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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第90話 管理者の沈黙



 目覚めた時、クラウディオは最初に匂いを探した。


 血ではない。


 火の匂いでもない。


 焼けた砂糖の匂いでもない。


 ルストの匂いだった。


 地下牢の湿った石壁、銀鎖、古い血、冷えた空気。その奥に、灰銀の男の匂いがある。


 近い。


 クラウディオは、ゆっくり瞼を開けた。


 視界は暗かった。地下牢の壁に灯された小さな灯りが、石床を薄く照らしている。銀鎖はまだ四肢に嵌まっていたが、以前より少し緩められている。首には雷鎖。脇腹には灰銀印。喉には、新しい牙の痕。


 そこが、熱かった。


 クラウディオは息を吸う。


 喉が痛む。


 失血の倦怠感が、身体の奥に沈んでいる。腕は重く、足先は冷たい。けれど、意識は戻っている。


 戻ってしまった。


 記憶も。


 吸われた血。


 地下牢に響いた、じゅる、と湿った音。


 喉に牙を立てられ、王血を啜られ、身体が力を失っていく感覚。


 そして、血の奥へ踏み込まれた感覚。


 クラウディオの指先が、銀枷の中でわずかに震えた。


 見られたのか。


 どこまで。


 焼けた砂糖。


 火刑台。


 菓子屋の女。


 王城の廊下。


 妾の子と嘲られた声。


 血で濡れた王冠。


 あれらを。


 ルストは見たのか。


 クラウディオは、問いかけなかった。


 絶対に。


 聞けば、認めることになる。


 見られたかもしれないと恐れていることを。


 そこを触られるのが怖いことを。


 だから、何も聞かない。


 彼はゆっくり顔を動かした。


 ルストはいた。


 地下牢の少し離れた場所に、静かに立っていた。


 いつもと同じ灰銀の髪。


 鋼色の瞳。


 無表情。


 何も言わない。


 その沈黙が、クラウディオの内側をじわじわと焼いた。


 言え。


 何を見たか言え。


 いや、言うな。


 忘れろ。


 いや、忘れるなと言うな。


 記録するな。


 触れるな。


 近づくな。


 全部が、喉の奥で絡まっていた。


 出てきたのは、別の言葉だった。


「……見るな」


 声は掠れていた。


 だが、意味は通った。


 ルストは答える。


「見ている」


「見るなと言っている」


「目が覚めたか確認している」


「我を病人のように語るな」


「失血した」


「貴様が啜ったのだろうが」


「ああ」


 否定しない。


 相変わらず。


 クラウディオは低く笑った。


 笑っただけで喉の傷が痛んだ。顔がわずかに歪む。


 ルストはその反応も見ている。


 見ている。


 見続けている。


 それが腹立たしい。


「……何を見ている」


 言ってから、クラウディオは舌を噛みたくなった。


 違う。


 これは問いではない。


 違う。


 血の奥で何を見たか聞いたわけではない。


 だが、言葉はもう落ちた。


 ルストの瞳がわずかに動く。


 クラウディオは即座に睨んだ。


「勘違いするな。今のは、そういう意味ではない」


「何も言っていない」


「なら黙っていろ」


「黙っている」


「その沈黙が腹立たしい」


 ルストは何も言わない。


 その通り、黙っている。


 クラウディオの胸の奥で、苛立ちがさらに膨らんだ。


 いつもなら、ルストは必要なことを言う。


 淡々と。


 残酷に。


 忘れないと言う。


 記録すると言う。


 身体が覚えていると言う。


 無様だったと言う。


 そういう男だ。


 なのに今は言わない。


 昨日、血の奥で見たはずのものについて、何も言わない。


 それが、何よりも嫌だった。


 クラウディオは銀鎖を引いた。


 弱い金属音が鳴る。


 まだ力が戻りきっていない。


 その音の弱さすら屈辱だった。


「記録したのか」


 ルストは答えない。


 クラウディオの目が細くなる。


「聞こえなかったのか。記録したのかと聞いている」


