第103話 甘くない優しさ
手当てされた布は、まだ手首に巻かれていた。
白い布。
銀で擦れた傷を覆うためのもの。
余計な装飾も、慰めの言葉も、柔らかな結び目もない。必要な場所に、必要な強さで、必要なだけ巻かれている。
腹立たしいほど、過不足がなかった。
クラウディオ・ルジェリウスは、それを見下ろしていた。
地下牢の石壁は湿っている。冷たい空気が肌を撫でる。首には雷鎖、脇腹には灰銀印。喉には牙痕。手首と足首には銀鎖。
自由などない。
王の身体は、いまだ灰銀の管理下にある。
それなのに、手首の布だけが妙に静かだった。
罰ではない。
拘束でもない。
封具でもない。
血を奪うものでも、声を乱すものでもない。
ただ、傷を塞ぐための布。
その事実が、クラウディオにはひどく不快だった。
「……くだらぬ」
低く吐き捨てる。
誰もいない地下牢に、その声だけが落ちた。
布を外そうと思えば、外せる。
手首は拘束されているが、指は動く。爪を引っかければ、ほどけなくもない。
だが、外せば傷が擦れる。
血が滲む。
銀の灼けがまた広がる。
そう分かっているから、外さない。
外さない自分が、さらに腹立たしい。
まるで、ルストの手当てを受け入れているようだった。
違う。
傷を悪化させるのが馬鹿らしいだけだ。
王の判断だ。
合理的な判断だ。
ルストの手当てが効いたからではない。
断じて違う。
扉の向こうで足音がした。
クラウディオの赤い瞳が、すっと上がる。
重い鉄扉が開いた。
入ってきたのは、やはりルストだった。
灰銀の髪。
鋼色の瞳。
いつも通り、無表情で、何も見逃さない顔。
その手には、小さな盆があった。
血瓶。
替えの布。
薬液。
そして、水の入った小さな器。
クラウディオは、それを見た瞬間、眉を寄せた。
「また手当てか」
「確認だ」
「その盆の中身は、確認というより介抱に見えるがな」
「管理だ」
即答。
クラウディオは低く笑った。
「便利な言葉だな、管理」
「便利だ」
「認めるな」
「事実だ」
「その事実という言葉も嫌いだ」
「知っている」
「知るな」
やり取りはいつも通りだった。
だが、ルストはいつもより静かだった。
近づきすぎない。
牙の届く距離ではない。
血の匂いが濃くなりすぎない距離。
クラウディオが警戒しても、雷鎖がすぐに鳴らない程度の距離。
管理者の距離。
それでいて、手の届かないほど遠くはない。
腹立たしい。
何もかも計算されている。
「今日は何をする気だ、灰銀」
「布を替える」
「不要だ」
「汚れている」
「放っておけばいい」
「傷に悪い」
「我の傷だ」
「管理下の傷だ」
「言い方が最悪だな」
「事実だ」
「その事実を布で包んで捨てろ」
ルストは盆を床に置いた。
昨日と同じように、クラウディオの前で膝をつく。
やはり服従ではない。
手当てしやすい姿勢。
ただそれだけ。
クラウディオはそれを見て、唇を歪めた。
「紛らわしいと昨日言ったはずだ」
「膝をつくことか」
「そうだ。王の前で膝をつくなら、もう少し畏れを持て」
「畏れてはいない」
「即答するな」
ルストはクラウディオの手首へ手を伸ばした。
クラウディオは反射で引こうとした。
銀鎖が、ちり、と鳴る。
傷が布の下でわずかに疼いた。
ルストの手が止まる。
「動くな」
「命じるな」
「傷が開く」
「勝手に開かせておけ」
「開いたらまた巻く」
「脅しか」
「管理だ」
「その言葉を聞くたびに貴様の舌を裂きたくなる」
「今は無理だ」
「今はな」
クラウディオは睨みながら、手首を差し出さない。
だが、完全には引かない。
ルストはそれを見て、静かに古い布をほどき始めた。
指先が触れる。
冷たい。
だが、乱暴ではない。
拘束の時の手ではない。
喉を押さえつける時の手でもない。
血を飲ませる時の手でもない。
傷を見て、布を外し、薬液の残りを確かめる手。
それだけだ。
それだけなのに、クラウディオの血は妙に落ち着かない。
「不愉快だ」
低く言った。
ルストは布を外しながら答える。
「何が」
「貴様が、まるでまともな手当てをしていることがだ」
「まともではない」
「拘束中だからか」
「ああ」
「最悪の正直さだな」
「嘘は言わない」
「嘘をつかないことを美徳のように扱うな。貴様の場合、刃物を鞘に入れていないだけだ」
「そうか」
「流すな」
古い布が外れる。
傷は昨日より沈んでいた。
銀の灼けはまだ赤く残るが、広がってはいない。薬液が効いている。
クラウディオはそれを見て、顔をしかめた。
「効いているな」
ルストが言う。
「黙れ」
「悪化はしていない」
「黙れと言っている」
「布を外さなかったからだ」
クラウディオの目が鋭くなる。
「貴様」
「何だ」
「それを言うな」
「外さなかったのは事実だ」
