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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第8話 閉ざされた店



 朝から、王城はいつもより静かだった。


 静かというより、音が沈んでいた。


 廊下を歩く従者の足音。銀盆が触れる微かな音。侍女たちの衣擦れ。遠くの扉が閉まる響き。どれも普段と同じはずなのに、クラウディオには薄い布を一枚かけられたように聞こえた。


 夜のうちに雨が降ったらしい。


 黒硝子の向こうは見えないが、王城の石壁が水を吸った匂いがした。湿った石、冷えた灰、古い血のような匂い。暖炉に火はなく、部屋の空気はさらに冷たい。


 クラウディオは寝台の端に座っていた。


 眠れなかった。


 目を閉じるたび、ロウェナの声が戻ってきた。


 違うわ。


 私は魔女じゃない。


 お願い、信じて。


 何度も。


 何度も。


 けれど、その声に重なるように、群衆の囁きも聞こえた。


 魔女は皆そう言う。


 優しい顔をする女ほど怪しい。


 吸血鬼の子を店へ入れていた。


 菓子に血を混ぜている。


 教会へ届け出た方がいい。


 声は夢の中ではなく、頭の奥で鳴っていた。


 クラウディオは自分の掌を見た。


 昨日、爪で裂いた傷はもうほとんど塞がっている。赤い線が薄く残っているだけだった。吸血鬼の身体は傷を閉じるのが早い。


 だが、閉じるだけだ。


 なかったことにはならない。


 傷が消えても、掌に残る感覚は消えない。爪が肉に食い込んだ感触。血が滲んだ熱。ロウェナの声に動きかけた血の震え。


 クラウディオは指を握った。


 痛みはほとんどない。


 それが腹立たしかった。


 痛みだけでも残っていれば、昨日が本当にあったことだと確かめられるのに。


 扉が開いた。


 マルタが入ってくる。


 灰色の髪をいつも通り固く結い、黒い侍女服の襟を喉元まで詰めていた。彼女はクラウディオの顔を見て、眉をひそめる。


「眠れませんでしたか」


 問いの形をしていたが、心配ではなかった。


 顔色が悪ければ、支度に支障が出る。


 食卓で目立つ。


 礼法教師に何か言われる。


 その種類の確認だった。


 クラウディオは答えなかった。


 マルタは近づき、いつものように水を含ませた布で顔を拭く。水は冷たい。頬を擦る手つきも、いつも通り少し強い。


 だが今朝は、その冷たさにさえあまり腹が立たなかった。


 腹を立てる場所が、もう別にあった。


「本日は血術の基礎確認と、午後に礼法の復習がございます」


 マルタは言った。


「勝手な外出はなさらないように」


 勝手な外出。


 クラウディオは鏡の中の自分を見ていた。


 黒髪。


 白い肌。


 琥珀色の瞳。


 何も知らない子どもの顔に見えるだろうか。


 いや、マルタには見えていない。


 彼女はクラウディオの顔を見るが、クラウディオを見ていない。王城ではそういう目が多い。名を呼んでも、顔を見ても、その中身までは見ない。


 ロウェナは違った。


 手を洗う時、指先の傷に気づいた。


 熱いものを熱いと言えないことにも気づいた。


 頭巾を直す時、触ってよかったかと聞いた。


 隠したいなら隠していいと言った。


 そのロウェナが、今どこにいるのか分からない。


 マルタが襟を整えながら言った。


「お聞きですか」


「聞いている」


「では、今日は部屋を出ないように」


 クラウディオは鏡越しにマルタを見た。


「なぜ」


「何がです」


「なぜ、今日に限って強く言う」


 マルタの手が止まった。


 ほんの一瞬。


 すぐに動き出す。


「いつも申し上げております」


「今日は違う」


「違いません」


 嘘だ。


 クラウディオはそう思った。


 マルタは何かを知っている。


 何を。


 教会区のことか。


 街の噂か。


 王城にも届いたのか。


 それとも、ロウェナの店が。


