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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第6話 魔女狩りの噂



 血術の教師は、冷たい指をしていた。


 名をカルゼンといった。


 痩せた男だった。年齢は分からない。吸血鬼は見た目と年齢があまり結びつかない。だが、その瞳の奥には古い埃のような疲れが沈んでいた。黒い長衣をまとい、手袋をしていない。指は骨ばっていて、血の通っていない枝のように白い。


 クラウディオは訓練室の中央に立っていた。


 王城の北棟、古い石造りの部屋だった。壁には血術用の魔導紋が刻まれ、床には幾重にも円が描かれている。天井は高い。声を出せば、遅れて自分の声が戻ってくる。


 部屋の隅にはマルタが立っていた。


 さらにその奥、壁際には正妃付きの女官セリアもいる。見届け役という名の監視だった。彼女は真珠の耳飾りを揺らしながら、何も言わずにクラウディオを見ていた。


 カルゼンはクラウディオの手首を取った。


 断りはない。


 王城では、クラウディオの身体に触れる時、誰も許可を求めなかった。


 ロウェナなら聞くだろう。


 触ってよかった?


 その声を思い出した瞬間、クラウディオは唇を引き結んだ。


 ここで思い出すな。


 この部屋に、菓子屋の明かりを持ち込んではならない。


 カルゼンの指が、クラウディオの手首の内側を押す。


「脈は細い」


 教師は言った。


「だが、流れは悪くない。王血は確かにある」


 その言葉に、セリアの目がわずかに動いた。


 王血。


 王の血。


 正妃の子ではないクラウディオの中にも、それが流れている。


 王城の者たちにとって、それは厄介な事実だった。


 カルゼンは続けた。


「血術は、血を従わせる術ではありません。血が何を覚えているかを聞く術です。愚かな者は命じるだけで血が動くと思う。そういう者から順に、自分の血に喰われる」


 クラウディオは教師を見た。


 カルゼンは彼の目を正面から見返した。


 王城の大人たちの多くは、クラウディオを見下ろす。見下す。あるいは、見ないふりをする。


 この教師は違った。


 冷たいが、見ている。


 それが良いことか悪いことかは、まだ分からない。


「手を出しなさい」


 クラウディオは言われた通り、手を出した。


 カルゼンは銀の小針を取り出した。


 マルタが小さく息を呑む。


 セリアは動かない。


 針の先が、クラウディオの指先に触れる。


 鋭い痛み。


 赤い血が一滴、白い指先に膨らんだ。


 カルゼンは言った。


「見るだけです。動かそうとしない」


 クラウディオは血を見た。


 小さな赤。


 王城では、血はいつも大きな器に入っている。杯に満ち、瓶に詰められ、儀式の皿に注がれる。食卓の上では冷たく光り、王の指輪の石にも似ている。


 自分の指先から出る血は、それらよりずっと小さかった。


 けれど、なぜか重く見えた。


「息を止めない」


 カルゼンが言う。


 クラウディオは、自分が息を止めていたことに気づいた。


「痛みを消そうとするな。痛みがあるなら、あるままに置け」


 痛みがあるなら、あるまま。


 王城では聞かない言葉だった。


 痛いと言うな。


 痛くないと言え。


 痛みはすぐ塞がる。


 傷が消えれば問題ない。


 そういう場所だった。


 クラウディオは、指先の痛みをそのまま見た。


 血の一滴が、丸く膨らむ。


 ふいに、その表面が揺れた。


 風もないのに。


 クラウディオは瞬きした。


 血は指先から離れなかった。だが、確かに内側で細く震えた。まるで小さな赤い瞳が、こちらを見返したようだった。


 カルゼンの目が細くなる。


「よろしい」


 それだけだった。


 褒める声ではない。


 しかし、否定でもない。


 クラウディオは指先を見たまま、ゆっくり息を吐いた。


 セリアは何も言わない。


 だが、彼女の視線が少し冷えたことを、クラウディオは見ていた。


 血は動く。


 自分の血は、動いた。


 それが何を意味するのか、今は分からない。


 ただ、王城の空気がまた少し変わることだけは分かった。


 訓練が終わる頃には、指先に小さな傷がいくつもできていた。


 どれも深くはない。吸血鬼の治癒力ならすぐに塞がる。だが、血を意識し続ける疲労は身体の奥に残った。指の傷より、そちらの方が重かった。


 カルゼンは最後に言った。


「血は嘘を嫌います」


 クラウディオは顔を上げた。


「人は嘘をつきます。王も、妃も、教師も、従者も、子どもも。だが血は、嘘をつくより先に覚える。あなたが何を見たか、何を飲み込んだか、何を憎んだか、いずれ血はすべて返します」


