第92話 王の声
王とは、何でできているのか。
血か。
王冠か。
玉座か。
従う者の数か。
恐怖か。
クラウディオ・ルジェリウスにとって、その答えは初めから決まっていた。
声だ。
命じる声。
誰かの動きを止め、膝を折らせ、許しを乞わせ、血杯を持つ手を震わせる声。
王座の上で低く落とす一言。
それだけで、夜会のざわめきが消える。
従者の足音が止まる。
古参吸血鬼の嘲笑が喉の奥で凍る。
王城の空気が、ただ一人の声に従う。
それこそが、王権だった。
血を奪う牙よりも。
喉を裂く爪よりも。
血術よりも。
クラウディオにとって、命令する声こそが王だった。
だからこそ、今の喉が許せなかった。
「……見るな」
地下牢の中で、クラウディオは低く言った。
声は出た。
だが、掠れていた。
昨日の吸血で深く噛まれた喉は、まだ完全には戻っていない。ルストの血で傷は塞がりつつある。王血も戻りつつある。だが、声だけは戻りが遅かった。
響かない。
冷たく落ちない。
相手の背筋を凍らせるほどの圧が、まだ乗らない。
その事実が、身体の痛みよりもクラウディオを苛立たせた。
銀鎖は四肢にある。
首には雷鎖。
脇腹には灰銀印。
喉には新旧の牙痕。
どれも屈辱だ。
だが、それでもまだ耐えられる。
鎖はいつか壊す。
印はいつか剥がす。
痕はいつか、刻んだ者の血で上書きしてやる。
けれど、声が乱れることだけは別だった。
命じる声が乱れる。
それは、王冠そのものに罅を入れられるのと同じだった。
ルストは、地下牢の中央に立っていた。
灰銀の髪。
鋼色の瞳。
相変わらず、何も見逃さない目。
「声が戻っていない」
淡々とした一言。
クラウディオの瞳が赤く燃えた。
「黙れ」
言った瞬間、声が少しだけ割れた。
わずかな軋み。
普通の者なら気づかない。
だが、クラウディオには分かった。
そしてルストにも分かった。
最悪だった。
ルストは言った。
「今のも割れた」
「黙れと言っている」
「怒ると喉が荒れる」
「我の喉を、貴様が語るな」
「噛んだのは俺だ」
「だからなおさら語るな!」
怒鳴りかけた声が、途中で掠れた。
喉の傷が引き攣る。
クラウディオの顔が、怒りとは別の屈辱で歪んだ。
声が、崩れた。
今。
ルストの前で。
彼は歯を食いしばった。
雷鎖が低く鳴る。
怒りが血へ乗りかけたからだ。
クラウディオはそれを沈めた。
沈めてしまった。
そうしなければ、心臓を叩かれる。
分かっている。
その「分かっている」ことが、さらに不快だった。
「……声を測るな」
低く、押し殺した声。
「我の声を、貴様の記録にするな」
「必要だ」
「その言葉をやめろ」
「やめない」
「なら、その舌を裂く」
「今は無理だ」
「今はな」
そこだけは、まだ返せる。
いつもの形。
だが、声の奥には微かな掠れが残っていた。
ルストはそれを聞いている。
聞いているだけでなく、覚えている。
クラウディオには分かる。
この男は、あとで記録するだろう。
失血後、王声音の回復不完全。
怒声時に喉の乱れ。
威圧音声、維持困難。
そんな冷たい言葉で。
クラウディオの声を。
王権を。
ただの管理項目のように。
「命じてみろ」
ルストが言った。
クラウディオの視線が鋭くなる。
「何?」
「命令する声が戻っているか見る」
「貴様が命じるな」
「命じてみろ、クラウディオ」
「その名を呼ぶな」
「なら、王として命じろ」
クラウディオは笑った。
乾いた、冷たい笑い。
だが、その笑いさえ喉の奥で少し引っかかった。
屈辱が深くなる。
「貴様に命じる声など、安く使うものか」
「使えないのか」
短い挑発。
クラウディオの赤い瞳が、すっと細くなった。
「灰銀」
「何だ」
「膝をつけ」
言葉は落ちた。
かつて王城なら、その一言で床が鳴った。
従者も臣下も、古参吸血鬼でさえ一瞬息を止めただろう。
だが、ここでは違った。
ルストは膝をつかない。
そもそも従う気がない。
それは分かっていた。
問題はそこではない。
声だった。
命令の最後が、わずかに揺れた。
膝をつけ。
その「つけ」が、ほんの少し荒れた。
クラウディオは自分で分かった。
ルストも分かった。
「弱い」
ルストが言った。
地下牢の空気が、凍った。
クラウディオの表情から、笑みが消える。
