第7話 優しさが罪になる夜
噂は、足音を立てなかった。
だから厄介だった。
王城の廊下なら、近づく者の足音が分かる。靴底の硬さ。歩幅。衣擦れ。腰に吊った鍵の鳴り方。従者か、侍女か、教師か、兄弟か。誰かが近づいてくるなら、クラウディオは先に身構えることができた。
だが噂には足音がない。
扉を叩かない。
許可も求めない。
誰かの口から誰かの耳へ、薄い煙のように流れていく。気づいた時には部屋の隅に溜まり、息をするたび肺の奥へ入ってくる。
その日、王城の食卓でも、魔女狩りの話題が出た。
クラウディオは末席に座り、いつものように皿の上の肉を切っていた。今日の肉は焦げていない。だが筋が多く、切るたびにナイフの先がひっかかった。
上座では、王ヴァレンティヌスが血杯を手にしている。
正妃エレオノーラは静かに果実を切っていた。
アドリアンは柔らかな微笑みを崩さず、セヴランは退屈そうに杯を回し、リヴィアは小さな銀匙で皿の上の赤い果実を潰していた。
リヴィアは最近、果実を潰す。
皮が裂け、汁が皿に滲む様子を、じっと見ている。
クラウディオはそれを覚えていた。
「教会区が騒がしいようですわ」
正妃が言った。
王は杯を傾けたまま、薄く目を上げる。
「魔女狩りか」
「そのようです。外縁で崩れ種が増え、下層では血を抜かれた死体も出ています。民の不安を鎮めるためにも、教会は動かざるを得ないのでしょう」
民の不安。
その言い方は、どこか整いすぎていた。
街で聞いた噂の声とは違う。
王城の食卓に上がると、人が燃やされるかもしれない話でさえ、銀器に似た光沢を持つ。
セヴランが鼻で笑った。
「吸血鬼を倒せないから、人間を燃やす。教会らしい」
アドリアンが穏やかに言う。
「言い過ぎだよ、セヴラン。彼らは彼らなりに秩序を守ろうとしている」
「秩序ね」
セヴランは杯の縁をなぞった。
「薬草を売った婆や、菓子を配った女を燃やして秩序が戻るなら、安いものだ」
菓子。
クラウディオの手が止まりかけた。
止めてはいけない。
彼はそのまま肉を切った。
筋が刃に絡む。
小さく力を入れる。
肉が切れた。
リヴィアが顔を上げた。
「菓子?」
その声には、退屈から目覚めた時の軽い期待があった。
「何それ」
「下町の噂だ」
セヴランは面白そうに続けた。
「薬草蜜を菓子に混ぜて病人に渡している女がいるらしい。しかも、夜に吸血鬼の子を店へ入れていたとか」
血杯の赤が、クラウディオの目に映った。
ロウェナ。
彼はその名を口にしなかった。
口にすれば、奪われる。
この食卓へ名を乗せれば、彼女は銀皿の上の肉と同じになる。
切られ、眺められ、評価される。
リヴィアは目を輝かせた。
「吸血鬼の子に菓子を? 変な女」
正妃は果実を切る手を止めなかった。
「善意と無知は似ていますから」
アドリアンが微笑む。
「あるいは、善意を装った何かかもしれない」
「魔女ってこと?」
リヴィアが嬉しそうに言った。
嬉しそうだった。
人が魔女と呼ばれる話をしているのに。
王城では、誰かの破滅は退屈を紛らわせる玩具になる。
クラウディオは肉を口に入れた。
味がしない。
今日の肉は焦げていない。
固いだけだ。
セヴランは続ける。
「教会区の掲示では、未認可の薬草施与、病人への食物配布、吸血鬼との接触が疑いの対象になるそうだ。条件は揃っている」
アドリアンは、そこでクラウディオを見た。
気づいたのだろうか。
いや、まだ分からない。
彼はいつも、人が何かを隠している可能性を見る目をする。
「クラウディオ」
柔らかな声。
クラウディオは顔を上げた。
「はい、兄上」
