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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第93話 苦い封具


 王の声は、戻り始めていた。


 完全ではない。


 まだ喉の奥に擦れがある。息を強く押し出せば、噛み痕が疼く。怒鳴れば声の端が荒れる。長く命じれば、途中で血が喉の奥を引っかくような感覚がある。


 それでも、戻り始めていた。


 クラウディオ・ルジェリウスは、それを感じていた。


 地下牢の冷たい石壁。四肢を縛る銀鎖。首の雷鎖。脇腹の灰銀印。喉に重なった牙痕。


 それらがどれほど屈辱でも、声さえ戻れば、王の形は保てる。


 命令できる。


 命じる声がある限り、王は完全には落ちない。


 そう思っていた。


 ルストが、その封具を持ってくるまでは。


 それは、ひどく小さなものだった。


 刃ではない。


 鎖でもない。


 首輪でもない。


 黒銀の薄い輪のようにも、古い指輪を開いたもののようにも見える。表面には細かな魔導紋が刻まれていたが、クラウディオがそれを読み切る前に、舌の奥へ苦味が広がった。


 まだ触れられてもいない。


 ただ見ただけで、血が拒絶した。


 クラウディオの赤い瞳が細くなる。


「何だ、それは」


 ルストは答える。


「封具だ」


「見れば分かる。何に使う」


「声と血脈に作用する」


 地下牢の空気が、少しだけ重くなった。


 クラウディオの顔から、表情が消える。


「……灰銀」


「何だ」


「貴様、今、我の声に作用すると言ったか」


「ああ」


「その封具を砕け」


「砕かない」


「今すぐ砕け」


「使う」


 短い返答だった。


 いつも通り。


 その平坦さが、クラウディオの怒りを底から引き上げる。


「貴様……我の喉に何をする気だ」


「喉だけじゃない」


「では、何だ」


「命令の声が血に乗る瞬間を揺らす」


 クラウディオの指先が、銀枷の中でぴくりと動いた。


 鎖が小さく鳴る。


 命令の声が血に乗る瞬間。


 それは、クラウディオが最も守ろうとしていた場所だった。


 ただ声を出すだけではない。


 王の声は、血と結びつく。


 自分が王であると知る血が、喉を通って命令になる。


 従え。


 黙れ。


 跪け。


 殺せ。


 赦さぬ。


 その言葉がただの音ではなく、王権として響くのは、血が声を支えているからだ。


 その瞬間を揺らす。


 ルストは、今そう言った。


 クラウディオは低く笑った。


「なるほど。貴様は本当に、王の殺し方を心得ているな」


「殺さない」


「同じだ」


「違う」


「違わぬ」


 クラウディオの声が冷える。


「声を乱すのは、喉を裂くより深い。血脈を揺らすのは、心臓を止めるより深い。貴様はそれを知っていて使うのだろう」


「そうだ」


「否定しろ」


「嘘になる」


「貴様のそういうところが一番腹立たしい」


 ルストは近づいた。


 クラウディオの身体が反射で強張る。


 逃げるためではない。


 警戒だ。


 そう思いたかった。


 だが、身体はもう知っている。


 ルストが近づく時、痛みか血か屈辱のどれかが来る。


 首の雷鎖が微かに鳴った。


 クラウディオはその音を聞き、さらに顔を歪める。


「見るな」


「見ている」


「見るなと言っている」


「封具を見て反応した」


「当たり前だ。貴様の持ってくるものは大抵ろくでもない」


「これは特にそうだな」


「認めるな!」


 怒りが血へ乗る。


 その瞬間、ルストの手の中の封具が低く光った。


 魔導紋が淡く浮かび上がる。


 声を出すより先に、クラウディオの舌の奥へ苦味が広がった。


 薬ではない。


 毒でもない。


 もっと嫌なものだった。


 苦い音。


 苦い沈黙。


 言葉になる前の声へ、黒い膜をかけられるような感覚。


 クラウディオは喉を押さえようとした。


 銀鎖がそれを許さない。


 両手首は拘束されている。


 自分の喉を守ることすらできない。


「……貴様」


 声が掠れた。


 触れられてもいないのに。


 クラウディオの赤い瞳が、怒りで燃える。


「まだ、何もしていないだろうが」


「近づけただけだ」


「近づけるな!」


 叫ぼうとした。


 だが、その声は途中で苦味に絡まった。


 喉の奥で命令の形が揺れる。


 言葉は出た。


 だが、王の声ではなかった。


 ただの怒声。


