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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第10話 焦げた砂糖の匂い




 火の匂いは、翌朝になっても消えなかった。


 王城の部屋には、火などなかった。


 暖炉は空で、灰さえ冷えている。青白い魔導灯が壁を照らし、黒硝子の向こうには曇った朝があるだけだった。石壁はいつも通り湿り、寝台の布は冷たい。


 それなのに、クラウディオの鼻の奥には、焦げた匂いが残っていた。


 薪が燃える匂い。


 祈祷蝋の匂い。


 油の匂い。


 煙。


 そして、その奥に、甘いものが焦げる匂い。


 ロウェナの店で嗅いだ、焼き菓子の匂いと似ているはずだった。


 小麦。


 砂糖。


 蜂蜜。


 火。


 同じものが含まれているはずなのに、まるで違った。


 菓子屋の窯の火は、甘さを生んだ。


 広場の火は、甘さを汚した。


 クラウディオは寝台の端に座り、手を見ていた。


 昨日、爪で裂いた掌の傷はもう塞がっていた。赤い線すら薄い。吸血鬼の身体は傷を残さない。残さないようにできている。


 だが、匂いは残った。


 焦げた砂糖のような、甘く腐った火の匂い。


 それが喉の奥に貼りついている。


 息を吸えば、広場へ戻る。


 息を吐けば、ロウェナの声が戻る。


 私は魔女じゃない。


 違うわ。


 お願い、信じて。


 誰も信じなかった。


 クラウディオは瞬きした。


 目は乾いていた。


 涙は出ない。


 出なかったのではない。


 出すものではないと、身体が決めているようだった。


 泣けば何かが変わるなら、泣いたかもしれない。


 けれど、ロウェナは泣き叫んだ。


 泣いて、叫んで、違うと言って、私は魔女じゃないと言って、誰も信じなかった。


 なら涙に意味はない。


 少なくとも、この世界では。


 扉が開いた。


 マルタが入ってきた。


 彼女は一歩入ったところで、少しだけ動きを止めた。クラウディオを見て、何か言いかける。だがすぐに口を閉じた。


 灰色の髪。


 固く結った髷。


 黒い侍女服。


 いつもと同じ。


 彼女が昨日の火刑を知っているのかどうか、クラウディオには分からなかった。知っているかもしれない。知らないかもしれない。どちらにしても、彼女は聞かないだろう。


 王城の者は、聞けば責任が生まれることをよく知っている。


「お支度を」


 マルタは言った。


 いつも通りの声だった。


 クラウディオは立ち上がった。


 顔を拭く水は冷たい。


 布は硬い。


 唇の端を擦られた時、昨日の煙で乾いた喉が少しだけ痛んだ。


 マルタが眉をひそめる。


「お顔の色が悪うございます」


「問題ない」


「昨日から、少し様子が」


「問題ない」


 同じ言葉を重ねた。


 マルタはそこで黙った。


 彼女は深く踏み込まない。


 踏み込めば、クラウディオが何を見たのか、何を知っているのか、聞かなければならなくなる。それは彼女にとって厄介だ。


 だから、支度だけをする。


 襟を整え、髪を梳き、袖を直す。


 王城の恥にならぬように。


 クラウディオの内側がどれほど冷えていようと、外側が整っていれば王城では十分だった。


 マルタの櫛が髪を引いた。


 痛みはあった。


 だが遠かった。


 もっと痛いものを見たあとでは、頭皮の痛みなど形が薄い。


 マルタは鏡越しに言った。


「本日は朝餐のあと、血術の確認がございます」


「知っている」


「カルゼン先生より、昨日は集中が乱れていたと報告が」


「今日は乱さない」


 マルタはまた黙った。


 クラウディオは鏡の中の自分を見た。


 昨日と同じ顔だった。


 ロウェナが燃やされた翌朝でも、顔は同じ。


 黒髪。


 白い肌。


 琥珀色の瞳。


 王城の妾の子。


 何も救えなかった子ども。


 昨日、広場で誰も彼を見なかった。


