第5話 甘い匂いの逃げ場所
血術の教師がつくことになってから、王城の空気はわずかに変わった。
誰も表立って何かを言ったわけではない。
王の決定に異を唱える者などいない。少なくとも、食卓や廊下で堂々と口にする者はいない。だが王城の者たちは、沈黙の中に毒を混ぜることに慣れていた。
従者が頭を下げる角度が、少しだけ深くなった。
侍女がクラウディオの服を整える手つきが、少しだけ慎重になった。
礼法教師オルガンの「もう一度」は、少しだけ長く間を置くようになった。
リヴィアは以前よりよく母の顔を見るようになった。
セヴランは食卓でクラウディオを笑う前に、一拍だけ考えるようになった。
アドリアンは変わらず優しかった。
それがいちばん厄介だった。
「血術の教師がつくそうだね」
昼の礼法稽古のあと、アドリアンは廊下の柱のそばでそう言った。
クラウディオは足を止めた。
窓のない廊下に、青白い魔導灯が並んでいる。壁には古い王たちの肖像。床は磨かれた黒石。どこまでも冷たく、硬く、足音を長く響かせる。
アドリアンは、その冷たい廊下に似合う笑みを浮かべていた。
柔らかい。
静か。
刃の音がしない刃。
「陛下のご命令です」
クラウディオは答えた。
「嬉しい?」
短い問いだった。
リヴィアなら、もっと露骨に聞く。
セヴランなら、嫌味を混ぜる。
アドリアンは、ただ選ばせる。
嬉しいと言えば、身の程知らず。
嬉しくないと言えば、王命への不敬。
分からないと言えば、愚か。
黙れば、不遜。
クラウディオはアドリアンを見上げた。
「必要なことなら、学びます」
アドリアンの笑みが、ほんの少し深くなった。
「便利な答えだ」
「兄上ほどではありません」
言ってから、廊下の空気が固まった。
近くにいた従者が息を止める。
アドリアンは一瞬だけ目を細めた。
クラウディオは頭を下げた。
「失礼いたしました」
早すぎず、遅すぎず。
礼法通りに。
謝罪の形だけを整える。
アドリアンはしばらく黙っていた。
それから、低く笑った。
「本当に、可愛くない」
クラウディオは何も言わなかった。
また、その言葉。
可愛くない。
王城の者たちはよくそれを言う。
可愛ければ、何が変わるのだろう。
リヴィアのように母の顔を見て笑えば、菓子の皿が大きくなるのか。
セヴランのように兄を真似て嘲れば、席が上座に近づくのか。
アドリアンのように柔らかく刺せば、王は満足するのか。
クラウディオには分からなかった。
ただ、分からないものを分からないままにはしなかった。
覚える。
観察する。
いつか使える形にして、胸の奥へしまう。
アドリアンの前を離れ、自室へ戻る頃には、クラウディオの肩は少しだけ強張っていた。
マルタが部屋で待っていた。
灰色の髪を固く結い、相変わらず黒い侍女服の襟を喉元まで詰めている。彼女はクラウディオの顔を見て、すぐに目を細めた。
「また何かおっしゃいましたか」
クラウディオは答えなかった。
「王子殿下方に余計なことを申し上げてはいけませんと、何度もお伝えしております」
「余計なことの範囲が広い」
「口答えです」
「事実だ」
「それが口答えなのです」
クラウディオはマルタを見た。
彼女は困っている。
怒っている。
恐れてもいる。
クラウディオが何かをすれば、彼女が叱られる。クラウディオが失敗すれば、彼女の管理が悪いと言われる。彼女がクラウディオを嫌う理由は、悪意だけではない。
それは分かっている。
分かっていても、温かくはならない。
「本日は部屋でお過ごしください」
マルタは言った。
「血術教師との顔合わせは明日です。余計なことが起きては困ります」
余計なこと。
