第102話 手当ての沈黙
手当てという言葉ほど、クラウディオ・ルジェリウスに似合わないものはなかった。
少なくとも、本人はそう思っていた。
傷は治すものではない。
治るものだ。
吸血鬼の身体ならば、血さえ巡れば裂けた肌も塞がる。骨が軋もうが、銀で焼かれようが、喉を噛まれようが、王血が戻れば再生は始まる。
だから、手当てなど必要ない。
誰かに触れられる理由もない。
ましてや、ルストに。
灰銀の男に。
自分の喉を噛み、血を啜り、床へ落とし、皿で飲ませ、記憶の奥へ踏み込み、声を乱した男に。
その男に手当てをされるなど、屈辱以外の何でもなかった。
「触るな」
クラウディオは低く言った。
声はかなり戻っていた。
だが、まだ完全ではない。怒りを強く乗せると喉の奥がわずかに掠れる。封具の苦味は薄れたが、消えきってはいない。血を啜られた痕も、完全に馴染んだわけではない。
それでも、声は王の形を取り戻しつつある。
だから、クラウディオはその声で命じた。
「我に触れるな、灰銀」
ルストは答えなかった。
地下牢の灯りは薄い。
石壁の湿り気が、光を鈍く反射している。銀鎖はまだクラウディオの四肢を縛っていたが、罰の直後よりは緩められていた。首には雷鎖。脇腹には灰銀印。喉には重なった牙痕。
そして、手首には新しい擦過傷があった。
銀枷を引いた跡。
声を乱され、名を拒み、怒りを抑えきれずに鎖を鳴らした結果だった。
吸血鬼なら放っておいても塞がる。
だが、銀が触れた傷は遅い。
王血であっても、回復が鈍る。
ルストは、そこを見ていた。
「見るな」
「見ている」
「見なくていい」
「手当てする」
「不要だ」
「必要だ」
「その言葉をやめろ」
「やめない」
いつもの返答。
いつもの腹立たしさ。
クラウディオは低く笑った。
「貴様の必要は、いつも我の屈辱の別名だな」
「そういう時もある」
「否定しろ」
「嘘になる」
「本当に不愉快な男だ」
ルストは布と小瓶を持っていた。
小瓶の中には、銀の灼けを沈めるための薬液が入っている。吸血鬼用のものだ。人間なら毒に近いが、吸血鬼には血脈の乱れを鎮める。甘い匂いはしない。むしろ苦く、冷たい匂いがする。
クラウディオは、その匂いだけで顔を歪めた。
「そんなものを近づけるな」
「銀の傷に使う」
「我の身体が勝手に治す」
「遅い」
「待てばいい」
「悪化する」
「貴様に心配される筋合いはない」
「心配ではない」
「なら何だ」
「管理だ」
「最悪だな」
「知っている」
「知るな」
ルストが近づいた。
クラウディオの身体が、ほんのわずかに強張る。
気づく。
自分で気づいてしまう。
近づかれただけで身体が反応する。噛まれるかもしれない。血を飲まされるかもしれない。雷鎖を使われるかもしれない。封具を近づけられるかもしれない。
それらの記憶が、身体を先に動かす。
クラウディオはその反応を憎んだ。
ルストは、それを見た。
当然のように。
「近づくと荒れるな」
「黙れ」
「今日は噛まない」
「当たり前だ」
「血も飲ませない」
「当たり前だ」
「封具も使わない」
「当たり前だと言っている」
「手当てだけだ」
「それも不要だ」
ルストは、クラウディオの前で膝をついた。
クラウディオの眉が動く。
床へ膝をつく。
それは本来、王の前で臣下がする仕草だ。
だが、今のルストのそれは服従ではない。傷を見るための姿勢だった。手首の位置に合わせ、布と薬液を扱いやすくするための動き。
何一つ、跪いたわけではない。
それがまた腹立たしい。
「紛らわしいことをするな」
「何が」
「その姿勢だ」
「手当てしにくい」
「王の前で膝をつくなら、もっと畏れを込めろ」
「無理だな」
「即答するな」
ルストはクラウディオの手首へ手を伸ばした。
