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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第96話 クラウディオ



 名を呼ばれるたびに、喉の奥が軋んだ。


 クラウディオ・ルジェリウスは、地下牢の石壁にもたれたまま、赤い瞳でルストを睨んでいた。


 銀鎖はまだ四肢にある。


 首には雷鎖。


 脇腹には灰銀印。


 喉には、重なった牙痕。


 いくつもの拘束がある。見えるものも、見えないものも。だが今、クラウディオの神経を最も逆撫でするのは、鎖でも印でもなかった。


 声だった。


 ルストの声。


 淡々と、自分の名を呼ぶ声。


「クラウディオ」


 ただ、それだけ。


 怒鳴るわけでもない。


 嘲るわけでもない。


 甘く呼ぶわけでもない。


 まるで、そこにあるものの名前を確かめるように、ルストはクラウディオの名を呼ぶ。


 それが、腹立たしかった。


「その名を呼ぶな」


 クラウディオは低く言った。


 声は戻りかけている。


 まだ完全ではない。封具の苦味も、喉の傷も、血を啜られた記憶も残っている。だが、王の声は死んでいない。


 彼はその声を、できる限り冷たく整えた。


「我を呼ぶなら、王と呼べ。あるいは呼ぶな。貴様の口に、我の名を乗せるな」


 ルストは少しも動じない。


「クラウディオ」


 また呼んだ。


 同じ調子で。


 クラウディオの指先が、銀枷の中でわずかに動く。


 鎖が小さく鳴った。


「貴様……」


「何だ」


「わざとだな」


「そうだ」


 即答。


 否定もしない。


 取り繕いもしない。


 だから余計に腹が立つ。人類も吸血鬼も、せめて悪事には言い訳を添えろ。いや、この男の場合、言い訳なしで刺してくるから余計に始末が悪い。


 クラウディオは笑った。


 薄く、冷たく。


「なら、我もわざと呼んでやる」


 赤い瞳が光る。


「灰銀」


 ルストは黙っている。


「灰銀、貴様」


 さらに続ける。


「狩人風情。管理者気取りの下郎。王の喉に牙を立てた男。血を盗み、記憶を覗き、声を乱した不届き者」


 クラウディオの声には、刃のような冷たさが戻りつつあった。


「我が貴様を名で呼ぶことはない」


 ルストは静かに見返す。


「クラウディオ」


 返されたのは、やはり名だった。


 罵倒ではない。


 肩書きでもない。


 分類でもない。


 ただ、名。


 クラウディオの眉がわずかに動く。


 ルストは続けた。


「お前がどう呼んでも、俺はそう呼ぶ」


「許可した覚えはない」


「許可は要らない」


「王の名だぞ」


「知っている」


「知っていて呼ぶか」


「ああ」


 短い応酬。


 クラウディオは、喉の奥で低く笑った。


「本当に不遜な男だ」


「今さらだな」


「開き直るな」


「事実だ」


「貴様のその事実という言葉も嫌いだ」


「知っている」


「知るな」


 ルストは一歩近づいた。


 クラウディオの身体が反射で警戒する。


 噛まれるかもしれない。


 血を飲まされるかもしれない。


 雷鎖を入れられるかもしれない。


 身体が、そう覚えている。


 クラウディオはその反応を悟られまいと顔を冷やした。


 だが、ルストには見えている。


 当然のように。


「近づくと、喉が反応する」


「黙れ」


「血も動く」


「黙れと言っている」


「クラウディオ」


「その名を呼ぶな!」


 声が荒れた。


 首元の雷鎖が低く鳴る。


 青白い光が一瞬、輪の内側を走った。


 クラウディオは息を詰め、怒りを沈める。


 まただ。


 怒りを抑えた。


 抑えてしまった。


 その一連の反応すら、ルストに見られている。


 クラウディオは唇を歪めた。


「見るな」


「見ている」


「我の反応を、逐一見るな」


「必要だ」


「その言葉も聞き飽きた」


「だろうな」


「ならやめろ」


「やめない」


「腹立たしい男だな、灰銀」


 ルストはそこで、ほんの少しだけ目を細めた。


「その呼び方は、お前にとって盾か」


 クラウディオの表情が冷える。


「盾?」


「俺を名で呼ばなければ、近づけずに済む」


「知ったふうに言うな」


「違うか」


「違う」


 即答。


 早すぎる否定だった。


 クラウディオ自身もそれに気づいたが、取り消さなかった。


「灰銀と呼べば、貴様は灰銀でしかない。狩人で、敵で、忌々しい拘束具の持ち主で、我を辱める管理者だ。それ以上ではない」


「俺の名は」


「言うな」


「ルストだ」


 その音が落ちる。


 地下牢の中で、短く、妙に重く。


 クラウディオは口元を歪めた。


「だから何だ」


「呼べ」


「灰銀」


「ルスト」


「灰銀」


「クラウディオ」


「灰銀、貴様」


 呼称がぶつかる。


 ルストは名で呼ぶ。


 クラウディオは名を拒む。


