第9話 火刑台の灯
教会区の鐘は、昼にも鳴るのだと、クラウディオはその日初めて知った。
王城の鐘とは違う音だった。
王城の鐘は、時間を告げる。夜の終わり、食卓の支度、儀礼の始まり、王の移動。それは命令の音だった。聞いた者が決められた場所へ動くための、冷たい合図だった。
教会区の鐘は、もっと重かった。
石畳の下から響くような音だった。腹の奥に沈み、胸骨の裏側を叩き、息を少しだけ遅らせる。美しい音ではない。だが、人々はその音を聞くと足を止めた。
そして、同じ方角を見た。
広場だ。
クラウディオは黒い外套の頭巾を深く下ろし、人波の隙間を歩いていた。
王城を抜け出す道は、もう身体が覚えていた。西棟の古い礼拝室の裏、湿った石段、水路脇の出口。いつもの小門は避けた。今日の王城は、妙に静かだったからだ。
静かな時ほど、見られている。
それも覚えた。
朝餐の食卓では、誰もロウェナの話をしなかった。魔女狩りのことも、教会区の調査のことも、閉ざされた菓子屋のことも。
リヴィアは果実を潰さなかった。
セヴランは退屈そうに杯を回していた。
アドリアンはいつものように微笑んでいた。
正妃エレオノーラは、血杯の縁に唇をつけたまま、何も言わなかった。
王ヴァレンティヌスも、何も言わなかった。
誰も話さない。
だからクラウディオは、何かが始まるのだと分かった。
魔女裁判は、広場で行われると聞いた。
聞いたのは、王城の従者たちの口からだった。
「今日だとよ」
「菓子屋の女か」
「早いな」
「教会区も、最近の不安を早く片づけたいんだろう」
「片づける、か」
「違うのか?」
「いや、違わない」
彼らは笑っていた。
小さく。
自分たちには関係のないものを見る時の笑いだった。
クラウディオは、その声を聞いた瞬間、部屋へ戻らなかった。
考えるより早く、足が動いた。
行ってどうするのか。
助けられるのか。
答えは分かっていた。
何もできない。
今のクラウディオには、何もできない。
血術は指先の血を震わせる程度。王族としての権限もない。王城で自分の皿すらまともに選べない子どもが、教会区の魔女裁判を止められるはずがない。
それでも、行かなければならなかった。
ロウェナが、ただ連れていかれた。
ただ裁かれた。
ただ燃やされた。
それを後で聞くだけの存在には、なりたくなかった。
広場に近づくほど、人の匂いが濃くなった。
湿った衣服。
雨上がりの泥。
祈祷蝋。
古い木材。
汗。
血。
そして、焦げる前の薪の匂い。
クラウディオは人々の背中の間から、広場を見た。
中央に台が組まれていた。
石畳の上に、木の柱が立っている。その周りに薪が積まれていた。まだ火はついていない。だが、火を待つ形をしていた。
火刑台。
その言葉を、クラウディオは知っていた。
知識としては。
血統史の横に並ぶ教会史。異端審問。魔女狩り。吸血鬼、血術、崩れ種、獣化種への恐怖から生まれた裁き。教師たちは、そう説明した。
だが紙の上の火刑台は、匂わない。
実物は、匂った。
湿った薪。
油。
祈祷蝋。
群衆の息。
それだけで、喉の奥が冷たくなった。
広場の端には、教会の者たちが並んでいた。
白と黒の法衣。胸に下げた聖印。銀の鎖。手には裁定書らしき紙。顔はみな硬く、重々しい。自分たちは正しい側に立っていると信じる者の顔だった。
背の低い男もいた。
昨日、ロウェナの店の前で教会の小札を持っていた男。
彼は今日は群衆の側ではなく、教会の者たちの近くに立っていた。顔には緊張と興奮が混ざっている。自分の届け出が裁判につながったことを誇っているのかもしれない。
クラウディオは、その顔を見た。
覚えた。
広場には、ロウェナの店の近所の人間もいた。
隣の店の女主人。
野菜売りの男。
籠を抱えた老婆。
以前、薬草蜜を受け取った少年ニルの姿も見えた。彼は母親らしき女の袖を握っている。母親の顔色は悪く、咳を堪えているようだった。
ニルは泣きそうな顔をしていた。
だが、何も言わない。
母親がその肩を押さえている。