「お前は、城下の菓子に詳しい?」
食卓の空気が、薄く張った。
リヴィアがにやりと笑う。
セヴランもこちらを見る。
正妃は果実を切り終え、銀匙を置いた。
王は無言だった。
クラウディオは一拍置いた。
早すぎれば、準備していたように見える。
遅すぎれば、動揺に見える。
「詳しくありません」
「そう」
アドリアンは微笑む。
「以前、甘い匂いがするとリヴィアが言っていたから」
リヴィアが得意げに顔を上げた。
「そうよ。下町の菓子みたいな匂いがしたもの」
「香油の残り香だったのでは」
クラウディオは言った。
声は平らだった。
セヴランが笑う。
「お前が香油? ずいぶん洒落た妾の子だ」
妾の子。
食卓の上で、その言葉が転がる。
いつもなら胸の奥へ冷たく沈む。
だが今日、それは遠かった。
それよりも、菓子屋の女、吸血鬼の子、魔女、という言葉の方が重かった。
アドリアンは、クラウディオの顔を見ていた。
「そうか。知らないならいい」
知らないなら。
その言い方は、知っているなら今のうちに隠せ、という意味にも聞こえた。
あるいは、隠していることは分かっている、という意味にも。
クラウディオは何も言わず、血杯を持った。
赤い液体を飲む。
冷たい。
王城の血はいつも冷たい。
その冷たさが喉を通る時、ロウェナの店の温かい果実水を思い出した。
思い出してはいけない。
ここで思い出すほど、顔に出る。
正妃が言った。
「いずれにせよ、教会の動きには注意が必要です。民の不安が王城へ向く前に、彼ら自身の中で処理してもらうのがよいでしょう」
彼ら自身の中で処理。
つまり、誰かを魔女にして終わらせるということだ。
クラウディオは正妃を見なかった。
だが、覚えた。
エレオノーラ。
民の不安を、民の中で処理させる。
セヴラン。
菓子を配った女を燃やせば安いもの。
リヴィア。
魔女という言葉を嬉しそうに言う。
アドリアン。
クラウディオへ問いを投げた。
ヴァレンティヌス。
黙っている。
王は黙っている。
いつものように。
クラウディオは食事を終えるまで、何も言わなかった。
食卓を離れ、自室へ戻る途中、彼の足は自然に速くなりかけた。
マルタが後ろから言う。
「クラウディオ様」
彼は止まった。
「どちらへ」
「部屋へ戻る」
「でしたら、廊下を急ぐ必要はございません」
「急いでいない」
「そうですか」
マルタの声には疑いがあった。
クラウディオは振り返らない。
今日、外へ出るのは危険だ。
分かっていた。
食卓で話題になった。
アドリアンが気づいているかもしれない。
リヴィアも、甘い匂いを覚えている。
正妃が監視を増やすかもしれない。
王城を抜け出す道を見られれば、ロウェナへ繋がる。
だから行くべきではない。
行くべきではない。
行くべきではない。
そう思いながら、クラウディオは自室へ入った。
扉が閉まる。
彼はしばらく、部屋の中央に立っていた。
暖炉には火がない。
青白い魔導灯が壁に落ちている。
机の奥には、ロウェナの紙片がある。
また来てね、クラウディオ。
あの丸い文字を思い出す。
その文字の上に、食卓での声が重なった。
菓子を配った女。
魔女。
燃やせば安い。
クラウディオは床下を開けなかった。
今日は、記録している場合ではなかった。
彼は外套を取った。
頭巾を深くかぶる。
銀貨も銅貨も持たない。
菓子を買いに行くのではない。
確かめに行くのだ。
そう言い訳した。
マルタの足音が遠ざかるのを待つ。
廊下へ出る。
使用人用の階段を降りる。
洗濯室の裏を通る。
荷運び用の小門へ。
今日は、いつもより人の気配が多かった。
衛兵たちが話している。
