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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第94話 我と言えない



 声の奥に、まだ苦味が残っていた。


 封具は外されている。


 黒銀の輪は、もう地下牢の中にはない。


 それでも、クラウディオ・ルジェリウスの喉の奥には、あの苦い魔導の残響がこびりついていた。


 言葉が出る。


 声も出る。


 だが、命令の形へ整えようとすると、喉の奥で何かがひっかかる。


 王の声が、血に乗る直前でわずかに揺れる。


 それが、何より腹立たしかった。


 クラウディオは銀鎖に繋がれたまま、地下牢の壁にもたれていた。


 手首と足首の拘束は、以前より少しだけ緩められている。だが、自由ではない。逃げられない距離で繋がれている。暴れればすぐに銀が食い込み、血が荒れれば雷鎖が鳴る。


 脇腹には灰銀印。


 首には雷鎖。


 喉には牙痕。


 そして今は、声の奥に苦味。


 クラウディオは、ゆっくり息を吸った。


 低く、整えて。


 血の底から、王の声を引き上げるように。


「……我は」


 そこで、声が止まった。


 喉が詰まる。


 たった二文字。


 王である自分を示す言葉。


 それが、途中で詰まった。


 クラウディオの赤い瞳が、見開かれる。


 もう一度。


 彼は息を吸い直した。


「我、は……」


 また、詰まる。


 声が、最後まで落ちない。


 王の一人称が、喉の奥で苦味に絡まって崩れる。


 地下牢の湿った空気が、急に重くなったように感じた。


 クラウディオの指先が、銀枷の中で震える。


 違う。


 これは違う。


 封具の残響だ。


 喉の傷だ。


 失血のせいだ。


 飢餓の後遺だ。


 ルストに噛まれたせいだ。


 灰銀印のせいだ。


 雷鎖のせいだ。


 自分のせいではない。


 そう思おうとした。


 だが、言葉は出なかった。


「……ふざけるな」


 掠れた声が落ちた。


 それは出る。


 怒りは出る。


 罵倒も出る。


 灰銀と吐き捨てる声も、まだ出る。


 なのに、「我」が詰まる。


 王としての言葉だけが、喉の奥で鈍る。


 クラウディオは、銀鎖を引いた。


 がしゃん、と金属音が響く。


「ふざけるな……ッ」


 もう一度。


 今度は、怒りが混じる。


 首元の雷鎖が低く鳴った。


 青白い光が、輪の内側をかすかに走る。


 クラウディオは、それすら無視しそうになった。


 だが、身体が先に覚えている。


 心臓を止められる痛み。


 泡を吹き、床へ崩れ、見られる屈辱。


 怒りを血へ乗せれば、また打たれる。


 分かっている。


 分かってしまっている。


 それもまた、彼をさらに怒らせた。


 扉の向こうで、足音がした。


 クラウディオは顔を上げた。


 ルストが入ってくる。


 灰銀の髪。


 鋼色の瞳。


 相変わらず、何も見逃さない目。


 クラウディオは、その顔を見た瞬間、喉の奥の苦味がさらに濃くなった気がした。


「来るな」


 声は出た。


 低く、鋭く。


 だが、完全な命令ではない。


 ルストは足を止めない。


 クラウディオの瞳が赤く燃える。


「来るなと言っている」


「声がまだ乱れている」


「黙れ」


「封具の残響か」


「黙れと言っている」


「我、と言えなかったな」


 その一言で、地下牢の空気が凍った。


 クラウディオの顔から、表情が消える。


 ルストは見ていた。


 やはり。


 見ていた。


 聞いていた。


 最悪だった。


「……聞くな」


 クラウディオは低く言った。


「我の声を、聞くな」


「聞こえた」


「忘れろ」


「忘れない」


「忘れろと言っている」


「必要な反応だ」


「その言葉をやめろ!」


 怒鳴った瞬間、喉が引き攣った。


 声が割れる。


 わずかに。


 しかし、クラウディオにははっきり分かった。


 王の声が、また崩れた。


 ルストにも分かった。