クラウディオはその手を見た。
止めている。
子どもが前へ出ないように。
ロウェナを庇わないように。
自分たちへ疑いが向かないように。
それも、生きるためなのだろう。
分かる。
分かってしまう。
だからこそ、気持ち悪かった。
鐘が三度鳴った。
群衆のざわめきが薄くなる。
教会の司祭が前へ出た。
痩せた男だった。頬がこけ、目だけが妙に光っている。声はよく通った。
「静粛に」
広場が静まった。
完全ではない。
囁きは残る。
だが、その囁きさえ裁判の一部のようだった。
司祭は紙を広げた。
「本日、教会区は、ロウェナ・ミルに対する異端審問をここに開く。疑いは、未認可の薬草施与、病人への呪物混入食物の配布、吸血鬼との不当な接触、ならびに血術的汚染の疑いである」
ロウェナ・ミル。
名前が、広場に響いた。
クラウディオは奥歯を噛んだ。
ロウェナの名が、別の声で呼ばれている。
あの店で聞いた名とは違う。
粉のついた手で名乗った時の声ではない。
教会の紙の上で、罪人の名として読まれている。
人々がざわめいた。
「やっぱり」
「薬草って言ってたものね」
「菓子に何か混ぜていたんだ」
「吸血鬼の子を入れていたんでしょう」
「怖いわ」
「うちの子も買ったことがある」
「調べてもらった方がいい」
司祭が手を上げる。
静まる。
そして、広場の奥からロウェナが連れてこられた。
クラウディオは、息を忘れた。
ロウェナは白い前掛けではなかった。
粗い灰色の服を着せられていた。髪は乱れ、手は前で縛られている。頬には涙の跡があり、唇は乾いていた。裸足ではないが、靴は泥に汚れている。
白い手。
クラウディオの手を拭いた、あの白い手。
今は縄で縛られている。
指先に粉はなかった。
蜂蜜の匂いもしなかった。
彼女は広場に出た瞬間、群衆を見た。
知っている顔を探したのだろう。
隣の店の女主人。
薬草蜜を受け取った少年。
野菜売り。
常連たち。
誰か一人でも、自分を知っていると言ってくれる人を。
だが、皆が目を逸らした。
ロウェナの顔が歪んだ。
「違うわ」
最初の声は、小さかった。
けれど、すぐに強くなる。
「違うの。私は魔女じゃない。お願い、聞いて。私は何もしていない」
群衆がざわめいた。
クラウディオは動けなかった。
声が、昨日よりかすれていた。
何度も同じことを言ったのだろう。
連れていかれてから、何度も。
聞かれず。
信じられず。
それでも言い続けた声だった。
司祭が冷たく言った。
「被告は昨日の審問においても、同様の否認を繰り返した」
否認。
ロウェナの叫びは、その一語になった。
私は魔女じゃない。
それが、否認。
ロウェナは首を振った。
「否認じゃないわ、本当よ! 私は魔女じゃない。菓子に血なんて混ぜていない。薬草蜜は咳止めよ。母から教わっただけ。病気の子に渡しただけなの」
背の低い男が前へ出た。
司祭に促され、証言台の横へ立つ。
「私は、彼女の店へ吸血鬼の子どもが出入りしていたという複数の証言を得ました」
複数。
それは便利な言葉だった。
誰が見たのか分からない。
何を見たのかも分からない。
だが複数と言えば、重くなる。
「また、薬草蜜と称するものを病人へ渡していたことも確認されています」
ロウェナは叫んだ。
「咳がひどかったからよ!」
人々の中で、ニルがびくっと震えた。
クラウディオは見た。
ニルは泣いていた。
母親はその口を手で塞ぐように抱き寄せた。
出るな。
言うな。
黙っていろ。
その手が言っていた。
ロウェナもそれを見た。
一瞬、目が合う。
彼女は、少年を責めなかった。
むしろ、泣きそうな顔で微笑もうとした。
大丈夫、と言うように。
大丈夫なはずがない。
クラウディオは、胸の奥で何かが軋むのを感じた。
司祭は続けた。
「彼女の母もまた、薬草を扱っていたとの証言がある。過去の記録は不十分であるが、血術的な民間療法との関連が疑われる」
「母は違う!」
ロウェナの声が裂けた。
