第6話 魔女狩りの噂
血術の教師は、冷たい指をしていた。
名をカルゼンといった。
痩せた男だった。年齢は分からない。吸血鬼は見た目と年齢があまり結びつかない。だが、その瞳の奥には古い埃のような疲れが沈んでいた。黒い長衣をまとい、手袋をしていない。指は骨ばっていて、血の通っていない枝のように白い。
クラウディオは訓練室の中央に立っていた。
王城の北棟、古い石造りの部屋だった。壁には血術用の魔導紋が刻まれ、床には幾重にも円が描かれている。天井は高い。声を出せば、遅れて自分の声が戻ってくる。
部屋の隅にはマルタが立っていた。
さらにその奥、壁際には正妃付きの女官セリアもいる。見届け役という名の監視だった。彼女は真珠の耳飾りを揺らしながら、何も言わずにクラウディオを見ていた。
カルゼンはクラウディオの手首を取った。
断りはない。
王城では、クラウディオの身体に触れる時、誰も許可を求めなかった。
ロウェナなら聞くだろう。
触ってよかった?
その声を思い出した瞬間、クラウディオは唇を引き結んだ。
ここで思い出すな。
この部屋に、菓子屋の明かりを持ち込んではならない。
カルゼンの指が、クラウディオの手首の内側を押す。
「脈は細い」
教師は言った。
「だが、流れは悪くない。王血は確かにある」
その言葉に、セリアの目がわずかに動いた。
王血。
王の血。
正妃の子ではないクラウディオの中にも、それが流れている。
王城の者たちにとって、それは厄介な事実だった。
カルゼンは続けた。
「血術は、血を従わせる術ではありません。血が何を覚えているかを聞く術です。愚かな者は命じるだけで血が動くと思う。そういう者から順に、自分の血に喰われる」
クラウディオは教師を見た。
カルゼンは彼の目を正面から見返した。
王城の大人たちの多くは、クラウディオを見下ろす。見下す。あるいは、見ないふりをする。
この教師は違った。
冷たいが、見ている。
それが良いことか悪いことかは、まだ分からない。
「手を出しなさい」
クラウディオは言われた通り、手を出した。
カルゼンは銀の小針を取り出した。
マルタが小さく息を呑む。
セリアは動かない。
針の先が、クラウディオの指先に触れる。
鋭い痛み。
赤い血が一滴、白い指先に膨らんだ。
カルゼンは言った。
「見るだけです。動かそうとしない」
クラウディオは血を見た。
小さな赤。
王城では、血はいつも大きな器に入っている。杯に満ち、瓶に詰められ、儀式の皿に注がれる。食卓の上では冷たく光り、王の指輪の石にも似ている。
自分の指先から出る血は、それらよりずっと小さかった。
けれど、なぜか重く見えた。
「息を止めない」
カルゼンが言う。
クラウディオは、自分が息を止めていたことに気づいた。
「痛みを消そうとするな。痛みがあるなら、あるままに置け」
痛みがあるなら、あるまま。
王城では聞かない言葉だった。
痛いと言うな。
痛くないと言え。
痛みはすぐ塞がる。
傷が消えれば問題ない。
そういう場所だった。
クラウディオは、指先の痛みをそのまま見た。
血の一滴が、丸く膨らむ。
ふいに、その表面が揺れた。
風もないのに。
クラウディオは瞬きした。
血は指先から離れなかった。だが、確かに内側で細く震えた。まるで小さな赤い瞳が、こちらを見返したようだった。
カルゼンの目が細くなる。
「よろしい」
それだけだった。
褒める声ではない。
しかし、否定でもない。
クラウディオは指先を見たまま、ゆっくり息を吐いた。
セリアは何も言わない。
だが、彼女の視線が少し冷えたことを、クラウディオは見ていた。
血は動く。
自分の血は、動いた。
それが何を意味するのか、今は分からない。
