第89話 灰になった甘い記憶
血を啜る音が、地下牢に響き続けていた。
じゅる、と。
低く、湿って、逃げ場のない音だった。
クラウディオ・ルジェリウスは、もう暴れる力を失いかけていた。
最初は、まだ抵抗していた。
銀鎖を鳴らし、身体を捩り、ルストの腕から逃げようとした。喉に立てられた牙を引き剥がそうと、拘束された手首を引き、足首の鎖を鳴らし、血を奪われながらも怒りを燃やしていた。
だが、血は流れ出る。
王血が。
稀血が。
クラウディオの誇りそのもののような血が、ルストの牙に吸い上げられていく。
じゅる、じゅ、と、音を立てて。
喰われている。
その事実だけが、喉の傷よりも深くクラウディオを裂いていた。
「……や、め……」
漏れた声は、あまりにも小さかった。
王の命令ではなかった。
暴君の罵倒でもない。
ただの拒絶だった。
ルストは離れない。
牙を喉に深く立てたまま、クラウディオの血を啜り続ける。
血だけではない。
その奥へ踏み込んでいる。
血の中の匂いへ。
記憶の沈んだ場所へ。
クラウディオは、それを感じた。
自分の内側で、閉じていた扉が軋む音を。
「覗くな……」
掠れた声が、血に濡れた唇から落ちた。
「そこは……見るな……ッ」
ルストの腕は緩まない。
クラウディオの背を支え、喉を逃がさず、血の出口を押さえている。
抱かれているのではない。
支えられているのでもない。
逃がされていない。
クラウディオの身体は、すでに力を失い始めていた。銀鎖がなければ崩れ落ちていただろう。膝が震え、足先が床を擦り、背中がルストの腕に預けられるように沈む。
それすら屈辱だった。
だが、もうそれを罵る声もない。
喉から漏れるのは、小さな息だけだった。
「っ……ぁ……」
短い声。
喉の傷が震える。
血を啜られるたび、身体が細かく痙攣する。
指先が震え、肩が跳ね、銀鎖がかすかに鳴る。
がしゃ、と。
弱い音。
先ほどまでの激しい抵抗ではない。
限界に近づいた身体が、反射で揺れているだけだった。
それでもルストは血を啜る。
じゅる、と。
深く。
その瞬間、クラウディオの血の奥で、何かが開いた。
匂いが流れ込んでくる。
甘い匂いだった。
焼き菓子の匂い。
砂糖。
バター。
小麦。
夜の冷たい石畳の上に、ありえないほど柔らかく残る甘い匂い。
ルストの視界に、記憶ではない景色が滲んだ。
幼いクラウディオがいた。
まだ王ではない。
まだ暴君でもない。
白い肌の少年。
黒い髪。
大きすぎる瞳。
王城の高い窓から差し込む冷たい光の中で、誰にも触れられずに立っていた。
周囲の声が聞こえる。
血筋が薄い。
妾の子。
王位にふさわしくない。
あれを正統の席に近づけるな。
薄汚い子だ。
声は、刃のようではなかった。
もっと悪い。
日常の埃のように降り積もっていた。
誰かが大声で罵ったわけではない。
誰かが毎日、当然のように、少しずつ削った。
幼いクラウディオは泣かなかった。
泣けば、もっと笑われると知っていた。
だから黙っていた。
黙って、覚えた。
誰が笑ったか。
誰が目を逸らしたか。
誰が自分を見下ろしたか。
その全部を。
ルストの喉に、クラウディオの血が重く落ちる。
じゅ、と吸い上げるたびに、匂いが変わった。
王城の冷たい石の匂いから、温かな焼き菓子の匂いへ。
小さな店。
王城の外れ。
夜でも火が消えない菓子屋。
そこに、ひとりの女がいた。
儚げではない。
むしろ、よく笑う人だった。
強い目をしていた。
少し乱暴に粉を払う手。
火傷の跡が薄く残る指。
