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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第7話 優しさが罪になる夜


 噂は、足音を立てなかった。


 だから厄介だった。


 王城の廊下なら、近づく者の足音が分かる。靴底の硬さ。歩幅。衣擦れ。腰に吊った鍵の鳴り方。従者か、侍女か、教師か、兄弟か。誰かが近づいてくるなら、クラウディオは先に身構えることができた。


 だが噂には足音がない。


 扉を叩かない。


 許可も求めない。


 誰かの口から誰かの耳へ、薄い煙のように流れていく。気づいた時には部屋の隅に溜まり、息をするたび肺の奥へ入ってくる。


 その日、王城の食卓でも、魔女狩りの話題が出た。


 クラウディオは末席に座り、いつものように皿の上の肉を切っていた。今日の肉は焦げていない。だが筋が多く、切るたびにナイフの先がひっかかった。


 上座では、王ヴァレンティヌスが血杯を手にしている。


 正妃エレオノーラは静かに果実を切っていた。


 アドリアンは柔らかな微笑みを崩さず、セヴランは退屈そうに杯を回し、リヴィアは小さな銀匙で皿の上の赤い果実を潰していた。


 リヴィアは最近、果実を潰す。


 皮が裂け、汁が皿に滲む様子を、じっと見ている。


 クラウディオはそれを覚えていた。


「教会区が騒がしいようですわ」


 正妃が言った。


 王は杯を傾けたまま、薄く目を上げる。


「魔女狩りか」


「そのようです。外縁で崩れ種が増え、下層では血を抜かれた死体も出ています。民の不安を鎮めるためにも、教会は動かざるを得ないのでしょう」


 民の不安。


 その言い方は、どこか整いすぎていた。


 街で聞いた噂の声とは違う。


 王城の食卓に上がると、人が燃やされるかもしれない話でさえ、銀器に似た光沢を持つ。


 セヴランが鼻で笑った。


「吸血鬼を倒せないから、人間を燃やす。教会らしい」


 アドリアンが穏やかに言う。


「言い過ぎだよ、セヴラン。彼らは彼らなりに秩序を守ろうとしている」


「秩序ね」


 セヴランは杯の縁をなぞった。


「薬草を売った婆や、菓子を配った女を燃やして秩序が戻るなら、安いものだ」


 菓子。


 クラウディオの手が止まりかけた。


 止めてはいけない。


 彼はそのまま肉を切った。


 筋が刃に絡む。


 小さく力を入れる。


 肉が切れた。


 リヴィアが顔を上げた。


「菓子?」


 その声には、退屈から目覚めた時の軽い期待があった。


「何それ」


「下町の噂だ」


 セヴランは面白そうに続けた。


「薬草蜜を菓子に混ぜて病人に渡している女がいるらしい。しかも、夜に吸血鬼の子を店へ入れていたとか」


 血杯の赤が、クラウディオの目に映った。


 ロウェナ。


 彼はその名を口にしなかった。


 口にすれば、奪われる。


 この食卓へ名を乗せれば、彼女は銀皿の上の肉と同じになる。


 切られ、眺められ、評価される。


 リヴィアは目を輝かせた。


「吸血鬼の子に菓子を? 変な女」


 正妃は果実を切る手を止めなかった。


「善意と無知は似ていますから」


 アドリアンが微笑む。


「あるいは、善意を装った何かかもしれない」


「魔女ってこと?」


 リヴィアが嬉しそうに言った。


 嬉しそうだった。


 人が魔女と呼ばれる話をしているのに。


 王城では、誰かの破滅は退屈を紛らわせる玩具になる。


 クラウディオは肉を口に入れた。


 味がしない。


 今日の肉は焦げていない。


 固いだけだ。


 セヴランは続ける。


「教会区の掲示では、未認可の薬草施与、病人への食物配布、吸血鬼との接触が疑いの対象になるそうだ。条件は揃っている」


 アドリアンは、そこでクラウディオを見た。


 気づいたのだろうか。


 いや、まだ分からない。


 彼はいつも、人が何かを隠している可能性を見る目をする。


「クラウディオ」