 見ても、ただ黒い外套の小さな影として見たはずだ。


 あの火刑台の前で、彼は何者でもなかった。


 ロウェナの菓子を食べた子ども。


 ロウェナが最後に名を言いかけて飲み込んだ相手。


 その程度の存在でしかなかった。


 そして、その程度の存在では、人を救えなかった。


 朝餐の間へ向かう廊下は、いつも通り磨かれていた。


 黒い石床。


 青白い燭火。


 歴代王の肖像。


 従者たちの浅い礼。


 クラウディオは歩きながら、彼らの顔を見た。


 誰かは知っているのだろうか。


 昨日、教会区の広場で菓子屋の女が燃やされたことを。


 知っていても、彼らの顔は変わらない。


 王城では、誰かが死んだ話など、よほど王座に関わらなければ空気を変えない。


 朝餐の間には、すでに王族たちが揃っていた。


 王ヴァレンティヌスは上座に座り、血杯を手にしている。


 正妃エレオノーラは白金の髪を美しく結い、薄い微笑みを浮かべていた。


 アドリアンはいつも通り穏やかだ。


 セヴランは退屈そうに杯を回している。


 リヴィアは今日は機嫌が良さそうだった。


 その理由は、すぐに分かった。


 食卓の中央に、菓子が並べられていた。


 王城の菓子。


 繊細に焼かれた薄い砂糖菓子。


 血色の果実を詰めた小さな焼き菓子。


 蜂蜜を絡めた木の実。


 銀皿に美しく並べられ、砂糖の粉が雪のように振られている。


 その中に、焦がし砂糖を使った菓子があった。


 薄く焼かれた表面に、琥珀色の焦がし砂糖が塗られている。香ばしく甘い匂いが、食卓に広がっていた。


 クラウディオは足を止めかけた。


 マルタの視線を感じる。


 止まるな。


 彼は歩き続けた。


 末席へ座る。


 椅子は今日も大きい。


 足は床に届ききらない。


 リヴィアが言った。


「今日は菓子があるのよ」


 声が弾んでいた。


 昨日、人が火にかけられた。


 今日は菓子がある。


 世界はそうやって続く。


 クラウディオは、食卓の上の焦がし砂糖を見た。


 甘い匂い。


 焼けた匂い。


 昨日の広場と、ロウェナの店と、王城の菓子が、鼻の奥で混ざった。


 胸が悪くなった。


 だが顔には出さない。


 出してはいけない。


 セヴランが菓子皿を見ながら笑った。


「教会区も昨日はよく燃えたらしいな」


 何気ない声だった。


 クラウディオの手が膝の上で止まる。


 リヴィアは小さく顔をしかめた。


「食事中にそういう話をしないで」


「お前が魔女の話を面白がっていただろう」


「裁判は面白いけど、燃える話は嫌」


 セヴランは肩をすくめた。


「同じことだ」


 同じではない。


 クラウディオはそう思った。


 リヴィアにとっては違うのだ。


 噂は面白い。


 魔女という言葉も面白い。


 誰かが泣いて否定する姿も、おそらく遠くからなら面白い。


 だが火の匂いは嫌。


 汚いから。


 怖いから。


 美しくないから。


 王城の者は、残酷さにも飾りを求める。


 それも覚えた。


 正妃が静かに言った。


「教会区の処理は終わったのでしょう」


 処理。


 その一語で、昨日の火刑台が片づけられた。


 ロウェナの声も。


 白い手も。


 縄も。


 火も。


 私は魔女じゃない、という叫びも。


 処理。


 クラウディオは血杯を見つめた。


 赤い液体の表面に、自分の顔が歪んで映っている。


 王が言った。


「民の不安は収まるか」


 正妃が微笑む。


「しばらくは」


 しばらくは。


 つまり、また不安が生まれれば、また誰かを差し出すのだろう。


 薬草を渡した者。


 夜に灯りをつけた者。


 子どもを追い返さなかった者。


 優しかった者。


 ロウェナの次に。


 クラウディオはナイフを取った。


 肉を切る。


 今日の肉は柔らかかった。


 切りやすい。


 食べやすい。


 何もかもが、昨日より整っている。


 それが気持ち悪かった。