幼いクラウディオへ、余った焼き菓子を渡す声。
――お腹、空いてるんでしょう。
クラウディオは答えない。
答えないのに、受け取る。
女は笑う。
――そういう顔をしてる時は、だいたい空いてるのよ。
甘い匂い。
焼きたての生地。
砂糖の焦げる手前の香り。
クラウディオの血の奥に、それは大切に隠されていた。
誰にも渡さないように。
誰にも見つからないように。
王になる前から、ずっと。
ルストは、それを見てしまった。
クラウディオの身体が、ルストの腕の中で激しく震えた。
血を吸われているだけではない。
血の中の記憶を触られていることを、クラウディオ自身も感じ取ったのだ。
「いや……」
声が漏れた。
かすかに。
「そこ……見るな……」
ルストは離れない。
血を啜る音が続く。
じゅる、じゅ、と。
匂いが変わる。
甘い匂いが、煙に変わった。
焦げた砂糖。
焼けた木。
油の燃える臭い。
人々のざわめき。
広場。
火刑台。
女がいた。
菓子屋の女。
手を縛られ、髪を乱され、顔に煤をつけられている。
それでも、目だけは強かった。
誰かが叫ぶ。
魔女だ。
災いを呼んだ。
血を汚した。
王城に近づいた罪だ。
証拠など、ほとんどなかった。
ただ、誰かが彼女をそう呼びたかった。
誰かが、群れで石を投げたかった。
誰かが、火を正義にしたかった。
火が上がる。
幼いクラウディオは、人垣の中にいた。
誰にも見つからないように。
走り出すこともできず。
叫ぶこともできず。
ただ見ていた。
女の声が、火の向こうから聞こえた。
――私は魔女じゃない。
それは、悲鳴ではなかった。
怒りだった。
最後まで、自分の名を奪わせない声だった。
火が強くなる。
砂糖が焦げる匂いがした。
焼き菓子の甘さと、人が焼かれる臭いが混ざった。
その匂いが、クラウディオの血の奥で灰になっていた。
甘い記憶は、そこで燃えた。
ルストの牙が、クラウディオの喉からさらに血を引き出す。
じゅる、と。
クラウディオの身体が大きく痙攣した。
「っ、ぁ……!」
小さな声が漏れる。
怒声ではない。
悲鳴でもない。
記憶を見られた者の、耐えきれない息だった。
ルストの腕の中で、クラウディオの力が抜けていく。
だが記憶は止まらなかった。
火刑台の煙が、王城の冷たい廊下へつながる。
幼いクラウディオは、戻っていく。
甘い匂いを失ったまま。
誰も慰めない。
誰も問わない。
むしろ、何かを知ったような顔で、遠巻きに見る。
あの店の女と近かったらしい。
だから災いが移ったのかもしれない。
やはり血が悪い。
妾の子など、王城へ置くべきではない。
声。
声。
声。
クラウディオは泣かなかった。
泣かない代わりに、覚えた。
この城は、奪う側でなければ喰われる。
優しくされた記憶は灰になる。
誰かを大事に思えば、火に投げ込まれる。
なら、奪う側へ行くしかない。
裁かれる側ではなく、裁く側へ。
火刑台の煙が、王冠の金属臭へ変わる。
王城の夜会。
兄弟たちの嘲笑。
血筋を理由に軽んじられた日々。
杯。
毒。
罠。
微笑み。
沈黙。
少しずつ、クラウディオは変わっていった。
泣かない子どもから、微笑む少年へ。
微笑む少年から、相手を追い詰める者へ。
相手を追い詰める者から、血を選ぶ者へ。
血杯を落とさず、命令を間違えず、怒りを見せず、すべてを覚え続ける者へ。
そして、王へ。
王冠は、救いではなかった。
血で濡れた重さだった。
兄弟の声。
親の声。
命乞い。
床に落ちた血。
禁じられた同族喰いの匂い。
王座へ至るまでに踏んだもの。
踏み潰したもの。