 柔らかな声。


 クラウディオは顔を上げた。


「はい、兄上」


「お前は、城下の菓子に詳しい?」


 食卓の空気が、薄く張った。


 リヴィアがにやりと笑う。


 セヴランもこちらを見る。


 正妃は果実を切り終え、銀匙を置いた。


 王は無言だった。


 クラウディオは一拍置いた。


 早すぎれば、準備していたように見える。


 遅すぎれば、動揺に見える。


「詳しくありません」


「そう」


 アドリアンは微笑む。


「以前、甘い匂いがするとリヴィアが言っていたから」


 リヴィアが得意げに顔を上げた。


「そうよ。下町の菓子みたいな匂いがしたもの」


「香油の残り香だったのでは」


 クラウディオは言った。


 声は平らだった。


 セヴランが笑う。


「お前が香油? ずいぶん洒落た妾の子だ」


 妾の子。


 食卓の上で、その言葉が転がる。


 いつもなら胸の奥へ冷たく沈む。


 だが今日、それは遠かった。


 それよりも、菓子屋の女、吸血鬼の子、魔女、という言葉の方が重かった。


 アドリアンは、クラウディオの顔を見ていた。


「そうか。知らないならいい」


 知らないなら。


 その言い方は、知っているなら今のうちに隠せ、という意味にも聞こえた。


 あるいは、隠していることは分かっている、という意味にも。


 クラウディオは何も言わず、血杯を持った。


 赤い液体を飲む。


 冷たい。


 王城の血はいつも冷たい。


 その冷たさが喉を通る時、ロウェナの店の温かい果実水を思い出した。


 思い出してはいけない。


 ここで思い出すほど、顔に出る。


 正妃が言った。


「いずれにせよ、教会の動きには注意が必要です。民の不安が王城へ向く前に、彼ら自身の中で処理してもらうのがよいでしょう」


 彼ら自身の中で処理。


 つまり、誰かを魔女にして終わらせるということだ。


 クラウディオは正妃を見なかった。


 だが、覚えた。


 エレオノーラ。


 民の不安を、民の中で処理させる。


 セヴラン。


 菓子を配った女を燃やせば安いもの。


 リヴィア。


 魔女という言葉を嬉しそうに言う。


 アドリアン。


 クラウディオへ問いを投げた。


 ヴァレンティヌス。


 黙っている。


 王は黙っている。


 いつものように。


 クラウディオは食事を終えるまで、何も言わなかった。


 食卓を離れ、自室へ戻る途中、彼の足は自然に速くなりかけた。


 マルタが後ろから言う。


「クラウディオ様」


 彼は止まった。


「どちらへ」


「部屋へ戻る」


「でしたら、廊下を急ぐ必要はございません」


「急いでいない」


「そうですか」


 マルタの声には疑いがあった。


 クラウディオは振り返らない。


 今日、外へ出るのは危険だ。


 分かっていた。


 食卓で話題になった。


 アドリアンが気づいているかもしれない。


 リヴィアも、甘い匂いを覚えている。


 正妃が監視を増やすかもしれない。


 王城を抜け出す道を見られれば、ロウェナへ繋がる。


 だから行くべきではない。


 行くべきではない。


 行くべきではない。


 そう思いながら、クラウディオは自室へ入った。


 扉が閉まる。


 彼はしばらく、部屋の中央に立っていた。


 暖炉には火がない。


 青白い魔導灯が壁に落ちている。


 机の奥には、ロウェナの紙片がある。


 また来てね、クラウディオ。


 あの丸い文字を思い出す。


 その文字の上に、食卓での声が重なった。


 菓子を配った女。


 魔女。


 燃やせば安い。


 クラウディオは床下を開けなかった。


 今日は、記録している場合ではなかった。


 彼は外套を取った。


 頭巾を深くかぶる。


 銀貨も銅貨も持たない。


 菓子を買いに行くのではない。


 確かめに行くのだ。


 そう言い訳した。


 マルタの足音が遠ざかるのを待つ。


 廊下へ出る。