クラウディオはその言葉を聞きながら、机の奥に隠した紙片を思い出した。
また来てね、クラウディオ。
丸い文字。
ロウェナの声。
蜂蜜の焼き菓子。
温かい水。
王城では、あれも余計なことになるのだろう。
むしろ、余計だからこそ大事だった。
マルタが出ていったあと、部屋は静かになった。
暖炉には火がない。
窓は黒硝子で閉ざされ、外の光は入らない。青白い魔導灯の細い光だけが、扉の隙間から床に落ちている。
クラウディオは寝台に座った。
自分の手を見る。
まだ小さい手。
明日から血術を学ぶ手。
王の血を証明するかもしれない手。
けれど今は、何も持っていない。
ベルニエの手首を折ることも、リヴィアの笑いを止めることも、セヴランの杯を叩き落とすことも、アドリアンの喉から優しい声を奪うこともできない。
力を持たない子どもは、黙るしかない。
ただ、黙っているだけでは壊れる。
だから、彼には逃げる場所が必要だった。
そう認めることは、ひどく屈辱だった。
逃げ場所。
まるで弱い者の言葉だ。
だがクラウディオはまだ弱かった。
弱いという事実は、嫌悪しても消えない。
消えないものなら、利用するしかない。
彼は立ち上がった。
床下の板を外し、銀貨を一枚取る。前に受け取った銅貨も数枚。古い外套を羽織り、頭巾を深くかぶる。
手順は、前よりも速くなっていた。
速くなっていることが、少しだけ怖かった。
慣れている。
王城を抜け出すことに。
甘い匂いを目指すことに。
ロウェナの声を欲しがることに。
そのどれも、弱さに見えた。
クラウディオは扉に手をかけ、廊下を確かめた。
静かだった。
マルタは薬草室か、正妃付きの女官へ報告に行ったのだろう。従者たちの足音は遠い。礼法室へ向かう時間でも、食卓へ呼ばれる時間でもない。
彼は使用人用の階段を降り、洗濯室の裏を抜けた。
王城の裏手には、細い通路が多い。
荷運び用の小門。
古い石段。
使われなくなった物置の横。
水を流すための溝。
王族が通る場所ではない。
だから、クラウディオには向いていた。
誰も王族がそこを通ると思っていない。
誰も妾の子が、自分の足で道を覚えていると思っていない。
小門を抜ける時、遠くで誰かの声がした。
「おい、そっちは閉めたか」
「あとでいいだろう」
「叱られるぞ」
「誰が見るんだ、こんなところ」
クラウディオは影に身を沈めた。
衛兵二人。
一人は知らない。
もう一人は腰の金具が鳴る若い見習い。前にミルゴと話していた男だ。名はまだ分からない。声と歩き方だけを覚えている。
彼らが通り過ぎるのを待つ。
足音が遠ざかる。
小門から外へ出る。
街の空気が、彼を包んだ。
最初に感じるのは湿った石の匂いだった。
次に馬の汗。
干した布。
野菜を洗う水。
遠くの教会から漂う香。
そして、どこかで焼かれているパンの匂い。
王城の空気は、整えられすぎている。
香油、血杯、古い石、魔導灯、冷たい布。
すべてが管理され、磨かれ、閉じられている。
街の空気は違った。
雑だった。
騒がしかった。
時々、嫌な匂いも混じる。
腐った果実。
排水溝。
魚。
安い酒。
だが、その雑さの中に、生きている音があった。
誰かが笑う。
誰かが怒鳴る。
子どもが走る。
馬車の車輪が石畳を叩く。
店主が値を叫ぶ。
吸血鬼の女が日避けの帽子を押さえ、人間の商人と値切り合っている。
秩序はない。
上品でもない。
けれど、クラウディオはこの騒がしさに、少しだけ呼吸を許された。
彼は坂道へ向かった。
丸い菓子の看板。
白い湯気のような甘い匂い。
それが見えた瞬間、胸の奥の硬いものが少しだけ緩む。
クラウディオは眉を寄せた。
緩むな。
そう自分へ命じる。