 セリアの視線が鋭くなる。


 マルタが身じろぎした。


 カルゼンは気にしない。


「だから、むやみに憎みすぎないことです。血が重くなる」


 クラウディオは、小さな指を握った。


 指先の傷が鈍く痛む。


 憎みすぎるな。


 それは無理な注文に聞こえた。


 王城で彼に与えられるものは、たいてい憎しみの材料だった。皿の差。椅子の位置。袖の染み。呼び名。笑い声。沈黙。母の血。正妃の目。


 それを覚えないようにしろと言われても、無理だった。


 忘れることは、クラウディオにとって死に近い。


 覚えているから、自分がまだ自分でいられる。


 カルゼンはその顔を見て、かすかに眉を寄せた。


「……まあ、今は分からなくてもよろしい」


 彼は布で針を拭った。


「分からないままでも、血は進む」


 その言葉は、不吉だった。


 訓練室を出ると、廊下の空気はいつも通り冷たかった。


 マルタはしばらく黙って歩いた。


 それから、低い声で言った。


「余計なことをお考えにならないでください」


「血を動かすなと言うのか」


「そうではありません」


「では何を」


「ご自分の立場です」


 クラウディオは、もう聞き飽きた言葉を聞いた。


 立場。


 妾の子。


 正妃の目障り。


 王の観察対象。


 兄弟たちの刺しやすい場所。


 従者たちの笑いやすい話題。


 クラウディオは歩きながら言った。


「俺の立場は、俺だけが考えているわけではないだろう」


 マルタは言葉に詰まった。


 クラウディオは、それ以上続けなかった。


 彼女を追い詰めても意味はない。


 マルタは強くない。


 王城の強い者に従い、弱い者へ冷たくすることで、自分の場所を守っているだけだ。


 それも覚えている。


 責めるかどうかは、別の話だった。


 部屋に戻ると、クラウディオは手を見た。


 傷はもう塞がりかけている。


 だが、指先の奥に血が残っているような気がした。


 血は嘘を嫌う。


 血は覚える。


 ならば、クラウディオの血はもう重いのだろうか。


 まだ幼い身体の中に、食卓の声や、廊下の笑い、王の沈黙、正妃の問いを詰め込みすぎているのだろうか。


 彼は机の引き出しを開けた。


 ロウェナの紙片がある。


 また来てね、クラウディオ。


 丸い文字。


 その隣に、自分で書いた記録。


 ロウェナ・ミル。


 温かい水。


 月の欠片。


 生きてる間くらい、温かいものを食べてもいい。


 クラウディオは指先で紙の端に触れた。


 血術の訓練で傷ついた指。


 もう血は出ていない。


 出ていないのに、紙に触れるのが少し怖かった。


 この紙まで血で汚したくなかった。


 彼は引き出しを閉めた。


 そして、外套を取った。


 今日こそ行くべきではない。


 血術教師との初日。


 王城の空気が変わっている。


 セリアが正妃へ報告するだろう。


 マルタも監視を強める。


 外へ出るのは危険だった。


 そう分かっていても、クラウディオは扉へ向かった。


 血は覚える。


 ならば、温かいものも覚えさせておかなければならない。


 冷たいものばかりでは、血が重くなる。


 これは言い訳だと分かっていた。


 けれど、言い訳もまた道具だった。


 王城を抜け出す道は、すでに身体が覚え始めている。


 使用人用の階段。


 洗濯室の裏。


 古い物置の横。


 荷運び用の小門。


 今日の小門は半分閉じられていた。外から差し込む灰色の光が、細い線になって床を切っている。


 衛兵はいない。


 代わりに、遠くで二人分の声がした。


「教会区の掲示、見たか」


「ああ。また魔女狩りか」


 クラウディオは足を止めた。


 魔女狩り。


 その言葉は、王城でも聞いたことがある。


 古い制度。


 教会区の異端審問。


 吸血鬼や血術、崩れ種、獣化種に関わった疑いのある者を裁くためのもの。


 教師たちはそう説明した。