 使用人用の階段を降りる。


 洗濯室の裏を通る。


 荷運び用の小門へ。


 今日は、いつもより人の気配が多かった。


 衛兵たちが話している。


「教会区から見回りが来るらしい」


「王城の近くまで?」


「下層と商人通り中心だ。魔女の疑いがある店を調べるとか」


「店ねえ。菓子屋まで疑われる時代か」


「菓子に血を混ぜる魔女なんて話、昔からあるだろ」


「食べたら吸血鬼に懐くとか?」


 笑い声。


 クラウディオは、影の中で指を握った。


 爪が掌に食い込む。


 王城の者たちの笑い声。


 街の者たちの笑い声。


 どちらも同じだった。


 誰かが傷つく可能性を、軽く扱う時の笑い。


 衛兵たちが離れるのを待ち、小門を抜ける。


 外の空気は重かった。


 いつもの湿った石畳の匂いに、今日は焦げた蝋の匂いが混ざっていた。教会区で使う祈祷蝋の匂いだ。大通りのあちこちに、教会の小札を持った者たちが立っている。


 彼らは聖職者ではない。


 教会に協力する見回り役。


 街の中から選ばれた者たち。


 自分は正しい側にいると信じた人間は、背筋の伸ばし方で分かる。


 クラウディオは頭巾を深くした。


 大通りを避け、細い路地を通る。


 だが、噂は路地にもいる。


「薬草を配る女が怪しいんだって」


「どこの?」


「坂の途中の菓子屋」


 足が止まりかけた。


 止めない。


 歩きながら聞く。


「ロウェナさん?」


「そう。前から妙に親切だったじゃない。ああいうのは怪しいのよ」


「でも、うちの子が熱を出した時、焼き菓子を持ってきてくれたわ」


「だからよ。普通、そこまでする?」


「善い人だからじゃないの」


「善い人の顔をする魔女が一番怖いって、教会の人が言ってた」


 クラウディオは路地の壁に手をついた。


 善い人だから怪しい。


 そこまでするから怪しい。


 優しい顔をするから怖い。


 善意が、別の形へ変えられていく。


 目の前で。


 言葉の中で。


 ロウェナが菓子を渡したこと。


 薬草蜜を渡したこと。


 子どもを追い返さなかったこと。


 手を拭いたこと。


 名前を呼んだこと。


 その一つ一つが、噂の中で黒く塗られていく。


 クラウディオは坂道へ向かった。


 丸い菓子の看板が見える。


 だが、いつもと違った。


 店の前に人が集まっている。


 十人ほど。


 多くは近所の者たちだろう。布屋の女。野菜売りの男。籠を抱えた老婆。昨日見た隣の店の女主人。教会の小札を持った背の低い男もいる。


 店の扉は閉まっていない。


 開いていた。


 ロウェナが外に立っている。


 白い前掛け姿のまま。


 栗色の髪は少し乱れ、頬には粉がついたままだった。手には布を握っている。おそらく作業の途中で呼び出されたのだ。


 彼女の顔は青ざめていた。


 それでも、立っていた。


「違うわ」


 ロウェナの声が聞こえた。


 クラウディオは人混みの後ろ、路地の影で足を止めた。


「私は魔女じゃない。薬草蜜は咳止めよ。昔からこの通りで使われてきたものだわ」


 背の低い男が小札を持ち上げた。


「教会に届け出ていない薬草の施与は、調査対象だ」


「施与なんて大げさなものじゃない。熱のある子に、蜜を少し渡しただけ」


「その少しに、何を混ぜた?」


「何も」


「魔女は皆そう言う」


 周囲から小さなざわめきが起きる。


 魔女は皆そう言う。


 その言葉一つで、ロウェナの否定は意味を失った。


 違うと言えば、魔女も違うと言う。


 私はやっていないと言えば、魔女もそう言う。


 信じてと言えば、魔女は人を騙す。


 どの道も塞がれている。


 クラウディオは、王城の食卓を思い出した。


 怒れば癇癪。


 黙れば不気味。


 答えれば生意気。


 答えなければ愚か。


 同じだ。


 これは同じだ。


 ただ、人数が多い。


 ロウェナは唇を噛み、首を横に振った。