 クラウディオは、怒りより先に屈辱で息を詰めた。


「……見るな」


「見ている」


「聞くな」


「聞いている」


「記録するな」


「する」


 いつもの返答。


 だが今夜は、いつも以上に刺さる。


 声。


 それはクラウディオの王権そのものだった。


 身体を縛られても、皿で血を飲まされても、血を啜られても、記憶へ踏み込まれても、声さえ残れば王の形は保てる。


 なのに。


 その声が、「我」と言えない。


 クラウディオは、赤い瞳でルストを睨んだ。


「貴様のせいだ」


「そうだな」


「認めるな」


「封具を使ったのは俺だ」


「それだけではない」


 クラウディオの声が低く震える。


「喉を噛んだのも、血を啜ったのも、雷鎖で黙らせたのも、皿で飲ませたのも、我の声をここまで削ったのも、全部貴様だ」


「そうだな」


「だから認めるなと言っている!」


 雷鎖が鳴る。


 クラウディオは息を詰めた。


 痛みはまだ来ない。


 警告だけ。


 それでも、身体は硬直する。


 その反応を、ルストは見ている。


 クラウディオは歯を食いしばった。


「見るな……」


 今度の声は、命令ではなく拒絶に近かった。


 それがさらに悔しい。


 ルストは、少しだけ近づいた。


 クラウディオの身体が警戒する。


 噛まれるかもしれない。


 血を飲まされるかもしれない。


 雷鎖を入れられるかもしれない。


 身体が先にそう思う。


 それを止められない。


 ルストは近づきすぎない距離で止まった。


 それもまた、管理だった。


 クラウディオは低く笑う。


「気遣いのつもりか」


「近づけばお前が荒れる」


「だから止まった?」


「ああ」


「最悪だな」


「そうか」


「そうだ。貴様の距離の取り方まで、我を測っている」


 ルストは否定しない。


 クラウディオは、吐き捨てるように言った。


「檻より深い」


「前にも言ったな」


「何度でも言う。貴様は我の外側だけでは飽き足らず、声の奥まで檻にした」


 ルストは黙っていた。


 沈黙。


 その沈黙は、昨日から続いている。


 見たものを言わない沈黙。


 知ったことを並べない沈黙。


 クラウディオにとって、それは優しさではなかった。


 ただの別種の圧だった。


 何を知っている。


 何を言わずにいる。


 どこまで見た。


 問いはしない。


 だが、問いが喉の奥に残り続ける。


 その喉が、今は「我」と言えない。


 クラウディオは、自分の喉を噛み潰したいほど腹が立った。


「もう一度言ってみろ」


 ルストが言った。


 クラウディオの視線が鋭くなる。


「命じるな」


「確認だ」


「するな」


「我、と」


「黙れ」


「言えるか」


「黙れと言っている!」


 声が荒れた。


 また乱れる。


 クラウディオは、その乱れに自分で傷ついた。


 ルストは静かに見ている。


「無理に言わなくていい」


 その声は、今までよりわずかに柔らかかった。


 クラウディオの目が細くなる。


「……何?」


「俺といる時くらいは、王でいるのをやめろ」


 地下牢の空気が止まった。


 その言葉は、罰ではなかった。


 管理の指示でもなかった。


 雷鎖の脅しでも、封具の確認でもない。


 少しだけ、甘いものに似ていた。


 少なくとも、ルストにしては。


 クラウディオは、しばらく何も言えなかった。


 俺といる時くらいは。


 王でいるのをやめろ。


 優しさの形をしている。


 だが、クラウディオにはそう聞こえなかった。


 王でいるな。


 王を脱げ。


 我と言わなくていい。


 クラウディオ本人でいろ。


 その言葉は、慰めではなく侵入だった。


 王であることは、ただの鎧ではない。


 剥がせば楽になる衣ではない。


 王でなければ、あの子どもに戻る。


 火刑台の前で何もできなかった子どもに。


 王城の冷たい声を黙って覚えるしかなかった子どもに。


 奪われる側の、弱いものに。


 クラウディオの表情が、静かに冷えた。


「……貴様」


 声は低い。


「今、何と言った」