喰らったもの。
すべてが、クラウディオの血の中に沈んでいた。
ルストは、それを見てしまった。
すべてではない。
記憶の細部を、一つ一つなぞったわけではない。
だが、匂いを受け取った。
感情を受け取った。
火刑台の煙。
菓子屋の甘い匂い。
王城の冷たさ。
妾の子と呼ばれた屈辱。
誰にも守られなかった夜。
奪う者になるしかなかった硬い決意。
王になるまでに積み上がった、血と灰の重さ。
クラウディオが隠していたもの。
見せまいとしていたもの。
そのすべての匂いが、ルストの中へ流れ込んだ。
クラウディオの手が震える。
銀鎖の中で、指先が空を掴もうとした。
だが、もう力がない。
血を失いすぎている。
ルストの牙は、まだ喉にある。
吸血音は、先ほどよりゆっくりになっていた。
じゅ、と。
小さく。
それでも続いている。
クラウディオの唇が開く。
「……見た、な……」
声は、ほとんど息だった。
ルストは牙を抜かない。
クラウディオの瞳は焦点を失いかけている。
赤い瞳が白く霞む。
頬の赤みは薄れ、血の気が引いていく。
喉から流れた血が、ルストの唇を濡らしている。
「灰銀……」
かすかな声。
「忘れ……ろ……」
ルストは答えない。
答えられなかったのかもしれない。
ただ、最後に一度だけ、クラウディオの血を啜った。
じゅ、と低く。
その音を聞いた瞬間、クラウディオの身体が小さく痙攣した。
もう大きく暴れる力はない。
肩が震える。
喉がひくつく。
指先が一度だけ跳ねる。
それだけだった。
ルストがようやく牙を抜いた。
血が細く滲む。
すぐに押さえられる。
クラウディオの身体は、糸が切れたようにルストの腕へ沈んだ。
銀鎖がかすかに鳴る。
がしゃ、と弱く。
クラウディオの瞳は半ば開いたままだった。
だが、もう見えていない。
限界まで血を啜られ、記憶の奥まで触れられ、抵抗する力を失った王は、ゆっくりと意識を手放していく。
眠るようだった。
だが、それは安らかな眠りではない。
逃げ場を失った身体が、これ以上の苦痛と屈辱を受け止めきれず、強制的に落ちていくような気絶だった。
最後に、クラウディオの唇が微かに動いた。
「……覗く、な……」
それだけだった。
ルストではない。
名前ではない。
灰銀とすら、もう言えなかった。
ただ、拒絶だけが残った。
次の瞬間、クラウディオの瞳から光が消えた。
身体が完全に脱力する。
首が傾き、喉の傷が露わになる。
ルストは、その身体を支えていた。
見てしまった匂いが、まだ口の中に残っている。
焼けた砂糖。
火刑台の煙。
王城の冷たい石。
血で濡れた王冠。
灰になった甘い記憶。
ルストは、しばらく動かなかった。
地下牢には、もう吸血の音はない。
ただ、クラウディオの浅い呼吸と、銀鎖の微かな揺れだけが残っていた。
見てしまった。
クラウディオが、最後まで見せまいとしていたものを。
血の奥に隠していたものを。
ルストは目を伏せない。
逸らさない。
ただ、気絶したクラウディオを抱えたまま、低く息を吐いた。
「忘れない」
誰に向けた言葉か、自分でも分からないほど小さかった。
クラウディオには届かない。
届かなくていい。
忘れろと言われても、忘れられない。
それは記録ではなかった。
管理のためだけでもなかった。
血が運んできた、灰と砂糖の匂いだった。
ルストは、クラウディオの喉の傷を押さえたまま、静かにその場に留まった。
王は、血を失いすぎて眠るように意識を落としている。
けれど、ルストの中では、火刑台の匂いがまだ消えなかった。