「母は、ただ薬草を知っていただけよ! 怪我をした人や、熱を出した子を助けていただけ。魔女なんかじゃない。私も違う。お願い、信じて!」
信じて。
その言葉は、広場の石に落ちた。
誰も拾わなかった。
隣の店の女主人は、泣きそうな顔で目を伏せた。
野菜売りの男は、腕を組んだまま口を結んでいる。
老婆は聖印を握りしめ、ぶつぶつと祈っていた。
群衆は、ひとりの女が泣き叫ぶ姿を見ていた。
誰も前へ出ない。
誰も、彼女は違うと言わない。
誰も、菓子をもらったことを認めない。
誰も、薬草蜜で楽になったことを言わない。
誰も、彼女が優しかったことを庇わない。
クラウディオは、人々の顔を一人ずつ見た。
覚えた。
隣の店の女主人。泣きそうな顔。だが黙った。
野菜売り。腕を組む。視線を逸らす。
老婆。祈る。ロウェナを見ない。
ニルの母。子どもの口を塞ぐ。
背の低い男。証言した。自分は正しい側にいる顔。
司祭。紙を読む。声は揺れない。
群衆。ざわめく。誰も止めない。
ロウェナはもう一度叫んだ。
「私は魔女じゃない!」
声が涙で潰れていた。
「違うの、お願い、お願いだから……私は、ただ、お菓子を焼いていただけよ。薬草を渡しただけ。子どもに冷たい顔をしたくなかっただけ。どうして、それが魔女なの……?」
どうして。
その問いに、誰も答えなかった。
答える必要がないからだ。
彼らの中では、もう答えは決まっている。
優しさが罪になった。
菓子が呪いになった。
薬草が異端になった。
吸血鬼の子への温かい手が、魔女の証拠になった。
司祭は裁定書を読み上げた。
長い文だった。
神の名。
教会の責務。
民の安全。
異端の危険。
血術汚染の疑い。
悔い改め。
浄化。
炎。
綺麗な言葉ばかりだった。
綺麗な言葉で、ひとりを殺す準備をしている。
ロウェナは、途中から首を振るしかできなくなっていた。
「違う……違うわ……私は、魔女じゃない……」
声が小さくなる。
それを見て、誰かが言った。
「罪を認めたのか?」
「気力が尽きたんだろう」
「魔女も最後は泣くのね」
「怖いわ」
「でも、これで安心できる」
安心。
クラウディオはその言葉を聞いた。
ロウェナが殺されれば、彼らは安心するのか。
夜の恐怖が消えるのか。
崩れ種がいなくなるのか。
血を抜かれた死体が戻るのか。
吸血鬼が人を喰わなくなるのか。
違う。
何も変わらない。
ただ、彼らは誰かを魔女にしたことで、自分たちが正しい側に立った気分になれるだけだ。
そのために、ロウェナがいる。
クラウディオは、気分が悪くなった。
司祭が手を上げた。
「裁定を下す」
広場が静まる。
ロウェナが顔を上げた。
涙で濡れた目。
震える唇。
それでもまだ、どこかで信じようとしている顔だった。
誰かが止めるかもしれない。
何かの間違いだと言ってくれるかもしれない。
これ以上は進まないかもしれない。
そういう、最後の小さな希望。
司祭は、それを踏んだ。
「ロウェナ・ミルを、異端および魔女として火による浄化に処す」
誰かが息を呑んだ。
誰かが祈った。
誰かが、これで終わると呟いた。
ロウェナは動かなかった。
意味が届いていないようだった。
次の瞬間、教会の男たちが彼女の腕を取る。
そこで、彼女は暴れた。
「いや!」
声が広場を裂いた。
「いや、違う! 違うわ! 私は魔女じゃない! お願い、やめて! 私は魔女じゃない!」
男たちは止まらない。
群衆も止まらない。
誰も前へ出ない。
ロウェナは引きずられるように火刑台へ連れていかれた。
足がもつれる。
泥が靴に跳ねる。
髪が頬に張りつく。
彼女は群衆へ向かって泣き叫んだ。
「お願い! 誰か、言って! 私は違うって、知ってるでしょう!? お願い、信じて! 私は魔女じゃない! 私は魔女じゃない!」
隣の店の女主人が泣き出した。
だが、動かない。
ニルが母親の腕を振りほどこうとした。
「ロウェナさん……!」
母親が必死に抱きしめる。
「駄目、見ちゃ駄目」
「だって、ロウェナさんは」
「黙って!」
その黙ってが、広場のすべてだった。