ただ、王城の空気がまた少し変わることだけは分かった。
訓練が終わる頃には、指先に小さな傷がいくつもできていた。
どれも深くはない。吸血鬼の治癒力ならすぐに塞がる。だが、血を意識し続ける疲労は身体の奥に残った。指の傷より、そちらの方が重かった。
カルゼンは最後に言った。
「血は嘘を嫌います」
クラウディオは顔を上げた。
「人は嘘をつきます。王も、妃も、教師も、従者も、子どもも。だが血は、嘘をつくより先に覚える。あなたが何を見たか、何を飲み込んだか、何を憎んだか、いずれ血はすべて返します」
セリアの視線が鋭くなる。
マルタが身じろぎした。
カルゼンは気にしない。
「だから、むやみに憎みすぎないことです。血が重くなる」
クラウディオは、小さな指を握った。
指先の傷が鈍く痛む。
憎みすぎるな。
それは無理な注文に聞こえた。
王城で彼に与えられるものは、たいてい憎しみの材料だった。皿の差。椅子の位置。袖の染み。呼び名。笑い声。沈黙。母の血。正妃の目。
それを覚えないようにしろと言われても、無理だった。
忘れることは、クラウディオにとって死に近い。
覚えているから、自分がまだ自分でいられる。
カルゼンはその顔を見て、かすかに眉を寄せた。
「……まあ、今は分からなくてもよろしい」
彼は布で針を拭った。
「分からないままでも、血は進む」
その言葉は、不吉だった。
訓練室を出ると、廊下の空気はいつも通り冷たかった。
マルタはしばらく黙って歩いた。
それから、低い声で言った。
「余計なことをお考えにならないでください」
「血を動かすなと言うのか」
「そうではありません」
「では何を」
「ご自分の立場です」
クラウディオは、もう聞き飽きた言葉を聞いた。
立場。
妾の子。
正妃の目障り。
王の観察対象。
兄弟たちの刺しやすい場所。
従者たちの笑いやすい話題。
クラウディオは歩きながら言った。
「俺の立場は、俺だけが考えているわけではないだろう」
マルタは言葉に詰まった。
クラウディオは、それ以上続けなかった。
彼女を追い詰めても意味はない。
マルタは強くない。
王城の強い者に従い、弱い者へ冷たくすることで、自分の場所を守っているだけだ。
それも覚えている。
責めるかどうかは、別の話だった。
部屋に戻ると、クラウディオは手を見た。
傷はもう塞がりかけている。
だが、指先の奥に血が残っているような気がした。
血は嘘を嫌う。
血は覚える。
ならば、クラウディオの血はもう重いのだろうか。
まだ幼い身体の中に、食卓の声や、廊下の笑い、王の沈黙、正妃の問いを詰め込みすぎているのだろうか。
彼は机の引き出しを開けた。
ロウェナの紙片がある。
また来てね、クラウディオ。
丸い文字。
その隣に、自分で書いた記録。
ロウェナ・ミル。
温かい水。
月の欠片。
生きてる間くらい、温かいものを食べてもいい。
クラウディオは指先で紙の端に触れた。
血術の訓練で傷ついた指。
もう血は出ていない。
出ていないのに、紙に触れるのが少し怖かった。
この紙まで血で汚したくなかった。
彼は引き出しを閉めた。
そして、外套を取った。
今日こそ行くべきではない。
血術教師との初日。
王城の空気が変わっている。
セリアが正妃へ報告するだろう。
マルタも監視を強める。
外へ出るのは危険だった。
そう分かっていても、クラウディオは扉へ向かった。
血は覚える。
ならば、温かいものも覚えさせておかなければならない。
冷たいものばかりでは、血が重くなる。
これは言い訳だと分かっていた。
けれど、言い訳もまた道具だった。
王城を抜け出す道は、すでに身体が覚え始めている。
使用人用の階段。
洗濯室の裏。
古い物置の横。
荷運び用の小門。