 だが、王城の食卓では、魔女狩りという言葉は少し違う響きを持っていた。


 人間たちが恐怖で誰かを吊るす遊び。


 教会が権威を示すための儀式。


 吸血鬼ではなく、吸血鬼に関わった弱い人間を燃やす制度。


 クラウディオは壁の影で聞いた。


 声の一つは若い衛兵見習い。もう一つは年かさの男だ。


「今回は誰だって?」


「薬草売りの婆さんだとか、夜に出歩いていた女だとか、いろいろ噂がある。病人に食べ物を配っていた奴も怪しいって話だ」


「食べ物?」


「血を混ぜた呪い菓子じゃないかってよ」


 笑い声。


 クラウディオの指が、外套の内側で動いた。


 食べ物。


 菓子。


「馬鹿らしい」


 年かさの男が言った。


 少し安心しかけた。


 だが次の言葉で、その安心は消えた。


「だが、街の連中はそういう話が好きだからな。誰かを魔女にしておけば、夜の恐怖に名前がつく」


「吸血鬼に喰われるのは怖いが、吸血鬼を裁けるわけじゃない。なら、菓子屋の女でも薬草婆でも燃やせば落ち着くってか」


「声が大きい」


「誰も聞いちゃいないさ」


 クラウディオは、影の中で息を止めた。


 菓子屋の女。


 それは、ただの例えかもしれない。


 王都には菓子屋などいくつもある。


 ロウェナのことではないかもしれない。


 そう考えようとした。


 だが胸の奥が、冷たく沈んだ。


 教会区の掲示。


 魔女狩り。


 薬草を扱う者。


 病人に食べ物を配る者。


 夜に吸血鬼の子へ優しくした者。


 ロウェナは薬草蜜を渡していた。


 病気の母親を持つ少年に。


 金を取らず。


 菓子と一緒に。


 そしてクラウディオにも、優しくした。


 吸血鬼の子へ。


 彼は、自分の手を見た。


 指先の傷は塞がっている。


 けれど、ロウェナに拭かれた手だった。


 衛兵たちの声が遠ざかる。


 クラウディオは小門を抜けた。


 外の空気は、いつもより冷たく感じた。


 街は変わらず騒がしい。


 だが、その騒がしさの奥に、別の音が混じっていた。


 囁き。


 教会の鐘。


 紙を貼る音。


 足を止める人々。


 誰かが誰かの耳元で話し、話された者が振り返る。


 大通りの壁に、教会区の告知が貼られていた。


 人々がその前に集まっている。


 クラウディオは頭巾を深くかぶり、人混みの隙間から掲示を見た。


 白い紙。


 黒い文字。


 教会の紋章。


 そこには、異端調査の強化が告げられていた。


 吸血鬼と血術に関わる不審行為。


 夜間における無許可の外出。


 病人への未認可の薬草施与。


 出所不明の食物の配布。


 血を失った者との接触。


 吸血鬼の子への接触。


 教会への届け出なき治療行為。


 それらを見聞きした者は、速やかに教会区へ届け出よ。


 魔女の兆候を見逃すな。


 人々の声が、紙の前で渦を巻いていた。


「また始まるのか」


「最近、外縁で崩れ種が増えているからな」


「うちの隣の女、夜に誰かを入れていたぞ」


「薬草の匂いがしたって?」


「いや、甘い匂いだった」


「甘い?」


「菓子か何かじゃないか」


「菓子に血を混ぜる魔女もいるらしい」


「怖いねえ」


「怖いなら、店の名前を届ければいい」


 クラウディオは、人混みから離れた。


 吐き気に似たものが胸の奥に上がる。


 吸血鬼は人間ほど簡単に吐かない。


 だが、内側が冷えて、血が重くなる感覚はあった。


 人々は怯えている。


 それは分かる。


 夜になれば、彼らは吸血鬼を恐れる。


 崩れ種を恐れる。


 獣化種を恐れる。


 血を抜かれた死体を恐れる。


 扉を叩く音を恐れる。


 自分の子どもが戻らない夜を恐れる。


 だが、その恐怖の向かう先が、おかしかった。


 王城には届かない。


 王血には触れられない。


 野良吸血鬼を捕らえる力もない。


 崩れ種へ立ち向かう勇気もない。


 なら、薬草を渡した女を疑う。