「違うわ。本当に違う。私は誰にも呪いなんてかけていない。菓子に血なんて混ぜていない」


 野菜売りの男が言った。


「でも、あんたの店から甘い匂いがした夜、隣の通りで血を抜かれた犬が見つかった」


「そんなの、私とは関係ない」


「証明できるのか」


「できないわ。でも、私じゃない」


「証明できないなら、怪しい」


 ロウェナの手が震えた。


 布を握る指が白くなる。


 隣の店の女主人が小さく言った。


「ロウェナさんは、昔から親切にしてくれたわ」


 クラウディオは、その女を見た。


 昨日、ロウェナを庇いかけて黙った女だ。


 今日も声は小さい。


 背の低い男がすぐに振り返った。


「親切すぎる女ほど怪しい。あなたも菓子を受け取ったことがあるのか」


 女主人は顔色を変えた。


「……あるけれど」


「では、あなたも影響を受けているかもしれない」


 女主人は黙った。


 庇う声が消える。


 ロウェナが彼女を見た。


 責める目ではなかった。


 むしろ、仕方ないと言うような目だった。


 その目が、クラウディオには苦しかった。


 なぜ責めない。


 なぜ怒らない。


 その女は黙った。


 ロウェナを守らなかった。


 なのにロウェナは、仕方ないという顔をする。


「吸血鬼の子を店へ入れたという話もある」


 背の低い男が言った。


 人々のざわめきが大きくなる。


「吸血鬼?」


「子どもだって」


「黒い外套の」


「何度か見た人がいるらしい」


「菓子を渡していたって」


「まさか、血を吸われていたんじゃ」


「逆よ。吸血鬼を手懐けていたのよ」


「魔女だ」


 クラウディオの喉が冷たくなった。


 自分だ。


 自分のせいだ。


 ロウェナはすぐに言った。


「子どもだったのよ」


「吸血鬼でも?」


「子どもだった」


 彼女の声が少し強くなった。


「あの子は、ただお菓子を買いに来ただけよ。手を洗って、座って、食べて、帰っただけ。誰も傷つけていない」


 あの子。


 クラウディオは息を止めた。


 ロウェナは名を出さなかった。


 クラウディオとは言わなかった。


 王城の子とも言わなかった。


 黒い外套の子どもを庇っている。


 彼を隠している。


 群衆の中で。


 疑われているのに。


「吸血鬼の子を庇うのか」


 男が言った。


 ロウェナは叫ぶように返した。


「庇うとか、そういうことじゃないわ! お腹を空かせた子に菓子を売っただけよ!」


「吸血鬼は人を喰う」


「子どもよ!」


「子どもの形をした怪物かもしれない」


「違う!」


 ロウェナの声が震えた。


「違うわ! あの子は、ちゃんと手を洗って、菓子を食べて、お金を払った。ただの子どもだった。私は魔女じゃない。あの子も怪物なんかじゃない」


 人々は、彼女の言葉を聞いていなかった。


 音としては聞いている。


 だが、意味は受け取らない。


 すでに決めているのだ。


 ロウェナの優しさは、疑うための材料。


 彼女の否定は、魔女らしい言い逃れ。


 彼女の震えは、罪の恐怖。


 彼女の涙は、芝居。


 彼女が何を言っても、同じ場所へ落とされる。


「魔女は優しい顔をする」


「子どもを使うのよ」


「薬草と菓子で、人を懐かせるんだ」


「吸血鬼まで店に入れるなんて」


「血を売っていたのかも」


「夜に何をしていたか分からない」


「教会へ連れていった方がいい」


 言葉が増える。


 誰かが言う。


 誰かが足す。


 誰かが膨らませる。


 最初の事実は小さかった。


 薬草蜜を渡した。


 病人へ菓子を持たせた。


 吸血鬼の子を店へ入れた。


 それだけだった。


 それだけだったのに。


 今、ロウェナは魔女になりかけている。


 ロウェナは必死に首を振った。


「違うわ。お願い、聞いて。私は魔女じゃない。誰にも呪いなんてかけていない。薬草だって、母から教わった咳止めよ。菓子に血なんて混ぜていない。あの子だって、ただの子どもだったの」