「した」


 短い答え。


 クラウディオの喉が引き攣る。


「何を」


 また、聞いてしまった。


 彼はすぐに歯を食いしばった。


 だが遅い。


 ルストは見ている。


 クラウディオが何を恐れているか。


 どこを聞きたくて、どこを聞けないのか。


 全部。


 ルストは静かに言った。


「失血量。意識低下。血脈反応。記憶干渉の兆候」


 クラウディオの瞳が冷えた。


「兆候」


「ああ」


「それだけか」


「それだけだ」


 嘘か。


 本当か。


 分からない。


 ルストの声はいつも通りで、何も読めない。


 それだけだと言う。


 だが、何を見たかは言わない。


 菓子屋の匂いも。


 火刑台も。


 王城での声も。


 血で濡れた王冠も。


 何一つ、口にしない。


 その沈黙が、逆に見たことを示しているように感じる。


 クラウディオは、低く息を吐いた。


「灰銀」


「何だ」


「貴様の沈黙は、不愉快だ」


「そうか」


「何か言え」


「何を」


「……何でもだ」


 ルストは黙った。


 クラウディオはその沈黙に耐えきれず、笑った。


「いや、言うな」


「どちらだ」


「貴様の口から出る言葉は大抵不愉快だ。だが、黙っていても不愉快だ」


「面倒だな」


「王に面倒と言うな」


「面倒な王だ」


「殺すぞ」


「今は無理だ」


「今はな」


 いつもの返答。


 それなのに、今は少しだけ救いに近かった。


 慣れた刃のやり取り。


 知らない沈黙より、まだましだった。


 クラウディオは、喉の傷に触れようとした。


 銀鎖が鳴る。


 手は届かない。


 自分の喉にすら。


 彼はそれを見て、唇を歪めた。


「貴様は、我の喉にどれだけ痕を残す気だ」


「必要なだけ」


「その言葉をやめろ」


「やめない」


「では、いつかその必要ごと喉を裂いてやる」


「覚えておく」


「忘れるな」


「忘れない」


 忘れない。


 その言葉に、クラウディオの胸の奥が冷えた。


 昨日も言った。


 忘れない、と。


 血の奥で見たものを。


 忘れろと言ったのに。


 クラウディオは、ゆっくり顔を上げた。


「……忘れろ」


 低い声。


 ルストはすぐには答えなかった。


 その一拍が、クラウディオの血を揺らした。


「忘れろと言っている」


「何を」


「それを我に言わせるつもりか」


「言わせる気はない」


「なら忘れろ」


「忘れない」


 返答は、いつも通りだった。


 クラウディオの顔が怒りで歪む。


「貴様……」


「見たものを、なかったことにはしない」


「見たのか」


 問うた。


 ついに。


 言ってしまった。


 地下牢の空気が重く沈む。


 クラウディオは息を止めた。


 ルストは、クラウディオを見ている。


 目を逸らさない。


 答えない。


 その沈黙が、答えだった。


 クラウディオの喉が震えた。


「……何を見た」


 声は、かすかに掠れた。


 ルストは答えない。


 クラウディオは笑った。


 乾いた、冷たい笑い。


「言え」


 ルストは沈黙している。


「言うな」


 クラウディオはすぐに続けた。


「いや、言え。……違う。言うな」


 自分でも支離滅裂だった。


 怒りで整えようとしても、内側が揺れている。


 見られたくない。


 でも、どこまで知られたか知りたい。


 知りたくない。


 知られたと認めたくない。


 聞きたくない。


 聞かなければ、ずっと分からない。


 その曖昧さが、喉を締めた。


 ルストは、ようやく言った。


「今は言わない」


 クラウディオの瞳が見開かれる。


「今は?」


「言えば、お前が壊しにかかる」


「貴様をか」


「自分をだ」


 沈黙。


 クラウディオの表情が消えた。


「知ったふうに言うな」


「見た」


「何を」


 ルストは答えない。


 その沈黙。


 また。


 クラウディオは銀鎖を引いた。


 がしゃん、と今度は少し強い音が出る。


 怒りが血へ乗る。


 首元の雷鎖が低く鳴る。