今日の小門は半分閉じられていた。外から差し込む灰色の光が、細い線になって床を切っている。
衛兵はいない。
代わりに、遠くで二人分の声がした。
「教会区の掲示、見たか」
「ああ。また魔女狩りか」
クラウディオは足を止めた。
魔女狩り。
その言葉は、王城でも聞いたことがある。
古い制度。
教会区の異端審問。
吸血鬼や血術、崩れ種、獣化種に関わった疑いのある者を裁くためのもの。
教師たちはそう説明した。
だが、王城の食卓では、魔女狩りという言葉は少し違う響きを持っていた。
人間たちが恐怖で誰かを吊るす遊び。
教会が権威を示すための儀式。
吸血鬼ではなく、吸血鬼に関わった弱い人間を燃やす制度。
クラウディオは壁の影で聞いた。
声の一つは若い衛兵見習い。もう一つは年かさの男だ。
「今回は誰だって?」
「薬草売りの婆さんだとか、夜に出歩いていた女だとか、いろいろ噂がある。病人に食べ物を配っていた奴も怪しいって話だ」
「食べ物?」
「血を混ぜた呪い菓子じゃないかってよ」
笑い声。
クラウディオの指が、外套の内側で動いた。
食べ物。
菓子。
「馬鹿らしい」
年かさの男が言った。
少し安心しかけた。
だが次の言葉で、その安心は消えた。
「だが、街の連中はそういう話が好きだからな。誰かを魔女にしておけば、夜の恐怖に名前がつく」
「吸血鬼に喰われるのは怖いが、吸血鬼を裁けるわけじゃない。なら、菓子屋の女でも薬草婆でも燃やせば落ち着くってか」
「声が大きい」
「誰も聞いちゃいないさ」
クラウディオは、影の中で息を止めた。
菓子屋の女。
それは、ただの例えかもしれない。
王都には菓子屋などいくつもある。
ロウェナのことではないかもしれない。
そう考えようとした。
だが胸の奥が、冷たく沈んだ。
教会区の掲示。
魔女狩り。
薬草を扱う者。
病人に食べ物を配る者。
夜に吸血鬼の子へ優しくした者。
ロウェナは薬草蜜を渡していた。
病気の母親を持つ少年に。
金を取らず。
菓子と一緒に。
そしてクラウディオにも、優しくした。
吸血鬼の子へ。
彼は、自分の手を見た。
指先の傷は塞がっている。
けれど、ロウェナに拭かれた手だった。
衛兵たちの声が遠ざかる。
クラウディオは小門を抜けた。
外の空気は、いつもより冷たく感じた。
街は変わらず騒がしい。
だが、その騒がしさの奥に、別の音が混じっていた。
囁き。
教会の鐘。
紙を貼る音。
足を止める人々。
誰かが誰かの耳元で話し、話された者が振り返る。
大通りの壁に、教会区の告知が貼られていた。
人々がその前に集まっている。
クラウディオは頭巾を深くかぶり、人混みの隙間から掲示を見た。
白い紙。
黒い文字。
教会の紋章。
そこには、異端調査の強化が告げられていた。
吸血鬼と血術に関わる不審行為。
夜間における無許可の外出。
病人への未認可の薬草施与。
出所不明の食物の配布。
血を失った者との接触。
吸血鬼の子への接触。
教会への届け出なき治療行為。
それらを見聞きした者は、速やかに教会区へ届け出よ。
魔女の兆候を見逃すな。
人々の声が、紙の前で渦を巻いていた。
「また始まるのか」
「最近、外縁で崩れ種が増えているからな」
「うちの隣の女、夜に誰かを入れていたぞ」
「薬草の匂いがしたって?」
「いや、甘い匂いだった」
「甘い?」
「菓子か何かじゃないか」
「菓子に血を混ぜる魔女もいるらしい」
「怖いねえ」
「怖いなら、店の名前を届ければいい」
クラウディオは、人混みから離れた。
吐き気に似たものが胸の奥に上がる。
吸血鬼は人間ほど簡単に吐かない。
だが、内側が冷えて、血が重くなる感覚はあった。
人々は怯えている。
それは分かる。
