と見るなと言っている」
「必要がなければ見ない」
「その必要を作るな」
「お前次第だ」
「貴様のそういうところが、心底腹立たしい」
ルストは、地下牢の中央より少し手前で止まった。
いつもより遠い。
クラウディオはそれに気づく。
気づいてしまう。
距離を保っている。
喉へ牙が届かない距離。
血の匂いが濃くなりすぎない距離。
クラウディオが銀鎖を鳴らす前に、自分で反応を沈められる距離。
管理者としての距離。
それが分かった瞬間、また腹が立った。
「気遣いのつもりか」
「管理だ」
「貴様の管理は気遣いより不愉快だ」
「そうか」
「そうだ」
クラウディオは、低く笑った。
「何故近づかぬ」
「近づけば、お前の血が荒れる」
「荒れぬ」
「荒れる」
「知ったふうに言うな」
「前回、荒れた」
「前回の話をするな」
「分かった」
ルストはそこで本当に止めた。
前回。
血の記憶。
菓子屋。
火刑台。
それ以上言わない。
クラウディオは、逆に息が詰まるような感覚を覚えた。
言わない。
踏み込まない。
それは、ある意味では望んだことだった。
なのに、腹立たしい。
見たくせに。
知ったくせに。
何も言わない。
それはそれで、まるで傷の周囲を丁寧に囲われているようだった。
「……黙るな」
クラウディオは言った。
ルストが見る。
「何を」
「分かっているだろう」
「言わない方がいい」
「誰が決めた」
「俺だ」
「我が決める」
「今のお前は、聞けば荒れる」
「荒れぬ」
「荒れる」
「灰銀」
声が低くなる。
「我の心を、貴様が勝手に判断するな」
ルストは、少しだけ沈黙した。
その沈黙は、これまでの沈黙とは違った。
言葉を選んでいるようだった。
クラウディオはそれも嫌だった。
「今すぐ雑に返せ」
「何?」
「貴様のいつもの不愉快な返答でいい。必要だ、管理だ、確認だ、今は無理だ。そういう腹立たしい言葉で返せ。黙って配慮したような顔をするな」
「配慮ではない」
「なら何だ」
「距離だ」
クラウディオの瞳が動いた。
ルストは続ける。
「こじ開ければ見える。だが、今それをすれば、お前は壊しにかかる。俺をではなく、自分を」
「知ったふうに言うな」
「知った」
短く、静かに。
クラウディオの喉が震えた。
言い返そうとして、言葉が一瞬詰まる。
見られた。
知られた。
そう言われた気がした。
ルストは、そこで踏み込まなかった。
「だから距離を保つ」
「管理者としてか」
「ああ」
「貴様は、どこまでもそれだな」
「そうだな」
「認めるな」
「嘘は言わない」
「本当に腹立たしい男だ」
クラウディオは目を逸らさなかった。
逸らせば負けだ。
だが、ルストが距離を保っている事実が、どうにも気に食わない。
近づかれたくない。
だが、遠ざかられても腹が立つ。
覗かれたくない。
だが、覗いたくせに何も言わないのも腹が立つ。
心を知られたくない。
だが、知られた可能性を抱えたまま無視されるのはもっと腹が立つ。
クラウディオは、低く吐き捨てた。
「面倒だな」
ルストが少し目を動かす。
「自分で言ったか」
「黙れ」
「今のは記録していいか」
「するな!」
声が荒れる。
雷鎖がかすかに鳴った。
クラウディオはすぐに怒りを沈める。
また見られる。
もう見られている。
ルストは言った。
「抑えたな」
「言うと思った」
「言わない方がよかったか」
「言わなくても腹が立つと言っただろうが」
「面倒だな」
「王に面倒と言うな」
「面倒な王だ」
「灰銀、貴様……!」
いつもの応酬が戻る。
少しだけ呼吸がしやすくなる。
そう感じた自分に、クラウディオはさらに腹を立てた。
ルストとのやり取りで調子を戻すなど、冗談ではない。
だが、事実として、刺し合う言葉は自分を王へ戻す。
ルストの沈黙より、腹立たしい返答の方がまだましだった。
「確認は何だ」
クラウディオは、声を整えて問う。
「血脈の乱れ。声の戻り。記憶干渉後の反応」
「最後の項目を消せ」
「消さない」
「消せと言っている」
「必要だ」
「腹立たしい」
「知っている」
「知るな」
ルストは、手にしていた小さな魔導具を床へ置いた。
封具ではない。
血瓶でもない。
雷鎖の制御具でもない。
ただ、血脈の揺れを測るためのものだろう。
クラウディオは一瞬警戒したが、すぐに表情を戻した。
「今日は触れないのか」
「触れない」
「噛まないのか」
「噛まない」
「血も飲ませない」
「飲ませない」
「記憶も覗かぬ」
「覗かない」
短い答えが続く。
クラウディオは眉を寄せた。
「何だ、それは」
「距離だ」
「不愉快だな」
「近づく方がいいか」
「殺すぞ」
「今は無理だ」
「今はな」
そこで、ようやく少しだけいつもの形になる。
クラウディオは薄く笑った。
「そうだ。それでいい」
「何が」