 青白い光が一瞬だけ走った。


 クラウディオは息を詰めたが、止まらなかった。


「我の何を見た!」


 雷鎖が少し強く鳴る。


 心臓の手前へ冷たい痛みが走った。


「ぐ、ッ……!」


 身体が跳ねる。


 だが、意識は落ちない。


 ルストは動かない。


「落ち着け」


「命じるな!」


「血が荒れている」


「荒らしているのは貴様だ!」


「そうだな」


「認めるな!」


 怒りと混乱が入り混じる。


 クラウディオは荒い息を吐く。


 喉の傷が痛む。


 その痛みがまた、昨日の吸血を思い出させる。


 血を啜る音。


 ルストの牙。


 血の奥へ入ってくる気配。


 菓子屋の匂い。


 火。


 煙。


 やめろ。


 覗くな。


 俺の中へ入るな。


 あの声。


 王ではなく、クラウディオとして漏れた拒絶。


 思い出した瞬間、顔が熱くなる。


 屈辱で。


 恐怖で。


 クラウディオは、低く言った。


「……あれは、違う」


「何が」


「昨日の言葉だ」


 ルストは見ている。


「俺の中を覗くな、か」


 言われた瞬間、クラウディオの瞳が大きく開いた。


「言うな」


「覚えている」


「言うなと言っている!」


 雷鎖が鋭く鳴る。


 今度は心臓を一拍だけ叩いた。


「が、ッ……!」


 クラウディオの身体が銀鎖の中で跳ねる。


 短い痛み。


 だが、黙らされた事実が重い。


 彼は荒い息をしながら、ルストを睨む。


「貴様……わざとだな」


「反応を見る必要があった」


「殺す」


「今は無理だ」


「今はな!」


 ルストは沈黙した。


 まただ。


 クラウディオは、この沈黙に苛立つ。


 言葉で刺される方がまだ噛み返せる。


 沈黙は、どうにもできない。


 そこに何が含まれているのか、分からないからだ。


 同情か。


 理解か。


 観察か。


 記録か。


 それとも、何もないのか。


 見たのに、何も言わないのか。


 見たから、言わないのか。


 クラウディオは、どちらも許せなかった。


「我を憐れむな」


 低い声だった。


 ルストの目が動く。


「憐れんでいない」


「では何だ、その沈黙は」


「言わないだけだ」


「なぜ」


「お前のものだからだ」


 クラウディオは動きを止めた。


 その返答は、予想していなかった。


「……何?」


「見たものはある」


 ルストは、静かに言った。


「だが、それを俺が言葉にして並べるものではない」


 クラウディオの喉が、かすかに震える。


「貴様がそれを言うのか」


「言う」


「我の血を啜り、奥へ踏み込み、勝手に見ておきながら」


「ああ」


「それで、我のものだと?」


「そうだ」


 クラウディオは笑った。


 だが、笑いは続かなかった。


「傲慢だな」


「そうだな」


「認めるな」


「事実だ」


「貴様はいつもそれだ」


 クラウディオは目を伏せかけ、すぐにやめた。


 目を伏せれば逃げたように見える。


 彼はルストを睨み続ける。


「見たなら、言え。いや、言うな。……忘れろ」


「忘れない」


「なぜだ」


「忘れれば、次に同じ場所を壊す」


 クラウディオの唇が引き結ばれる。


「壊しただろうが」


「完全には開けていない」


「開けかけた」


「ああ」


「それだけで十分だ」


「知っている」


「知っているなら、二度とするな」


「必要ならする」


 その返答で、ようやくいつもの腹立たしさが戻る。


 クラウディオは歯を食いしばった。


「最悪だな、貴様は」


「お前に言われたくない」


「我は美しく最悪だ。貴様は沈黙まで最悪だ」


「分類はいらない」


「要る。我の気が済む」


 声はまだ震えていた。


 けれど、少しだけ整った。


 ルストは、それを見た。


「戻ってきたな」


「我を測るな」


「測る」


「黙れ」


「血が足りない」


「話を変えるな」


「変えていない。今のお前は失血後だ」


 ルストが一歩近づく。


 クラウディオの身体が反射で強張った。


 噛まれる。


 そう思った。