 背の低い男が冷たく言った。


「母から教わった?」


 ロウェナが止まる。


「その母親も、魔女だったのでは」


 周囲がざわめく。


 ロウェナの顔から血の気が引いた。


「違う……違うわ。母は」


「死んでいるなら、確かめようがない」


「違う!」


 ロウェナの声が裂けた。


 クラウディオは、路地の影から動きそうになった。


 足が前へ出かける。


 だが、動けなかった。


 出て行けばどうなる。


 黒い外套の吸血鬼の子が現れる。


 ロウェナが庇っていた子が本当にいたと証明される。


 しかも、クラウディオが王城の子だと知られれば、さらに悪い。


 王族の妾の子に近づいた女。


 王城へ取り入ろうとした魔女。


 吸血鬼の血を狙った女。


 噂はいくらでも形を変える。


 クラウディオは小さい。


 力がない。


 血術もまだ一滴を震わせただけ。


 今出て行っても、ロウェナを救えない。


 むしろ、彼女をもっと危険にする。


 それが分かる。


 分かってしまう。


 だから動けない。


 その事実が、クラウディオの内側を強く焼いた。


 ロウェナはまた言った。


「私は魔女じゃない」


 今度は、叫びではなかった。


 祈りに近かった。


「本当に違うの。お願い、信じて。私は、ただ……」


「ただ?」


 男が詰める。


 ロウェナは息を吸った。


「ただ、困っている人に渡しただけよ。お菓子も、薬草蜜も。あの子にも、ただ……」


「吸血鬼の子にも?」


 周囲がまたざわめく。


 ロウェナは、言葉を止めた。


 何を言っても悪く変えられる。


 それを彼女も理解し始めていた。


 それでも、沈黙すれば怪しいと言われる。


 彼女は震える唇で言った。


「……子どもに、冷たい顔をしたくなかっただけ」


 その言葉は、群衆には届かなかった。


 届いたのはクラウディオだけだった。


 子どもに、冷たい顔をしたくなかった。


 それが罪になる。


 王城で誰もがしていた冷たい顔を、ロウェナはしなかった。


 だから今、魔女と呼ばれている。


 クラウディオの胸の奥で、何かが音を立てた。


 折れたのではない。


 割れたのでもない。


 冷えた。


 ただ、深く冷えた。


 背の低い男が言った。


「教会へ届け出る。正式な調査が必要だ」


 ロウェナは首を振った。


「待って。そんな、私は何も」


「何もしていないなら、調べられても困らないだろう」


 ひどく便利な言葉だった。


 何もしていないなら困らない。


 潔白なら恐れない。


 違うなら証明しろ。


 証明できないなら怪しい。


 クラウディオは、その言葉を胸に刻んだ。


 大人たちは、こうやって人を囲むのか。


 正しそうな言葉で。


 逃げ道を塞いで。


 否定を罪の形に変えて。


 泣けば芝居にし、怒れば本性にし、黙れば疑いにし、優しさを証拠にする。


 王城の食卓で兄弟たちがやっていたことと同じだ。


 だが、ここには群衆がいる。


 一人が言えば、十人が頷く。


 十人が頷けば、それは事実のような顔をする。


 集団の声は、真実に似た音を出す。


 それが気持ち悪かった。


 クラウディオは、初めて、大人たちの群れを心底から嫌悪した。


 ロウェナはまだ言っている。


「違うわ。私は魔女じゃない。お願い、信じて。私は違う。違うの」


 誰も信じない。


 誰も。


 隣の女主人は目を伏せている。


 野菜売りは腕を組んでいる。


 老婆は口元を押さえ、怖そうな顔をしている。


 背の低い男は小札を握りしめている。


 誰も石を投げてはいない。


 誰も彼女を殴ってはいない。


 それなのに、ロウェナの周りにはすでに見えない柵ができていた。


 逃げられない柵。


 言葉で作られた檻。


 王城の檻より、もっと薄く、もっと広い。


 クラウディオは、自分の爪が掌を破っていることに気づいた。


 血が滲んでいた。


 小さな赤。


 血術の訓練で出した血と同じ色。


 その血が、かすかに震えた。


 クラウディオは息を止めた。


 掌の中で、血が熱を持つ。