ロウェナは柱へ縛られた。
白い手が縄で固定される。
クラウディオは、その手を見た。
汚れた手を拭いてくれた手。
蜂蜜でべたついた指を洗ってくれた手。
頭巾を直す前に、触ってよかったかと聞いた手。
その手が、柱に縛られている。
クラウディオは前へ出ようとした。
身体が動きかけた。
すぐに、誰かの肩にぶつかる。
群衆の厚み。
大人の背中。
重い外套。
誰も彼に気づかない。
小さな身体は、人の壁に押し戻された。
彼はもう一度、前へ出ようとした。
駄目だった。
大人たちの背中は硬い。
広場の中央は遠い。
ロウェナは近いのに。
声は届くのに。
手は届かない。
クラウディオは息が詰まった。
血が動きかける。
掌の奥。
指先。
心臓の下。
小さな血が、怒りと恐怖で震える。
今なら何かできるのではないか。
何もできない。
でも、何か。
何か。
カルゼンの声が戻る。
濁った血は、術ではなく呪いになる。
呪いでもいい。
そう思った。
だが、呪いにすら届かない。
彼は弱かった。
まだ弱かった。
血は震えるだけで、広場を裂かない。
縄を切らない。
火を止めない。
ロウェナを救わない。
クラウディオは初めて、自分の力のなさを憎んだ。
司祭が祈りを唱える。
長い祈り。
神の慈悲。
魂の浄化。
炎による救済。
ロウェナは泣き叫んでいた。
「嫌! やめて! 私は魔女じゃない! 私は違う! お願い、助けて……助けて!」
誰も助けない。
誰も。
背の低い男は目を逸らさなかった。
むしろ見ていた。
自分の正しさの結末を確認するように。
隣の女主人は泣いているが、動かない。
野菜売りは顔を伏せた。
老婆は祈り続ける。
ニルは母親に押さえられて泣いている。
群衆は見ている。
誰も執行を止めようとしない。
誰も、違うと言わない。
教会の者が松明を持った。
火がついていた。
小さな炎だった。
クラウディオは、ロウェナの店の窯を思い出した。
赤い火。
菓子を焼く火。
月の欠片が膨らむ火。
温かい匂いを作る火。
今、広場にある火は違う。
同じ赤なのに、まったく違う。
ロウェナはその火を見た。
喉が裂けるような声を上げた。
「いやあああッ! 私は魔女じゃない! 違う、違うの! お願い、クラウ……」
クラウ。
その音が、群衆の中で消えかけた。
クラウディオの胸が止まった。
ロウェナは、彼の名を最後まで言わなかった。
言いかけて、飲み込んだ。
守ったのだ。
この場でも。
火刑台の上でも。
まだ彼を隠した。
クラウディオは目を見開いた。
松明が薪へ近づく。
誰か止めろ。
誰か。
誰か。
誰も動かない。
火が薪へ移った。
最初は小さかった。
乾いた枝の端が赤くなり、白い煙が上がる。湿った薪が鈍く燻り、やがて油を吸った部分がぱち、と音を立てた。
ロウェナの叫びが広場に響いた。
「私は魔女じゃない! 私は魔女じゃない! お願い、信じて! 私は……私は、ただ……!」
言葉が煙に巻かれて途切れる。
クラウディオは動けなかった。
目を逸らすこともできなかった。
逸らしてはいけないと思った。
この場の誰もが、いずれ目を逸らす。
終わったあと、見ていなかったと言う。
仕方なかったと言う。
教会が決めたと言う。
怖かったと言う。
自分は何もしていないと言う。
なら、彼だけは見る。
見て、覚える。
ロウェナの声。
火刑台。
煙。
教会の祈り。
群衆の沈黙。
誰も止めなかったこと。
全部、見る。
ロウェナの叫びは、だんだん形を失っていった。
言葉だったものが、悲鳴になった。
悲鳴だったものが、喉の奥から絞り出される音になった。
それでも、途切れ途切れに聞こえた。
「違……私は……魔女じゃ……」
クラウディオは拳を握りしめた。
血が掌を濡らす。
涙は出なかった。
出なかったのではない。
出す場所がなかった。
涙で何が変わる。
泣けばロウェナは戻るのか。
叫べば火は消えるのか。
群衆は信じるのか。
違う。
何も変わらない。
なら覚えろ。
泣く代わりに覚えろ。
叫ぶ代わりに刻め。