 だが、ルストは途中で止まった。


 牙の届かない距離。


 血の匂いだけが届く距離。


 クラウディオは、その距離に気づき、余計に腹が立つ。


 近づきすぎない。


 それもまた管理だ。


 「今日は噛まない」


 ルストが言った。


 クラウディオは睨む。


「昨日も同じようなことを言った」


「昨日は噛んだ」


「殺すぞ」


「今は無理だ」


「今はな」


 沈黙。


 今度の沈黙は、少しだけ違った。


 クラウディオが言葉を取り戻すための間のようでもあった。


 それすら腹立たしいが、前ほど刺さらない。


 クラウディオは、低く息を吐いた。


「灰銀」


「何だ」


「見たものを、誰にも言うな」


「言わない」


「記録にも残すな」


「反応は残す」


「内容は」


「残さない」


 クラウディオの瞳が動く。


「信じろと?」


「信じなくていい」


「ではなぜ言う」


「事実だからだ」


「貴様の事実は信用ならない」


「そうか」


「だが」


 クラウディオは言葉を切った。


 言いたくない。


 だが、言わなければこの沈黙は続く。


「……内容は、残すな」


 もう一度、低く言った。


 命令に近づけて。


 王の声へ戻して。


 ルストは短く答えた。


「残さない」


 それだけだった。


 保証にもならない。


 慰めにもならない。


 ただの返答。


 けれど、クラウディオはそれ以上聞かなかった。


 聞けば、さらに崩れる。


 どこまで見たか。


 菓子屋の女を見たのか。


 火刑台を見たのか。


 あの匂いを知ったのか。


 王城の声を聞いたのか。


 聞かない。


 問わない。


 問いは、弱点になる。


 クラウディオは、顔を上げた。


「我が忘れろと言ったものは、忘れろ」


「忘れない」


「そこは譲らぬのだな」


「ああ」


「なら、いつか忘れさせる」


「できるなら」


「できる」


「そうか」


 ルストは静かにクラウディオを見ていた。


 その目には、見たものを嘲る色はない。


 憐れむ色もない。


 だからこそ、クラウディオは揺れる。


 何を思っている。


 何を知った。


 何を言わないでいる。


 その沈黙の中に、知られたかもしれない記憶が沈んでいる。


 クラウディオは、それを許せない。


 だが、問いはしない。


 今は。


「出ていけ」


 クラウディオは言った。


 ルストは動かない。


「まだ確認が」


「出ていけ」


 今度は、王の声だった。


 掠れていても、冷たく整えられていた。


 ルストは少しだけ黙り、それから頷いた。


「分かった」


 素直に従われると、それはそれで腹立たしい。


 人類も吸血鬼も、本当に面倒な生き物だ。いや、この場合は吸血鬼王が八割悪い。


 ルストは扉へ向かう。


 クラウディオは、その背を睨んでいた。


 扉が開く直前、ルストが言った。


「クラウディオ」


「その名を呼ぶな」


「内容は言わない」


 クラウディオは黙る。


「だが、見たことは忘れない」


 胸の奥が、また揺れた。


 クラウディオは歯を食いしばる。


「……勝手にしろ」


 それしか言えなかった。


 ルストは扉を開ける。


 重い音。


 地下牢の外の空気。


 そして、扉が閉まる。


 クラウディオはしばらく、その扉を睨み続けた。


 沈黙が残る。


 ルストのいない沈黙。


 けれど、先ほどまでの沈黙とは違う。


 そこには、見られたかもしれない記憶が残っている。


 菓子屋の甘い匂い。


 火刑台の煙。


 王城の冷たさ。


 クラウディオは、目を閉じなかった。


 閉じれば思い出す。


 思い出せば、ルストが見たかもしれない場面を、自分で再生してしまう。


 だから、目を開けたまま低く呟いた。


「……覗くなと言っただろうが」


 返事はない。


 地下牢には、銀鎖の小さな音だけが響いた。


 管理者は沈黙した。


 だが、その沈黙こそが、クラウディオの中へ深く残っていた。


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