 怒りに反応している。


 いや、違う。


 怒りだけではない。


 嫌悪。


 無力。


 屈辱。


 ロウェナの声。


 私は魔女じゃない。


 違うわ。


 お願い、信じて。


 誰も信じない。


 血が、爪の間で細く震えた。


 クラウディオは拳を握り込んだ。


 今、血を動かしてはいけない。


 ここで何かをすれば、ロウェナが終わる。


 吸血鬼の子が血術を使った。


 それだけで、噂は燃え上がる。


 クラウディオは、自分の血を押さえ込んだ。


 押さえ込むことしかできなかった。


 やがて、背の低い男と数人が去った。


 教会へ届け出るのだろう。


 残った人々も、散り散りになっていく。


 だが去り際の目は、前とは違った。


 ロウェナの店を見る目。


 菓子の棚を見る目。


 窯を見る目。


 白い前掛けを見る目。


 すべてが汚れていた。


 ロウェナは店の前に立ったままだった。


 手に持った布は、いつの間にか床へ落ちている。


 彼女はそれに気づいていない。


 クラウディオは路地の影から動けなかった。


 今出ていけば、慰めになるか。


 ならない。


 見つかれば悪くなる。


 では、帰るのか。


 帰れるのか。


 ロウェナが、ふとこちらを見た。


 目が合った。


 ほんの一瞬。


 彼女は驚かなかった。


 最初から気づいていたのかもしれない。


 クラウディオの胸が詰まる。


 ロウェナは、わずかに首を横に振った。


 来ないで。


 そう言っているのだと分かった。


 ここへ来るな。


 姿を見せるな。


 巻き込まれるな。


 あるいは、自分をこれ以上危うくするな。


 クラウディオは歯を噛んだ。


 ロウェナは、泣いていなかった。


 泣きそうな顔をしていた。


 でも泣いていなかった。


 その顔で、もう一度だけ口を動かした。


 声は届かない。


 だが、唇の形で分かった。


 帰って。


 クラウディオは動けなかった。


 ロウェナは無理に笑おうとした。


 笑えなかった。


 それでも、彼に向かってほんの少しだけ頷いた。


 大丈夫。


 そう言うように。


 大丈夫なはずがない。


 クラウディオは拳を握ったまま、後ろへ下がった。


 一歩。


 もう一歩。


 ロウェナの姿が、坂道の陰に隠れていく。


 店の明かりはまだついていた。


 丸い菓子の看板も揺れていた。


 甘い匂いもする。


 だが、そこはもう昨日までの逃げ場所ではなかった。


 噂に囲まれた場所だった。


 クラウディオは王城へ戻った。


 どう戻ったのか、あまり覚えていなかった。


 街の声が遠い。


 教会の鐘が鳴っていた気がする。


 誰かが笑っていた気もする。


 小門を抜け、廊下を通り、自室へ入る。


 扉を閉める。


 そこでようやく、掌が痛むことに気づいた。


 爪で裂いた傷から、血が滲んでいる。


 小さな赤。


 彼はそれを見た。


 血はもう震えていなかった。


 ただ、掌に溜まっている。


 クラウディオは机に向かった。


 床下の板を外す。


 紙を出す。


 ペンを取る。


 手が汚れている。


 血が紙につくかもしれない。


 構わないと思った。


 今日の記録には、血がついていてもいい。


 彼は書いた。


 背の低い男。


 教会の小札。ロウェナを魔女と疑う。薬草蜜、菓子、吸血鬼の子を証拠にした。母も魔女だったのではと言った。


 隣の店の女。


 庇いかけた。影響を受けていると言われて黙った。


 野菜売りの男。


 犬の死体と甘い匂いを結びつけた。


 老婆。


 怖そうにしていた。何も言わなかった。


 群衆。


 優しさを疑いに変えた。菓子を呪いに変えた。子どもを怪物に変えた。否定を魔女の言い逃れに変えた。


 ロウェナ。


 違うわ、と言った。


 私は魔女じゃない、と何度も言った。


 誰も信じなかった。


 クラウディオは、そこでペンを止めた。


 紙の端に、血が一滴落ちた。


 赤い染みが広がる。


 彼はそれを拭かなかった。


 そのまま、次の行を書いた。