 ルストは目を逸らさない。


「王でいなくていいと言った」


「誰の前で」


「俺の前で」


「ふざけるな」


 即答だった。


 静かな声。


 だが、怒りが濃い。


「ふざけるな、灰銀」


 クラウディオは銀鎖を鳴らした。


「我が、貴様の前で王をやめるだと?」


「ずっと王でいる必要はない」


「ある」


「ない」


「ある!」


 雷鎖が鳴る。


 だが、クラウディオは止まらなかった。


「我が王でなくなれば、貴様は何を見る。床の血へ這った獣か。皿から飲んだ犬か。火刑台の前で何もできなかった子どもか。妾の子と笑われた弱いものか」


 言葉が出た。


 出てしまった。


 クラウディオの目が、自分の言葉にわずかに揺れる。


 火刑台。


 子ども。


 妾の子。


 また、余計なものが漏れた。


 ルストの目が静かに動く。


 クラウディオは即座に怒りで塗り潰した。


「忘れろ」


「忘れない」


「忘れろと言っている!」


 声がまた割れた。


 今度は屈辱で、息が止まりそうになる。


 「我」と言えない。


 王でいるなと言われる。


 子どもの記憶が漏れる。


 声が割れる。


 全部、ルストの前で。


 クラウディオは、怒りを抑えきれず銀鎖を引いた。


 がしゃん、と音が響く。


「我は……!」


 そこで詰まった。


 また。


 我は。


 そこから先が出ない。


 クラウディオの目が見開かれる。


 喉の奥に苦味が蘇る。


 封具はもうない。


 なのに、声が詰まる。


 王の一人称が、喉を通らない。


 ルストが近づきかけた。


 クラウディオは鋭く叫ぶ。


「来るな!」


 今度の声は命令の形だった。


 不完全でも、強い。


 ルストは止まった。


 クラウディオは荒い息を吐いた。


「来るな……」


 もう一度。


 こちらは弱い。


 拒絶に近い。


 ルストは止まったまま、静かに言った。


「クラウディオ」


「その名を呼ぶな」


「王でいるのをやめろと言ったのは、剥がすためじゃない」


「同じだ」


「違う」


「違わぬ」


 クラウディオは低く笑った。


 笑い声も喉で揺れる。


「貴様は、何もかも管理にする。血も、飢えも、声も、記憶も、名も。今度は王でいることまで管理する気か」


「そうじゃない」


「では何だ」


「休めと言っている」


 その言葉に、クラウディオは一瞬だけ固まった。


 休め。


 その単語は、彼の中でうまく意味を結ばなかった。


 王は休まない。


 暴君は休まない。


 災厄は休まない。


 奪う側は、隙を見せない。


 休むのは、奪われる側だ。


 守られる側だ。


 火刑台の前で何もできない者だ。


「……必要ない」


 クラウディオは言った。


 声が少し低く戻る。


「我に休息など必要ない」


 我。


 出た。


 かろうじて。


 だが、ひどく苦しかった。


 喉を引き裂くように押し出した「我」だった。


 ルストはそれを聞き、ほんの少し目を細める。


「無理に言ったな」


「黙れ」


「苦しそうだ」


「黙れと言っている」


「だから、王でいるのをやめろと言った」


「だから、それが屈辱だと言っている!」


 声が裂ける。


 クラウディオは自分でそれを聞き、顔を歪めた。


「貴様の前でだけは、王でいなければならない」


 言葉は、怒りの奥から出た。


 ルストは黙る。


 クラウディオは続けた。


「貴様は我を床へ落とした。皿で飲ませた。血を奪った。記憶を覗いた。声を乱した。名を呼べと迫った。なら、なおさらだ」


 赤い瞳が、まっすぐルストを射抜く。


「貴様の前で王でなくなったら、我には何が残る」


 言ってしまった。


 クラウディオの唇が、わずかに震える。


 ルストは何も言わない。


 沈黙。


 今度の沈黙は、地下牢の灯りよりも暗かった。


 クラウディオは、すぐに顔を歪める。


「違う」


 低く言った。


「今のは違う」


「違わない」


「違うと言っている」


「クラウディオ」


「その名を呼ぶな!」


 雷鎖が鳴る。


 ルストはそれでも続けた。