 アドリアンが菓子皿を見て言った。


「焦がし砂糖か。香りがいい」


 クラウディオの喉が詰まった。


 香りがいい。


 焦げた砂糖の匂い。


 ロウェナの店で、蜂蜜が少し焦げた時、彼女は笑っていた。


 焼きすぎたから半分こにしよう、と。


 大きい方を渡してくれた。


 子どもは大きい方、と言った。


 昨日の火刑台では、甘い匂いなどなかったはずだ。


 そう思いたい。


 だが、煙の奥に確かにあった。


 焦げた砂糖のような匂い。


 菓子の記憶を汚す匂い。


 ロウェナの店の窯と、教会の火が、同じ火であるはずがない。


 違う。


 違う。


 クラウディオは心の中で否定した。


 けれど鼻は、違いを完全には分けてくれない。


 火は火だった。


 甘いものも、優しいものも、罪にされたものも、燃えれば同じ煙になる。


 それが嫌だった。


 リヴィアが銀皿を自分の方へ引き寄せた。


「クラウディオも食べる?」


 その声には、親切ではなく期待があった。


 食べるのか。


 下町の菓子の匂いがした妾の子が、王城の焦がし砂糖を食べるのか。


 反応を見るための問いだった。


 クラウディオはリヴィアを見た。


 彼女は笑っている。


 可憐な顔で。


 昨日の広場にはいなかったのだろう。


 火刑台の声を知らない。


 ロウェナが最後にクラウと言いかけて飲み込んだことも知らない。


 だから笑える。


 クラウディオは言った。


「いただきます」


 リヴィアの目が少しだけ輝いた。


 彼女は焦がし砂糖の菓子を一つ、銀の小皿に乗せて渡すよう従者に合図した。


 ベルニエがクラウディオの前へ小皿を置く。


 左耳の銀輪。


 今日の手つきは丁寧だった。


 クラウディオは菓子を見た。


 薄い琥珀色。


 表面の焦がし砂糖は美しい。


 王城の菓子職人が丁寧に作ったのだろう。形は整い、欠けもなく、砂糖の艶は宝石のようだった。


 美しい。


 だが、匂いが駄目だった。


 焦げた砂糖。


 火。


 煙。


 ロウェナ。


 クラウディオは菓子を指でつまんだ。


 口へ運ぶ。


 噛む。


 ぱり、と薄い砂糖が割れた。


 甘い。


 苦い。


 香ばしい。


 そして、煙の記憶が喉へ戻る。


 広場。


 薪。


 祈祷蝋。


 火。


 ロウェナの叫び。


 私は魔女じゃない。


 クラウディオは、飲み込んだ。


 吐き出さない。


 吐き出せば、リヴィアが笑う。


 セヴランが何か言う。


 アドリアンが観察する。


 正妃が気づく。


 王が見る。


 だから飲み込んだ。


 甘さと苦さと煙を、全部。


 喉の奥が焼けるようだった。


 リヴィアが聞いた。


「おいしい?」


 クラウディオは答えた。


「はい」


 声は乱れなかった。


 リヴィアは少しつまらなそうにした。


 期待した反応ではなかったのだろう。


 セヴランが笑う。


「焦げたものが好きなのは変わらないらしい」


 クラウディオは何も言わない。


 焦げたものが好き。


 前にも言われた。


 焦げた肉を出された時。


 焦げた菓子をロウェナと半分にした時は、そんな言い方はされなかった。


 焼きすぎたから、と彼女は笑った。


 それを半分にした。


 大きい方をくれた。


 クラウディオは、もう一口菓子を食べた。


 味は分からなかった。


 匂いだけが分かる。


 焦げた砂糖。


 焦げた記憶。


 ロウェナの店の甘さが、少しずつ汚れていく。


 やめろ。


 胸の奥で、そう思った。


 王城の菓子で、ロウェナの記憶を汚すな。


 教会の火で、焼き菓子の匂いを塗り替えるな。


 だが記憶は、命令を聞かなかった。


 蜂蜜の丸菓子。


 月の欠片。


 木の実の小石。


 焦げた砂糖。


 火刑台。


 全部が絡まる。


 クラウディオは、最後の欠片まで食べた。


 皿には何も残さなかった。


 残せば、負ける気がした。