夜になれば、彼らは吸血鬼を恐れる。
崩れ種を恐れる。
獣化種を恐れる。
血を抜かれた死体を恐れる。
扉を叩く音を恐れる。
自分の子どもが戻らない夜を恐れる。
だが、その恐怖の向かう先が、おかしかった。
王城には届かない。
王血には触れられない。
野良吸血鬼を捕らえる力もない。
崩れ種へ立ち向かう勇気もない。
なら、薬草を渡した女を疑う。
食べ物を配った者を疑う。
夜に誰かへ明かりを灯した者を疑う。
優しかった者を、疑う。
クラウディオは歯を噛んだ。
まだ、ただの噂だ。
そう思いたかった。
けれど噂は、王城の囁きに似ていた。
聞こえるように落とす声。
誰かが言っていた、という形にする悪意。
確かめられない話。
反論すれば、怪しいと言われる仕組み。
王城の食卓で彼に向けられる刃と、街の噂は似ていた。
違うのは、ここでは刃の数が多すぎることだった。
クラウディオは坂道へ向かった。
丸い菓子の看板は、今日も揺れていた。
だが、いつものように胸が緩まなかった。
店の前に、人が二人立っていた。
一人は隣の店の女主人らしい。もう一人は、背の低い男で、手に教会区の小札を持っている。二人は店の窓を見ながら小声で話していた。
「ここも薬草を扱っていたでしょう」
「薬草蜜よ。咳止めにね」
「許可は?」
「知らないわ」
「この前、子どもに渡していたのを見た者がいる」
「ロウェナさんなら、昔からそういう人よ」
「だから怪しいんだ。誰にでも優しい顔をする女ほど、裏で何をしているか分からない」
クラウディオの足が止まった。
ロウェナ。
名前が出た。
背の低い男は、教会の関係者ではないかもしれない。だが、小札を持っている。届け出を勧める者か、噂を集めている者か。
女主人は困ったように眉を寄せている。
「でも、あの人はただのお菓子屋よ」
「ただの菓子屋が、夜に誰を入れている?」
「夜?」
「少し前、黒い外套の子どもが出入りしていたと聞いた」
クラウディオは、指先が冷えるのを感じた。
自分だ。
頭巾をかぶった、黒い外套の子ども。
誰かが見ていた。
誰かが話した。
誰かが、ロウェナの店へ結びつけた。
男は続けた。
「吸血鬼の子ではないかという話もある」
「まさか」
「吸血鬼に菓子を渡す女だぞ」
「子どもなら、人間でも吸血鬼でもお腹は空くでしょう」
「その考えが危ない」
女主人は口を閉じた。
男は満足げに頷く。
「優しさを装う魔女は多い。気をつけなさい」
クラウディオは、動けなかった。
優しさを装う魔女。
温かい水。
白い手。
焼き菓子。
名前を呼ぶ声。
それらが、男の口の中で別のものへ変わっていく。
呪い。
疑い。
異端。
魔女。
吐き気がした。
いや、違う。
それは吐き気ではない。
怒りだった。
だが今のクラウディオには、怒りを使う力がない。
彼は小さい。
王城の妾の子。
血術の初日に、血を少し震わせただけの子ども。
この場で男へ何かを言っても、かえってロウェナを危うくする。
吸血鬼の子が庇った。
それだけで、噂はさらに太る。
クラウディオは影へ下がった。
男と女主人が離れるのを待つ。
足音が遠ざかる。
それから、店の扉へ近づいた。
鈴が鳴る。
いつもの音。
けれど今日は、その音まで誰かに聞かれている気がした。
「いらっしゃい」
ロウェナの声。
奥から顔を出した彼女は、いつもと同じ白い前掛けをつけていた。栗色の髪をまとめ、頬に粉をつけている。
彼女はクラウディオを見ると、少しだけ驚いた。
「クラウディオ」
名前を呼ぶ声は、今日も温かかった。
だが、クラウディオはすぐに答えられなかった。
店の中の明かり。
窯の火。
焼き菓子の匂い。
棚。
白い布。
温かい水。
全部いつも通りなのに、外の噂が薄い煤のようにまとわりついて見えた。