 クラウディオはそれを自分で聞いた。


 そして、一瞬で顔色を変えた。


 ルストも聞いていた。


「今のは命令になっていない」


「黙れ」


「声が血に乗る前に乱れた」


「黙れと言っている」


「それが作用だ」


 クラウディオは息を呑んだ。


 苦味が舌の奥で広がり続けている。


 命令しようとすると、血が喉へ上がる前に鈍く沈む。


 声の芯が抜かれる。


 王権の圧が、言葉になる前に揺らされる。


 それは痛みではなかった。


 だが、痛みより深い。


 クラウディオは、ゆっくりと声を落とした。


「灰銀」


「何だ」


「それを下げろ」


「下げない」


「我が命じている」


「届いていない」


 その一言で、地下牢が凍った。


 クラウディオの瞳が見開かれる。


「……何だと」


「今の命令は届いていない」


 ルストは、封具を手にしたまま言った。


「声は出ている。だが、王の命令としては通っていない」


 クラウディオの喉が、怒りと屈辱で震えた。


 通っていない。


 王の命令が。


 命じたのに。


 届いていない。


 その事実が、雷鎖より深く彼の心臓を掴んだ。


「貴様……」


 声が揺れる。


 まただ。


 揺れた。


 クラウディオはすぐに歯を食いしばった。


 ルストは逃さない。


「揺れた」


「黙れ」


「封具が効いている」


「黙れと言っている!」


 声が跳ねた。


 命令ではない。


 感情だった。


 クラウディオは自分の声に耐えられず、銀鎖を引いた。


 がしゃん、と激しい音が地下牢に響く。


 封具の魔導紋が、さらに淡く光る。


 苦味が濃くなった。


 血脈の奥へ沈み込み、喉へ上がる声の道を濁らせる。


 クラウディオは低く呻いた。


「ぐ、ッ……」


 痛みではない。


 なのに、身体が拒絶する。


 王血が、声の出口を塞がれることに怒っている。


 喉の痕が熱くなる。


 脇腹の灰銀印も、遠くで応じるように疼く。


 血脈と声。


 その二つが、封具の苦味に掻き乱されている。


「これは責めだな」


 クラウディオは低く言った。


「管理でも、確認でも、治療でもない。貴様は今、我の王権を責めている」


「そうだ」


 また否定しない。


 ルストは封具を掲げるように持った。


 クラウディオの喉が引き攣る。


「お前は声で命じる。怒りも殺意も、王血を通して声に乗せる。そこを揺らせば、暴走する前に止められる」


「そして、我を辱められる」


「それもある」


「本当に否定しないな、貴様は……!」


 怒りで声が荒れる。


 すぐに苦味が強くなる。


 クラウディオの声は、途中でひび割れた。


「っ、ぁ……!」


 短い息が漏れる。


 彼は即座に口を閉じた。


 出すつもりのない声だった。


 苦味が、命令の形を壊しただけではない。


 喉の奥から余計な息を引き出した。


 ルストが見ている。


 クラウディオの頬が、屈辱でわずかに熱を持つ。


「見るな」


「見ている」


「見るな……ッ」


「声を乱される方が、身体の痛みより効くか」


 クラウディオは答えなかった。


 答えれば、それは肯定になる。


 けれど沈黙もまた、肯定のように扱われる。


 最悪だ。


 ルストは静かに言った。


「そうか」


「勝手に納得するな」


「前からそうだったな」


「何が」


「喉を噛まれた時より、声を弱いと言われた時の方が怒った」


 クラウディオの赤い瞳が細くなる。


「黙れ」


「床の血より、王の声が通らないことの方が深い」


「黙れと言っている」


「なら、封具は効く」


 クラウディオの身体が震えた。


 怒りで。


 屈辱で。


 図星を刺されたことへの不快感で。


 「灰銀」


 彼は、ゆっくり言った。


 今度は怒鳴らない。


 低く、冷たく、王の声へ近づける。


 「跪け」


 言葉は落ちた。


 だが、途中で苦味が割り込んだ。


 声の芯が歪む。


 響きが乱れる。


 王の命令として沈むはずの音が、地下牢の空気へ散った。


 ルストは跪かない。


 それは予想していた。


 だが、それ以前の問題だった。


 命令が、命令として完成しなかった。


 クラウディオの顔が、怒りを超えて白くなる。


「……違う」


 掠れた声。


「今のは、違う」


「封具が命令を崩した」


「違うと言っている」


「もう一度言うか」


「貴様……」


 クラウディオは震える息を吐いた。


 喉の奥に苦味がこびりついている。