「残るだろう」


「何が」


「お前が」


 クラウディオの息が止まった。


 お前が。


 王ではなく。


 暴君ではなく。


 災厄ではなく。


 クラウディオが。


 その言葉は、甘い回の中心にあるはずだった。


 けれど、クラウディオには刃だった。


 お前が残る。


 それは、王冠を外しても価値があると言う言葉かもしれない。


 だが、彼にはそう聞こえなかった。


 王冠を外せ。


 声を捨てろ。


 裸の自分を差し出せ。


 そう聞こえた。


 クラウディオは、ゆっくり笑った。


 冷たい笑みだった。


「要らぬ」


 ルストの目が動く。


「何?」


「王でない我など、要らぬ」


 クラウディオは言った。


 ひどく静かに。


「そんなものは、火刑台の前で何もできなかった子どもだ。王城で笑われて、黙って覚えるしかなかった弱いものだ。誰かに焼き菓子を渡されただけで、それを救いのように抱えた愚かなものだ」


 声が掠れる。


 だが止まらない。


「要らぬ」


 もう一度。


「そんなものは、灰になった」


 ルストは、黙って聞いていた。


 クラウディオの喉が震える。


 言いすぎた。


 分かっている。


 だが、止まらなかった。


 王でいるのをやめろ。


 その一言が、深すぎる場所を突いたからだ。


「我は王だ」


 今度は言えた。


 痛みを伴って。


 喉を擦り切らせながら。


「王でなければ、我はここにいない」


 ルストの声が低い。


「いる」


「いない」


「いる」


「いないと言っている!」


 雷鎖が鳴る。


 クラウディオは息を詰める。


 ルストは近づかない。


 距離を保っている。


 その距離が、今は少しだけ優しさに近い。


 だから余計にクラウディオは苛立つ。


「優しさのつもりなら、やめろ」


「そうか」


「我を慰めるな」


「慰めたつもりはない」


「なら何だ」


「事実を言った」


「貴様の事実は嫌いだ」


「知っている」


「知るな」


 クラウディオは、荒い息を整えた。


 声が疲れている。


 喉が痛い。


 だが、「我」は出た。


 苦しくても、出た。


 それだけで、今は十分だった。


 ルストは静かに言った。


「今日は終わる」


「勝手に終わるな」


「喉が限界だ」


「我が決める」


「お前は続けると言う」


「当然だ」


「だから終わる」


「腹立たしい男だな……」


 ルストは扉へ向かう。


 クラウディオは、その背を睨む。


 王でいるのをやめろ。


 俺といる時くらいは。


 その言葉が、まだ喉の奥に残っている。


 甘さに似たもの。


 だが、クラウディオは受け取らない。


 受け取れない。


 それは、王冠を外すことだから。


 クラウディオは、扉が閉まる寸前に低く言った。


「灰銀」


 ルストが振り返る。


「何だ」


「二度と、王でいるのをやめろなどと言うな」


 ルストは少しだけ沈黙した。


 それから答える。


「また言うかもしれない」


「その時は殺す」


「今は無理だ」


「今はな」


 いつもの返し。


 それで、少しだけ呼吸が戻る。


 ルストは扉の向こうへ出た。


 重い音が閉じる。


 地下牢に、クラウディオだけが残る。


 彼は目を閉じなかった。


 喉の奥で、何度も言葉を確かめる。


 我は。


 我は王だ。


 我はクラウディオ・ルジェリウスだ。


 そこまで考えて、彼は顔を歪めた。


 自分の名さえ、今は少し重い。


 王名としてなら言える。


 けれど、ルストが呼ぶ「クラウディオ」は違う。


 王冠の下を見ようとする音だ。


 クラウディオは低く吐き捨てた。


「……ふざけるな」


 声はまだ掠れていた。


 けれど、最後にもう一度だけ言った。


「我は、王だ」


 苦しくても。


 詰まっても。


 声が乱れても。


 それだけは、手放さない。


 たとえ、それが自分自身を守るための最後の檻だったとしても。


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