「教会区から見回りが来るらしい」
「王城の近くまで?」
「下層と商人通り中心だ。魔女の疑いがある店を調べるとか」
「店ねえ。菓子屋まで疑われる時代か」
「菓子に血を混ぜる魔女なんて話、昔からあるだろ」
「食べたら吸血鬼に懐くとか?」
笑い声。
クラウディオは、影の中で指を握った。
爪が掌に食い込む。
王城の者たちの笑い声。
街の者たちの笑い声。
どちらも同じだった。
誰かが傷つく可能性を、軽く扱う時の笑い。
衛兵たちが離れるのを待ち、小門を抜ける。
外の空気は重かった。
いつもの湿った石畳の匂いに、今日は焦げた蝋の匂いが混ざっていた。教会区で使う祈祷蝋の匂いだ。大通りのあちこちに、教会の小札を持った者たちが立っている。
彼らは聖職者ではない。
教会に協力する見回り役。
街の中から選ばれた者たち。
自分は正しい側にいると信じた人間は、背筋の伸ばし方で分かる。
クラウディオは頭巾を深くした。
大通りを避け、細い路地を通る。
だが、噂は路地にもいる。
「薬草を配る女が怪しいんだって」
「どこの?」
「坂の途中の菓子屋」
足が止まりかけた。
止めない。
歩きながら聞く。
「ロウェナさん?」
「そう。前から妙に親切だったじゃない。ああいうのは怪しいのよ」
「でも、うちの子が熱を出した時、焼き菓子を持ってきてくれたわ」
「だからよ。普通、そこまでする?」
「善い人だからじゃないの」
「善い人の顔をする魔女が一番怖いって、教会の人が言ってた」
クラウディオは路地の壁に手をついた。
善い人だから怪しい。
そこまでするから怪しい。
優しい顔をするから怖い。
善意が、別の形へ変えられていく。
目の前で。
言葉の中で。
ロウェナが菓子を渡したこと。
薬草蜜を渡したこと。
子どもを追い返さなかったこと。
手を拭いたこと。
名前を呼んだこと。
その一つ一つが、噂の中で黒く塗られていく。
クラウディオは坂道へ向かった。
丸い菓子の看板が見える。
だが、いつもと違った。
店の前に人が集まっている。
十人ほど。
多くは近所の者たちだろう。布屋の女。野菜売りの男。籠を抱えた老婆。昨日見た隣の店の女主人。教会の小札を持った背の低い男もいる。
店の扉は閉まっていない。
開いていた。
ロウェナが外に立っている。
白い前掛け姿のまま。
栗色の髪は少し乱れ、頬には粉がついたままだった。手には布を握っている。おそらく作業の途中で呼び出されたのだ。
彼女の顔は青ざめていた。
それでも、立っていた。
「違うわ」
ロウェナの声が聞こえた。
クラウディオは人混みの後ろ、路地の影で足を止めた。
「私は魔女じゃない。薬草蜜は咳止めよ。昔からこの通りで使われてきたものだわ」
背の低い男が小札を持ち上げた。
「教会に届け出ていない薬草の施与は、調査対象だ」
「施与なんて大げさなものじゃない。熱のある子に、蜜を少し渡しただけ」
「その少しに、何を混ぜた?」
「何も」
「魔女は皆そう言う」
周囲から小さなざわめきが起きる。
魔女は皆そう言う。
その言葉一つで、ロウェナの否定は意味を失った。
違うと言えば、魔女も違うと言う。
私はやっていないと言えば、魔女もそう言う。
信じてと言えば、魔女は人を騙す。
どの道も塞がれている。
クラウディオは、王城の食卓を思い出した。
怒れば癇癪。
黙れば不気味。
答えれば生意気。
答えなければ愚か。
同じだ。
これは同じだ。
ただ、人数が多い。
ロウェナは唇を噛み、首を横に振った。
「違うわ。本当に違う。私は誰にも呪いなんてかけていない。菓子に血なんて混ぜていない」
野菜売りの男が言った。
