第101話 名を呼ばない王
名を呼ばないことは、拒絶だった。
クラウディオ・ルジェリウスにとって、それは最後に残された境界線だった。
血は奪われた。
喉には牙痕を残された。
脇腹には灰銀印を刻まれ、首には雷鎖を嵌められた。
床の血へ這い寄った。
低い器の血を舐めた。
身体はルストの血を覚え、声は封具で揺らされ、記憶の奥にまで踏み込まれた。
それでも、まだ奪われていないものがある。
名を呼ばないこと。
ルスト。
その名を、クラウディオは決して口にしない。
灰銀。
貴様。
狩人風情。
王に牙を立てた男。
管理者気取りの災厄。
いくらでも呼び方はある。
だが、名だけは呼ばない。
名を呼べば、相手を個として認める。
灰銀という色でも、牙痕でも、拘束具でもなく、そこにいる一人の吸血鬼として認める。
冗談ではない。
認めるものか。
クラウディオは、地下牢の石壁にもたれたまま、喉の奥で低く息を吐いた。
血の匂いは薄い。
今日はルストがまだ来ていない。
扉の向こうは静かで、銀鎖が自分のわずかな動きに合わせて小さく鳴るだけだった。
だが、匂いは残っている。
灰銀の血の匂い。
苦く、冷たく、古い血。
そして、その奥にあったもの。
同じ血の匂い。
同族喰いの禁忌に近い、濁った残り香。
クラウディオは、その匂いを思い出して顔を歪めた。
「……くだらぬ」
誰に向けた言葉でもなかった。
自分へ向けた言葉に近かった。
何を考えている。
灰銀の過去など知る必要はない。
あの男が何を喰ったか、誰を失ったか、どんな名を捨てたか、そんなものはどうでもいい。
そう思う。
そう思おうとする。
だが、血は覚えている。
あの匂いを。
同じではない。
だが、近い。
クラウディオが王冠へ至るために越えた禁忌とは、質が違う。
ルストの血の奥にあるそれは、もっと古く、深く、静かだった。
激情の匂いではない。
積み重なった夜の底に沈んだ、古い禁忌の匂いだった。
あの男も、こちら側の血を知っている。
クラウディオは、そう感じた。
確信ではない。
だが、疑念はもう消えない。
扉の外で足音がした。
クラウディオは視線を上げる。
重い鉄扉が開き、ルストが入ってきた。
灰銀の髪。
鋼色の瞳。
何も言わない顔。
何も見逃さない目。
その姿を見た瞬間、クラウディオの喉の奥にいつもの拒絶が立ち上がった。
「灰銀」
名ではない。
拒絶の呼び名。
だが、声にした瞬間、クラウディオはわずかに違和感を覚えた。
その響きが、以前と違う。
ただの侮蔑ではない。
ただの敵意でもない。
そこに、昨日嗅いだ血の匂いが混じっている。
同じ禁忌を知るかもしれない者へ向ける、探るような響き。
クラウディオはその変化に気づき、すぐに不快になった。
ルストは足を止めた。
「何だ」
「何だ、ではない。入ってくるなと言った覚えはないが、入っていいとも言っていない」
「許可は取らない」
「王の前だぞ」
「知っている」
「なら取れ」
「取らない」
「灰銀、貴様……」
そこまで言って、クラウディオはまた喉の奥で引っかかりを覚えた。
灰銀、貴様。
いつもの罵倒。
だが、昨日までより少しだけ近い。
距離を取るための呼び名だったはずなのに、その呼び名が繰り返されるほど、クラウディオだけが使う呼び名として形を持ち始めている。
それが、ひどく気に入らなかった。
「どうした」
ルストが言う。
クラウディオの瞳が鋭くなる。
「何がだ」
「声が止まった」
「止めたのだ」
「なぜ」
「貴様に答える義務はない」
「そうか」
ルストはそれ以上、追及しなかった。
それもまた腹立たしい。
踏み込まれれば怒る。
踏み込まれなければ、それも腹が立つ。
クラウディオは自分の感情の面倒さに気づき、余計に苛立った。
全部ルストが悪い。
そう結論づける。