クラウディオは反射的に腕を引こうとした。
銀鎖が鳴る。
ちり、と軽い音。
手首の傷が枷に擦れて、鋭い痛みが走った。
クラウディオは顔を歪めないようにした。
ルストは見ていた。
「動くな」
「命じるな」
「動けば傷が開く」
「我の傷だ」
「俺が塞ぐ」
「貴様が塞ぐな」
「開かせたのも俺だ」
その言葉に、クラウディオの瞳が冷えた。
「なら、なおさら触るな」
「だから触る」
「意味が分からぬ」
「俺の管理下でついた傷だ」
「我は貴様の所有物ではない」
「所有ではない」
「管理でも同じだ」
「違う」
「違わぬ」
クラウディオは低く吐き捨てた。
だが、手首を引くのはやめた。
銀に擦れる痛みが嫌だったからではない。
断じて違う。
ルストに触れられる前に、無様に傷を広げるのが馬鹿らしいだけだ。
そう思うことにした。
ルストの指が、クラウディオの手首に触れた。
冷たい指だった。
だが、死体の冷たさではない。
古い吸血鬼の体温。
血の奥に夜を沈めたものの冷たさ。
クラウディオの身体が、またわずかに反応する。
それを知られたくなくて、彼は口を開いた。
「灰銀」
「何だ」
「貴様の手は不愉快だ」
「そうか」
「そこで流すな。悔いろ」
「手当てが終わったら考える」
「絶対に考えぬ顔をしている」
「分かるのか」
「腹立たしいからな」
ルストは布を薬液に浸した。
匂いが強くなる。
苦く、冷たい。
クラウディオは顔をしかめた。
「不味そうな匂いだ」
「飲むものではない」
「貴様なら飲ませかねぬ」
「必要なら」
「言うと思った」
薬液を含んだ布が、手首の傷へ触れた。
じわりと冷たい感覚が広がる。
直後、銀の灼けに染み込むような鈍い痛みが来た。
クラウディオの指先が、わずかに跳ねる。
声は出さない。
出してたまるか。
ルストは、布を押し当てたまま静かに言った。
「痛むか」
「痛まぬ」
「嘘だな」
「痛まぬと言っている」
「指が動いた」
「貴様の顔が腹立たしかっただけだ」
「便利な理由だな」
「王だからな」
「そこに繋がるのか」
「繋げるのだ」
ルストはそれ以上、痛みについて追及しなかった。
それが、妙に腹立たしい。
クラウディオは視線を逸らさず、ルストの手元を見ていた。
丁寧だった。
乱暴ではない。
罰を与える時のように、力で押さえ込む手ではない。牙を喉に沈める時のように、逃がさない手でもない。雷鎖を制御する時のように、淡々と痛みを落とす手でもない。
ただ、傷を拭いている。
銀の灼けを抑え、血の流れを整え、余計な刺激を残さないように布を動かしている。
その沈黙が、クラウディオには耐えがたかった。
罵倒された方がましだ。
管理だと言われた方がましだ。
無様だったと言われた方が、まだ噛み返せる。
何も言わずに手当てされると、反撃する場所がない。
「何か言え」
クラウディオは低く言った。
ルストは手を止めない。
「何を」
「貴様の不愉快な確認でいい」
「傷は浅い。銀の灼けは残る。血脈の乱れは軽い。回復はする」
「本当に不愉快だな」
「言えと言った」
「限度がある」
ルストは、別の布で薬液を拭き取った。
手首に残った傷は、すでに少し沈み始めている。吸血鬼の回復力と薬液が合わさった結果だ。赤く灼けた線はまだ残っているが、これ以上広がることはないだろう。
それが分かるから、クラウディオはさらに腹が立った。
手当てが効いている。
ルストの血と同じだ。
嫌なのに効く。
拒絶したいのに、身体は楽になる。
最悪だった。
「効いているな」
ルストが言った。
クラウディオの視線が鋭くなる。
「黙れ」
「傷が沈んだ」
「黙れと言っている」
「薬液が合った」
「貴様が用意したものが我に合うことを喜ぶな」
「喜んでいない」
「ならその顔をやめろ」
「顔は変えていない」