「でも、あんたの店から甘い匂いがした夜、隣の通りで血を抜かれた犬が見つかった」
「そんなの、私とは関係ない」
「証明できるのか」
「できないわ。でも、私じゃない」
「証明できないなら、怪しい」
ロウェナの手が震えた。
布を握る指が白くなる。
隣の店の女主人が小さく言った。
「ロウェナさんは、昔から親切にしてくれたわ」
クラウディオは、その女を見た。
昨日、ロウェナを庇いかけて黙った女だ。
今日も声は小さい。
背の低い男がすぐに振り返った。
「親切すぎる女ほど怪しい。あなたも菓子を受け取ったことがあるのか」
女主人は顔色を変えた。
「……あるけれど」
「では、あなたも影響を受けているかもしれない」
女主人は黙った。
庇う声が消える。
ロウェナが彼女を見た。
責める目ではなかった。
むしろ、仕方ないと言うような目だった。
その目が、クラウディオには苦しかった。
なぜ責めない。
なぜ怒らない。
その女は黙った。
ロウェナを守らなかった。
なのにロウェナは、仕方ないという顔をする。
「吸血鬼の子を店へ入れたという話もある」
背の低い男が言った。
人々のざわめきが大きくなる。
「吸血鬼?」
「子どもだって」
「黒い外套の」
「何度か見た人がいるらしい」
「菓子を渡していたって」
「まさか、血を吸われていたんじゃ」
「逆よ。吸血鬼を手懐けていたのよ」
「魔女だ」
クラウディオの喉が冷たくなった。
自分だ。
自分のせいだ。
ロウェナはすぐに言った。
「子どもだったのよ」
「吸血鬼でも?」
「子どもだった」
彼女の声が少し強くなった。
「あの子は、ただお菓子を買いに来ただけよ。手を洗って、座って、食べて、帰っただけ。誰も傷つけていない」
あの子。
クラウディオは息を止めた。
ロウェナは名を出さなかった。
クラウディオとは言わなかった。
王城の子とも言わなかった。
黒い外套の子どもを庇っている。
彼を隠している。
群衆の中で。
疑われているのに。
「吸血鬼の子を庇うのか」
男が言った。
ロウェナは叫ぶように返した。
「庇うとか、そういうことじゃないわ! お腹を空かせた子に菓子を売っただけよ!」
「吸血鬼は人を喰う」
「子どもよ!」
「子どもの形をした怪物かもしれない」
「違う!」
ロウェナの声が震えた。
「違うわ! あの子は、ちゃんと手を洗って、菓子を食べて、お金を払った。ただの子どもだった。私は魔女じゃない。あの子も怪物なんかじゃない」
人々は、彼女の言葉を聞いていなかった。
音としては聞いている。
だが、意味は受け取らない。
すでに決めているのだ。
ロウェナの優しさは、疑うための材料。
彼女の否定は、魔女らしい言い逃れ。
彼女の震えは、罪の恐怖。
彼女の涙は、芝居。
彼女が何を言っても、同じ場所へ落とされる。
「魔女は優しい顔をする」
「子どもを使うのよ」
「薬草と菓子で、人を懐かせるんだ」
「吸血鬼まで店に入れるなんて」
「血を売っていたのかも」
「夜に何をしていたか分からない」
「教会へ連れていった方がいい」
言葉が増える。
誰かが言う。
誰かが足す。
誰かが膨らませる。
最初の事実は小さかった。
薬草蜜を渡した。
病人へ菓子を持たせた。
吸血鬼の子を店へ入れた。
それだけだった。
それだけだったのに。
今、ロウェナは魔女になりかけている。
ロウェナは必死に首を振った。
「違うわ。お願い、聞いて。私は魔女じゃない。誰にも呪いなんてかけていない。薬草だって、母から教わった咳止めよ。菓子に血なんて混ぜていない。あの子だって、ただの子どもだったの」
背の低い男が冷たく言った。
「母から教わった?」
