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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第91話 名前を呼べ



 地下牢には、まだ沈黙が残っていた。


 重く、湿って、石壁に染み込むような沈黙だった。


 クラウディオ・ルジェリウスは、銀鎖に繋がれたまま目を開けていた。眠っていたわけではない。目を閉じれば、血の奥を覗かれた感覚が戻ってくる。焼けた砂糖の匂い、火刑台の煙、王城の冷たい廊下。見られたかもしれないものが、瞼の裏で勝手に形を持つ。


 だから、眠らなかった。


 眠れなかった。


 それを認めるつもりはなかった。


 首には雷鎖。


 脇腹には灰銀印。


 喉には、ルストの牙痕が重なっている。


 あの牙痕が熱を持つたび、クラウディオは自分の血がまだルストに触れられたままだと錯覚した。気色が悪い。腹立たしい。屈辱だ。


 けれど、もっと腹立たしいのは、ルストが何も言わないことだった。


 見たのか。


 どこまで見たのか。


 菓子屋の女を見たのか。


 火刑台を見たのか。


 王城で投げられた声を聞いたのか。


 問いはしない。


 聞けば負けだ。


 だが、聞かないまま沈黙を抱えていることも、別の形で負けているようで苛立つ。


 クラウディオは、薄く笑った。


「……くだらぬ」


 声は掠れていた。


 まだ、失血の名残がある。


 それでも、獣の唸りではなかった。言葉だ。王の声へ戻りかけている。


 そこだけは、ルストに奪われていない。


 そう思おうとした。


 扉の外で、足音がした。


 クラウディオの視線が動く。


 重い鉄扉が開く。


 ルストが入ってきた。


 灰銀の髪。


 鋼色の瞳。


 相変わらず、何を考えているのか分からない顔。


 だが、クラウディオはもう知っている。


 その無表情の奥で、ルストは見ている。


 反応を。


 喉の震えを。


 血の揺れを。


 言葉の崩れを。


 隠した記憶に触れられた時の、ほんのわずかな沈黙まで。


 クラウディオは吐き捨てた。


「見るな」


 ルストは答える。


「見ている」


「毎度毎度、同じ返答しかできぬのか」


「お前も同じことを言う」


「我は王だ。同じ命令を何度も聞かぬ貴様が悪い」


「命令として通っていない」


 クラウディオの瞳が赤く冷える。


「通す」


「今は無理だ」


「今はな」


 短いやり取り。


 いつもの刃の打ち合い。


 だが、今日はルストの目がわずかに違った。


 何かを決めている目だった。


 クラウディオは、それだけで不快になった。


「何だ」


「名前を呼べ」


 沈黙が落ちた。


 クラウディオは、ゆっくりと瞬きをした。


「……何?」


 ルストは同じ調子で繰り返す。


「名前を呼べ」


 地下牢の空気が冷えた。


 クラウディオの指先が、銀枷の中でかすかに動く。鎖が小さく鳴った。


「貴様」


 声が低くなる。


「昨日、我の血の奥へ踏み込み、今日になって最初に言うことがそれか」


「そうだ」


「我に名前を呼ばせることが、それほど重要か」


「重要だ」


「なぜ」


「お前が拒むからだ」


 クラウディオは笑った。


 喉の傷が痛んだが、笑った。


「なら、余計に呼ぶわけがないだろう。頭まで灰になったか、灰銀」


 ルストは近づく。


 クラウディオの身体が、ほんのわずかに強張った。


 自覚した瞬間、怒りが湧く。


 近づかれただけで身体が警戒する。


 噛まれるかもしれない。


 血を飲まされるかもしれない。


 雷鎖が来るかもしれない。


 その記憶が、身体を先に動かす。


 最悪だった。


「反応したな」


「黙れ」


「近づいただけだ」


「黙れと言っている」


「噛まれると思ったか」


 クラウディオの表情が消えた。