 声が出る前に、封具が血脈へ触れる。


 命令の形が崩される。


 何度やっても同じかもしれない。


 そう思った瞬間、内側の何かが激しく暴れた。


 王の声を返せ。


 命令を返せ。


 王権を返せ。


 クラウディオは銀鎖を激しく引いた。


 首の雷鎖が鳴る。


 灰銀印も熱を持つ。


 だが、それらよりも封具の苦味が気になる。


 命令できない。


 声が揺れる。


 それだけが、彼を壊す。


「やめろ……」


 出た声は低かった。


 王ではなかった。


 クラウディオ本人の拒絶だった。


 ルストの目がわずかに細くなる。


「やめろ、か」


 クラウディオの瞳が見開かれる。


「違う」


「命令ではなく、拒絶だな」


「違う!」


 声がまた乱れる。


 苦味が深くなる。


 喉が詰まる。


 クラウディオは短く咳き込み、すぐにそれを噛み殺した。


 こんな姿を見せたくない。


 声を乱され、命令を崩され、咳き込み、拒絶の言葉を漏らす姿など。


 よりによってルストに。


「忘れろ」


 低く言った。


 だが、その声にも命令の圧が乗らない。


 ルストは静かに返す。


「忘れない」


 いつもの返答。


 けれど今は、いつもより深く刺さった。


 命じたのに。


 忘れろと命じたのに。


 通らない。


 封具のせいで。


 クラウディオは、赤い瞳でルストを睨み上げた。


「それを使って、我に何を覚えさせる気だ」


「声も血も、無条件には使えないことを」


「王の声を封じる気か」


「封じるのではない。揺らす」


「同じだ」


「違う」


「違わぬ!」


 また声が荒れた。


 苦味が強くなる。


 クラウディオの喉が引き攣り、声が途中でかすれる。


 そのたびに、王の尊厳が削られていく。


 身体を傷つけられるより、はるかに深く。


 ルストは、封具をさらに近づけた。


 直接触れない。


 それでも、クラウディオの喉の奥へ苦味が広がる。


 声の道が歪む。


 血脈が嫌悪で震える。


「命じてみろ」


 ルストが言った。


「またか」


「何でもいい」


「貴様の思い通りに声を出すと思うな」


「出さなくても記録する」


「貴様は本当に最低だな」


「お前に言われたくない」


「我は美しく最低だ。貴様は声まで解剖する最低だ」


「分類はいらない」


「要る。我の気が済む」


 そのやり取りだけは、比較的整っていた。


 命令ではないからだ。


 ただの罵倒。


 ただの会話。


 そこには王権の圧が必要ない。


 クラウディオはそれに気づき、さらに腹が立った。


 命令だけが揺れる。


 王の声だけが乱される。


 封具は、そこを狙っている。


 雑な封印ではない。


 首を絞めるものでも、声を完全に奪うものでもない。


 むしろ声は出る。


 だから余計に残酷だった。


 出るのに、命令にならない。


 王権だけが鈍らされる。


「……よくできた封具だ」


 クラウディオは低く言った。


「褒めているのか」


「侮辱している」


「そうか」


「これを作った者は、相当性格が悪いな」


「古いものだ」


「古いものは大抵ろくでもない」


「お前も古くなる」


「我は美しく古くなる」


「そうか」


「流すな」


 ルストは封具を見下ろした。


「これは王族用ではない」


「なら何だ」


「命令系統を持つ高位血族を止めるためのものだ」


「つまり、王族用だろうが」


「そうとも言う」


「貴様……」


 クラウディオは低く唸った。


 声に苦味が絡まる。


 だが、それは命令ではないため、まだ形を保てている。


「我を、過去の封具で止めるか」


「使えるものは使う」


「本当に情緒が死んでいる」


「必要ない」


「またそれか」


 クラウディオは、ゆっくり息を整えた。


 命令の声を取り戻す。


 封具が揺らすなら、その揺れを越える。


 王の声は、喉だけで出すものではない。


 血と、記憶と、怒りで出すものだ。


 ならば、もっと深くから出せばいい。


 血の底から。


 火刑台の煙のさらに奥から。


 王城の嘲笑を踏み潰した夜から。


 クラウディオは赤い瞳を細めた。


 ルストを見る。


 見据える。


 封具の苦味が喉にある。


 それでも、言う。


「灰銀」


「何だ」


「消えろ」


 声は低く落ちた。


 封具の苦味が絡んだ。


 命令の端がわずかに揺れた。


 だが、完全には崩れなかった。