非常に便利な結論だった。人間も吸血鬼も、自分の厄介さを他人のせいにすると健康にいいらしい。精神の栄養としてはジャンクフードだが。
「クラウディオ」
ルストが名を呼んだ。
淡々と。
いつものように。
クラウディオの喉が、わずかに動く。
「その名を呼ぶな」
「呼ぶ」
「呼ぶなと言っている」
「お前は俺を名で呼ばない」
「当然だ」
「俺は呼ぶ」
「勝手にするな」
「勝手にする」
「灰銀」
クラウディオは、低く吐き捨てた。
しかし、吐き捨てたはずの音が、また妙に引っかかる。
灰銀。
髪の色。
牙痕の色。
封具の冷たさ。
血の古さ。
そして、昨日嗅いだ禁忌の匂い。
その全部が、今はその二文字に薄く重なっている。
クラウディオは顔を歪めた。
「……不愉快だ」
「何が」
「貴様の存在がだ」
「いつものことだな」
「流すな」
「では何が不愉快だ」
「それを我に聞くな」
「自分で分かっていないのか」
クラウディオの表情が冷えた。
「知ったふうに言うな」
「違うなら答えろ」
「貴様が不愉快だ。それで足りる」
「足りない」
「王の言葉に不足を唱えるな」
「その王の言葉が、さっき止まった」
ルストは淡々と言った。
クラウディオの指先が、銀枷の中でわずかに動く。
ちり、と鎖が鳴る。
「貴様は、我の声の乱れを楽しんでいるのか」
「確認している」
「同じだ」
「違う」
「違わぬ」
クラウディオは、ルストを睨んだ。
「貴様が我の声を乱した。封具で揺らし、喉を噛み、血を奪い、王の言葉を詰まらせた。そのくせ、今度は声が止まった理由を問うのか」
「気になったからな」
「気にするな」
「無理だ」
「なぜ」
聞いた瞬間、クラウディオは自分で腹が立った。
なぜ、などと聞く必要はなかった。
ルストは少しだけ沈黙した。
それから答える。
「お前が止まったからだ」
簡単な答えだった。
それだけ。
クラウディオは目を細める。
「我が止まれば、気になるのか」
「ああ」
「管理者としてか」
「そうだな」
「そうだな、とは何だ」
「それだけではないかもしれない」
地下牢の空気が、少しだけ変わった。
クラウディオは、ルストを睨んだまま動かなかった。
「……何?」
ルストは、それ以上言わない。
クラウディオの胸の奥で、得体の知れない不快感が膨らんだ。
「言え」
「今は言わない」
「貴様はいつもそれだな」
「言えばお前が荒れる」
「荒れぬ」
「荒れる」
「決めつけるな」
「今、荒れている」
「黙れ」
雷鎖が低く鳴る。
クラウディオは息を詰め、怒りを沈めた。
また見られた。
だが、ルストはその反応に触れない。
触れないことが、また不快だった。
「言え」
クラウディオは低く命じた。
「何を」
「それだけではない、の続きをだ」
「必要ない」
「我が聞いている」
「答えない」
「灰銀、貴様……」
まただ。
灰銀。
その呼び名に、いままでと違う何かが滲んでしまう。
怒り。
拒絶。
探り。
そして、ほんのわずかな興味。
ルストが何者なのか。
何を喰ったのか。
どんな名を閉じているのか。
自分と同じ血の匂いの正体は何か。
その疑念が、灰銀という呼び名の中へ混じる。
クラウディオはそれに気づき、唇を歪めた。
「気に入らぬ」
「俺がか」
「当然だ」
「他には」
「貴様が、我にそれを問わせることがだ」
「問わせたつもりはない」
「貴様は存在するだけで問いを増やす」
「面倒な評価だな」
「王に面倒と言うな」
「面倒な王だ」
「灰銀!」
声が少し強くなる。
今度は雷鎖が鳴らなかった。
怒りが血に乗る前に、クラウディオは喉で押さえた。
声は戻りつつある。
王の声へ。
だが、呼び名だけは以前とまったく同じではいられない。
それが気に入らない。
「名前を呼べ」
ルストが言った。
いつものように。
クラウディオは即座に返す。
「灰銀」
「名前で」
「灰銀」