「……何だと」
「声が弱い」
「貴様……」
「王城で使っていた声ではない」
クラウディオの血が荒れた。
雷鎖が警告を鳴らす。
青白い光が、首元の輪を一瞬走った。
だが、クラウディオは怒りを沈めきれなかった。
「貴様が」
声が低く震える。
「貴様が我の喉を裂いたのだろうが」
「噛んだ」
「同じだ!」
「違う」
「違わぬ!」
声がまた乱れた。
それだけで、クラウディオの怒りは自分へも向いた。
喉が使えない。
声が整わない。
命令の形が崩れる。
王としての形が、声から崩れる。
身体を鎖で縛られるよりも、膝をつかされるよりも、皿で血を飲まされるよりも、声が乱れることは耐えがたかった。
王の声は、王権だ。
その声を乱されることは、王権を直接握り潰されることだった。
「お前にとって、声は重要か」
ルストの問い。
クラウディオは睨んだ。
「当然だ」
「王だからか」
「王だからではない」
クラウディオは、掠れた声で言った。
「声が王なのだ」
ルストは黙って聞いている。
クラウディオは続けた。
「血杯を掲げる者も、牙を研ぐ者も、王座を狙う者も、全員、最後には声に従う。命令の声だ。殺せと言えば殺す。跪けと言えば跪く。黙れと言えば黙る」
喉が痛む。
だが止まらなかった。
「王冠など金属だ。玉座など椅子だ。血筋など、笑いたい者は笑う。だが、声は違う」
赤い瞳が燃える。
「命じる声を持つ者が、王だ」
地下牢に、その言葉が落ちた。
今度は、掠れていても芯があった。
ルストは静かに見ていた。
「なら、声を乱されるのは」
「殺されるより腹立たしい」
即答だった。
「身体の痛みなど、どうでもいい。銀が肌を焼こうが、雷鎖が心臓を止めようが、喉を噛まれようが、いずれ戻る」
クラウディオの声が、少しずつ冷たさを取り戻していく。
「だが、命令の声を乱されるのは違う。声が割れれば、王の命令が割れる。喉が震えれば、従う者の恐怖が揺らぐ。王の声に迷いが混じれば、その瞬間、夜は牙を剥く」
彼はルストを睨んだ。
「貴様は、そこを踏んだ」
ルストは答えない。
クラウディオは笑った。
今度の笑みは、少しだけ王の形に近かった。
「だから殺す」
「何度も聞いた」
「何度でも聞け」
低く落ちる声。
まだ完璧ではない。
だが、戻り始めていた。
「この喉が完全に戻った時、最初に命じてやる。灰銀、跪けと」
「跪かない」
「跪かせる」
「今は無理だ」
「今はな」
短いやり取り。
クラウディオの声は、先ほどより整っていた。
ルストはそれを聞き、わずかに目を細めた。
「戻りが早いな」
「我の声だ」
「喉は傷んでいる」
「声は喉だけで出すものではない」
クラウディオは低く言った。
「血と、記憶と、怒りで出すものだ」
それは彼自身の答えだった。
王城で冷たく扱われた日々。
妾の子と呼ばれた声。
菓子屋の女を火刑台で失った夜。
王冠へ至るまでに踏み潰したもの。
それらが、声を作った。
優しい声ではない。
救う声でもない。
命じる声。
奪う声。
従わせる声。
それがクラウディオの王権だった。
ルストは、その奥を見てしまった。
だからこそ、今この声の意味も分かっているのだろう。
クラウディオは、それがまた腹立たしかった。
「理解したような目をするな」
「していない」
「している」
「見ているだけだ」
「それが腹立たしい」
ルストは一歩近づいた。
クラウディオの身体が、ほんの少し警戒する。
噛まれる記憶。
血を吸われる記憶。
それでも、彼は顔を背けなかった。
王の声を語った後に、喉を逃がすなどできない。
ルストは、クラウディオの喉元を見た。
痕。
牙の傷。
そこに王の声が通る。
「ここを噛めば、声が乱れる」
ルストが言った。
クラウディオの瞳が鋭くなる。
「試すな」
「今は噛まない」
「今は、か」
「ああ」
「貴様は本当に、最低だな」
「お前に言われたくない」
「我は美しく最低だ。貴様は声帯まで管理対象にする最低だ」
「実際、管理対象だ」
「言うと思った!」
怒声が出かけ、途中で抑えた。
喉がまた乱れるからだ。
クラウディオはそれを自覚し、歯を食いしばる。
ルストが見る。
「怒鳴らなかったな」
「黙れ」
「喉を守った」
「黙れと言っている」
「声を失いたくないからか」
クラウディオの赤い瞳が細くなる。
