第97話 血の記憶
血は、ただの液体ではない。
吸血鬼にとって、それは命であり、糧であり、記録でもある。
誰を憎んだか。
誰を愛したか。
何に怯えたか。
何を殺したか。
何を忘れたふりをして、血の底へ沈めたか。
そういうものは、すべて微かに血へ混ざる。
だが、誰もがそれを読めるわけではない。
血を飲めば、相手の過去が見える。
そんな単純なものなら、吸血鬼社会はとっくにもっと醜い地獄になっている。いや、すでに十分醜いが、これ以上の地獄を増築する必要はない。夜にも建築基準法くらい欲しいものだ。
通常の吸血で得られるものは、せいぜい感情の残り香だ。
怯え。
怒り。
熱。
死の寸前の諦め。
快楽ではなく、血が最後に抱えた温度。
高位吸血鬼であれば、そこから相手の状態を読むことはできる。だが、深層の記憶までは届かない。
それが開く条件は、限られている。
心を許し始めた時。
または、格上の血が、格下の血をこじ開けた時。
クラウディオ・ルジェリウスは、それを知っていた。
知っているからこそ、余計に腹が立っていた。
「貴様」
地下牢の石壁にもたれたまま、クラウディオは低く言った。
「我の血を、どこまで読んだ」
ついに問うた。
問うまいとしていた言葉だった。
聞けば負けだ。
見られたかもしれないと恐れていることを、自ら認めるようなものだから。
だが、沈黙は長く続きすぎた。
ルストが何も言わないことが、逆に喉の奥へ棘のように残り続けた。
菓子屋の匂い。
火刑台の煙。
王城の冷たい石。
妾の子と呼ばれた声。
血で濡れた王冠。
どこまで見た。
どこまで嗅いだ。
どこまで、勝手に持っていった。
ルストは、地下牢の中央に立っていた。
クラウディオより少し離れた場所。
近づきすぎない距離。
牙も、血も、匂いも、すべてを計算している距離だった。
その距離の取り方すら腹立たしい。
「全部ではない」
ルストは静かに答えた。
クラウディオの瞳が細くなる。
「全部ではない、か」
「ああ」
「便利な言い方だな。では、一部は見たのだな」
「見た」
否定しない。
相変わらず、嘘で逃げない。
だからこそ、刺さる。
クラウディオは、喉の奥で低く笑った。
「忘れろと言ったはずだ」
「忘れないと言った」
「我の命令を無視するな」
「命令としては通っていない」
「貴様……」
怒りが血へ乗りかけた。
雷鎖が低く鳴る。
クラウディオは息を止め、怒りを沈めた。
沈めてしまった。
ルストはそれを見ている。
「抑えたな」
「黙れ」
「声は戻っているが、まだ荒れる」
「黙れと言っている」
「クラウディオ」
「その名を呼ぶな」
「血の話をする」
クラウディオの赤い瞳が、すっと冷えた。
「我の血を、貴様が語るな」
「語る必要がある」
「またそれか」
「ああ」
ルストは淡々としていた。
「吸血で記憶が流れ込む条件は二つある」
「知っている」
「一つは、相手が心を許し始めた時」
「我には関係ないな」
即答だった。
早すぎる否定。
クラウディオ自身も気づいたが、取り消さなかった。
ルストは少しも表情を変えない。
「そうか」
「そうだ」
「なら、もう一つだ」
地下牢の空気が、ほんの少し重くなった。
クラウディオは先に言った。
「格上が、血をこじ開けた時」
「そうだ」
「貴様が格上だとでも言うつもりか」
「そうだ」
即答。
沈黙。
クラウディオの指先が、銀枷の中でわずかに震えた。
鎖が、ちり、と鳴る。
「灰銀」
低い声。
「その言葉、撤回しろ」
「しない」
「我は吸血鬼王だ」
「知っている」
「王血だ」
「知っている」
「稀血だ」
「知っている」
「今代の王だ」
「知っている」
「なら、貴様が我より格上などと、二度と口にするな」
ルストは、静かにクラウディオを見ていた。