王城で緩めば、刃が入る。
ここでも同じかもしれない。
ロウェナがいつか態度を変えない保証はない。
王族と知った時、彼女は一度少し驚いた。怯えも媚びも見せなかったが、人は変わる。知れば変わる。周囲に言われれば変わる。得を見れば変わる。損を恐れれば変わる。
だから、信じてはいけない。
そう思っているのに、扉の前に立つと、指先は自然に袖で拭かれていた。
汚れていないか確かめる。
蜂蜜を持つ手にしていいか確かめる。
それから扉を押す。
鈴が鳴った。
「いらっしゃい」
店の奥から声がした。
すぐに、ロウェナが顔を出す。
栗色の髪を後ろでまとめ、白い前掛けをつけている。頬に薄く粉がつき、袖は肘までまくられていた。窯の火で、額に少し汗が滲んでいる。
彼女はクラウディオを見ると、当たり前のように笑った。
「来たね、クラウディオ」
名前が、店の明かりの中を渡ってくる。
クラウディオは一瞬、答え損ねた。
王城でも名は呼ばれる。
だが、その度に身構える。
ロウェナに呼ばれると、身構えるより先に、胸の奥が痛む。
温かい痛みだった。
嫌ではない。
だから厄介だった。
「……買いに来た」
「うん。今日は何にする?」
ロウェナは何も聞かない。
なぜ来たのか。
どうやって来たのか。
家の人は知っているのか。
王城へ戻らなくていいのか。
その全部を、今は聞かない。
店の中は温かかった。
窯の火が赤く揺れ、木の棚には焼き上がった菓子が並んでいる。丸い蜂蜜菓子。細長い砂糖菓子。木の実を混ぜた固い焼き菓子。果実の蜜を落とした小さなもの。紙袋。紐。粉のついた作業台。
どれも王城にはない。
王城の食卓は広い。
この店は狭い。
王城の燭台は高い天井から吊るされている。
この店の明かりは低く、近い。
王城の火は青白い魔導火だ。
この店の火は赤く、少し煙の匂いがする。
王城では、誰かが近づくたびに背筋が冷える。
この店では、ロウェナが近づくと、小麦粉と蜂蜜の匂いがした。
「手、洗う?」
彼女が言った。
クラウディオは無言で手を出した。
もう、ためらいは少し減っていた。
それがまた、怖かった。
ロウェナは小さな桶に温かい水を入れ、白い布を浸す。柔らかく絞り、クラウディオの指を包んだ。
「今日はちゃんと拭いてきたね」
「店に入る前に拭いた」
「うん、見れば分かる」
「なら、洗う必要はない」
「蜂蜜の菓子を食べるなら、温かい手の方がいいでしょう」
「そういうものか」
「そういうもの」
彼女は笑った。
クラウディオは、自分の手を見ていた。
王城では、手は整えられる。
ここでは、温められる。
その違いを、彼はうまく飲み込めなかった。
ロウェナの手は白い。
けれど、ただ白いだけではない。
粉にまみれ、火で少し赤くなり、爪の周りに小麦粉が入り、指の腹は働く手らしく少し硬い。王城の女たちの手とは違う。宝石を飾るための手ではない。誰かへ命じるための手でもない。
物を作る手だった。
そして今、彼の手を拭いている。
「はい。できた」
ロウェナが布を置く。
「今日は蜂蜜? それとも違うのにする?」
クラウディオは棚を見た。
前と同じものにしたい。
そう思った。
だが、同じものが好きだと知られるのは嫌だった。
ロウェナに知られることが嫌なのではない。
好きなものがある自分を認めるのが嫌だった。
好きなものがあると、それを失う恐怖が生まれる。
失いたくないものを持つ者は弱くなる。
王城で彼は、それを学んでいた。
「どれがいい」
クラウディオは聞いた。
ロウェナは棚を見た。
「そうだね。今日はこれが焼きたて」