ロウェナは彼の顔を見て、作業台から離れた。
「どうしたの?」
「外で」
言いかけて、止まる。
何と言えばいい。
あなたが魔女だと噂されている。
薬草蜜を渡したから。
病人へ食べ物を配ったから。
吸血鬼の子に優しくしたから。
俺が来たから。
言葉が喉で詰まった。
ロウェナは屈んだ。
いつものように、目線を近づける。
「怖いものを見た?」
クラウディオは唇を噛みそうになり、堪えた。
怖い。
その言葉を認めるのは嫌だった。
だが、今日の胸の奥の冷たさには、怒りだけでなく恐怖も混ざっていた。
「魔女狩りの掲示があった」
ようやく、それだけ言った。
ロウェナの表情が少し変わった。
大きく驚いたわけではない。
むしろ、来るものが来た、という顔だった。
クラウディオはそれを見逃さなかった。
「知っていたのか」
「噂は聞いていたよ」
「なぜ言わない」
「あなたに?」
「そうだ」
「心配させると思ったから」
「俺は心配などしない」
ロウェナは少しだけ笑った。
いつもの笑いより薄い。
「そっか」
クラウディオは、そのそっかが嫌だった。
彼女は分かっている。
分かった上で、踏み込まない。
それが楽な時もある。
今日は、苛立った。
「薬草を渡した者が疑われると書いてあった」
「うん」
「病人に食べ物を配る者も」
「うん」
「吸血鬼の子へ接触する者も」
ロウェナは、そこで黙った。
クラウディオの手が外套の内側で握られる。
「俺が来なければよかったのか」
声は小さかった。
ロウェナはすぐに首を横に振った。
「それは違う」
「違わない。外で、黒い外套の子どもの話をしていた」
ロウェナの目がわずかに鋭くなった。
「誰が?」
「背の低い男。教会の札を持っていた。隣の店の女と話していた」
「そう」
「あなたは危ない」
また、その言葉。
前にも言った。
弱いから危ない、と。
今日は、弱いからではなかった。
優しいから危ない。
クラウディオはそれをまだうまく言えなかった。
ロウェナは立ち上がり、店の扉へ視線を向けた。
窓の外では、通りを歩く人々がいつもより少しだけ店の中を見ていた。
ほんの一瞬。
すぐに目を逸らす。
けれど、その一瞬が積もれば噂になる。
ロウェナは小さく息を吐いた。
「しばらく、薬草蜜は奥にしまっておこうかな」
「それだけで済むのか」
「分からない」
「なぜ平気な顔をする」
「平気じゃないよ」
ロウェナはクラウディオを見た。
「怖いよ」
その声は静かだった。
クラウディオは息を止めた。
怖い、と彼女は言った。
王城では、誰もそう言わない。
恐れていても隠す。
怯えていても礼で覆う。
泣いても、泣いていないふりをする。
ロウェナは怖いと言った。
それなのに、崩れなかった。
「怖いなら、やめればいい」
クラウディオは言った。
「菓子も薬草蜜も、病人への食べ物も、全部」
「そうしたら、困る人がいる」
「あなたが燃やされたら終わりだ」
言ってから、店の中の空気が止まった。
燃やされる。
火刑。
その言葉を、クラウディオはまだ実際のものとして見たことはない。
だが王城で聞いたことはある。
魔女狩りの末路。
教会区の広場。
薪。
祈り。
群衆。
罪を告げる声。
火。
ロウェナの店の窯とは違う火。
菓子を焼くためではない火。
人を消すための火。
ロウェナは、少しだけ顔を伏せた。
それから、静かに言った。
「終わりたくはないな」
クラウディオの胸の奥が、ぎゅっと冷えた。
「なら」
「でも、全部やめれば安全かっていうと、きっと違う」
ロウェナは窓の外を見た。