「お前の王権と、血の古さは別だ」
その一言で、クラウディオの顔から表情が消えた。
ルストは続ける。
「王座に座る者が、必ずしも夜で一番古いわけじゃない」
「黙れ」
「血が濃い者が、必ずしも血の扱いで上に立てるわけでもない」
「黙れと言っている」
「お前の王血は強い。稀血も危険だ。だが、俺の血はお前の血を押さえ込める」
「黙れ!」
雷鎖が鳴った。
首元に青白い光が走る。
クラウディオの心臓の手前へ冷たい痛みが落ちた。
「ぐ、ッ……!」
短い痛み。
だが、黙らされた。
その事実がさらに腹立たしい。
ルストは目を逸らさない。
「それも証拠だ」
「何が」
「お前の血は、俺の制御を受ける」
「封具と印と鎖で縛っているだけだ」
「それだけなら、深層には触れない」
クラウディオの喉が、わずかに震えた。
ルストは言う。
「前の吸血で、俺はお前の血の奥へ踏み込みかけた。完全に開けたわけではない。だが、匂いは見た」
「匂いを、見る、か」
クラウディオは冷たく笑った。
「詩人気取りか」
「血の中では、匂いと記憶は近い」
「知っている」
「なら分かるだろう」
「分かるから腹が立つ」
クラウディオは、低く言った。
「貴様が見たものは、我が見せたものではない」
「ああ」
「許したものではない」
「ああ」
「心を許したわけでもない」
「ああ」
「なら、残る理由は一つだな」
声が冷えた。
王の声だった。
「貴様が格上の力で、我の血をこじ開けた」
「そうだ」
ルストは、その罪を否定しなかった。
クラウディオは、低く笑った。
「最低だな」
「お前に言われたくない」
「我は美しく最低だ。貴様は血の扉を無表情でこじ開ける最低だ」
「分類はいらない」
「要る。我の気が済む」
いつもの言い合い。
けれど、今夜はそこに熱がない。
いや、熱はある。
怒りの熱。
屈辱の熱。
そして、知られたかもしれない恐れを怒りで覆った熱。
「心を許した時に記憶が流れる」
クラウディオは言った。
「それは、血が自らほどけるからだ。相手へ触れられることを、血が拒まない。感情が表層から沈み、記憶の匂いが浮く。分かる。そういうものはある」
「ある」
「だが、我は違う」
赤い瞳が、ルストを射抜く。
「我は、貴様に許してなどいない」
「分かっている」
「分かっていて、踏み込んだのか」
「そうだ」
「なお悪い」
「そうだな」
「認めるな!」
怒りで声が荒れる。
クラウディオはすぐに喉を押さえたくなったが、手は届かない。
銀鎖がある。
自分の喉にすら触れられない。
その事実もまた、彼の苛立ちを深くする。
ルストは言った。
「心を許した時なら、痛みは少ない」
「その話を我にするな」
「血が自分から匂いを渡すからだ」
「黙れ」
「格上がこじ開ける時は違う。抵抗が出る。血が荒れる。記憶が傷つく」
「知っていると言っている!」
叫びかけた声が、喉で割れた。
クラウディオは歯を食いしばる。
ルストは静かに続けた。
「だから、本来はやらない」
「やっただろうが」
「ああ」
「なぜ」
「必要だった」
「その言葉をやめろ!」
雷鎖が鳴る。
今度は少し強い。
心臓の手前へ痛みが落ち、クラウディオの身体が跳ねる。
「が、ッ……!」
銀鎖が鳴る。
クラウディオは荒い息を吐いた。
ルストは、わずかに視線を下げる。
「荒れている」
「貴様が荒らしている」
「そうだな」
「認めるなと言っている……」
声は掠れていた。
怒り疲れたわけではない。
失血と声の傷が、まだ完全には戻りきっていない。
それがまた悔しい。
クラウディオは息を整えた。
王の声へ戻す。
低く。
深く。
「では、貴様は我の何を見た」
聞いた。
今度は逃げずに。
ルストは答えなかった。
沈黙。