群衆の顔を。
司祭の声を。
背の低い男の目を。
誰が見て、誰が逸らし、誰が祈り、誰が黙ったか。
全部。
ロウェナの声が、やがて聞こえなくなった。
広場には、火の音と祈りだけが残った。
ぱち、ぱち、と薪が鳴る。
司祭が何かを唱えている。
群衆は静かだった。
その静けさが、何よりも許せなかった。
さっきまで、あれほど喋っていたのに。
魔女だと。
怪しいと。
怖いと。
店へ入れたと。
薬草を渡したと。
菓子に血を混ぜたと。
あれほど口を動かしていたのに。
ロウェナが叫ばなくなった途端、静かになる。
クラウディオは、火を見ていた。
目が乾いて痛い。
煙が喉を刺す。
誰かが咳をした。
誰かが「終わった」と呟いた。
終わった。
その言葉で、何かが完全に冷えた。
終わったのは、彼らにとってだけだ。
ロウェナの店も、声も、手も、菓子も、火の中へ押し込めて、終わったことにする。
そんなことを、誰が許した。
クラウディオは、広場を離れた。
足元が少しふらついた。
だが倒れなかった。
倒れている場合ではない。
帰らなければならない。
王城へ。
あの冷たい場所へ。
何もなかったような顔で。
広場から離れる道で、ニルの泣き声が聞こえた。
母親が何かを言っている。
ごめんなさい。
仕方なかった。
私たちまで疑われる。
そんな声だった。
クラウディオは振り返らなかった。
見れば、また覚える。
もう十分だった。
いや、十分ではない。
何ひとつ十分ではない。
王城へ戻る道で、世界はいつも通りだった。
商人は店を閉め始めていた。
馬車が通った。
教会の鐘が鳴った。
空は曇っている。
雨が降りそうだった。
誰か一人が燃やされても、世界は止まらない。
そのことが、クラウディオにはひどく残酷に思えた。
彼は王城の古い通路から戻った。
礼拝室の裏を通り、自室へ入る。
扉を閉める。
そこでようやく、足が止まった。
部屋は冷たい。
暖炉には火がない。
青白い魔導灯の光が、壁を薄く照らしている。
火刑台の火とは違う。
菓子屋の窯とも違う。
クラウディオは机へ向かった。
床下を開ける。
紙を出す。
ペンを取る。
手が血で汚れていた。
掌の傷は開いている。
インクと血が混じる。
構わなかった。
彼は書いた。
火刑台。
教会区の広場。
司祭。痩せた男。声は揺れない。ロウェナ・ミルを魔女として火による浄化に処すと言った。
背の低い男。証言した。吸血鬼の子、薬草蜜、菓子を証拠にした。最後まで見ていた。
隣の店の女。泣いた。だが動かなかった。
野菜売り。顔を伏せた。庇わなかった。
老婆。祈った。ロウェナを見なかった。
ニルの母。ニルの口を塞いだ。疑われることを恐れた。
群衆。誰も止めなかった。
ロウェナ。
私は魔女じゃない、と泣き叫んでいた。
違うわ、と言った。
お願い、信じて、と言った。
誰も信じなかった。
火の前で、クラウ、と言いかけてやめた。
最後まで俺を隠した。
クラウディオは、そこでペンを止めた。
息ができなかった。
紙の上に、血が落ちる。
赤い染みが広がる。
ロウェナの名の横へ。
彼はそれを拭かなかった。
拭いてはいけないと思った。
そのまま、最後の一行を書いた。
誰も執行を止めようとしなかった。
文字が歪んだ。
手が震えていた。
クラウディオは紙を見下ろした。
これで記録した。
だが、足りない。
どれだけ書いても足りない。
ロウェナの声は、紙に入りきらない。
煙の匂いも。
火の音も。
群衆の沈黙も。
彼女の白い手が縄で縛られていたことも。
最後に彼の名を言いかけて、飲み込んだことも。
全部、紙に閉じ込めるには大きすぎた。
クラウディオは紙を折った。
何度も。
小さく。
床下へ入れる。
だが、手が止まった。
ロウェナの記録を、ここへ入れるのか。
罪の帳簿へ。
ミルゴやベルニエやリヴィアやセヴランやアドリアンの名と同じ暗がりへ。
違う。
ロウェナは罪ではない。
だが、今日の出来事は罪だった。
誰の。
司祭の。
背の低い男の。
群衆の。