「ルストだ」
「灰銀」
「クラウディオ」
「灰銀、貴様」
呼び合いが地下牢に落ちる。
何度も繰り返した応酬。
だが、今夜は音の重みが違う。
ルストは名で呼ぶ。
クラウディオは拒絶で返す。
その構図は変わらない。
しかし、クラウディオの中で「灰銀」は、単なる拒絶だけではなくなり始めている。
敵。
管理者。
血を奪った男。
記憶を覗いた男。
そして、自分と同じ禁忌の匂いを持つかもしれない男。
その全部を含めた呼び名になりつつある。
クラウディオは、それを認めたくなかった。
「なぜ黙る」
ルストが問う。
クラウディオは赤い瞳を細めた。
「黙っていない」
「返答が遅れた」
「貴様の名を聞くと不快で、耳が腐る」
「吸血鬼はその程度で腐らない」
「比喩にまで真面目に返すな」
「面倒だな」
「貴様がな」
ルストは少しだけ目を伏せた。
笑ったわけではない。
ただ、わずかな変化だった。
クラウディオはそれを見逃さない。
「何だ」
「いや」
「言え」
「灰銀、の音が変わった」
クラウディオの表情が止まる。
ルストは、静かに続けた。
「前より、ただの罵倒ではない」
地下牢の空気が、一瞬で冷えた。
クラウディオの瞳が赤く燃える。
「……貴様」
「自覚していたのか」
「黙れ」
「やはりか」
「黙れと言っている!」
雷鎖が鳴った。
首元に青白い光が走る。
クラウディオは怒りを沈め損ねかけた。
心臓の手前へ冷たい痛みが落ちる。
「ぐ、ッ……!」
身体が跳ねる。
銀鎖が鳴る。
だが、短い。
警告だけ。
クラウディオは荒い息を吐き、ルストを睨みつけた。
「貴様は本当に、触れられたくないところを踏むのが上手いな」
「聞こえたから言った」
「言うな」
「言わなければ、お前はもっと苛立つ」
「言っても腹が立つ」
「知っている」
「知るな!」
声が荒れかけ、クラウディオはすぐに抑えた。
見られる。
また。
だが、もう遅い。
ルストは見ている。
「灰銀という呼び方は、拒絶だと言ったな」
「そうだ」
「今も拒絶か」
「当然だ」
「それだけか」
「それだけだ」
即答。
早すぎる。
クラウディオは、自分でも分かっていた。
ルストも分かっている。
だが、ルストはすぐには言わなかった。
その沈黙が、逆に腹立たしい。
「何か言え」
「言えば怒る」
「言わなくても腹が立つ」
「なら言う」
「言うな」
クラウディオは自分で言ってから舌打ちした。
ルストが少しだけ目を細める。
「どちらだ」
「貴様が決めるな」
「お前も決めていない」
「黙れ」
ルストは、静かに言った。
「灰銀と呼ぶことで、まだ俺を拒んでいる」
「そうだ」
「だが、その拒絶の中に俺の血の匂いも混じった」
クラウディオの喉が震えた。
ルストは続ける。
「昨日の話か」
「黙れ」
「同じ血の匂い」
「黙れと言っている」
「お前はそれを忘れていない」
「忘れるわけがないだろう」
言ってしまった。
クラウディオは一瞬、表情を歪める。
ルストは聞いている。
もちろん、聞いている。
「そうか」
「違う」
「今、忘れるわけがないと言った」
「貴様の弱点になり得るものを忘れぬと言っただけだ」
「そうか」
「そうだ」
「なら、灰銀の中にそれも入った」
クラウディオは黙った。
言い返したかった。
違う、と。
だが、違わない。
それが最悪だった。
灰銀。
その呼び名の中に、昨日嗅いだ血の匂いが混じっている。
同族喰いの疑念。
閉じられた本名。
灰になったもの。
ルストの過去の影。
それらを含んでしまった。
クラウディオは、低く笑った。
「……ならば、なおさら名など要らぬ」
ルストが見る。
「灰銀で十分だ。貴様の色も、血も、禁忌の匂いも、その不愉快な沈黙も、全部その呼び名に詰めてやる」
赤い瞳が、冷たく光る。
「貴様は我の前で、灰銀でいろ」
ルストは黙っていた。