「存在ごと腹立たしい」
ルストは、次に足首の傷を見た。
クラウディオの顔が冷える。
「そこは見るな」
「枷が擦れている」
「見るなと言っている」
「手当てする」
「不要だ」
「必要だ」
「その言葉をやめろ!」
声が少し荒れた。
雷鎖が低く鳴る。
クラウディオは息を詰める。
まただ。
怒りを抑える。
その様子をルストが見る。
だが、今は何も言わない。
それもまた腹立たしい。
「言え」
「何を」
「抑えたな、とでも言うのだろう」
「今は手当て中だ」
「だから何だ」
「動かれると困る」
「我の反応より手当てを優先するのか」
「そうだ」
短い返答。
クラウディオは一瞬、言葉を詰まらせた。
反応を見るより、手当てを優先する。
管理者としては当然かもしれない。
だが、ルストはいつも何もかも見ている。
だから、その優先順位の変化が妙に気持ち悪かった。
「……気色が悪い」
「何が」
「貴様が普通に手当てをしていることがだ」
「普通ではない」
「何が違う」
「拘束中だ」
「最悪の補足をするな」
ルストは足首の枷に触れた。
クラウディオは、今度は強く拒もうとした。
だが、動けば傷が擦れる。
それが分かる。
分かってしまう。
だから、完全には振り払えない。
クラウディオの指が、銀鎖の中で握られる。
「……触るな」
声が少し低くなった。
拒絶はある。
だが、先ほどより弱い。
自分でそれが分かる。
ルストも分かっている。
「触る」
「灰銀」
「何だ」
「我は許していない」
「知っている」
「なら触るな」
「手当てが終わるまで触る」
「貴様は本当に……」
クラウディオは言葉を飲み込んだ。
布が足首の傷へ触れる。
冷たい薬液。
鈍い痛み。
皮膚の下で、血脈がわずかに震える。
だが、すぐに落ち着いていく。
効いている。
また。
クラウディオは目を細めた。
「貴様のすることは、いつも不愉快なほど効く」
ルストの手が、一瞬だけ止まった。
クラウディオはそれを見た。
「何だ」
「今のは、褒めたのか」
「侮辱だ」
「そうか」
「そうだ」
ルストは手当てを続ける。
沈黙。
布が傷を拭う音だけがする。
クラウディオは、その音を聞きながら、なぜか以前の吸血音を思い出した。
じゅる、と血を啜る音。
床の血を舐めた音。
皿の血を飲んだ音。
そして今、傷を拭われる音。
どれもルストが関わっている。
不愉快だ。
あまりにも、不愉快だ。
「灰銀」
「何だ」
「貴様の音は嫌いだ」
「音?」
「血を啜る音。鎖を鳴らす音。封具を近づける音。薬液を絞る音。全部だ」
「そうか」
「そうか、ではない。反省しろ」
「手当て中は無理だ」
「手当て後ならするのか」
「しない」
「即答するな」
言い合いながらも、足首の手当ては終わっていく。
クラウディオは気づいていた。
自分が、もう強く振り払おうとしていないことに。
拒絶はある。
怒りもある。
屈辱もある。
だが、完全には振り払っていない。
それは身体が弱っているからだ。
そうだ。
それだけだ。
傷を広げるのが馬鹿らしいからだ。
ルストの手当てが効いているからではない。
その沈黙が、妙に苦ではないからではない。
断じて違う。
「……何を見ている」
ルストが言った。
今度はルストの方が問うた。
クラウディオは、いつの間にかルストの手元を見ていたことに気づく。
すぐに顔を背ける。
「見ていない」
「見ていた」
「貴様の手つきが下手か確認していただけだ」
「どうだった」
「腹立たしいほど下手ではない」
「そうか」
「喜ぶな」
「喜んでいない」
「貴様の無表情は何を考えているか分からぬから、なおさら不愉快だ」
ルストは足首の布を結び終えた。
締めすぎず、緩すぎず。
動いても傷を擦らない程度に。
クラウディオはそれを見て、また腹が立つ。