「失うものか」
「なら、怒り方を覚えろ」
「我に教える気か」
「必要なら」
「貴様の必要は、何もかも不愉快だ」
「知っている」
「知らなくていい」
「知っている」
クラウディオは低く息を吐いた。
喉の奥に熱が残る。
痛みもある。
だが、先ほどより声は戻っていた。
怒りによって。
屈辱によって。
王の声は、傷口からでも立ち上がる。
ルストは言った。
「もう一度命じてみろ」
「断る」
「声を見る」
「見るな」
「聞く」
「聞くな」
「命じろ」
「命じるな」
「クラウディオ」
「その名を呼ぶな」
「王の声で」
クラウディオはしばらく黙った。
そして、ゆっくり顔を上げる。
赤い瞳が、地下牢の灯りを受けて光る。
銀鎖に繋がれ、雷鎖を首に嵌められ、灰銀印を刻まれ、喉を噛まれたまま。
それでも、彼は王だった。
そうでなければならない。
クラウディオは息を整えた。
喉の痛みを押し込める。
声を低く落とす。
王城の夜を思い出す。
血杯。
黒い床。
息を殺す臣下たち。
そして、命じる自分。
「黙れ、灰銀」
今度の声は、静かだった。
怒鳴っていない。
叫んでいない。
低く、冷たく、床へ沈むような声。
命令の形をしていた。
ルストは黙った。
従ったわけではない。
おそらく、確認のために。
それでも、沈黙した。
クラウディオは、それだけで唇をわずかに歪めた。
「見たか」
ルストは答えない。
クラウディオは続ける。
「声は戻る」
掠れはまだある。
だが、芯は戻った。
「貴様がどれほど喉を噛もうと、血を奪おうと、雷鎖で黙らせようと、我の声は戻る」
ルストは、静かに言った。
「まだ完全ではない」
「完全に戻れば、貴様はもっと腹が立つぞ」
「そうだな」
「認めるな」
「事実だ」
「相変わらず腹立たしい男だ」
クラウディオは低く笑った。
今度の笑いは、先ほどよりも王に近い。
ルストは、それを見ていた。
記録するように。
だが、今のクラウディオはその視線から逃げなかった。
声が戻る。
なら、まだ命じられる。
命じられるなら、まだ王だ。
たとえ鎖に繋がれていても。
たとえ喉に牙痕があっても。
たとえ声を乱された屈辱を、ルストに知られていても。
クラウディオは、低く告げた。
「覚えておけ、灰銀」
「何を」
「王の声は、殺すための刃だ」
赤い瞳が、まっすぐルストを射る。
「次にこの声が完全に戻った時、貴様へ向ける」
「楽しみにしておく」
「楽しみにするな!」
少しだけ声が荒れ、喉が引き攣った。
クラウディオはすぐに顔を歪める。
ルストが見る。
「まだ乱れる」
「黙れ」
「今のも記録する」
「記録するな!」
「声が荒れると喉に響く」
「貴様、本当に……!」
クラウディオはそこで言葉を止めた。
怒鳴らない。
守る。
王の声を。
怒りに任せて割るなど、二度と御免だった。
彼は、ゆっくり息を吐き、低く言った。
「出ていけ」
今度は、かなり整っていた。
ルストはしばらくクラウディオを見た。
それから頷く。
「今日はここまでだ」
「最初からそうしろ」
「声は戻り始めている」
「貴様に言われずとも分かっている」
「完全に戻るまで無理に荒らすな」
「命じるな」
「管理だ」
「その言葉を使うな」
ルストは扉へ向かう。
クラウディオは、その背を睨んだ。
喉はまだ痛む。
声はまだ完全ではない。
だが、戻る。
戻してみせる。
命令する声を。
王権そのものを。
扉が閉まる直前、ルストが振り返った。
「クラウディオ」
「その名を呼ぶな」
「次は、王城の声を聞かせろ」
クラウディオの瞳が冷えた。
「貴様に聞かせるための声ではない」
「そうか」
「灰銀」
「何だ」
クラウディオは、喉の痛みを押さえ込みながら、低く命じた。
「消えろ」
ルストは何も言わず、扉の向こうへ出た。
重い音が響く。
地下牢に、クラウディオの呼吸だけが残る。
彼は目を閉じずに、喉の奥で声を確かめた。
黙れ。
跪け。
殺せ。
赦さぬ。
短い命令を、声にせず、内側で並べる。
王の声は、まだ死んでいない。
乱された。
傷つけられた。
辱められた。
だが、死んではいない。
クラウディオは、赤い瞳を細めた。
「我は、王だ」
低く落とした声は、まだ掠れていた。
だが、地下牢の石床へ確かに沈んだ。
それだけで、今は十分だった。