黙った者たちの。
止めなかった者たちの。
見ていた者たちの。
そして、何もできなかった自分の。
クラウディオは紙を床下へ入れた。
罪の記録として。
ただし、ロウェナの名だけは別にする。
机の奥から、彼女の紙片を取り出した。
また来てね、クラウディオ。
丸い文字。
その下に、自分で書いた紙がある。
温かい水。
月の欠片。
生きてる間くらい、温かいものを食べてもいい。
クラウディオは、新しい小さな紙を出した。
そこへ、震える手で書いた。
ロウェナ・ミル。
魔女ではない。
そして、その紙を彼女の紙片の隣へ置いた。
これだけは、床下の罪の中に混ぜない。
ロウェナは魔女ではない。
それを、自分だけは記録する。
誰も信じなかった。
なら、クラウディオだけは信じる。
遅い。
何も救えない。
信じても、火は消えなかった。
それでも、信じる。
ロウェナが何度も叫んだ言葉を、せめて自分の中では曲げない。
クラウディオは引き出しを閉じた。
その瞬間、部屋の外で足音がした。
マルタだった。
扉が開く。
彼女はクラウディオを見て、目を見開いた。
「その手は」
クラウディオは掌を見た。
血で汚れている。
マルタが近づく。
「何をなさったのですか」
「転んだ」
嘘だった。
マルタは信じていない顔をした。
けれど、それ以上深く問わなかった。
彼女は布を取り、クラウディオの手を拭いた。
冷たい水。
強すぎる手つき。
ロウェナの手とは違う。
クラウディオは、その違いに息が詰まりそうになった。
「傷は浅いです。すぐ塞がります」
マルタは言った。
すぐ塞がる。
いつもの言葉。
クラウディオは手を引いた。
「触るな」
声は低かった。
マルタの手が止まる。
「クラウディオ様」
「触るなと言った」
部屋が静まった。
マルタは初めて、ほんの少し怯えた顔をした。
まだ子どもなのに。
傷だらけの小さな手なのに。
その声の中に、何かが混ざっていたからだ。
クラウディオは自分の手を胸元へ引いた。
ロウェナの白い手が、火刑台の柱に縛られていた。
その記憶の上から、誰かに触れられたくなかった。
マルタは黙って布を置いた。
「……後ほど薬をお持ちします」
「いらない」
「ですが」
「いらない」
マルタは頭を下げ、部屋を出た。
扉が閉まる。
クラウディオはひとり残された。
血は止まりかけていた。
吸血鬼の身体は、すぐ傷を閉じる。
まただ。
また、痛みだけを残して傷が消える。
彼は寝台へ行かなかった。
床に座り込んだ。
冷たい石床。
背中を寝台に預け、掌を見つめる。
涙は出なかった。
出なかった。
出なかった。
ロウェナは泣き叫んでいた。
私は魔女じゃない、と。
クラウディオは泣けなかった。
泣くことすら、彼女の声に比べれば軽すぎる気がした。
その夜、クラウディオの中で何かが終わった。
温かいものを信じることが終わったわけではない。
ロウェナの声は、消えなかった。
むしろ、前より深く残った。
だが、ただ優しいだけでは守れないのだと知った。
違うと叫ぶだけでは、誰も信じない。
正しさだけでは、火は止まらない。
泣いても、懇願しても、群衆は動かない。
ならば、裁かれる側にいてはいけない。
誰かに信じてもらう側にいてはいけない。
誰かの善意を待つ側にいてはいけない。
その言葉は、まだはっきりとは形にならない。
けれど、黒い種はもう芽を出していた。
冷たく、硬く、深い根を張る芽。
いつか王冠へ届く芽。
クラウディオは、暗い部屋の中で目を開けていた。
火刑台の灯が、瞼の裏に残っている。
菓子屋の窯の火ではない。
人を消すための火。
あの火の色を、彼は忘れない。
ロウェナの声を、忘れない。
誰も止めなかった広場を、忘れない。
そして、いつか自分が裁く側に立つのなら。
その時は、誰にも「違う」と叫ぶ暇など与えない。
幼いクラウディオは、そう思った。
それがどれほど歪んだ誓いなのか、まだ知らなかった。
ただ、部屋の冷気の中で、彼の琥珀色の瞳だけが静かに光っていた。