丁度よい。
その丁度よさが嫌だった。
この男は、罰も手当ても、距離も、血も、声も、何もかも丁度よく管理しようとする。
最悪だ。
「終わった」
ルストが言った。
クラウディオはすぐに返す。
「なら離れろ」
ルストは立ち上がった。
言われた通りに。
離れる。
そのことに、クラウディオはなぜか一瞬だけ苛立った。
離れろと言ったのは自分だ。
その通りに離れた。
何が腹立たしい。
全部だ。
ルストの存在が。
結論は簡単だった。
「何だ」
ルストが見ている。
「何もない」
「顔が不満そうだ」
「常に不満だ。貴様がいるからな」
「そうか」
「そうだ」
ルストは、使った布と小瓶を片づけた。
クラウディオは、手当てされた手首と足首を見ないようにした。
見れば、効いていることが分かる。
傷が落ち着いていることが分かる。
それを認めたくなかった。
「灰銀」
「何だ」
「次から手当てなど不要だ」
「必要ならする」
「不要だと言っている」
「必要ならする」
「貴様は本当に同じ返答しかしないな」
「お前も同じ拒絶をする」
「拒絶されているなら諦めろ」
「諦める理由がない」
「ある。我が嫌がっている」
「知っている」
「知っていてやるか」
「そうだ」
「最低だな」
「お前に言われたくない」
「我は美しく最低だ。貴様は手当てまで最低だ」
「分類はいらない」
「要る。我の気が済む」
ルストは扉へ向かった。
いつもなら、そこでクラウディオは「出ていけ」と命じる。
今夜もそう言うつもりだった。
だが、言葉が少し遅れた。
理由は分からない。
いや、分かりたくない。
ルストが手当てを終えたばかりで、地下牢の空気が少しだけ違っていたからなど、認めるものか。
「出ていけ」
遅れて、ようやく言った。
ルストは振り返る。
「今日はここまでだ」
「勝手に締めるな」
「傷を動かすな」
「命じるな」
「また開く」
「開いたら勝手に塞がる」
「また手当てする」
「脅しか」
「管理だ」
「最悪だな」
「知っている」
「知るな」
扉が開く。
ルストは外へ出る。
閉まる直前、クラウディオは低く言った。
「灰銀」
「何だ」
「礼など言わぬぞ」
ルストは一拍だけ黙った。
「求めていない」
「ならいい」
「だが、傷は見る」
「見るな」
「見る」
「貴様……」
「動かすな」
「命じるな」
「クラウディオ」
「その名を呼ぶな」
いつものやり取り。
だが、ルストの声は少しだけ静かだった。
「傷を開くな」
それだけ言って、扉が閉まった。
地下牢に、クラウディオだけが残る。
彼はしばらく扉を睨んでいた。
それから、手首へ目を落とす。
布が巻かれている。
丁寧に。
腹立たしいほど丁寧に。
傷は痛むが、先ほどよりずっと楽だった。
それがまた腹立たしい。
「……不要だと言っただろうが」
低く呟く。
返事はない。
地下牢の石壁が、ただその声を吸い込むだけだった。
クラウディオは手首を動かしかけ、布が擦れないように無意識に止めた。
止めてしまった。
ルストの手当てを無駄にしないような動き。
それに気づいた瞬間、彼はひどく顔を歪めた。
「ふざけるな」
誰に向けた言葉か分からなかった。
ルストへか。
自分へか。
それとも、完全には振り払えなかったこの沈黙へか。
クラウディオは目を閉じなかった。
手当てされた布を見下ろし、喉の奥で低く吐き捨てた。
「灰銀、貴様」
それは拒絶だった。
だが、その声の中には、先ほどまでの手当ての沈黙がまだ残っていた。
消したくても、消えない。
血が記憶するように。
傷もまた、触れられた手を覚える。
クラウディオは、その事実を認める代わりに、もう一度だけ低く言った。
「いつか殺す」
王の声だった。
だが、今夜はその声が、いつもより少しだけ静かだった。