 何に負けるのかは分からない。


 リヴィアにか。


 セヴランにか。


 火刑台にか。


 自分の喉にか。


 あるいは、もう二度とあの菓子をおいしいと思えなくなることにか。


 食事が終わるまで、クラウディオは一言も余計なことを言わなかった。


 王が立つ。


 正妃が続く。


 兄弟たちも退室する。


 クラウディオは最後に立ち上がった。


 足元が少しだけ重い。


 菓子の甘さが腹の底で冷えている。


 廊下へ出ると、セヴランが横を通り過ぎながら低く言った。


「食べ物に執着するのは、育ちが出るな」


 クラウディオは振り返らない。


 セヴラン。


 焦がし砂糖の菓子。食べ物に執着すると言った。


 覚えた。


 その後ろから、アドリアンが近づく。


「顔色が悪い」


 優しい声。


 クラウディオは立ち止まらなかった。


「問題ありません」


「本当に?」


「はい」


「そう」


 アドリアンは、それ以上聞かなかった。


 代わりに、静かに言った。


「無理に食べなくてもよかったのに」


 クラウディオの足が止まった。


 一瞬だけ。


 アドリアンは見ていたのだ。


 菓子を口にした時。


 匂いを飲み込んだ時。


 声を乱さず、おいしいと答えた時。


 アドリアンは気づいていた。


 それでも止めなかった。


 クラウディオは振り返らずに言った。


「出されたものを残すのは、礼に反します」


 アドリアンは小さく笑った。


「礼法教師の言葉みたいだ」


「兄上ほど便利には使えません」


 また、少し言いすぎた。


 けれど今度は謝らなかった。


 アドリアンは黙った。


 クラウディオは歩き出した。


 背中に青い視線を感じる。


 警戒か。


 興味か。


 憐れみか。


 どれでもいい。


 全部覚える。


 血術の訓練室では、カルゼンが待っていた。


 彼はクラウディオを見るなり、眉を寄せた。


「何を食べました」


 問いが唐突だった。


 クラウディオは一瞬、答えなかった。


「朝餐です」


「そういう意味ではありません」


 カルゼンは近づき、クラウディオの手を取った。


 冷たい指。


 骨ばった手。


 彼は手首の脈を確かめ、次にクラウディオの顔を見た。


「血の流れが悪い。胃ではなく、記憶に何か入れましたね」


 記憶に。


 クラウディオは目を細める。


「血術の教師は、占い師も兼ねるのか」


「皮肉が出るなら意識はありますね」


 カルゼンは淡々と言った。


「今日は指を刺しません。血が濁っています」


 濁っている。


 クラウディオは自分の手を見た。


 何も見えない。


 傷もない。


 ただ、内側が冷えている。


「昨日、何を見たのです」


 カルゼンの声は低かった。


 マルタはいない。


 セリアもいない。


 訓練室には二人だけだった。


 だからこそ、クラウディオは言わなかった。


 誰もいない場所で言えば、崩れる気がした。


 ここでロウェナの名を出せば、声が変わるかもしれない。


 それは許せなかった。


「何も」


 クラウディオは答えた。


 カルゼンはしばらく彼を見ていた。


 それから、ため息をつく。


「嘘は血を重くします」


「血は嘘を嫌うのだろう」


「覚えているなら、なおさらです」


「忘れる方が難しい」


 カルゼンは黙った。


 その沈黙は、王城の者たちの沈黙とは少し違った。


 何かを見逃している沈黙ではなく、これ以上踏み込むべきか測っている沈黙。


 結局、彼は踏み込まなかった。


「今日は座りなさい」


 クラウディオは言われた通り、魔導円の中央に座った。


 カルゼンは少し離れたところに立つ。


「血を動かすのではなく、沈める練習をします」


「動かす訓練ではないのか」


「動かすより沈める方が難しい日もあります」


 クラウディオは目を閉じた。


 沈める。


 何を。


 火刑台の火。


 ロウェナの声。


 焦がし砂糖の匂い。