 クラウディオは、自分の声を聞いた。


 まだ弱い。


 まだ苦味がある。


 だが、先ほどより深い。


 ルストも聞いた。


「少し通ったな」


「当然だ」


「だが、まだ揺れる」


「黙れ」


「もう一度」


「貴様に稽古をつけられる筋合いはない!」


 声が荒れた瞬間、また崩れた。


 クラウディオは歯を食いしばる。


 ルストは見ている。


「怒鳴ると崩れる」


「……黙れ」


「低く出せば通る」


「黙れと言っている」


「喉ではなく、血の底から出している」


「見るな」


「聞いている」


「聞くな」


「無理だな」


 クラウディオは、息を吐いた。


 この男、本当に腹立たしい。


 だが、言っていることは間違っていない。


 それがさらに腹立たしい。


 怒鳴れば崩れる。


 低く落とせば、苦味を少し越える。


 封具は命令を揺らす。


 だが、完全には奪えない。


 なら、越える。


 越えてやる。


 クラウディオは、薄く笑った。


「よく分かった」


「何が」


「貴様の封具は、我を黙らせるものではない」


 声はまだ少し掠れていた。


 だが、王の芯が戻りつつある。


「我に、より深く命じさせるためのものだ」


 ルストは黙った。


 クラウディオは笑みを深くする。


「間抜けめ。王の声を揺らせば、王はさらに深いところから声を出す」


「そうか」


「そうだ」


「なら、今日は成功だな」


 クラウディオの笑みが止まる。


「……何?」


「深いところから声を出した」


 ルストは封具を下げた。


「確認できた」


 クラウディオは数秒黙った。


 そして、怒りで顔を歪めた。


「貴様……まさか、それも目的か」


「一つだ」


「最悪だな!」


「お前に言われたくない」


「我は美しく最悪だ。貴様は教育方針が最悪だ!」


「教育ではない」


「では何だ」


「調整だ」


「もっと悪い!」


 雷鎖が小さく鳴る。


 だが、クラウディオは今度は怒鳴り切らなかった。


 喉を守る。


 声を守る。


 王の声を、封具ごときに崩され続けるわけにはいかない。


 ルストはそれを見ていた。


「今日はここまでだ」


「勝手に終わるな」


「喉が限界に近い」


「我が決める」


「お前は続けると言うだろう」


「当然だ」


「だから終わる」


「貴様のそういうところが死ぬほど腹立たしい」


 ルストは封具を収めた。


 その瞬間、クラウディオの舌の奥から苦味が少し引いていく。


 完全には消えない。


 残り香のように、まだある。


 王の声が揺らされた記憶として。


 クラウディオは、低く息を吐いた。


「灰銀」


「何だ」


「次にそれを使えば、封具ごと貴様の喉へ沈める」


「手順を考えるな」


「貴様にだけは言われたくない」


「今は無理だ」


「今はな」


 ルストは扉へ向かう。


 クラウディオはその背へ声を落とした。


「灰銀」


 ルストが振り返る。


 クラウディオは、封具の苦味がまだ残る喉で、低く命じた。


「忘れろ」


 ルストは見ている。


 クラウディオは続ける。


「今の揺れた声を、忘れろ」


 ルストは短く答えた。


「忘れない」


「だろうな」


 クラウディオは笑った。


 不快そうに。


 悔しそうに。


 だが、どこかで既に次を考えている笑みだった。


「なら、覚えておけ。次は揺れぬ」


「覚えておく」


「忘れるな」


「忘れない」


 扉が閉まる。


 地下牢に、静けさが戻った。


 苦味はまだ喉に残っている。


 声を乱された屈辱も、血脈を揺らされた怒りも。


 クラウディオは目を閉じなかった。


 喉の奥で、声を確かめる。


 黙れ。


 跪け。


 消えろ。


 赦さぬ。


 短い命令を、声に出さず、血の底で並べる。


 揺らされたなら、沈めればいい。


 苦味を越えて、もっと深く。


 王の声は、まだ死んでいない。


 むしろ、封具に触れたことで、より深い場所を思い出した。


 クラウディオは、赤い瞳を細く開ける。


「我は、王だ」


 低く、声にした。


 苦味はまだあった。


 だが、その声は地下牢の石床へ沈んだ。


 完全ではない。


 けれど、確かに命令の形をしていた。


 苦い封具は、王の声を乱した。


 そして同時に、王の声がどこから生まれるのかを、クラウディオに思い出させた。


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