 ルストは言った瞬間、あえて踏み込んだと分かる声をしていた。


 クラウディオの血が荒れた。


 雷鎖が低く鳴る。


 首元の輪に、青白い光がかすかに走った。


 クラウディオは歯を食いしばる。


「……貴様は、本当に」


 低い声。


「最低だな」


「お前に言われたくない」


「我は美しく最低だ。貴様は人の傷口を無表情で踏む最低だ」


「人ではない」


「そこに返すな!」


 怒りが上がる。


 雷鎖がもう一度鳴る。


 クラウディオは息を止め、血を沈めた。


 沈めてしまった。


 ルストが見ている。


 その目が、また腹立たしい。


「抑えたな」


「黙れ」


「上手くなっている」


「褒めるな」


「確認だ」


「確認するな!」


 銀鎖が鳴る。


 クラウディオは身を乗り出しかけたが、すぐに拘束に止められた。


 手首が銀に擦れる。


 痛みより、止められた事実の方が刺さる。


 ルストはクラウディオの正面に立った。


 遠すぎず、近すぎない距離。


 牙は届かない。


 だが、血の匂いは届く。


 わざとだ。


 クラウディオはそれが分かる。


 分かるから腹が立つ。


「名前を呼べ」


 また、ルストが言った。


 クラウディオは鼻で笑う。


「嫌だ」


「呼べ」


「嫌だと言った」


「クラウディオ」


「その名を呼ぶな」


「なら、お前も呼べ」


「呼ばぬ」


「なぜ」


「貴様の望みだからだ」


 即答だった。


 ルストの目が、わずかに細くなる。


 クラウディオは続ける。


「貴様が我へ欲しがるものを、我が渡すと思うか。血も、記憶も、名も。何一つ渡さぬ」


「血は飲んだ」


「飲まされたのだ!」


「皿の血も飲んだ」


「黙れ」


「床も舐めた」


「黙れと言っている!」


 雷鎖が短く光る。


 心臓の手前へ冷たい痛みが走った。


「ぐ、ッ……!」


 クラウディオの身体が跳ねる。


 だが、痛みは短い。


 黙らせるためだけの警告。


 それが分かることも屈辱だった。


 ルストは静かに言った。


「名前はまだ渡していない」


「渡すものか」


「そこまで拒む理由は」


「貴様だからだ」


 クラウディオの声は冷たい。


「灰銀。狩人風情。王に牙を立てた男。罰と管理の名で、我を床へ落とし、血を啜り、血の奥を覗いた男。そんな者の名を、我が口に乗せると思うな」


「俺の名を知っている」


「知っていることと呼ぶことは違う」


「呼べ」


「灰銀」


「名前で」


「灰銀」


「ルストだ」


 クラウディオの瞳が動いた。


 その名を、ルスト自身が言った。


 地下牢の湿った空気の中で、短く落ちる。


 ルスト。


 その音は、クラウディオの喉の手前で止まった。


 言える。


 もちろん言える。


 ただの名だ。


 だが、言わない。


 その音を自分の声にした瞬間、何かがまた一つ奪われる気がした。


 灰銀なら距離がある。


 狩人風情なら罵倒だ。


 貴様なら拒絶だ。


 だが、名前は違う。


 名前は近い。


 相手を個として認める。


 血を奪った者を。


 自分の奥を覗いた者を。


 その名で呼ぶなど、あってはならない。


 クラウディオは、唇を歪めた。


「灰銀」


 わざとゆっくり言った。


「それが貴様には相応しい」


 ルストは表情を変えない。


「俺の名はルストだ」


「灰銀」


「ルスト」


「灰銀」


「呼べ」


「命じるな、灰銀」


 雷鎖が低く鳴る。


 ルストは発動させない。


 ただ見ている。


 その目が嫌だった。


 クラウディオはさらに笑った。


「どうした。雷鎖で喉を焼くか。名前を呼ぶまで心臓を止めるか。皿を出すか。血を近づけるか。噛むか」


 言葉にした瞬間、喉の痕が熱を持つ。


 クラウディオはそれに気づき、顔を歪めそうになるのを抑えた。