 食べ物を配った者を疑う。


 夜に誰かへ明かりを灯した者を疑う。


 優しかった者を、疑う。


 クラウディオは歯を噛んだ。


 まだ、ただの噂だ。


 そう思いたかった。


 けれど噂は、王城の囁きに似ていた。


 聞こえるように落とす声。


 誰かが言っていた、という形にする悪意。


 確かめられない話。


 反論すれば、怪しいと言われる仕組み。


 王城の食卓で彼に向けられる刃と、街の噂は似ていた。


 違うのは、ここでは刃の数が多すぎることだった。


 クラウディオは坂道へ向かった。


 丸い菓子の看板は、今日も揺れていた。


 だが、いつものように胸が緩まなかった。


 店の前に、人が二人立っていた。


 一人は隣の店の女主人らしい。もう一人は、背の低い男で、手に教会区の小札を持っている。二人は店の窓を見ながら小声で話していた。


「ここも薬草を扱っていたでしょう」


「薬草蜜よ。咳止めにね」


「許可は?」


「知らないわ」


「この前、子どもに渡していたのを見た者がいる」


「ロウェナさんなら、昔からそういう人よ」


「だから怪しいんだ。誰にでも優しい顔をする女ほど、裏で何をしているか分からない」


 クラウディオの足が止まった。


 ロウェナ。


 名前が出た。


 背の低い男は、教会の関係者ではないかもしれない。だが、小札を持っている。届け出を勧める者か、噂を集めている者か。


 女主人は困ったように眉を寄せている。


「でも、あの人はただのお菓子屋よ」


「ただの菓子屋が、夜に誰を入れている?」


「夜?」


「少し前、黒い外套の子どもが出入りしていたと聞いた」


 クラウディオは、指先が冷えるのを感じた。


 自分だ。


 頭巾をかぶった、黒い外套の子ども。


 誰かが見ていた。


 誰かが話した。


 誰かが、ロウェナの店へ結びつけた。


 男は続けた。


「吸血鬼の子ではないかという話もある」


「まさか」


「吸血鬼に菓子を渡す女だぞ」


「子どもなら、人間でも吸血鬼でもお腹は空くでしょう」


「その考えが危ない」


 女主人は口を閉じた。


 男は満足げに頷く。


「優しさを装う魔女は多い。気をつけなさい」


 クラウディオは、動けなかった。


 優しさを装う魔女。


 温かい水。


 白い手。


 焼き菓子。


 名前を呼ぶ声。


 それらが、男の口の中で別のものへ変わっていく。


 呪い。


 疑い。


 異端。


 魔女。


 吐き気がした。


 いや、違う。


 それは吐き気ではない。


 怒りだった。


 だが今のクラウディオには、怒りを使う力がない。


 彼は小さい。


 王城の妾の子。


 血術の初日に、血を少し震わせただけの子ども。


 この場で男へ何かを言っても、かえってロウェナを危うくする。


 吸血鬼の子が庇った。


 それだけで、噂はさらに太る。


 クラウディオは影へ下がった。


 男と女主人が離れるのを待つ。


 足音が遠ざかる。


 それから、店の扉へ近づいた。


 鈴が鳴る。


 いつもの音。


 けれど今日は、その音まで誰かに聞かれている気がした。


「いらっしゃい」


 ロウェナの声。


 奥から顔を出した彼女は、いつもと同じ白い前掛けをつけていた。栗色の髪をまとめ、頬に粉をつけている。


 彼女はクラウディオを見ると、少しだけ驚いた。


「クラウディオ」


 名前を呼ぶ声は、今日も温かかった。


 だが、クラウディオはすぐに答えられなかった。


 店の中の明かり。


 窯の火。


 焼き菓子の匂い。


 棚。


 白い布。


 温かい水。


 全部いつも通りなのに、外の噂が薄い煤のようにまとわりついて見えた。


 ロウェナは彼の顔を見て、作業台から離れた。


「どうしたの?」


「外で」


 言いかけて、止まる。


 何と言えばいい。


 あなたが魔女だと噂されている。


 薬草蜜を渡したから。


 病人へ食べ物を配ったから。