 群衆の沈黙。


 自分の無力。


 それらを沈めろと言うのか。


 沈むわけがない。


 沈めたくもない。


 沈めれば、忘れることに近づく。


 忘れたくない。


 忘れるものか。


「沈めることと、忘れることは違います」


 カルゼンが言った。


 クラウディオは目を開けた。


「心を読むのか」


「顔に出ています」


「出していない」


「出ています」


 カルゼンは短く言った。


「忘れたくないなら、なおさら沈めなさい。暴れた記憶は、いずれ形を失います。沈めた記憶は、底に残る」


 底に残る。


 クラウディオは、その言葉を聞いた。


 底。


 自分の中に、底があるのだろうか。


 そこにロウェナを沈めるのか。


 火の匂いと一緒に。


 嫌だった。


 けれど、火刑台の叫びが暴れ続ければ、ロウェナの店の声まで壊れていく。


 クラウディオは目を閉じた。


 呼吸をする。


 焦げた砂糖の匂い。


 煙。


 それが鼻の奥へ戻ってくる。


 その中から、別の匂いを探す。


 蜂蜜。


 小麦。


 温かい水。


 月の欠片。


 ロウェナの白い手。


 焦げた砂糖が、それらへ絡みつく。


 振り払えない。


 だから、分ける。


 菓子屋の火。


 火刑台の火。


 同じ火ではない。


 同じにしてはいけない。


 ロウェナが焼いた菓子は、人を生かすための火だった。


 教会の火は、人を消すための火だった。


 違う。


 違う。


 クラウディオは、胸の奥で何度も分けた。


 だが匂いは完全には分かれない。


 それでも、分ける。


 何度も。


 何度も。


 呼吸が少し整う。


 カルゼンの声がした。


「よろしい」


 クラウディオは目を開けた。


 訓練室の青白い光。


 赤黒い魔導円。


 カルゼンの黒衣。


 何も変わっていない。


 だが胸の奥で、何かが底へ沈んだ。


 消えたのではない。


 沈んだ。


 重く。


 冷たく。


 取り出せる場所へ。


 訓練が終わると、クラウディオは部屋へ戻った。


 今日は城下へ行かなかった。


 行けなかった。


 菓子屋は閉ざされている。


 ロウェナはいない。


 火刑台のあとに行っても、店の前には教会の封蝋があるだけだ。


 行けばまた、甘い匂いのなかった扉を見ることになる。


 それでも、行きたいと思った。


 馬鹿げている。


 何もないのに。


 ないことを確かめに行きたい。


 クラウディオは机の前に座った。


 床下を開ける。


 昨日の記録を取り出す。


 火刑台。


 司祭。


 群衆。


 ロウェナ。


 私は魔女じゃない。


 最後まで俺を隠した。


 血の染みが紙についている。


 乾いた血は黒ずんでいた。


 クラウディオは、その紙を見たあと、別の紙を出した。


 ロウェナの記録。


 彼は新しく書いた。


 焦がし砂糖の匂い。


 王城の菓子。


 火刑台の匂いと混ざった。


 ロウェナの焼き菓子の記憶が汚れた。


 違う。


 菓子屋の火と、教会の火は違う。


 ロウェナの火は菓子を焼いた。


 教会の火はロウェナを燃やした。


 同じにしない。


 そこまで書いて、ペン先が止まる。


 同じにしない。


 それは命令だった。


 自分への。


 記憶への。


 血への。


 クラウディオはさらに書いた。


 泣かない。


 叫ばない。


 見たものを底へ沈める。


 忘れない。


 救われる側ではいられない。


 その一行を書いた時、手が止まった。


 救われる側。


 自分は、何を期待していたのだろう。


 ロウェナの店で、手を温められ、名前を呼ばれ、菓子を渡された。


 それだけで、どこかで救われると思ったのか。


 王城の外に、あの店があり続ければ。


 ロウェナの声があり続ければ。


 クラウディオという名を温かく呼ぶ声があり続ければ。


 自分は、王城の冷たさに耐えられると思ったのか。