 胸の奥が冷たくなる。


「マルタ」


「何でしょう」


「城下で何かあったのか」


 マルタは彼の襟を直し終え、少し離れた。


「城下では毎日何かが起きます」


「魔女狩りのことを聞いている」


 マルタの顔から表情が消えた。


 やはり知っている。


 クラウディオはそう判断した。


「子どもが気にすることではありません」


「気にするかどうかは俺が決める」


「そのような口の利き方をなさらないでください」


「答えろ」


 声が少し低くなった。


 まだ幼い声だった。


 だが、そこに命令の形が混じった。


 マルタは不快そうに眉を寄せる。


「教会区が異端の疑いで数件、調査に入ったと聞きました。それだけです」


 数件。


 調査。


 その言葉が、胸の中で重く落ちた。


「誰を」


「存じません」


「本当に?」


「存じません」


 マルタは今度こそ目を逸らさなかった。


 だが、知らないというより、言いたくない顔だった。


 クラウディオはそれ以上問わなかった。


 今ここでマルタを追い詰めても、情報は増えない。彼女は自分の責任を避けるためなら、知らないと言い続ける。


 それは王城で生きるための彼女の方法だった。


 クラウディオは、朝餐へ行った。


 食卓では、魔女狩りの話題は出なかった。


 それがかえって不自然だった。


 リヴィアは果実を潰さなかった。


 セヴランは杯を回しながら、どこか退屈そうにしていた。


 アドリアンはいつも通り微笑んでいたが、クラウディオへ余計な問いを投げなかった。


 正妃は静かに血杯を持ち、王は何も言わなかった。


 誰も、菓子屋の女の話をしない。


 誰も、吸血鬼の子の話をしない。


 誰も、魔女とは言わない。


 クラウディオは、食事の味が分からなかった。


 皿の上の肉は柔らかかった。


 いつもより質が良い。


 それがさらに気味悪かった。


 ベルニエは今日、皿を丁寧に置いた。血杯も溢さない。左耳の銀輪はいつも通り光っている。左親指の爪にも赤い染みはない。


 従者たちは、礼儀正しい。


 王族たちは、静か。


 正妃は、穏やか。


 こういう時ほど、王城は危ない。


 誰も騒がない時、何かが決まっている。


 朝餐が終わると、血術の訓練があった。


 カルゼンは昨日と同じ黒い長衣で待っていた。訓練室の床には、赤黒い魔導円が描かれている。


 クラウディオは指先を小針で刺された。


 血が一滴、膨らむ。


「今日は集中が乱れています」


 カルゼンが言った。


 クラウディオは血を見ていた。


 赤い一滴。


 その表面に、昨日のロウェナの顔が映るような気がした。


「余計なことを考えるな、とは言いません」


 カルゼンは静かに続けた。


「血術において、余計なものほど後に力になることもある。ただし、飲まれるな」


「飲まれる?」


「怒りに。恐怖に。焦りに。自分がまだ何もできないという事実に」


 クラウディオは顔を上げた。


 カルゼンは、彼を見ていた。


 見透かすような目ではない。


 ただ、血の流れを読んでいる目だった。


「何かありましたか」


 セリアはいない。


 今日の見届け役はいなかった。


 マルタも訓練室の外に控えている。


 それでもクラウディオは言わなかった。


 ロウェナの名を、この部屋へ出したくなかった。


 カルゼンはしばらく待った。


 そして、諦めたように息を吐く。


「言いたくないことは、今は言わなくてよろしい」


 今は。


 クラウディオは、その言い方を聞いた。


 ロウェナの「隠したいものは隠していい」とは違う。


 カルゼンの言葉は、いつか血が勝手に語るという前提を含んでいた。


「ただ覚えておきなさい。血は急ぐと濁る。濁った血は、術ではなく呪いになる」


 呪い。


 魔女。


 噂。


 クラウディオの指先の血が、少しだけ震えた。


 カルゼンの目が細くなる。


「今は動かすな」


 クラウディオは息を止めた。


「息を止めるな」