 吸血鬼の子に優しくしたから。


 俺が来たから。


 言葉が喉で詰まった。


 ロウェナは屈んだ。


 いつものように、目線を近づける。


「怖いものを見た?」


 クラウディオは唇を噛みそうになり、堪えた。


 怖い。


 その言葉を認めるのは嫌だった。


 だが、今日の胸の奥の冷たさには、怒りだけでなく恐怖も混ざっていた。


「魔女狩りの掲示があった」


 ようやく、それだけ言った。


 ロウェナの表情が少し変わった。


 大きく驚いたわけではない。


 むしろ、来るものが来た、という顔だった。


 クラウディオはそれを見逃さなかった。


「知っていたのか」


「噂は聞いていたよ」


「なぜ言わない」


「あなたに?」


「そうだ」


「心配させると思ったから」


「俺は心配などしない」


 ロウェナは少しだけ笑った。


 いつもの笑いより薄い。


「そっか」


 クラウディオは、そのそっかが嫌だった。


 彼女は分かっている。


 分かった上で、踏み込まない。


 それが楽な時もある。


 今日は、苛立った。


「薬草を渡した者が疑われると書いてあった」


「うん」


「病人に食べ物を配る者も」


「うん」


「吸血鬼の子へ接触する者も」


 ロウェナは、そこで黙った。


 クラウディオの手が外套の内側で握られる。


「俺が来なければよかったのか」


 声は小さかった。


 ロウェナはすぐに首を横に振った。


「それは違う」


「違わない。外で、黒い外套の子どもの話をしていた」


 ロウェナの目がわずかに鋭くなった。


「誰が?」


「背の低い男。教会の札を持っていた。隣の店の女と話していた」


「そう」


「あなたは危ない」


 また、その言葉。


 前にも言った。


 弱いから危ない、と。


 今日は、弱いからではなかった。


 優しいから危ない。


 クラウディオはそれをまだうまく言えなかった。


 ロウェナは立ち上がり、店の扉へ視線を向けた。


 窓の外では、通りを歩く人々がいつもより少しだけ店の中を見ていた。


 ほんの一瞬。


 すぐに目を逸らす。


 けれど、その一瞬が積もれば噂になる。


 ロウェナは小さく息を吐いた。


「しばらく、薬草蜜は奥にしまっておこうかな」


「それだけで済むのか」


「分からない」


「なぜ平気な顔をする」


「平気じゃないよ」


 ロウェナはクラウディオを見た。


「怖いよ」


 その声は静かだった。


 クラウディオは息を止めた。


 怖い、と彼女は言った。


 王城では、誰もそう言わない。


 恐れていても隠す。


 怯えていても礼で覆う。


 泣いても、泣いていないふりをする。


 ロウェナは怖いと言った。


 それなのに、崩れなかった。


「怖いなら、やめればいい」


 クラウディオは言った。


「菓子も薬草蜜も、病人への食べ物も、全部」


「そうしたら、困る人がいる」


「あなたが燃やされたら終わりだ」


 言ってから、店の中の空気が止まった。


 燃やされる。


 火刑。


 その言葉を、クラウディオはまだ実際のものとして見たことはない。


 だが王城で聞いたことはある。


 魔女狩りの末路。


 教会区の広場。


 薪。


 祈り。


 群衆。


 罪を告げる声。


 火。


 ロウェナの店の窯とは違う火。


 菓子を焼くためではない火。


 人を消すための火。


 ロウェナは、少しだけ顔を伏せた。


 それから、静かに言った。


「終わりたくはないな」


 クラウディオの胸の奥が、ぎゅっと冷えた。


「なら」


「でも、全部やめれば安全かっていうと、きっと違う」


 ロウェナは窓の外を見た。


「一度、噂が向くとね。何をしても怪しく見えるの。薬草を渡せば魔女。渡さなければ、隠している。子どもを入れれば魔女。追い返せば、やましいから証人を遠ざけた。笑えば余裕がある。泣けば罪を認めた。黙れば怪しい。怒ればやっぱり怪しい」