 ルストは当然、見ている。


「噛むと思ったか」


「黙れ」


「また反応した」


「黙れと言っている」


「昨日のことを覚えている」


「忘れろ!」


 声が荒れた。


 雷鎖が強く鳴る。


 クラウディオは息を詰め、痛みに耐える。


 ルストは近づかない。


 けれど、その一言だけで十分だった。


 昨日のこと。


 血を啜られたこと。


 記憶の奥へ踏み込まれたこと。


 忘れろと言ったこと。


 忘れないと返されたこと。


 クラウディオの血が揺れる。


 ルストは静かに言う。


「忘れない」


「言うな」


「名前を呼べ」


「繋げるな!」


「繋がっている」


 クラウディオの呼吸が止まる。


 ルストは続けた。


「血も、記憶も、名も。お前は渡さないと言った。だから繋がっている」


「違う」


「違わない」


「違うと言っている!」


「渡したくないものほど、お前は強く拒む」


「当たり前だ!」


 クラウディオは銀鎖を引いた。


 がしゃん、と地下牢に響く。


 怒りだけではなかった。


 その言葉が核心に触れたからだ。


 血。


 記憶。


 名。


 たしかに、どれも渡したくない。


 ルストにだけは。


 この男にだけは。


「灰銀」


 クラウディオは低く言った。


「貴様は、我から何を奪えば気が済む」


「奪う気はない」


「よく言う」


「管理している」


「それを奪うと言うのだ!」


 声が響く。


 雷鎖が鳴る。


 だが、クラウディオは止まらない。


「血を奪った。喉に痕を残した。脇腹に印を刻んだ。首に鎖を嵌めた。床の皿で飲ませた。飢えさせた。記憶を覗いた。今度は名か」


 赤い瞳が燃える。


「貴様は我をどこまで剥がす気だ」


 ルストはしばらく黙っていた。


 それから、低く言う。


「剥がすつもりはない」


「嘘をつけ」


「お前が余計な鎧を着すぎている」


 クラウディオの顔が止まった。


「……何だと」


「王。暴君。災厄。吸血鬼の夜。そういうものを何枚も重ねている」


 ルストの声は静かだった。


「名前を呼べと言っているだけだ」


「それが一番深く剥がれるのだろうが!」


 言ってしまった。


 クラウディオは一瞬、喉を詰まらせた。


 しまった。


 言葉が、思ったより深い場所から出た。


 ルストは見ている。


 見逃すはずがない。


「そうか」


 ルストの声が低くなる。


「名が一番深いか」


「違う」


「今、言った」


「違うと言っている」


「クラウディオ」


「その名を呼ぶな!」


「俺の名を呼べ」


「灰銀!」


 叫ぶ。


 拒絶する。


 吐き捨てる。


 その音だけが、クラウディオに残された距離だった。


 ルストは動かない。


 クラウディオの目の前で、ただ静かに立っている。


「ルスト」


 自分で名を言う。


「呼べ」


「灰銀」


「ルスト」


「灰銀」


「ルスト」


「灰銀!」


 その繰り返しは、奇妙な拷問だった。


 痛みはない。


 血もない。


 牙もない。


 それなのに、喉の奥が削られる。


 ルストという音が、何度も空気に落ちる。


 呼べば楽になるのか。


 呼ばなければ、ずっと続くのか。


 クラウディオは歯を食いしばった。


 呼ばない。


 絶対に。


 飢えに落ちても呼ばなかった。


 床の血へ這っても呼ばなかった。


 皿で飲んでも呼ばなかった。


 血を啜られ、記憶を覗かれ、いやだと叫んでも呼ばなかった。


 ここで呼ぶものか。


「我は」


 クラウディオは、ゆっくりと言った。


 王の声へ戻す。


 掠れていても。


 痛んでいても。


 喉が裂けそうでも。


「貴様の名など呼ばぬ」


「いつまで」


「永遠にだ」


「永遠は長い」


「吸血鬼にとっては短い」


「そうか」


「そうだ」