「一度、噂が向くとね。何をしても怪しく見えるの。薬草を渡せば魔女。渡さなければ、隠している。子どもを入れれば魔女。追い返せば、やましいから証人を遠ざけた。笑えば余裕がある。泣けば罪を認めた。黙れば怪しい。怒ればやっぱり怪しい」
クラウディオは、何も言えなかった。
それは、王城と同じだった。
怒れば癇癪。
黙れば不気味。
泣けばみじめ。
答えれば生意気。
答えなければ愚か。
どの道も、最初から塞がれている。
ロウェナは笑わなかった。
「だから、少し考える。何をやめて、何を残すか」
「逃げればいい」
「店を?」
「そうだ」
「どこへ?」
クラウディオは答えられなかった。
どこへ。
逃げ場所。
クラウディオにとって、ここが逃げ場所だった。
ロウェナ自身は、どこへ逃げるのだろう。
この店を失えば、彼女はどこへ行くのだろう。
クラウディオは、初めてそのことを考えた。
店はロウェナのものだ。
窯。
棚。
白い布。
紙袋。
丸い菓子の看板。
全部。
それを捨てろと、自分は言った。
簡単に。
王城の者たちと同じように、相手の持ち物を軽く扱ったのかもしれない。
クラウディオは唇を引き結んだ。
「……悪かった」
ロウェナが目を丸くした。
「今、謝った?」
「聞こえなかったならいい」
「聞こえた。びっくりした」
「忘れろ」
「それは無理かな」
「忘れろ」
ロウェナは少し笑った。
それは、今日初めて見るいつもの笑いに近かった。
「じゃあ、大事に覚えておく」
「覚えるな」
「もう覚えた」
クラウディオは不機嫌に顔を逸らした。
その不機嫌の奥で、少しだけ胸が緩む。
この状況で緩むな、と自分に命じた。
ロウェナは手を洗う桶を出した。
「手、洗う?」
いつもの言葉。
だが今日は、いつもより重かった。
クラウディオは手を出した。
ロウェナは温かい水で白い布を濡らし、彼の指を包む。
指先は、血術の訓練のせいで少し硬くなっていた。
傷は塞がっている。
だがロウェナは気づいた。
「指、どうしたの」
「何でもない」
「針?」
「血術の訓練」
ロウェナの手が止まる。
クラウディオは顔を上げた。
彼女の目に、恐怖が浮かぶかと思った。
吸血鬼の血術。
王家の子。
その力を嫌がるかと。
だがロウェナは、恐れるより先に指を見た。
「痛かった?」
その問いだった。
クラウディオは、少しだけ息を呑んだ。
血術を学んだかではない。
王の血が動いたかでもない。
危険かどうかでもない。
痛かったか。
ロウェナは、そこを聞いた。
「……痛くはない」
「そう」
彼女は布で指先をそっと包んだ。
「でも、今日はよく温めておこう」
「もう傷はない」
「傷がなくても、痛かった場所は冷えるから」
クラウディオは黙った。
ロウェナの言うことは、時々よく分からない。
だが、不思議と嘘には聞こえなかった。
傷がなくても、痛かった場所は冷える。
膝も。
唇も。
名前も。
食卓の袖も。
全部、まだ冷えているのかもしれない。
店の外で、誰かが立ち止まる気配がした。
クラウディオはすぐに扉を見た。
ロウェナも気づいた。
影が窓硝子を横切る。
通り過ぎるだけ。
だが、二人とも少しの間動かなかった。
ロウェナは静かに布を絞る。
「今日は早く帰った方がいいかもしれない」
クラウディオは彼女を見た。
「俺がいると、怪しまれるからか」
「あなたが危ないから」
「俺は」
「王城の子でも、子どもは子ども」
ロウェナは遮るように言った。
珍しく、少し強い声だった。
「教会の人たちは、疑い始めたら都合よく見る。あなたが誰かを知っていても、知らなくても、利用できる形に変えるかもしれない」
「俺は弱くない」
「弱くないなら、危ない場所から離れることもできるでしょう」
クラウディオは言い返そうとして、止まった。
離れる。
それは逃げることではなく、判断だと言われたような気がした。