 それは甘かった。


 甘すぎた。


 焼き菓子のように。


 だから火に汚された。


 救われる側でいるということは、救う者が燃やされた時、何もできない側でいるということだ。


 待つ側。


 信じてもらう側。


 庇われる側。


 隠される側。


 ロウェナは最後に、クラウと言いかけて飲み込んだ。


 火刑台の上でも、彼を守った。


 クラウディオは守られる側だった。


 何もできずに。


 群衆の中で。


 その事実が、耐えがたかった。


 クラウディオはペンを握った。


 救われる側ではいられない。


 もう一度、その文字を見る。


 まだ幼い字だ。


 だが、その線は前より硬かった。


 彼は紙を折らなかった。


 しばらく見ていた。


 自分が何になるのか、まだ分からない。


 王になるという言葉も、裁く側になるという決意も、まだ完全には形になっていない。


 ただ、救われる側ではいられない。


 それだけは分かった。


 誰かの温かい手に甘えているだけでは、またその手を失う。


 誰かが信じてくれるのを待っているだけでは、火は止まらない。


 誰かが違うと言ってくれるのを待っているだけでは、群衆は進む。


 ならば、自分は別の場所へ行かなければならない。


 どこかはまだ分からない。


 だが、少なくとも火刑台の柱に縛られる側ではない。


 違うと叫んで誰にも信じられない側ではない。


 群衆の背中に押し戻される小さな子どものままでもない。


 クラウディオは紙を机の奥へしまった。


 ロウェナの紙片の隣に。


 また来てね、クラウディオ。


 ロウェナ・ミル。魔女ではない。


 焦がし砂糖の匂い。火を同じにしない。


 それらを並べて隠す。


 床下の罪の帳簿とは別に。


 これは、彼が失いたくないものの記録だった。


 夜、王城の廊下は静かだった。


 クラウディオは眠れなかった。


 寝台に横になっても、焦げた砂糖の匂いが戻る。


 菓子の甘さと、火刑台の煙。


 何度も絡まる。


 そのたびに、彼は心の中で分けた。


 違う。


 ロウェナの火は違う。


 教会の火と同じにするな。


 違う。


 違う。


 私は魔女じゃない。


 ロウェナの声も戻る。


 その声に、誰も答えなかった。


 ならば、自分が答える。


 今さら遅い。


 それでも答える。


 違う。


 お前は魔女ではない。


 声には出さなかった。


 出せば、部屋の冷気に吸われてしまいそうだった。


 だから胸の奥でだけ、何度も答えた。


 ロウェナ。


 お前は魔女ではない。


 焦げた砂糖の匂いが、少しだけ遠ざかる。


 完全には消えない。


 消えなくていい。


 消してはいけない。


 その匂いは、ロウェナが燃やされた証だ。


 そして、クラウディオが何もできなかった証だ。


 彼は目を開けた。


 暗い部屋。


 冷たい石壁。


 青白い魔導灯の細い光。


 王城は今日も変わらない。


 食卓は明日も用意される。


 兄弟たちは笑う。


 正妃は微笑む。


 王は黙る。


 血術の教師は血を見ろと言う。


 礼法教師はもう一度と言う。


 世界は進む。


 ロウェナがいなくても。


 そのことを、彼は許さなかった。


 だが、今はまだ何もできない。


 だから冷やす。


 怒りを、涙にしない。


 叫びにしない。


 冷やして、底へ沈める。


 いつか取り出すために。


 クラウディオは、夜の底で静かに息をした。


 火刑台の匂いが、焼き菓子の記憶を汚していく。


 その汚れごと、彼は覚えた。


 泣かず。


 叫ばず。


 ただ、内側で何かが冷えていくのを感じながら。


 救われる側ではいられない。


 幼い吸血鬼は、その言葉を胸の底へ沈めた。


 そこから先、彼の中の温かいものは、すべて冷たい刃の影を持つようになった。


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