「違う」
「外した形跡はない」
「違うと言っている」
「では何が違う」
「我が貴様の言いつけを守ったように言うな」
ルストは一瞬だけ黙った。
それから、淡々と答える。
「守ったとは言っていない」
「言外に言った」
「傷を悪化させなかった」
「それだけだ」
「それだけでいい」
クラウディオの喉が、わずかに詰まった。
それだけでいい。
その言葉が、妙に不快だった。
責めない。
褒めない。
ただ、事実として置く。
外さなかった理由を暴かない。
意地を守らせたまま、傷だけを見る。
それが優しさに見えそうで、クラウディオはさらに苛立った。
「そういうところだ」
低く言う。
ルストは傷に薬液を含ませた布を当てる。
「何が」
「貴様のそういうところが、不愉快だと言っている」
「手当てがか」
「違う」
「では何だ」
「……違うと言っている」
答えになっていない。
自分でも分かる。
だが、言葉にしたくなかった。
ルストの行動は、時折、優しさの形をしている。
傷を見て、布を替える。
血を入れすぎない。
噛まない夜は距離を取る。
記憶の奥を無理にこじ開けない。
喉が限界なら、そこで終わる。
声が乱れれば、怒鳴るなと言う。
傷が開くなら、動くなと言う。
それらは、優しさに見えなくもない。
だが、ルストは必ず言う。
管理だ、と。
必要だ、と。
確認だ、と。
その曖昧さが、クラウディオには許せなかった。
優しさなら優しさと言え。
いや、言うな。
言われたら殺す。
管理なら管理らしく、冷たくしろ。
だが、手当ては丁寧だ。
言葉は冷たいのに、布を巻く指は乱暴ではない。
それが最悪だった。
クラウディオは、低く吐き捨てる。
「貴様は、どちらなのだ」
ルストの手が、わずかに止まった。
「何が」
「管理者か」
クラウディオの赤い瞳が、ルストを見下ろす。
「それとも、優しい男の真似事をしているのか」
地下牢に沈黙が落ちた。
ルストは、すぐには答えなかった。
その沈黙が答えのようで、クラウディオの血が苛立ちに揺れる。
「黙るな」
「考えていた」
「貴様が考えると大抵ろくでもない」
「管理だ」
短い答え。
いつもの答え。
クラウディオは、笑った。
乾いた笑いだった。
「やはりな」
「何が」
「貴様は、絶対に優しさとは言わぬ」
「優しさではない」
「では、なぜ傷を悪化させぬように巻く。なぜ喉の限界を見て終わる。なぜ噛まぬ夜に距離を取る。なぜ血の奥を覗かぬと言う」
「管理だからだ」
「その言葉で全部済ませるな!」
声が荒れた。
雷鎖が低く鳴る。
ルストは布を当てた手を離さない。
クラウディオは息を詰め、怒りを沈めた。
また見られる。
だが、今は手首を掴まれている。
手当てされている。
その状態で雷鎖に打たれるのは、あまりにも屈辱的だ。
ルストは静かに言った。
「お前が傷を悪化させれば、次の拘束に支障が出る」
「……最悪の説明だな」
「喉を潰せば、命令の声の戻りが見られない」
「もっと最悪だ」
「血の奥を無理に開けば、暴走する可能性がある」
「本当に優しさの欠片もない説明だな」
「だから管理だ」
クラウディオは、ルストを見下ろした。
灰銀の男は、淡々と薬液を傷に染み込ませている。
言葉だけ聞けば、ひどく冷たい。
拘束に支障が出るから。
声の戻りを見るため。
暴走を防ぐため。
すべて理由が管理だ。
だが、その手つきはやはり丁寧だった。
腹立たしいほど。
「なら、もっと雑にしろ」
クラウディオは言った。
ルストが顔を上げる。
「何?」
「管理だと言うなら、もっと雑に扱えばよい。傷が塞がればそれでいいのだろう。布など適当に巻け。薬液も適当に垂らせ。痛むかなど聞くな」
「痛みで暴れられると困る」
「その説明も嫌いだ」
「なら、何を言えばいい」
「我に聞くな」
クラウディオは苛立たしげに視線を逸らした。
「優しさのように見えるくせに、優しさではないと言う。管理だと言うくせに、手つきだけは優しさに似ている。曖昧だ。気色が悪い」
言ってから、クラウディオは自分で眉を寄せた。
言いすぎた。
いや、違う。
こんなもの、ただの苦情だ。
弱音ではない。
断じて違う。
ルストは、静かに手当てを続けた。
「甘くないだけだ」
クラウディオの視線が戻る。
「何?」
「優しさではない。だが、雑に痛めつけたいわけでもない」
ルストの声は淡々としていた。
「お前を死なせない。暴走させない。壊しきらない。傷は塞ぐ。声は戻す。血は整える」
「それを優しさと呼ばぬのか」
「呼ばない」
「なぜ」
「俺がそう呼ぶと、お前が壊しにかかる」
クラウディオは黙った。
図星だった。
優しさだと言われたら、壊したくなる。
自分をか、ルストをか、分からない。
だが、必ず怒る。
同情されたように感じる。
弱いものとして扱われたように感じる。