 大人たちは、群れると真実のような声を出す。


 その声で、ひとりを囲む。


 クラウディオはしばらく、その文字を見ていた。


 幼い字だった。


 けれど、そこに宿った感情は幼くなかった。


 嫌悪。


 強い嫌悪。


 王城で感じる怒りとは少し違う。


 兄弟たちへの憎しみとも違う。


 これは、大人たちの集団そのものへ向かう嫌悪だった。


 誰か一人の悪意ではない。


 皆で少しずつ悪くなる。


 皆で言葉を足し、皆で逃げ道を塞ぎ、皆で責任を薄める。


 誰も自分が殺すとは言わない。


 だが、誰かが燃えるところまでは運んでいく。


 それが気持ち悪い。


 吐き気がするほど、気持ち悪い。


 クラウディオは紙を折った。


 床下へ入れる。


 板を戻す。


 それから、机の奥の引き出しを開けた。


 ロウェナの紙片。


 また来てね、クラウディオ。


 丸い文字。


 その隣に、以前の紙。


 温かい水。


 月の欠片。


 生きてる間くらい、温かいものを食べてもいい。


 クラウディオは、その紙に触れなかった。


 触れれば、今日の血で汚してしまいそうだった。


 引き出しを閉める。


 部屋は冷えている。


 暖炉には火がない。


 王城の火は青白い。


 菓子屋の火は赤い。


 教会の火は、どんな色をしているのだろう。


 その考えが頭をよぎった瞬間、クラウディオは息を止めた。


 考えるな。


 まだ何も決まっていない。


 まだロウェナは店の前に立っていた。


 まだ連れていかれてはいない。


 まだ、違うわ、と言えていた。


 まだ。


 まだ。


 だが、血は覚えてしまった。


 ロウェナの白い顔。


 震える手。


 誰にも信じられない声。


 帰って、と動いた唇。


 クラウディオは寝台に座った。


 小さな身体が、石のように固まっていた。


 泣かなかった。


 いつも通り。


 泣いても何も変わらない。


 泣けば、誰かの物語になる。


 可哀想な子ども。


 優しい菓子屋を心配する妾の子。


 そんなものになるくらいなら、涙など要らない。


 クラウディオは掌の血を見た。


 傷はもう塞がり始めている。


 吸血鬼の身体は早い。


 痛みを残して、傷だけ消す。


 それが腹立たしかった。


 今日のことも、街の者たちは忘れるのだろうか。


 ロウェナを疑った声も。


 魔女と言った顔も。


 信じなかった沈黙も。


 やがて、教会が何かを決めれば、自分たちは仕方なかったと言うのだろうか。


 怖かったから。


 噂があったから。


 教会が言ったから。


 誰かが言っていたから。


 皆がそう言っていたから。


 クラウディオは、拳を握った。


 また傷が開きかけた。


 構わなかった。


 その夜、彼は初めて思った。


 裁かれる側でいる限り、誰も話を聞かない。


 違うと言っても、届かない。


 私は魔女じゃないと言っても、信じない。


 泣いても、叫んでも、否定しても、群衆は自分たちに都合よく聞き替える。


 ならば。


 まだ、その先の言葉はなかった。


 まだ、幼いクラウディオは王座を奪う方法も、人を裁く権限も、血で命じる力も持っていない。


 だが、胸の奥にあった黒い種が、その夜、深く根を伸ばした。


 誰かに裁かれる側ではなく。


 誰かに信じてもらうことを乞う側ではなく。


 誰かの群れに囲まれ、違うと叫ぶ側ではなく。


 別の側へ。


 いつか、必ず。


 クラウディオは目を閉じた。


 耳の奥で、まだロウェナの声がしている。


 違うわ。


 私は魔女じゃない。


 お願い、信じて。


 誰も信じない。


 その声を、彼は忘れなかった。


 忘れるはずがなかった。


 王城の冷たい夜の中で、甘い匂いの逃げ場所が、少しずつ煙に巻かれていく。


 それでもまだ、菓子屋の明かりは消えていない。


 クラウディオは、その小さな明かりを思い出しながら、眠れない夜を睨んでいた。


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