「貴様は腹立たしくいろ。変に静かにするな」
「注文が多い」
「王だからな」
「面倒な王だ」
「二度言うな」
ルストは、クラウディオの喉を見た。
牙痕。
そこに視線が落ちるだけで、クラウディオの身体は微かに反応する。
だが、今日はルストは近づかない。
ただ見ただけで、視線を戻した。
「喉は戻っている」
「当然だ」
「声も昨日より安定している」
「貴様に言われずとも分かっている」
「我、と言えるか」
クラウディオの顔がわずかに冷える。
昨日の屈辱が蘇る。
我と言えなかった夜。
王でいるのをやめろと言われた夜。
王でない自分など要らぬと吐き捨てた夜。
ルストはそれを踏まえた上で、今の距離から問うている。
近づかず。
触れず。
だが、逃がさず。
管理者として。
クラウディオは、低く息を吸った。
「我は」
言えた。
わずかな掠れはある。
だが、詰まらない。
「我は、王だ」
声は地下牢の床へ沈んだ。
完全ではない。
だが、王の声に近い。
ルストは短く言った。
「戻っている」
「だから何だ」
「今日はここまででいい」
「勝手に終わるな」
「無理に続ければ荒れる」
「荒れぬ」
「荒れる」
「また知ったふうに」
「知っている」
その言葉が、少しだけ深く刺さる。
知っている。
何を。
どこまで。
聞きそうになる。
問わない。
クラウディオは、唇を引き結んだ。
「灰銀」
「何だ」
「知ったものを、我の前で盾にするな」
「しない」
「剣にもするな」
「必要がなければしない」
「貴様は本当に、最後の一言が余計だな」
「事実だ」
「その事実ごと嫌いだ」
「知っている」
「知るな」
沈黙が落ちる。
今度の沈黙は、少しだけましだった。
ルストが距離を保っているからか。
こちらが声を取り戻したからか。
それとも、刺し合う言葉で、傷口に蓋をしたからか。
クラウディオには分からない。
分かりたくもない。
「クラウディオ」
「その名を呼ぶな」
「今日は、血の奥には触れない」
「今日は、ではない。二度とだ」
「それは約束できない」
「なら黙れ」
「ただ、今は触れない」
ルストの声は静かだった。
「お前が閉じているものを、今は開けない」
クラウディオの瞳が、わずかに揺れる。
今は。
まただ。
その言葉は嫌いだ。
だが、今は開けない。
それだけは、事実として置かれた。
クラウディオは、低く笑った。
「優しさか」
「管理だ」
「その方がましだ」
「そうか」
「そうだ。優しさなどと言われたら、噛み殺していた」
「今は無理だ」
「今はな」
また、いつもの形。
クラウディオは少しだけ肩の力を抜いた。
ほんの少し。
だが、ルストはそれを見た。
「少し落ち着いたな」
「黙れ」
「言わない方がよかったか」
「言っても言わなくても腹が立つ」
「知っている」
「知るな」
ルストは、床の魔導具を回収した。
「確認は終わりだ」
「最初から短くしろ」
「今日は短くした」
「恩を売るな」
「売っていない」
「ならその顔をやめろ」
「顔は変えていない」
「存在が腹立たしい」
ルストは扉へ向かった。
クラウディオはその背を睨む。
聞きたいことは、まだある。
何を見た。
菓子屋の女を、どんなふうに見た。
火刑台の煙を、どう受け取った。
王城の声を聞いたのか。
そんな問いは、全部喉の奥で潰した。
本心も、心も、知られたくない。
知られたかもしれないと認めたくもない。
だから問わない。
ルストも、今日はこじ開けない。
それが妙に不安で、妙に腹立たしく、ほんの少しだけ息がしやすかった。
最悪だ。
クラウディオは、そう思った。
ルストが扉を開ける。
その前に、クラウディオは低く言った。
「灰銀」
ルストが振り返る。
「何だ」
「我の中に入るな」
それは何度も言った言葉だった。
だが、今夜は少し違った。
命令というより、境界線だった。
ルストは、短く答える。
「今は入らない」
「二度と入るな」
「それは約束できない」
「貴様……」
「だが、今は距離を保つ」
クラウディオは黙った。
腹立たしい。
本当に、腹立たしい。
だが、今だけはそれ以上言わなかった。
ルストは扉の向こうへ出た。
重い音が閉まる。
地下牢に、クラウディオだけが残る。
彼は、しばらく扉を睨み続けた。
やがて、低く息を吐く。
「管理者気取りめ」
声はまだ掠れている。
だが、王の声だった。
覗かれたくない夜は、終わらない。
心を閉じても、血は覚えている。
記憶は匂いを持つ。
ルストはそれを知っている。
そして今夜、知っていながら距離を取った。
クラウディオは、それを許したわけではない。
認めたわけでもない。
ただ、今は扉の向こうに追いやっただけだ。
彼は、喉の奥で低く呟いた。
「我は、王だ」
その声は、今夜も地下牢の石床へ沈んだ。
誰にも覗かれないように。
自分自身に言い聞かせるように。