 クラウディオは、何も言えなかった。


 それは、王城と同じだった。


 怒れば癇癪。


 黙れば不気味。


 泣けばみじめ。


 答えれば生意気。


 答えなければ愚か。


 どの道も、最初から塞がれている。


 ロウェナは笑わなかった。


「だから、少し考える。何をやめて、何を残すか」


「逃げればいい」


「店を?」


「そうだ」


「どこへ?」


 クラウディオは答えられなかった。


 どこへ。


 逃げ場所。


 クラウディオにとって、ここが逃げ場所だった。


 ロウェナ自身は、どこへ逃げるのだろう。


 この店を失えば、彼女はどこへ行くのだろう。


 クラウディオは、初めてそのことを考えた。


 店はロウェナのものだ。


 窯。


 棚。


 白い布。


 紙袋。


 丸い菓子の看板。


 全部。


 それを捨てろと、自分は言った。


 簡単に。


 王城の者たちと同じように、相手の持ち物を軽く扱ったのかもしれない。


 クラウディオは唇を引き結んだ。


「……悪かった」


 ロウェナが目を丸くした。


「今、謝った?」


「聞こえなかったならいい」


「聞こえた。びっくりした」


「忘れろ」


「それは無理かな」


「忘れろ」


 ロウェナは少し笑った。


 それは、今日初めて見るいつもの笑いに近かった。


「じゃあ、大事に覚えておく」


「覚えるな」


「もう覚えた」


 クラウディオは不機嫌に顔を逸らした。


 その不機嫌の奥で、少しだけ胸が緩む。


 この状況で緩むな、と自分に命じた。


 ロウェナは手を洗う桶を出した。


「手、洗う?」


 いつもの言葉。


 だが今日は、いつもより重かった。


 クラウディオは手を出した。


 ロウェナは温かい水で白い布を濡らし、彼の指を包む。


 指先は、血術の訓練のせいで少し硬くなっていた。


 傷は塞がっている。


 だがロウェナは気づいた。


「指、どうしたの」


「何でもない」


「針?」


「血術の訓練」


 ロウェナの手が止まる。


 クラウディオは顔を上げた。


 彼女の目に、恐怖が浮かぶかと思った。


 吸血鬼の血術。


 王家の子。


 その力を嫌がるかと。


 だがロウェナは、恐れるより先に指を見た。


「痛かった?」


 その問いだった。


 クラウディオは、少しだけ息を呑んだ。


 血術を学んだかではない。


 王の血が動いたかでもない。


 危険かどうかでもない。


 痛かったか。


 ロウェナは、そこを聞いた。


「……痛くはない」


「そう」


 彼女は布で指先をそっと包んだ。


「でも、今日はよく温めておこう」


「もう傷はない」


「傷がなくても、痛かった場所は冷えるから」


 クラウディオは黙った。


 ロウェナの言うことは、時々よく分からない。


 だが、不思議と嘘には聞こえなかった。


 傷がなくても、痛かった場所は冷える。


 膝も。


 唇も。


 名前も。


 食卓の袖も。


 全部、まだ冷えているのかもしれない。


 店の外で、誰かが立ち止まる気配がした。


 クラウディオはすぐに扉を見た。


 ロウェナも気づいた。


 影が窓硝子を横切る。


 通り過ぎるだけ。


 だが、二人とも少しの間動かなかった。


 ロウェナは静かに布を絞る。


「今日は早く帰った方がいいかもしれない」


 クラウディオは彼女を見た。


「俺がいると、怪しまれるからか」


「あなたが危ないから」


「俺は」


「王城の子でも、子どもは子ども」


 ロウェナは遮るように言った。


 珍しく、少し強い声だった。


「教会の人たちは、疑い始めたら都合よく見る。あなたが誰かを知っていても、知らなくても、利用できる形に変えるかもしれない」


「俺は弱くない」


「弱くないなら、危ない場所から離れることもできるでしょう」


 クラウディオは言い返そうとして、止まった。


 離れる。


 それは逃げることではなく、判断だと言われたような気がした。


 ロウェナは紙袋に菓子を入れた。


 今日は少なかった。


 小さな蜂蜜菓子が一つ。


 それだけ。