彼女が取ったのは、丸く薄い菓子だった。表面には砂糖が軽く振られ、端は花びらのように少し反っている。王城の菓子ほど整ってはいないが、火の色が綺麗だった。
「名前は」
「月の欠片」
「菓子に名前をつけるのか」
「つけるよ。その方が楽しいでしょう」
「食べれば同じだ」
「同じじゃないよ」
ロウェナは真面目に言った。
「蜂蜜の丸菓子と、月の欠片と、木の実の小石は違う」
「小石を食べさせるのか」
「木の実の小石。固いけどおいしい」
クラウディオは少しだけ眉を寄せた。
ロウェナはそれを見て、笑う。
「今、ちょっと変な顔した」
「していない」
「したよ」
「見間違いだ」
「じゃあ、見間違いってことにしておく」
軽く流される。
だが、嘲られたわけではない。
この店では、彼の表情が少し動いても、それは攻撃材料にならないらしい。
クラウディオは銅貨を出した。
ロウェナはきちんと数え、足りる分だけ受け取った。
「今日は上手に払えたね」
「子ども扱いするな」
「ごめん。でも、本当に上手になってる」
上手になっている。
王城で言われる「まだ足りない」とは違う。
足りないところを見るのではなく、できるようになったところを見る言葉。
クラウディオは、返す言葉を失った。
ロウェナは小さな木の椅子を指した。
「食べていく?」
「少しだけ」
「うん。少しだけでもいいよ」
クラウディオは椅子に座った。
足が床につく。
この椅子は彼の身体に合っていた。
王城の食卓の椅子は大きすぎる。彼を小さく見せる。座るたびに、自分の足が床に届かないことを思い知らされる。
この椅子は小さい。
けれど、その小ささは彼を貶めるためのものではなかった。
ただ、座りやすいだけだった。
それが、ひどく不思議だった。
月の欠片をかじる。
薄い表面がぱり、と割れた。
砂糖の軽い甘さと、焼けた小麦の香ばしさ。蜂蜜の丸菓子より甘さは控えめで、後から少しだけ塩気が来る。王城の菓子のように複雑ではない。
けれど、分かりやすかった。
クラウディオは二口目を食べた。
「おいしい?」
ロウェナが聞く。
彼は少し間を置いて答えた。
「悪くない」
「それは、気に入ったってこと?」
「悪くないと言った」
「じゃあ、悪くないってことで」
ロウェナは楽しそうに作業台へ戻った。
生地を伸ばす音。
木の型で抜く音。
窯の火が小さく爆ぜる音。
通りの向こうで誰かが笑う声。
店の鈴が風で少し鳴る音。
王城にも音はある。
足音、銀器、扉、囁き、礼法教師の声。
だが王城の音は、いつも何かを命じている。
静かにしていろ。
間違えるな。
見られている。
覚えておけ。
この店の音は違った。
何かが焼けている。
誰かが働いている。
風が通った。
客が来るかもしれない。
ただ、それだけ。
命令ではない音。
それだけで、肩の力が少し抜けた。
クラウディオは、それに気づいて唇を引き結んだ。
抜けるな。
油断するな。
だが、窯の火は赤く、店の明かりは低く、ロウェナの手は温かい。
王城と違う世界が、ここにはあった。
小さく、狭く、王権も血筋もない世界。
菓子の焼ける匂いで満ちた場所。
それが逃げ場所になっていると認めたくなかった。
けれど、クラウディオの身体は、すでに覚えていた。
王城で唇を切られた朝よりも。
食卓で袖を汚された昼よりも。
礼法室で膝をついた時よりも。
この椅子に座っている時間の方が、息がしやすいことを。
「クラウディオ」
ロウェナが呼んだ。
クラウディオは顔を上げる。
彼女は作業台の上で、生地を小さな丸に整えていた。
「手伝う?」
「何を」
「これを並べるの。間を空けて、この鉄板に」
「やったことがない」
「じゃあ、教える」
ロウェナは当たり前のように言った。