クラウディオの赤い瞳が細くなる。
「また黙るか」
「内容は言わない」
「見たのだな」
「匂いは受け取った」
「言い方を変えるな」
「全部は見ていない」
「何を見た」
ルストは黙る。
クラウディオは低く笑った。
「菓子屋か」
ルストの目が、わずかに動いた。
それで十分だった。
クラウディオの喉が、強く震えた。
「見たのだな」
「匂いを」
「同じだ!」
声が地下牢に響く。
「焼けた砂糖の匂いも、火刑台も、王城の声も、貴様は見たのだな」
ルストは否定しない。
しない。
しない。
だから、クラウディオの中で何かが冷たく固まっていく。
「忘れろ」
「忘れない」
「忘れろと言っている」
「内容は誰にも言わない」
「そういう問題ではない!」
クラウディオは銀鎖を引いた。
がしゃん、と音が響く。
「我が忘れろと言っているのだ。貴様の中に残すな。貴様の血に混ぜるな。貴様の記憶にするな」
「無理だ」
「無理ではない。忘れろ」
「血で受け取ったものは消えない」
「消せ」
「できない」
「なら、我が消してやる」
「今は無理だ」
「今はな!」
応酬が戻る。
だが、そこに余裕はない。
クラウディオは本気だった。
ルストの中に自分の記憶の匂いがある。
それが耐えがたい。
まるで、血を盗まれたうえに、灰まで持ち去られたようだった。
「血の記憶は、持ち主のものだ」
クラウディオは低く言った。
「それを奪うのは、ただの吸血ではない」
「分かっている」
「ならば、貴様は我から何を奪ったか分かっているな」
「ああ」
「言ってみろ」
「言わない」
「言え」
「言わない」
「なぜ」
「お前のものだからだ」
また、その言葉。
クラウディオは顔を歪めた。
「我のものだと言うなら、返せ」
「返せない」
「なら言うな」
「言う」
「貴様……」
「俺が見たからといって、お前のものではなくなるわけじゃない」
ルストの声は静かだった。
「そこは変わらない」
クラウディオは、しばらくルストを見ていた。
怒りは消えない。
屈辱も消えない。
だが、その言葉は、どう処理していいか分からなかった。
見た。
奪った。
だが、お前のものだと言う。
返せないくせに。
忘れないくせに。
最悪だ。
本当に最悪だ。
「貴様の慰めは、いつも不愉快だ」
「慰めではない」
「なら何だ」
「事実だ」
「またそれか」
クラウディオは息を吐いた。
「血の記憶は、心を許した時にしか深く開かぬ。それを貴様は、格上の力で開いた」
「ああ」
「それは支配だ」
「そうだ」
「それを認めるか」
「認める」
「なら、我は貴様を許さぬ」
「知っている」
「一生だ」
「長いな」
「吸血鬼には短いと言っただろう」
「そうだったな」
ルストの声は、やはり静かだ。
クラウディオはそれが腹立たしい。
もっと揺れろ。
もっと罪悪感を見せろ。
あるいは、堂々と奪ったと笑えばいい。
なのに、この男はただ静かに立っている。
見たことを否定せず。
忘れないと言い。
それでも内容は口にしない。
管理者の沈黙。
それが、またクラウディオの中へ残る。
「灰銀」
「何だ」
「二度と、我の血の奥へ入るな」
「必要なら入る」
「殺すぞ」
「今は無理だ」
「今はな」
「だが、前よりは慎重にする」
クラウディオの眉が動く。
「何だと」
「お前の血は、開ければ傷つく」
「貴様が言うな」
「だから、必要を選ぶ」
「選ぶのは我だ」
「違う」
「違わぬ」
「お前が暴走すれば、俺が選ぶ」
クラウディオの瞳が冷えた。
「やはり、支配だな」
「管理だ」
「同じだ」
「違う」
「違わぬ!」
雷鎖が鳴る。
クラウディオは息を詰める。
ルストは少しだけ距離を取った。
その距離で、クラウディオの血がわずかに落ち着く。
それを見られたくない。