「今日はこれだけ」


「金は」


「いらない」


「なぜ」


「早く帰ってほしいから」


 クラウディオは紙袋を受け取らなかった。


「なら受け取らない」


「クラウディオ」


「理由が悪い」


 ロウェナは困ったように眉を下げた。


「じゃあ、怖い掲示を見た子に、甘いものを渡したいから」


「子ども扱いするな」


「してるよ」


 彼女は言った。


 まっすぐに。


「今日は、する」


 クラウディオは何も言えなくなった。


 ロウェナは紙袋を彼の手に持たせた。


「帰って。できれば、しばらくは気をつけて来て」


「来るなとは言わないのか」


 ロウェナは少しだけ迷った。


 その迷いが、クラウディオには痛かった。


 来るなと言われるかもしれない。


 安全のために。


 彼女のために。


 自分のために。


 それが正しいのかもしれない。


 だがロウェナは、最後には首を横に振った。


「言いたくない」


「危ないのに」


「うん」


「馬鹿だ」


「そうかも」


「弱い」


「うん」


「魔女だと言われる」


「困るね」


 ロウェナは笑った。


 怖いと言った人の笑みだった。


 それでも、笑った。


「でも、クラウディオが来て、菓子を食べて、少しでも息ができるなら、それを全部なかったことにしたくない」


 クラウディオの喉が詰まった。


 息ができる。


 彼がここで息をしていることを、ロウェナは知っていた。


 知られていた。


 それが恥ずかしく、悔しく、同時にどうしようもなく温かかった。


「……余計なことを言う」


 クラウディオは低く言った。


 ロウェナは小さく笑った。


「よく言われる」


「誰に」


「いろんな人に」


 ロウェナは扉を開けた。


 外の冷たい空気が入ってくる。


 店の温かさが薄まる。


 クラウディオは紙袋を握りしめた。


「ロウェナ」


 初めて、彼女の名を声に出した。


 ロウェナは驚いたように目を開いた。


「なに?」


 クラウディオは、何を言うつもりだったのか分からなくなった。


 気をつけろ。


 逃げろ。


 薬草蜜をしまえ。


 俺のことを話すな。


 俺は来ない方がいいのか。


 全部、喉で絡まる。


 結局、出たのは短い言葉だった。


「戸締まりをしろ」


 ロウェナは瞬きをした。


 そして、柔らかく笑った。


「うん。する」


「窓も」


「窓も」


「知らない男を入れるな」


「お客さんは?」


「知らない男だ」


「厳しいね」


「笑うな」


「ごめん」


 笑いながら謝られた。


 クラウディオは睨んだ。


 ロウェナは、それでも少し嬉しそうだった。


「ありがとう、クラウディオ」


「礼を言われることではない」


「うん。でも、ありがとう」


 クラウディオはそれ以上いられなかった。


 扉を出る。


 鈴が鳴る。


 背後で扉が閉まる。


 坂道を下りる間、何度も振り返りそうになった。


 だが振り返らなかった。


 振り返れば、誰かに見られるかもしれない。


 ロウェナの店に何度も視線を向ける黒い外套の子ども。


 それだけで、噂がまた一つ太る。


 彼は前を見て歩いた。


 街の壁には、教会の掲示が貼られている。


 人々はそれを見て囁く。


 薬草。


 病人。


 菓子。


 吸血鬼の子。


 魔女。


 言葉が、街の空気を汚していく。


 甘い匂いは外套の内側に隠した。


 それでも、完全には隠れない気がした。


 王城へ戻ると、冷気が彼を迎えた。


 小門を抜ける。


 廊下を進む。


 マルタに見つかる前に部屋へ戻る。


 扉を閉めた瞬間、ようやく息を吐いた。


 紙袋を取り出す。


 中には蜂蜜菓子が一つ。


 小さい。


 けれど、今日のそれはいつもより重く見えた。


 クラウディオは机に向かった。


 まず床下の板を外そうとして、手を止める。


 今日のことは、どちらに書けばいい。


 罪の記録か。


 ロウェナの記録か。


 魔女狩りの噂は、誰かの罪だ。


 けれど、まだ誰の名を記せばいいのか分からない。


 背の低い男。