ロウェナが止まる。
「その母親も、魔女だったのでは」
周囲がざわめく。
ロウェナの顔から血の気が引いた。
「違う……違うわ。母は」
「死んでいるなら、確かめようがない」
「違う!」
ロウェナの声が裂けた。
クラウディオは、路地の影から動きそうになった。
足が前へ出かける。
だが、動けなかった。
出て行けばどうなる。
黒い外套の吸血鬼の子が現れる。
ロウェナが庇っていた子が本当にいたと証明される。
しかも、クラウディオが王城の子だと知られれば、さらに悪い。
王族の妾の子に近づいた女。
王城へ取り入ろうとした魔女。
吸血鬼の血を狙った女。
噂はいくらでも形を変える。
クラウディオは小さい。
力がない。
血術もまだ一滴を震わせただけ。
今出て行っても、ロウェナを救えない。
むしろ、彼女をもっと危険にする。
それが分かる。
分かってしまう。
だから動けない。
その事実が、クラウディオの内側を強く焼いた。
ロウェナはまた言った。
「私は魔女じゃない」
今度は、叫びではなかった。
祈りに近かった。
「本当に違うの。お願い、信じて。私は、ただ……」
「ただ?」
男が詰める。
ロウェナは息を吸った。
「ただ、困っている人に渡しただけよ。お菓子も、薬草蜜も。あの子にも、ただ……」
「吸血鬼の子にも?」
周囲がまたざわめく。
ロウェナは、言葉を止めた。
何を言っても悪く変えられる。
それを彼女も理解し始めていた。
それでも、沈黙すれば怪しいと言われる。
彼女は震える唇で言った。
「……子どもに、冷たい顔をしたくなかっただけ」
その言葉は、群衆には届かなかった。
届いたのはクラウディオだけだった。
子どもに、冷たい顔をしたくなかった。
それが罪になる。
王城で誰もがしていた冷たい顔を、ロウェナはしなかった。
だから今、魔女と呼ばれている。
クラウディオの胸の奥で、何かが音を立てた。
折れたのではない。
割れたのでもない。
冷えた。
ただ、深く冷えた。
背の低い男が言った。
「教会へ届け出る。正式な調査が必要だ」
ロウェナは首を振った。
「待って。そんな、私は何も」
「何もしていないなら、調べられても困らないだろう」
ひどく便利な言葉だった。
何もしていないなら困らない。
潔白なら恐れない。
違うなら証明しろ。
証明できないなら怪しい。
クラウディオは、その言葉を胸に刻んだ。
大人たちは、こうやって人を囲むのか。
正しそうな言葉で。
逃げ道を塞いで。
否定を罪の形に変えて。
泣けば芝居にし、怒れば本性にし、黙れば疑いにし、優しさを証拠にする。
王城の食卓で兄弟たちがやっていたことと同じだ。
だが、ここには群衆がいる。
一人が言えば、十人が頷く。
十人が頷けば、それは事実のような顔をする。
集団の声は、真実に似た音を出す。
それが気持ち悪かった。
クラウディオは、初めて、大人たちの群れを心底から嫌悪した。
ロウェナはまだ言っている。
「違うわ。私は魔女じゃない。お願い、信じて。私は違う。違うの」
誰も信じない。
誰も。
隣の女主人は目を伏せている。
野菜売りは腕を組んでいる。
老婆は口元を押さえ、怖そうな顔をしている。
背の低い男は小札を握りしめている。
誰も石を投げてはいない。
誰も彼女を殴ってはいない。
それなのに、ロウェナの周りにはすでに見えない柵ができていた。
逃げられない柵。
言葉で作られた檻。
王城の檻より、もっと薄く、もっと広い。
クラウディオは、自分の爪が掌を破っていることに気づいた。
血が滲んでいた。
小さな赤。
血術の訓練で出した血と同じ色。
その血が、かすかに震えた。
クラウディオは息を止めた。