 それだけのやり取りなのに、まるで鎖を締め合うようだった。


 ルストがクラウディオと呼ぶたび、王の外側を剥がそうとする。


 クラウディオが灰銀と吐き捨てるたび、剥がされまいと牙を立てる。


 名と拒絶。


 それが、二人の間に新しい鎖を作っていく。


 見えない。


 だが、確かにある。


 クラウディオはそれを感じていた。


 感じているからこそ、余計に拒む。


「貴様が我の名を呼ぶたび、我は貴様を拒む」


 クラウディオは低く言った。


「灰銀と呼ぶことでな」


「知っている」


「なら呼ぶな」


「呼ぶ」


「なぜ」


「お前が拒むからだ」


「性格が悪いな」


「お前に言われたくない」


「我は美しく性格が悪い。貴様は無表情に性格が悪い」


「分類はいらない」


「要る。我の気が済む」


 いつものやり取り。


 だが今日は、そこに別の圧があった。


 クラウディオは気づいている。


 ルストが自分の名を呼ぶのは、ただ呼びたいからではない。


 確認。


 管理。


 支配。


 そして、もう一つ。


 王という名の鎧の下にいるクラウディオを、そこへ固定するためだ。


 王でも。


 暴君でも。


 災厄でも。


 危険個体でもなく。


 クラウディオ。


 その名で呼ばれるたび、王冠の下へ手を入れられる気がする。


 クラウディオは、それを許せなかった。


「我は王だ」


 低く告げる。


「クラウディオなどと、貴様が気安く呼ぶな」


「王でもクラウディオだ」


「黙れ」


「暴君でもクラウディオだ」


「黙れと言っている」


「皿で血を飲んでいた時も」


「黙れ!」


 雷鎖が鳴る。


 短く、鋭く。


 クラウディオの心臓の手前へ冷たい痛みが走った。


「ぐ、ッ……!」


 身体が跳ねる。


 銀鎖が鳴る。


 ルストはそこで口を閉じた。


 クラウディオは荒い息を整えながら、赤い瞳で睨む。


「今のは、わざとか」


「ああ」


「殺す」


「今は無理だ」


「今はな」


 答えながらも、喉の奥に苦味が戻る。


 皿で血を飲んでいた時もクラウディオ。


 その言葉は、妙に刺さった。


 やめろ。


 同じものにするな。


 王として命じる自分と、床に這って血を舐めた自分を、同じ名で繋ぐな。


 クラウディオは、低く息を吐く。


「それが狙いか」


「何が」


「全部を同じ名で呼ぶことだ」


 ルストは答えない。


 沈黙。


 クラウディオは笑った。


「やはりな」


「お前は分けたがる」


 ルストは静かに言った。


「王。暴君。災厄。獣。子ども。どれかを切り離そうとする」


 クラウディオの瞳が冷える。


「黙れ」


「だが、全部クラウディオだ」


「黙れと言っている」


「俺はそう呼ぶ」


 地下牢の空気が重くなる。


 クラウディオは、しばらく何も言わなかった。


 言えなかったのではない。


 言わなかったのだ。


 そう思った。


 だが、喉の奥に何かが詰まっている。


 怒りか。


 屈辱か。


 それとも、もっと別のものか。


 分からない。


 分かりたくもない。


「貴様は」


 クラウディオは、低く言った。


「我を一つにまとめようとするな」


「まとめているわけじゃない」


「同じだ」


「切り離さないだけだ」


「それが嫌だと言っている」


 声が少しだけ掠れた。


 ルストは見ている。


 クラウディオはすぐに表情を冷やした。


「見るな」


「見ている」


「その目で、我を繋ぐな」


「目だけでは繋がらない」


「貴様は繋げるだろうが」


 ルストは少し黙った。


 それから言った。


「血では繋いだ」


 クラウディオの赤い瞳が、怒りで燃えた。


「言うな」


「印でも繋いだ」


「言うなと言っている」


「名でも繋ぐ」


「ふざけるな!」


 雷鎖が強く鳴った。


 クラウディオは一瞬、息を詰めた。


 だが、今回は耐える。


 怒りをすべて流さない。


 喉を守る。


 声を守る。


 拒絶を守る。


「名では繋がせぬ」


 彼は低く言った。


 今度の声は、王の声だった。


「貴様が我をどう呼ぼうと、我は貴様を名で呼ばぬ。灰銀と呼ぶ。貴様と呼ぶ。敵として呼ぶ」


 赤い瞳が、まっすぐルストを射る。


「それが我の拒絶だ」


 ルストは静かに聞いていた。


「拒絶でも、俺は呼ぶ」


「なら、呼べばいい」


 クラウディオは笑った。


「何度でも呼べ。そのたびに、我は灰銀と返してやる」


 ルストは、一歩だけ近づく。


 クラウディオの身体が警戒する。


 だが、逃げない。


 顔も背けない。


 ルストは、クラウディオの喉ではなく、目を見た。


「クラウディオ」


「灰銀」


「クラウディオ」


「灰銀」


「クラウディオ」


「灰銀、貴様」


 繰り返される。


 まるで儀式だった。


 名と拒絶の儀式。


 どちらが先に折れるかではない。


 どちらも折れない。


 だから深くなる。