 また言われた。


 彼は息を吸い、吐いた。


 血は鎮まる。


 だが胸の奥の冷えは消えない。


 訓練が終わると、クラウディオは部屋へ戻された。


 午後には礼法の復習がある。


 マルタは、彼が逃げ出さないよう、いつもより長く部屋にいた。衣装を確認し、机の上を整え、寝具を直し、何度も扉の外を見た。


 監視されている。


 クラウディオは、すぐに分かった。


 王城の者たちは、彼が城下へ行くことを疑っている。


 どこまで知っているかは分からない。


 だが、今日に限って外へ出さないつもりなのは確かだった。


 彼は何も言わなかった。


 騒げば疑いが強まる。


 反抗すれば閉じ込められる。


 だから、ただ本を開いた。


 古い血統史の本。


 文字を目で追うふりをする。


 内容は何も入ってこない。


 マルタが少し安心したように息を吐く。


 馬鹿だ。


 クラウディオは本の影で、そう思った。


 部屋にいるように見える子どもだけを見ている。


 部屋を出たい理由の方は見ていない。


 しばらくして、廊下の向こうで女官の声がした。


 マルタが呼ばれる。


 彼女は迷った。


 クラウディオを見る。


「こちらでお待ちください」


「分かった」


「本当に」


「何度言わせる」


 マルタは疑わしそうにしながらも、出ていった。


 扉が閉まる。


 足音が遠ざかる。


 クラウディオは本を閉じた。


 待った。


 すぐには動かない。


 マルタが戻ってくるかもしれない。


 廊下の気配を読む。


 一人。


 二人。


 遠ざかる。


 静かになる。


 クラウディオは外套を取った。


 今日はいつもの道を使わなかった。


 使用人用の階段は見張られている可能性がある。洗濯室の裏も危ない。荷運び用の小門も、今日に限って閉じられているかもしれない。


 彼は前に地図で見た古い通路を思い出した。


 王城の西棟、使われていない礼拝室の裏。


 古い水路へ繋がる細い階段。


 今は荷物置き場になっている場所。


 そこから外壁近くへ出られるはずだった。


 王族の子が通る場所ではない。


 だから、誰も彼が通るとは思わない。


 クラウディオは廊下へ出た。


 足音を消す。


 途中、従者二人とすれ違いそうになり、壁の陰に身を寄せた。彼らは魔女狩りの話をしていた。


「教会区、早かったな」


「昨日届けが出て、夜のうちに動いたらしい」


「誰が?」


「坂の菓子屋だとよ」


 クラウディオの呼吸が止まった。


「女は?」


「連れていかれたらしい。店は封印」


 視界の端が、冷えた。


 連れていかれた。


 店は封印。


 単語が、うまく意味にならない。


 従者たちは笑っていた。


「菓子屋が魔女ねえ」


「何でも魔女になる時代だ」


「だが、吸血鬼の子を店に入れていたって話だぞ」


「そりゃ駄目だ」


「子どもでも吸血鬼は吸血鬼だ」


 クラウディオは壁の影で、拳を握った。


 出ていくな。


 動くな。


 今ここで、この従者たちへ何かすれば、終わる。


 ロウェナを救えない。


 自分も捕まる。


 血術もまだ使えない。


 ただ、血が熱を持つだけ。


 従者たちが通り過ぎる。


 足音が遠ざかる。


 クラウディオは、しばらく動けなかった。


 連れていかれた。


 誰が。


 ロウェナが。


 どこへ。


 教会区へ。


 なぜ。


 魔女だから。


 違う。


 彼女は違う。


 違うわ、と何度も言っていた。


 私は魔女じゃない、と。


 誰も信じなかった。


 クラウディオは動き出した。


 西棟の古い礼拝室へ向かう。


 足が速くなる。


 速くしすぎるな。


 誰かに見られる。


 分かっている。


 それでも身体が急ぐ。


 礼拝室は使われていなかった。古い神像は布で覆われ、燭台には埃が積もっている。奥の壁に隠れた小扉があった。昔、火災時の避難路として作られたものだと血統史の古い注釈にあった。