掌の中で、血が熱を持つ。
怒りに反応している。
いや、違う。
怒りだけではない。
嫌悪。
無力。
屈辱。
ロウェナの声。
私は魔女じゃない。
違うわ。
お願い、信じて。
誰も信じない。
血が、爪の間で細く震えた。
クラウディオは拳を握り込んだ。
今、血を動かしてはいけない。
ここで何かをすれば、ロウェナが終わる。
吸血鬼の子が血術を使った。
それだけで、噂は燃え上がる。
クラウディオは、自分の血を押さえ込んだ。
押さえ込むことしかできなかった。
やがて、背の低い男と数人が去った。
教会へ届け出るのだろう。
残った人々も、散り散りになっていく。
だが去り際の目は、前とは違った。
ロウェナの店を見る目。
菓子の棚を見る目。
窯を見る目。
白い前掛けを見る目。
すべてが汚れていた。
ロウェナは店の前に立ったままだった。
手に持った布は、いつの間にか床へ落ちている。
彼女はそれに気づいていない。
クラウディオは路地の影から動けなかった。
今出ていけば、慰めになるか。
ならない。
見つかれば悪くなる。
では、帰るのか。
帰れるのか。
ロウェナが、ふとこちらを見た。
目が合った。
ほんの一瞬。
彼女は驚かなかった。
最初から気づいていたのかもしれない。
クラウディオの胸が詰まる。
ロウェナは、わずかに首を横に振った。
来ないで。
そう言っているのだと分かった。
ここへ来るな。
姿を見せるな。
巻き込まれるな。
あるいは、自分をこれ以上危うくするな。
クラウディオは歯を噛んだ。
ロウェナは、泣いていなかった。
泣きそうな顔をしていた。
でも泣いていなかった。
その顔で、もう一度だけ口を動かした。
声は届かない。
だが、唇の形で分かった。
帰って。
クラウディオは動けなかった。
ロウェナは無理に笑おうとした。
笑えなかった。
それでも、彼に向かってほんの少しだけ頷いた。
大丈夫。
そう言うように。
大丈夫なはずがない。
クラウディオは拳を握ったまま、後ろへ下がった。
一歩。
もう一歩。
ロウェナの姿が、坂道の陰に隠れていく。
店の明かりはまだついていた。
丸い菓子の看板も揺れていた。
甘い匂いもする。
だが、そこはもう昨日までの逃げ場所ではなかった。
噂に囲まれた場所だった。
クラウディオは王城へ戻った。
どう戻ったのか、あまり覚えていなかった。
街の声が遠い。
教会の鐘が鳴っていた気がする。
誰かが笑っていた気もする。
小門を抜け、廊下を通り、自室へ入る。
扉を閉める。
そこでようやく、掌が痛むことに気づいた。
爪で裂いた傷から、血が滲んでいる。
小さな赤。
彼はそれを見た。
血はもう震えていなかった。
ただ、掌に溜まっている。
クラウディオは机に向かった。
床下の板を外す。
紙を出す。
ペンを取る。
手が汚れている。
血が紙につくかもしれない。
構わないと思った。
今日の記録には、血がついていてもいい。
彼は書いた。
背の低い男。
教会の小札。ロウェナを魔女と疑う。薬草蜜、菓子、吸血鬼の子を証拠にした。母も魔女だったのではと言った。
隣の店の女。
庇いかけた。影響を受けていると言われて黙った。
野菜売りの男。
犬の死体と甘い匂いを結びつけた。
老婆。
怖そうにしていた。何も言わなかった。
群衆。
優しさを疑いに変えた。菓子を呪いに変えた。子どもを怪物に変えた。否定を魔女の言い逃れに変えた。
ロウェナ。
違うわ、と言った。
私は魔女じゃない、と何度も言った。
誰も信じなかった。
クラウディオは、そこでペンを止めた。
紙の端に、血が一滴落ちた。
赤い染みが広がる。