ロウェナは紙袋に菓子を入れた。
今日は少なかった。
小さな蜂蜜菓子が一つ。
それだけ。
「今日はこれだけ」
「金は」
「いらない」
「なぜ」
「早く帰ってほしいから」
クラウディオは紙袋を受け取らなかった。
「なら受け取らない」
「クラウディオ」
「理由が悪い」
ロウェナは困ったように眉を下げた。
「じゃあ、怖い掲示を見た子に、甘いものを渡したいから」
「子ども扱いするな」
「してるよ」
彼女は言った。
まっすぐに。
「今日は、する」
クラウディオは何も言えなくなった。
ロウェナは紙袋を彼の手に持たせた。
「帰って。できれば、しばらくは気をつけて来て」
「来るなとは言わないのか」
ロウェナは少しだけ迷った。
その迷いが、クラウディオには痛かった。
来るなと言われるかもしれない。
安全のために。
彼女のために。
自分のために。
それが正しいのかもしれない。
だがロウェナは、最後には首を横に振った。
「言いたくない」
「危ないのに」
「うん」
「馬鹿だ」
「そうかも」
「弱い」
「うん」
「魔女だと言われる」
「困るね」
ロウェナは笑った。
怖いと言った人の笑みだった。
それでも、笑った。
「でも、クラウディオが来て、菓子を食べて、少しでも息ができるなら、それを全部なかったことにしたくない」
クラウディオの喉が詰まった。
息ができる。
彼がここで息をしていることを、ロウェナは知っていた。
知られていた。
それが恥ずかしく、悔しく、同時にどうしようもなく温かかった。
「……余計なことを言う」
クラウディオは低く言った。
ロウェナは小さく笑った。
「よく言われる」
「誰に」
「いろんな人に」
ロウェナは扉を開けた。
外の冷たい空気が入ってくる。
店の温かさが薄まる。
クラウディオは紙袋を握りしめた。
「ロウェナ」
初めて、彼女の名を声に出した。
ロウェナは驚いたように目を開いた。
「なに?」
クラウディオは、何を言うつもりだったのか分からなくなった。
気をつけろ。
逃げろ。
薬草蜜をしまえ。
俺のことを話すな。
俺は来ない方がいいのか。
全部、喉で絡まる。
結局、出たのは短い言葉だった。
「戸締まりをしろ」
ロウェナは瞬きをした。
そして、柔らかく笑った。
「うん。する」
「窓も」
「窓も」
「知らない男を入れるな」
「お客さんは?」
「知らない男だ」
「厳しいね」
「笑うな」
「ごめん」
笑いながら謝られた。
クラウディオは睨んだ。
ロウェナは、それでも少し嬉しそうだった。
「ありがとう、クラウディオ」
「礼を言われることではない」
「うん。でも、ありがとう」
クラウディオはそれ以上いられなかった。
扉を出る。
鈴が鳴る。
背後で扉が閉まる。
坂道を下りる間、何度も振り返りそうになった。
だが振り返らなかった。
振り返れば、誰かに見られるかもしれない。
ロウェナの店に何度も視線を向ける黒い外套の子ども。
それだけで、噂がまた一つ太る。
彼は前を見て歩いた。
街の壁には、教会の掲示が貼られている。
人々はそれを見て囁く。
薬草。
病人。
菓子。
吸血鬼の子。
魔女。
言葉が、街の空気を汚していく。
甘い匂いは外套の内側に隠した。
それでも、完全には隠れない気がした。
王城へ戻ると、冷気が彼を迎えた。
小門を抜ける。
廊下を進む。
マルタに見つかる前に部屋へ戻る。
扉を閉めた瞬間、ようやく息を吐いた。
紙袋を取り出す。
中には蜂蜜菓子が一つ。
小さい。
けれど、今日のそれはいつもより重く見えた。
クラウディオは机に向かった。
まず床下の板を外そうとして、手を止める。
今日のことは、どちらに書けばいい。
罪の記録か。
ロウェナの記録か。