 扉は重かった。


 子どもの力では開けにくい。


 クラウディオは両手で押した。


 石が擦れる音。


 隙間。


 冷たい空気。


 細い階段が下へ伸びている。


 彼はその中へ入った。


 暗い。


 壁は湿っている。


 足元に水が溜まっている場所もあった。外套の裾が濡れる。石段は滑りやすく、何度か手をついた。掌に冷たい泥がつく。


 ロウェナなら、店に入る前に手を洗う? と聞くだろう。


 その声を思い出した瞬間、胸が締めつけられた。


 階段を抜けると、外壁の近くの細い路地へ出た。


 いつもの小門より遠い。


 だが、街へは出られる。


 空は曇っていた。


 雨は止んでいる。


 石畳は濡れ、馬車の轍に水が溜まっていた。通りには人がいる。けれど昨日までより声が小さい。


 皆、何かを知っている。


 知っていて、話したがっている。


 でも大きな声では言わない。


 クラウディオは坂道へ向かった。


 いつもの道。


 丸い菓子の看板が見えるはずの道。


 甘い匂いが先に届くはずの道。


 だが今日は、匂いがしなかった。


 坂の途中まで来て、彼は足を止めた。


 店は閉まっていた。


 木の扉は固く閉ざされ、窓の内側には布が下ろされている。いつもなら棚に並ぶ菓子が見える窓には、何も見えない。窯の火の気配もない。


 丸い菓子の看板だけが、雨の湿気を含んで重たそうに揺れていた。


 扉には、白い紙が貼られていた。


 教会区の印。


 黒い聖印。


 赤い封蝋。


 異端調査中につき、立ち入りを禁ず。


 その文字を、クラウディオは読んだ。


 一度。


 二度。


 三度。


 意味は変わらない。


 店は閉ざされている。


 ロウェナはいない。


 教会が入った。


 彼女は連れていかれた。


 クラウディオは扉へ近づいた。


 手を伸ばしかける。


 だが、触れなかった。


 封蝋に触れれば、何かが起きるかもしれない。教会の術式かもしれない。触った痕が残るかもしれない。彼が来たことが知られるかもしれない。


 頭では分かっていた。


 だが指先は震えた。


 この扉の向こうには、少し前まで明かりがあった。


 窯の火があった。


 白い布があった。


 温かい水があった。


 月の欠片。


 蜂蜜菓子。


 木の実の小石。


 ロウェナの声。


 クラウディオ、と呼ぶ声。


 それが今、封蝋一つで閉ざされている。


 クラウディオは窓を見た。


 布の向こうは暗い。


 誰もいない。


 店の中から、甘い匂いはしない。


 代わりに、焦げた蝋と湿った木の匂いがした。


 通りの向こうで、誰かがクラウディオに気づいた。


 布屋の女だった。


 彼女は一瞬、こちらを見た。


 すぐに目を逸らす。


 別の男も、店の前に立つ黒い外套の子どもを見た。


 目が合いかけた瞬間、顔を背ける。


 籠を抱えた老婆は、足を速めた。


 隣の店の女主人は、窓の内側にいた。


 彼女はクラウディオを見た。


 はっきりと。


 そして、顔を歪めた。


 恐怖か。


 罪悪感か。


 分からない。


 次の瞬間、彼女は窓の布を引いた。


 閉ざされた。


 クラウディオは、その動きを見ていた。


 誰も話しかけない。


 誰も説明しない。


 誰も、ロウェナはどこへ行ったのかと言わない。


 街の人々は、目を逸らす。


 昨日まで噂していた口が、今日は閉じている。


 噂している時はあんなによく喋ったのに。


 違うわ、と叫ぶ彼女を囲んだ時は、あんなに言葉を足したのに。


 今、店が閉ざされると、誰も何も言わない。


 クラウディオは悟った。


 もう、街の人々にとっては終わったことなのだ。


 ロウェナは魔女かもしれない。


 教会が連れていった。


 だから仕方ない。


 関わらない方がいい。


 見ない方がいい。


 口にしない方がいい。


 彼らはそうやって、自分たちを守る。


 昨日、言葉で彼女を囲んだことも。


 庇いかけて黙ったことも。


 噂を信じたことも。


 黒い外套の子どもの話を膨らませたことも。


 全部、教会の封蝋の向こうへ押し込める。


 自分は何もしていないという顔で。


 クラウディオの内側で、何かが冷たく沈んだ。


 怒りは熱くない。


 本当に深い怒りは、冷たいのだとその時知った。


 彼は扉を見た。


 教会区の印。


 赤い封蝋。


 異端調査中。


 この紙一枚で、人の店は閉じる。


 この印一つで、誰も近づかなくなる。