 クラウディオは薄く笑った。


「貴様がどれほど血を奪おうと、雷鎖で黙らせようと、皿を置こうと、我の奥を覗こうと、我は貴様の名を呼ばぬ」


 ルストは見ている。


 クラウディオは続けた。


「貴様は灰銀だ」


 低く、明確に。


「我の前では、それ以上の名を持たぬ」


 ルストは、少しだけ沈黙した。


 その沈黙が、今回は少し違った。


 怒ったのか。


 呆れたのか。


 それとも、何かを確認したのか。


 クラウディオには分からない。


 分からないことが、少しだけ不快だった。


 ルストはやがて言った。


「分かった」


 クラウディオは眉を動かす。


「何が」


「今日は呼ばない」


「今日は、ではない。今後もだ」


「そうか」


「そうだ」


「なら、また言う」


「勝手にしろ」


 ルストは一歩下がった。


 クラウディオの身体が、ほんの少しだけ緩む。


 距離ができる。


 血の匂いが薄くなる。


 噛まれるかもしれないという身体の警戒が、わずかに沈む。


 ルストはそれを見ていた。


「安心したな」


「黙れ」


「近づかないと分かったからだ」


「黙れと言っている」


「名前を呼べ」


「灰銀」


 即答。


 ルストは、かすかに息を吐いた。


 ため息に近かった。


 クラウディオはそれを見て、少しだけ口元を歪める。


「疲れたか」


「少しな」


「ざまあみろ」


「戻ってきたな」


「何が」


「その性格の悪さ」


 クラウディオは低く笑った。


「我の美点だ」


「そうか」


「否定しろ」


「しない」


「腹立たしい」


 ほんの少しだけ、いつもの形が戻る。


 だが、喉の奥にはまだルストの名が残っていた。


 言わない名。


 拒む名。


 呼べと言われた名。


 クラウディオは、その音を自分の舌から追い出すように、もう一度吐き捨てた。


「灰銀」


「何だ」


「次に名を呼べと言えば、舌を噛み切ってでも拒む」


「治す」


「治すな!」


「名前を呼ぶまで何度でも治す」


「貴様、本当に最悪だな!」


 雷鎖が軽く鳴る。


 クラウディオは怒りを沈めた。


 その反応をルストが見ている。


 見ているが、今は何も言わない。


 それがまた気に入らないが、少なくとも記憶には触れない。


 クラウディオは、低く息を吐いた。


「出ていけ」


「確認は終わっていない」


「終わった。我は呼ばぬ。確認完了だ」


「勝手に終わらせるな」


「王が終わりと言えば終わりだ」


「管理者はまだ終えていない」


「その言葉を使うな」


「管理者?」


「全部だ!」


 ルストは少しだけ目を伏せた。


 そして、地下牢の扉へ向かった。


「今日はここまでにする」


「最初からそうしろ」


「クラウディオ」


「その名を呼ぶな」


「名前を呼べ」


 扉の前で、また言った。


 クラウディオの目が鋭くなる。


 彼は、最後の一音まで憎しみを込めて吐き捨てた。


「灰銀」


 ルストは、それ以上何も言わなかった。


 扉が開く。


 冷たい外気が少しだけ流れ込む。


 そして、閉まる。


 重い音が地下牢に響いた。


 クラウディオは、しばらく扉を睨んでいた。


 喉の傷が疼く。


 胸の奥に、言わなかった名が残っている。


 腹立たしい。


 知っている名。


 呼べる名。


 だが、呼ばない名。


 それが自分に残された最後の領域のように思えて、なおさら手放せなかった。


 クラウディオは、銀鎖の中で指をゆっくり握る。


「呼ぶものか」


 低い声。


「貴様など、灰銀で十分だ」


 地下牢には、誰も答えない。


 それでもクラウディオは、もう一度だけ吐き捨てた。


「灰銀」


 その音だけが、今夜も彼の抵抗だった。


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