だが、見られている。
「……近づくな」
低く言う。
「今日は近づかない」
「今日は、か」
「ああ」
「本当に腹立たしい返答だ」
「知っている」
「知るな」
クラウディオは、喉の奥に残る苦味を噛み殺した。
血の記憶。
心を許せば流れる。
格上ならこじ開ける。
ルストは後者だった。
決して、前者ではない。
絶対に。
クラウディオは、そこだけは譲らない。
「勘違いするな」
彼は静かに言った。
「我が貴様に何かを許したわけではない」
「分かっている」
「心など許していない」
「分かっている」
「なら、その顔をやめろ」
「顔は変えていない」
「存在ごと腹立たしい」
ルストは何も言わなかった。
クラウディオは続ける。
「貴様が見たものは、貴様に渡したものではない。貴様がこじ開け、盗んだものだ」
「ああ」
「なら、盗人らしく扱われる覚悟はあるな」
「ある」
「認めるな!」
クラウディオは、本気で頭が痛くなった。
この男と話していると、怒りがすぐ迷路になる。迷路の出口に雷鎖が置いてある。設計者を引きずり出して殴りたい。
ルストは言った。
「クラウディオ」
「その名を呼ぶな」
「血の奥は、次から勝手には開けない」
クラウディオの目が細くなる。
「信用しろと?」
「しなくていい」
「なら、なぜ言う」
「決めただけだ」
「貴様が勝手に決めるな」
「決める」
「灰銀……」
低い声に、怒りと疲労が混ざる。
「貴様の勝手な決定で、我の血も記憶も扱われることが、どれほど屈辱か分からぬのか」
「分かる」
「なら、やめろ」
「必要ならやめない」
「貴様は本当に……」
クラウディオは、そこで言葉を切った。
言っても無駄だ。
この男はやる。
必要なら、やる。
その必要を自分で決める。
だから支配なのだ。
だから管理なのだ。
だからこそ、クラウディオは拒み続けなければならない。
「灰銀」
「何だ」
「我は、貴様に心を許してなどいない」
「知っている」
「未来永劫だ」
「長いな」
「短い」
「そうか」
「そうだ」
クラウディオは、低く笑った。
「次に我の血の記憶へ触れようとすれば、その瞬間に焼き払う。記憶ごと、血ごと、貴様の喉ごとだ」
「覚えておく」
「忘れるな」
「忘れない」
ルストは扉へ向かった。
その背へ、クラウディオは声を落とす。
「灰銀」
ルストが振り返る。
「何だ」
「見たものを、我の前で語るな」
「語らない」
「他の誰にも」
「語らない」
「記録にも」
「反応だけ残す」
「内容は」
「残さない」
クラウディオはしばらく沈黙した。
信じたわけではない。
絶対に。
ただ、それ以上問えば、こちらが揺れていることを晒すだけだった。
「出ていけ」
ルストは頷く。
「今日はここまでだ」
「最初からそうしろ」
扉が開く。
外の冷たい空気が流れ込む。
ルストは出ていく。
閉まる前に、短く言った。
「クラウディオ」
「その名を呼ぶな」
「心を許したから見えたわけではない」
クラウディオの瞳が鋭くなる。
ルストは続けた。
「それは分かっている」
扉が閉まった。
重い音が響く。
地下牢には、クラウディオだけが残る。
彼はしばらく扉を睨み続けた。
心を許したから見えたわけではない。
そう言われた。
それで安心するなど、ありえない。
ない。
絶対にない。
ただ、胸の奥で暴れていた何かが、ほんの少しだけ形を変えた。
屈辱は消えない。
怒りも消えない。
許すつもりもない。
だが、クラウディオは低く呟いた。
「分かっているなら、二度とするな……灰銀」
返事はない。
地下牢の石壁だけが、彼の声を吸い込んだ。
血の記憶は、まだ彼のものだ。
見られても。
嗅がれても。
奪われたとしても。
それだけは、クラウディオは譲らなかった。