彼はそれを拭かなかった。
そのまま、次の行を書いた。
大人たちは、群れると真実のような声を出す。
その声で、ひとりを囲む。
クラウディオはしばらく、その文字を見ていた。
幼い字だった。
けれど、そこに宿った感情は幼くなかった。
嫌悪。
強い嫌悪。
王城で感じる怒りとは少し違う。
兄弟たちへの憎しみとも違う。
これは、大人たちの集団そのものへ向かう嫌悪だった。
誰か一人の悪意ではない。
皆で少しずつ悪くなる。
皆で言葉を足し、皆で逃げ道を塞ぎ、皆で責任を薄める。
誰も自分が殺すとは言わない。
だが、誰かが燃えるところまでは運んでいく。
それが気持ち悪い。
吐き気がするほど、気持ち悪い。
クラウディオは紙を折った。
床下へ入れる。
板を戻す。
それから、机の奥の引き出しを開けた。
ロウェナの紙片。
また来てね、クラウディオ。
丸い文字。
その隣に、以前の紙。
温かい水。
月の欠片。
生きてる間くらい、温かいものを食べてもいい。
クラウディオは、その紙に触れなかった。
触れれば、今日の血で汚してしまいそうだった。
引き出しを閉める。
部屋は冷えている。
暖炉には火がない。
王城の火は青白い。
菓子屋の火は赤い。
教会の火は、どんな色をしているのだろう。
その考えが頭をよぎった瞬間、クラウディオは息を止めた。
考えるな。
まだ何も決まっていない。
まだロウェナは店の前に立っていた。
まだ連れていかれてはいない。
まだ、違うわ、と言えていた。
まだ。
まだ。
だが、血は覚えてしまった。
ロウェナの白い顔。
震える手。
誰にも信じられない声。
帰って、と動いた唇。
クラウディオは寝台に座った。
小さな身体が、石のように固まっていた。
泣かなかった。
いつも通り。
泣いても何も変わらない。
泣けば、誰かの物語になる。
可哀想な子ども。
優しい菓子屋を心配する妾の子。
そんなものになるくらいなら、涙など要らない。
クラウディオは掌の血を見た。
傷はもう塞がり始めている。
吸血鬼の身体は早い。
痛みを残して、傷だけ消す。
それが腹立たしかった。
今日のことも、街の者たちは忘れるのだろうか。
ロウェナを疑った声も。
魔女と言った顔も。
信じなかった沈黙も。
やがて、教会が何かを決めれば、自分たちは仕方なかったと言うのだろうか。
怖かったから。
噂があったから。
教会が言ったから。
誰かが言っていたから。
皆がそう言っていたから。
クラウディオは、拳を握った。
また傷が開きかけた。
構わなかった。
その夜、彼は初めて思った。
裁かれる側でいる限り、誰も話を聞かない。
違うと言っても、届かない。
私は魔女じゃないと言っても、信じない。
泣いても、叫んでも、否定しても、群衆は自分たちに都合よく聞き替える。
ならば。
まだ、その先の言葉はなかった。
まだ、幼いクラウディオは王座を奪う方法も、人を裁く権限も、血で命じる力も持っていない。
だが、胸の奥にあった黒い種が、その夜、深く根を伸ばした。
誰かに裁かれる側ではなく。
誰かに信じてもらうことを乞う側ではなく。
誰かの群れに囲まれ、違うと叫ぶ側ではなく。
別の側へ。
いつか、必ず。
クラウディオは目を閉じた。
耳の奥で、まだロウェナの声がしている。
違うわ。
私は魔女じゃない。
お願い、信じて。
誰も信じない。
その声を、彼は忘れなかった。
忘れるはずがなかった。
王城の冷たい夜の中で、甘い匂いの逃げ場所が、少しずつ煙に巻かれていく。
それでもまだ、菓子屋の明かりは消えていない。
クラウディオは、その小さな明かりを思い出しながら、眠れない夜を睨んでいた。