 教会の小札。


 隣の店の女。


 掲示の文字。


 群衆の声。


 それらは形が曖昧で、王城の者たちのように一人ずつ紙へ閉じ込められない。


 噂には顔がない。


 だから怖い。


 クラウディオは新しい紙を出した。


 そして書いた。


 魔女狩りの掲示。


 薬草を扱う者。


 病人に食べ物を配る者。


 夜に吸血鬼の子へ接触する者。


 菓子に血を混ぜる魔女という噂。


 背の低い男。教会の小札。ロウェナの名を出した。黒い外套の子どもの話をした。


 隣の店の女。ロウェナを庇いかけたが、黙った。


 群衆。誰かを魔女にすれば夜の恐怖に名前がつく。


 そこまで書いて、ペン先が止まる。


 紙の下の方に、もう一行書いた。


 ロウェナは怖いと言った。


 それでも菓子を渡した。


 戸締まりをしろと言ったら、ありがとうと言った。


 クラウディオは、その文字を見ていた。


 ありがとう。


 まただ。


 ロウェナは、彼の知らない場所で礼を言う。


 手を拭かせてくれてありがとう。


 名前で呼ばせてくれてありがとう。


 心配したらありがとう。


 彼が持っていないものを、持っているように扱う。


 選ぶ権利。


 呼ばれる名。


 心配する力。


 そんなもの、王城では与えられたことがないのに。


 クラウディオは紙を折らなかった。


 まだ続きがある気がした。


 嫌な予感がした。


 血術教師カルゼンの言葉が戻ってくる。


 血は嘘を嫌う。


 血は覚える。


 あなたが何を見たか、何を飲み込んだか、何を憎んだか、いずれ血はすべて返します。


 クラウディオは指先を見た。


 傷はもうない。


 だが、血の奥が冷えている。


 外では、魔女狩りの噂が広がっている。


 王城の中では、誰もまだそれを気にしていない。


 ロウェナの店には、今日も甘い匂いがしていた。


 あの明かりは小さい。


 小さい火は、簡単に踏まれる。


 クラウディオは蜂蜜菓子を手に取った。


 食べる。


 甘い。


 けれど、今日は少し苦かった。


 菓子が変わったのではない。


 街の噂が、舌の上に残っている。


 クラウディオは最後まで食べた。


 残してはいけない気がした。


 食べ終えたあとも、手の中の紙袋を捨てられなかった。


 その紙袋には、ロウェナの店の匂いが残っている。


 小麦。


 蜂蜜。


 火。


 そして、ほんの少し薬草。


 クラウディオは紙袋を机の奥へしまった。


 床下ではない。


 ロウェナの紙の隣。


 部屋の外で、マルタの足音が近づく。


 クラウディオは引き出しを閉じた。


 扉が開く。


「こちらにおいででしたか」


 マルタの声。


 いつも通りの冷たさ。


「夕刻の支度を」


 クラウディオは立ち上がった。


 何事もなかったように。


 指先の傷もない。


 蜂蜜菓子も食べ終えた。


 紙袋も隠した。


 だが、胸の奥には不吉な気配が残っていた。


 噂は火に似ている。


 まだ煙だけでも、いつか燃える。


 ロウェナの店には窯がある。


 菓子を焼くための、温かい火。


 その火と、教会区の火が、クラウディオの中で重なりかけた。


 彼はそれを振り払った。


 まだ何も起きていない。


 まだ、ただの噂だ。


 まだ、ロウェナは笑っていた。


 怖いと言いながら、菓子を渡していた。


 戸締まりをすると言った。


 だから大丈夫だ。


 そう思おうとした。


 だが、血が覚えてしまった。


 掲示の文字。


 群衆の声。


 背の低い男の目。


 ロウェナの名。


 魔女という言葉。


 幼いクラウディオは、その日初めて、王城の外にも同じように冷たいものがあると知った。


 王城の冷たさは石のように残る。


 街の冷たさは、噂の形で広がる。


 どちらも、小さな温かいものを許さない。


 そのことを、彼はまだ言葉にはできなかった。


 ただ、甘い匂いの逃げ場所へ、黒い煙が近づいているような気がした。


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