 この封蝋一つで、昨日までの善意も菓子も温かい水も、疑いの証拠に変わる。


 クラウディオは、自分の掌を握った。


 昨日の傷が少しだけ開いた。


 血が滲む。


 その血が、細く震えた。


 彼は息を吸った。


 カルゼンの声が頭の中で響く。


 血は急ぐと濁る。


 濁った血は、術ではなく呪いになる。


 呪いでいい。


 一瞬、そう思った。


 この封蝋を裂きたい。


 扉を壊したい。


 教会区へ行きたい。


 背の低い男の喉を掴みたい。


 ロウェナを疑った者たちの顔を一人ずつ思い出し、全員に違うと言わせたい。


 私は魔女じゃない、と叫ぶ彼女の声を、誰も信じなかった。


 なら、信じなかった者たちに同じ声を上げさせたい。


 違う。


 違う。


 私ではない。


 信じて。


 誰も信じない。


 そういう場所へ、全員立たせたい。


 クラウディオは目を閉じた。


 短い呼吸。


 指先の血を押さえ込む。


 今はできない。


 力がない。


 ここで何かをすれば、ロウェナを救えない。


 むしろ、彼女の罪を増やす。


 吸血鬼の子が封印された店に現れ、教会印へ血術をかけた。


 それは彼女が吸血鬼と通じていた証拠にされる。


 分かっている。


 分かってしまう。


 だから、動けない。


 その無力が、何よりも屈辱だった。


 通りの向こうから、子どもの声がした。


「ねえ、あそこ、魔女の店?」


 母親らしき女が、すぐに子どもの手を引いた。


「見ちゃいけません」


 見ちゃいけません。


 昨日まで菓子を買っていたかもしれない店を。


 咳の子へ薬草蜜を渡した女の店を。


 クラウディオに温かい水をくれた場所を。


 見ちゃいけません。


 クラウディオは、子どもと母親を見た。


 母親は目を合わせなかった。


 子どもだけが、少し不思議そうにこちらを見ていた。


 黒い外套の子ども。


 噂の中にいた子。


 もし彼が口を開けば、どうなるだろう。


 俺がその吸血鬼の子だ。


 ロウェナは魔女ではない。


 菓子をくれただけだ。


 手を洗ってくれただけだ。


 名前を呼んでくれただけだ。


 そう言えば。


 誰か信じるか。


 信じない。


 クラウディオはもう知っていた。


 違うわ、とロウェナが何度も言った。


 誰も信じなかった。


 なら、クラウディオの言葉も信じない。


 むしろ、噂の輪郭を太くするだけだ。


 彼は扉の前から離れた。


 一歩。


 それだけで胸の奥が裂けるようだった。


 もう一歩。


 看板が揺れる。


 丸い菓子の絵。


 濡れた木。


 閉ざされた窓。


 封蝋。


 クラウディオは最後に、扉を見た。


 ここでロウェナが笑っていた。


 ここで手を洗った。


 ここで月の欠片を食べた。


 ここで、生きてる間くらい温かいものを食べてもいいと言われた。


 今、その場所は閉じている。


 クラウディオは、何が起きたのか完全に悟った。


 ロウェナはもう、店にいない。


 自分の意志で閉めたのではない。


 逃げたのでもない。


 教会が来た。


 連れていった。


 街は見ていた。


 そして今、目を逸らしている。


 それだけだ。


 それだけのことが、こんなにも重い。


 クラウディオは坂道を下りた。


 足音は静かだった。


 街の人々は、彼を見ないふりをした。


 誰も声をかけない。


 誰も止めない。


 誰も、教会へ行くなとも、店へ近づくなとも、ロウェナは無実だとも言わない。


 ただ、目を逸らす。


 王城へ戻る道で、教会の鐘が鳴った。


 低く、重い音。


 昨日まで、ただ遠くで鳴るものだった。


 今日は、胸の奥を叩く音に聞こえた。


 クラウディオは王城へ戻った。


 古い通路を通り、礼拝室の裏から西棟へ戻る。


 誰にも見つからなかった。


 それが幸運なのか、不運なのか分からなかった。


 自室へ入る。


 扉を閉める。


 そこで初めて、膝から力が抜けかけた。


 倒れなかった。


 倒れてたまるかと思った。


 寝台に座らず、机へ向かう。


 床下の板を外す。


 紙を出す。


 ペンを取る。


 手が震えていた。


 クラウディオは、震える手を見た。


 怒りか。


 恐怖か。


 無力か。


 全部だ。


 彼はペン先をインクに浸し、書いた。


 菓子屋。


 閉ざされていた。


 扉に教会区の印。


 赤い封蝋。