王でない自分へ触れられたように感じる。
だから、ルストは言わない。
管理だと言う。
甘くない言葉で包む。
優しさに見える行動から、甘さだけを抜く。
クラウディオは、その理解に腹が立った。
「貴様」
低く言う。
「我に合わせて言葉を選んでいるのか」
「そうだ」
「最悪だな」
「そうか」
「そうだ。貴様が我を分かっているようで腹立たしい」
「全部は分からない」
「一部でも分かるな」
「無理だな」
「なぜ」
「見ているからだ」
いつもの言葉。
見ている。
クラウディオは、その言葉を聞くたびに腹が立つ。
だが、今夜は少しだけ違った。
見ている。
観察として。
管理として。
そして、もしかすると、それ以外として。
クラウディオは、その可能性をすぐに踏み潰した。
くだらない。
考えるな。
灰銀は灰銀だ。
管理者で、敵で、支配者気取りの不愉快な吸血鬼ハンターだ。
それで十分だ。
「灰銀」
「何だ」
「貴様の言う管理は、どこまでが管理だ」
ルストの手が止まる。
クラウディオは続ける。
「手当て。距離。血の量。噛む夜と噛まぬ夜。記憶を覗かぬ沈黙。声の限界を見て終えること」
赤い瞳が、ルストを捉える。
「どこまでが管理で、どこからが違う」
ルストは、すぐには答えなかった。
長い沈黙。
クラウディオは苛立つ。
「黙るな」
「境目はない」
ルストは言った。
「何?」
「分けていない」
「分けろ」
「無理だ」
「なぜ」
「お前が暴走しないようにすることと、お前を壊しきらないことは、俺の中では分かれていない」
クラウディオは言葉を失った。
それは、優しさではない。
たぶん。
だが、完全な管理でもない。
いや、ルストの中では管理なのだろう。
けれど、その管理には、クラウディオを壊しきらないという意思が含まれている。
それが、甘くない優しさのように見える。
見えてしまう。
クラウディオは、それが嫌だった。
「……曖昧だ」
「そうだな」
「認めるな」
「事実だ」
「その事実も嫌いだ」
「知っている」
「知るな」
ルストは、手首の布を巻き直した。
結び目は昨日と同じく、過不足がない。
次に足首を見る。
クラウディオは低く言う。
「そこはいい」
「見る」
「触るな」
「触る」
「貴様……」
「暴れなければ早く終わる」
「言い方が最悪だ」
「そうか」
「そうだ」
足首の手当ても、同じように進む。
拒絶はした。
だが、完全には振り払えない。
それが、また今夜の苛立ちを深くする。
手当ては終わる。
痛みは少し引く。
傷は落ち着く。
ルストは立ち上がる。
クラウディオは、布の巻かれた手首を見下ろし、低く言った。
「礼は言わぬ」
「求めていない」
「優しさとも認めぬ」
「管理だ」
「それも認めぬ」
「なら何だ」
クラウディオは少し黙った。
答えなどない。
あってたまるか。
これは何だ。
罰の後の手当て。
甘くない優しさ。
優しさではない管理。
管理と言い張る気遣い。
どの言葉も気に入らない。
クラウディオは、結局、最も使い慣れた言葉に逃げた。
「不愉快だ」
ルストは短く答える。
「そうか」
「それで済ませるな」
「では、何と言えばいい」
「我に聞くな」
ルストは盆を持って扉へ向かった。
「今日はここまでだ」
「勝手に終わるな」
「傷を動かすな」
「命じるな」
「また開けば手当てする」
「脅しだな」
「管理だ」
「……本当に腹立たしい男だ」
扉の前で、ルストが振り返る。
「クラウディオ」
「その名を呼ぶな」
「これは優しさではない」
クラウディオの目が細くなる。
「なら何だ」
「まだ分からない」
ルストはそう言った。
珍しく、即答ではなかった。
クラウディオの胸の奥が、妙にざわめく。
「分からぬなら言うな」
「そうだな」
「認めるな」
「次までに考える」
「考えるな」
「無理だな」
「灰銀、貴様……」
ルストはそれ以上何も言わず、扉の向こうへ出た。
重い音が閉まる。
地下牢に、クラウディオだけが残る。
彼はしばらく扉を睨んでいた。
布の巻かれた手首が、少しだけ軽い。
傷は痛む。
だが、昨日より楽だ。
それが腹立たしい。
ルストの言葉が残っている。
これは優しさではない。
まだ分からない。
分からないものを、自分の前に置いていくな。
クラウディオは、低く吐き捨てた。
「甘くもないくせに、厄介なものを残すな」
返事はない。
地下牢は静かだった。
クラウディオは手首の布を外さない。
外さないまま、赤い瞳を細める。
「灰銀」
その呼び名は、まだ拒絶だった。
だが今夜は、そこに苛立ちとは別の曖昧さが混じっていた。
クラウディオはそれを認めない。
認める代わりに、王の声で低く呟いた。
「いつか殺す」
しかし、その声は、以前より少しだけ静かだった。