しばらく。
そして、短く言った。
「分かった」
クラウディオは眉を動かす。
「分かった、ではない。反論しろ」
「なぜ」
「腹が立つからだ」
「面倒だな」
「王に面倒と言うな」
「面倒な王だ」
「貴様……!」
やり取りはいつもと同じ。
だが、どこかが違う。
クラウディオは、その違いを認めない。
認めるものか。
ただ、呼び名の中に余計なものが増えただけだ。
敵意の材料が増えただけだ。
そういうことにした。
「名前を呼べ」
ルストが、もう一度言う。
クラウディオは即座に返す。
「灰銀」
「クラウディオ」
「灰銀」
「ルストだ」
「灰銀」
迷わない。
そこだけは。
どれほど呼び名に違う感情が滲み始めても、名は呼ばない。
その拒絶はまだ崩れない。
ルストは、わずかに近づいた。
クラウディオの身体が警戒する。
だが、以前ほど乱れない。
距離を測る。
血の匂いを拾う。
そして、目を逸らさない。
「近づくなとは言わないのか」
ルストが問う。
クラウディオは低く笑った。
「言えば止まるのか」
「場合による」
「なら言わぬ」
「なぜ」
「貴様に判断材料を与えたくない」
「もう十分ある」
「黙れ」
ルストは、本当にそれ以上近づかなかった。
クラウディオはその距離を見た。
管理者としての距離。
そして、灰銀の距離。
その違いを考えそうになり、すぐにやめた。
くだらない。
考える必要はない。
「今日は何の確認だ」
クラウディオは問う。
「声。血脈。呼称への反応」
「最後を消せ」
「消さない」
「消せと言っている」
「必要だ」
「最悪だな」
「お前に言われたくない」
「我は美しく最悪だ。貴様は呼び方まで記録する最悪だ」
「分類はいらない」
「要る」
クラウディオは、少しだけ息を整えた。
「記録するなら、こう書け」
「何を」
「クラウディオ・ルジェリウスは、今夜も灰銀を灰銀と呼んだ。名など呼ぶ価値なし」
「偏っているな」
「我の記録だ。当然だ」
「俺の記録では少し変わる」
「どう変わる」
「灰銀という呼称に、敵意以外の反応が混じり始めている」
クラウディオの表情が冷えた。
「今すぐその記録を燃やせ」
「まだ書いていない」
「なら書くな」
「書く」
「殺すぞ」
「今は無理だ」
「今はな!」
声が荒れた。
だが、すぐに整える。
喉を守る。
王の声を守る。
拒絶を守る。
クラウディオは低く告げた。
「灰銀」
「何だ」
「貴様がどう記録しようと、我は名を呼ばぬ」
「知っている」
「知っていて要求するか」
「ああ」
「不愉快だ」
「それも知っている」
「知るな」
ルストは扉へ向かった。
クラウディオは、その背を見た。
灰銀。
呼び名の中に、昨日までと違う影がある。
それでも、名ではない。
まだ敵だ。
まだ拒絶だ。
まだ境界線だ。
扉の前で、ルストが振り返る。
「クラウディオ」
「その名を呼ぶな」
「また呼ぶ」
「我もまた返す」
「灰銀、と」
「そうだ」
クラウディオは、赤い瞳を細めた。
「灰銀。貴様は、それで十分だ」
ルストはしばらく黙り、やがて短く答えた。
「今はな」
扉が閉まる。
重い音が地下牢に響いた。
クラウディオは、しばらくその扉を睨み続けた。
今はな。
その言葉が腹立たしい。
未来を勝手に置くな。
変化を前提にするな。
名を呼ぶ日など来ない。
来るものか。
クラウディオは、銀鎖の中で指を握った。
「灰銀」
低く呟く。
そこにはまだ拒絶がある。
怒りもある。
だが、それだけではないものが、ほんのわずかに混じっている。
クラウディオは、それを認めない。
認めるわけがない。
だから、もう一度、今度はもっと冷たく吐き捨てた。
「灰銀」
その音は地下牢の石壁に沈んだ。
名を呼ばない王は、まだ拒絶を手放さない。
たとえ、その拒絶の色が、少しずつ変わり始めていても。