 ルストは、クラウディオの名を呼ぶことで、王の下にいる個を掴もうとする。


 クラウディオは、灰銀と呼び返すことで、ルストを名ではなく記号へ落とす。


 しかし、その反復そのものが、二人の間にしか存在しない呼び合いになっていく。


 支配と拒絶が、絡み合う。


 おぞましいほど近く。


 クラウディオは、それに気づきかけて、強く顔を歪めた。


「……気色が悪い」


「何が」


「貴様と我の間に、呼び方などというものが残っていくことがだ」


「もう残っている」


「黙れ」


「クラウディオ」


「灰銀」


 即答。


 これだけは揺れない。


 揺らしてはいけない。


 ルストは少しだけ目を細めた。


「苦しい時でも、それは出るな」


「当然だ」


「飢えていた時も、名前は呼ばなかった」


「当然だ」


「血を啜られている時も」


「黙れ」


「記憶を見られかけた時も」


「黙れと言っている」


「それでも、ルストとは呼ばなかった」


 その名が、ルスト自身の口から落ちる。


 クラウディオは低く笑った。


「当たり前だ。貴様ごときを名で呼ぶなど、我への侮辱だ」


「そうか」


「そうだ」


「なら、俺が呼ぶ」


「勝手にしろ」


「クラウディオ」


「灰銀」


 すぐに返す。


 少しの間も置かずに。


 ルストはそれを確認するように見た。


「今のは早かった」


「貴様の声を長く残したくない」


「そうか」


「そうだ」


「なら、もっと呼ぶ」


「本当に性格が悪いな!」


 声が荒れる。


 雷鎖が軽く鳴る。


 クラウディオは息を詰め、怒りを沈める。


 また。


 見られる。


 ルストは何も言わない。


 その沈黙が、かえって腹立たしい。


「言え」


 クラウディオは低く命じた。


「何を」


「今、抑えたな、とでも言うのだろう」


「言わない」


「なぜ」


「言わなくても分かっている」


「貴様……!」


 言葉すら省略される。


 それもまた支配のようで腹が立つ。


 ルストは、クラウディオの反応をすでに知っている。


 言わなくても通じる。


 それが嫌だった。


 クラウディオは、拒絶の言葉をさらに強く握る。


「灰銀」


「何だ」


「貴様は、我を知ったつもりでいる」


「全部は知らない」


「当然だ。知るな」


「だが、少しは知った」


「忘れろ」


「忘れない」


「なら、その少しごと殺す」


「今は無理だ」


「今はな」


 このやり取りも、もう何度目か分からない。


 だが、今はそれでいい。


 それがクラウディオの形を保つ。


 ルストは、静かに言った。


「クラウディオ」


「灰銀」


「お前が拒む限り、俺は呼ぶ」


「ならば呼べ。貴様が呼ぶたび、我は拒む」


「それでも呼ぶ」


「それでも拒む」


 二人の声が、地下牢の中で向かい合う。


 どちらも静かだった。


 だが、そこにある圧は重い。


 鎖よりも、牙痕よりも、皿よりも。


 呼称の差が、二人の間へ深く食い込んでいく。


 ルストは名を呼ぶ。


 クラウディオは名を拒む。


 その差が、支配関係をはっきりさせる。


 ルストは、クラウディオをクラウディオとして捉える。


 王でも獣でもなく。


 そのすべてを含んだ名として。


 クラウディオは、ルストを灰銀と呼ぶ。


 個ではなく。


 色で。


 傷で。


 敵で。


 拒絶で。


 互いに相手をどう見るかが、呼び方に出る。


 そして、その呼び方が変わらない限り、二人はまだ戦っている。


 ルストは扉へ向かった。


「今日はここまでだ」


「逃げるか」


「終えるだけだ」


「灰銀」


 ルストが振り返る。


「何だ」


 クラウディオは、低く命じるように言った。


「我の名を呼ぶな」


「無理だ」


「なら、次に呼んだ時も、我は返す」


「灰銀、と」


「そうだ」


 ルストは短く答えた。


「覚えておく」


「忘れるな」


「忘れない」


 扉が開く。


 冷たい外気が流れ込む。


 ルストは出ていく前に、最後にもう一度だけ呼んだ。


「クラウディオ」


 クラウディオは、間を置かなかった。


「灰銀」


 扉が閉まる。


 重い音が響く。


 地下牢に、クラウディオの声だけが残った。


 彼はしばらく扉を睨んでいた。


 喉の奥に、まだ名を呼ばれた感触が残っている。


 不快だ。


 腹立たしい。


 だが、返せた。


 灰銀、と。


 クラウディオは、低く息を吐く。


 名は呼ばない。


 まだ。


 決して。


 自分が何を失っても、そこだけは守る。


 銀鎖がかすかに鳴る。


 クラウディオは、ひとり地下牢で呟いた。


「灰銀」


 それは拒絶だった。


 同時に、今やルストへ向けた、クラウディオだけの呼び名になりつつあった。


 その事実が、ひどく不愉快だった。


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