魔女狩りの噂は、誰かの罪だ。
けれど、まだ誰の名を記せばいいのか分からない。
背の低い男。
教会の小札。
隣の店の女。
掲示の文字。
群衆の声。
それらは形が曖昧で、王城の者たちのように一人ずつ紙へ閉じ込められない。
噂には顔がない。
だから怖い。
クラウディオは新しい紙を出した。
そして書いた。
魔女狩りの掲示。
薬草を扱う者。
病人に食べ物を配る者。
夜に吸血鬼の子へ接触する者。
菓子に血を混ぜる魔女という噂。
背の低い男。教会の小札。ロウェナの名を出した。黒い外套の子どもの話をした。
隣の店の女。ロウェナを庇いかけたが、黙った。
群衆。誰かを魔女にすれば夜の恐怖に名前がつく。
そこまで書いて、ペン先が止まる。
紙の下の方に、もう一行書いた。
ロウェナは怖いと言った。
それでも菓子を渡した。
戸締まりをしろと言ったら、ありがとうと言った。
クラウディオは、その文字を見ていた。
ありがとう。
まただ。
ロウェナは、彼の知らない場所で礼を言う。
手を拭かせてくれてありがとう。
名前で呼ばせてくれてありがとう。
心配したらありがとう。
彼が持っていないものを、持っているように扱う。
選ぶ権利。
呼ばれる名。
心配する力。
そんなもの、王城では与えられたことがないのに。
クラウディオは紙を折らなかった。
まだ続きがある気がした。
嫌な予感がした。
血術教師カルゼンの言葉が戻ってくる。
血は嘘を嫌う。
血は覚える。
あなたが何を見たか、何を飲み込んだか、何を憎んだか、いずれ血はすべて返します。
クラウディオは指先を見た。
傷はもうない。
だが、血の奥が冷えている。
外では、魔女狩りの噂が広がっている。
王城の中では、誰もまだそれを気にしていない。
ロウェナの店には、今日も甘い匂いがしていた。
あの明かりは小さい。
小さい火は、簡単に踏まれる。
クラウディオは蜂蜜菓子を手に取った。
食べる。
甘い。
けれど、今日は少し苦かった。
菓子が変わったのではない。
街の噂が、舌の上に残っている。
クラウディオは最後まで食べた。
残してはいけない気がした。
食べ終えたあとも、手の中の紙袋を捨てられなかった。
その紙袋には、ロウェナの店の匂いが残っている。
小麦。
蜂蜜。
火。
そして、ほんの少し薬草。
クラウディオは紙袋を机の奥へしまった。
床下ではない。
ロウェナの紙の隣。
部屋の外で、マルタの足音が近づく。
クラウディオは引き出しを閉じた。
扉が開く。
「こちらにおいででしたか」
マルタの声。
いつも通りの冷たさ。
「夕刻の支度を」
クラウディオは立ち上がった。
何事もなかったように。
指先の傷もない。
蜂蜜菓子も食べ終えた。
紙袋も隠した。
だが、胸の奥には不吉な気配が残っていた。
噂は火に似ている。
まだ煙だけでも、いつか燃える。
ロウェナの店には窯がある。
菓子を焼くための、温かい火。
その火と、教会区の火が、クラウディオの中で重なりかけた。
彼はそれを振り払った。
まだ何も起きていない。
まだ、ただの噂だ。
まだ、ロウェナは笑っていた。
怖いと言いながら、菓子を渡していた。
戸締まりをすると言った。
だから大丈夫だ。
そう思おうとした。
だが、血が覚えてしまった。
掲示の文字。
群衆の声。
背の低い男の目。
ロウェナの名。
魔女という言葉。
幼いクラウディオは、その日初めて、王城の外にも同じように冷たいものがあると知った。
王城の冷たさは石のように残る。
街の冷たさは、噂の形で広がる。
どちらも、小さな温かいものを許さない。
そのことを、彼はまだ言葉にはできなかった。
ただ、甘い匂いの逃げ場所へ、黒い煙が近づいているような気がした。