 異端調査中につき立ち入りを禁ず。


 甘い匂いはしなかった。


 窯の火もなかった。


 街の者は目を逸らした。


 隣の店の女は窓を閉めた。


 子どもが魔女の店と言った。


 母親は見ちゃいけませんと言った。


 ロウェナはいない。


 教会が連れていった。


 クラウディオは、その一行のあとでペンを止めた。


 インクが滲む。


 手が震えているせいだった。


 彼は奥歯を噛んだ。


 震えるな。


 泣くな。


 叫ぶな。


 紙の上でだけ、全部を正確に残せ。


 もう一度ペンを動かす。


 街は見ていた。


 誰も止めなかった。


 連れていかれたあと、誰も見なかったことにした。


 そこまで書いて、彼は息を吐いた。


 紙の端に、掌の血がついた。


 薄い赤。


 昨日と同じ。


 クラウディオはそれを見た。


 血は覚える。


 なら、覚えろ。


 この扉を。


 この封蝋を。


 この目を逸らす街を。


 この鐘を。


 この無力を。


 全部、覚えろ。


 クラウディオは紙を折った。


 床下へ入れる。


 板を戻す。


 それから、机の奥の引き出しを開けた。


 ロウェナの紙片。


 また来てね、クラウディオ。


 丸い文字。


 今日、その店は閉じていた。


 彼は紙片を取り出した。


 長く見た。


 紙はただの紙だった。


 けれど、そこにはまだ店の温度が残っている気がした。


 また来てね。


 行った。


 行ったのに。


 扉は閉ざされていた。


 クラウディオは紙片を握り潰しそうになり、寸前で止めた。


 潰してはいけない。


 これは罪の記録ではない。


 これは残さなければならない。


 彼は紙片を布に包み直し、引き出しの奥へ戻した。


 その動作だけは、慎重だった。


 部屋の外で足音が近づく。


 マルタだ。


 クラウディオは引き出しを閉じ、寝台へ向かった。


 扉が開く。


 マルタが入ってきた。


「こちらにおいででしたか」


 彼女はそう言った。


 クラウディオを見て、少し眉をひそめる。


「顔色が悪いようですが」


「問題ない」


「午後の礼法は休まれますか」


「行く」


 声が思ったより低く出た。


 マルタは一瞬黙った。


 それから、視線を逸らす。


「では、お支度を」


 視線を逸らした。


 彼女も。


 クラウディオはその目を見た。


 マルタも何か知っているのだろうか。


 教会がロウェナを連れていったこと。


 街の噂。


 閉ざされた店。


 知っているのか。


 知らないのか。


 どちらでも同じだった。


 彼女は聞かない。


 言わない。


 関わらない。


 自分の責任ではないから。


 クラウディオは立ち上がった。


 礼法の支度をする。


 襟を整えられ、髪を梳かれ、袖を直される。


 王城の子どもとして。


 何もなかった顔で。


 彼は鏡を見た。


 黒髪。


 白い肌。


 琥珀色の瞳。


 妾の子。


 王城の末席。


 血術を学び始めた子。


 そして、閉ざされた菓子屋の前で何もできなかった子。


 クラウディオは鏡の中の自分を見ながら、心の奥で一つだけ決めた。


 今日のことを、絶対に忘れない。


 ロウェナが違うと言ったこと。


 誰も信じなかったこと。


 店が閉ざされていたこと。


 街が目を逸らしたこと。


 教会の印が扉を塞いでいたこと。


 自分が何もできなかったこと。


 全部。


 全部、忘れない。


 いつか力を持つなら。


 いつか血が動くなら。


 いつか王の名を、自分のものとして使えるなら。


 その時、この日のことを必ず取り出す。


 まだ、何をするのかは分からなかった。


 ただ、忘れないことだけはできた。


 クラウディオは部屋を出た。


 廊下は冷たい。


 青白い魔導灯が壁に並ぶ。


 王城の中では、何も変わっていない。


 それが、何よりも腹立たしかった。


 菓子屋は閉ざされた。


 ロウェナはいない。


 街は目を逸らした。


 それでも王城の廊下は磨かれ、食卓には血杯が並び、礼法教師はもう一度と言うだろう。


 世界は、誰か一人が連れていかれたくらいでは止まらない。


 その冷たさを、クラウディオは初めて本当の意味で知った。


 そして、その冷たさに、いつか必ず血を通わせてやると、幼い胸の奥で静かに思った。


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