クラウディオは立ち上がった。
作業台のそばへ行く。
台は彼には少し高い。ロウェナはすぐに小さな踏み台を出した。
「乗っていいよ」
クラウディオは踏み台を見た。
子ども用。
王城なら、リヴィアが笑う。
足が届かないのね、と。
セヴランなら、乳母部屋の道具だと言う。
アドリアンなら、優しい声で、無理をしなくていいと刺す。
だがロウェナは笑っていない。
ただ作業しやすいように出しただけ。
クラウディオは踏み台に乗った。
作業台が見やすくなる。
ロウェナは生地を一つ持ち上げた。
「こう。隣とくっつくと、焼いた時にひとつになっちゃうから、少し離す」
「どれくらい」
「指二本分くらい」
「厳密ではないのか」
「だいたいでいいよ」
「だいたい」
クラウディオは、その言葉に少し困った。
王城では、だいたいは許されない。
礼の角度。
杯の持ち方。
立つ位置。
返答の間。
すべてが正確でなければならない。
間違えれば、もう一度。
もう一度。
もう一度。
だがロウェナは、生地を少し曲がった位置に置いても笑った。
「それで大丈夫」
「曲がっている」
「焼けば少し膨らむから、ちょうどよくなるかも」
「ならなかったら」
「それはそれで、そういう形の菓子になる」
クラウディオは、手の中の生地を見た。
丸い。
柔らかい。
少し押すと形が変わる。
王城では、形が歪むことは悪だった。
ここでは、そういう形の菓子になる。
彼は慎重に生地を並べた。
一つ。
もう一つ。
指二本分。
少し曲がる。
直そうとして触りすぎると、今度は形が崩れた。
クラウディオの眉が寄る。
「崩れた」
「直せるよ」
ロウェナは少し粉をつけ、指で形を整えた。
「ほら」
「痕が残っている」
「焼いたら分からないかもしれない」
「分かったら」
「私が食べる」
「売らないのか」
「気にする人もいるからね。でも、味は同じ」
「形が悪いのに」
「形が悪いだけ」
クラウディオは黙った。
形が悪いだけ。
血筋が半端なだけ。
席が端なだけ。
正妃の子ではないだけ。
王城では、だけ、で済まないことばかりだった。
形が悪いことは、存在が悪いことにされる。
血筋が違うことは、価値がないことにされる。
席が遠いことは、嘲る理由になる。
だがロウェナは、崩れた菓子を捨てなかった。
少し整え、鉄板に並べた。
売れなければ自分が食べると言った。
クラウディオは、その生地をじっと見た。
「食べられるなら、同じなのか」
「うーん」
ロウェナは少し考えた。
「贈り物にするなら、綺麗な方がいいこともある。でも、自分で食べるなら、おいしければいいかな」
「王城では、形が悪いものは出ない」
「そうだろうね」
「形が悪いものは、下げられる」
「ここでは、私のお腹に入る」
ロウェナは自分の腹を軽く叩いた。
クラウディオは、呆れたように彼女を見た。
「あなたは変だ」
「よく言われる」
「よく言われるのか」
「うん」
彼女は笑った。
気にしていないようだった。
変だと言われても、傷つくものではないらしい。
あるいは傷つくこともあるのに、笑っているのかもしれない。
クラウディオにはまだ分からない。
分からないから、覚える。
ロウェナは変だと言われても笑う。
形の悪い菓子を捨てない。
多すぎる金を返す。
名前を呼ぶ許可を求める。
手を温かい水で拭く。
クラウディオは生地を並べ終えた。
ロウェナが鉄板を持ち上げる。
「上手」
「子ども扱いするな」
「上手って、大人にも言うよ」
「……そうか」
「そう」
窯へ鉄板が入れられる。
火が赤く膨らむ。
しばらくすると、生地の匂いが変わり始めた。
生の粉の匂いから、焼ける匂いへ。
少しずつ、甘くなる。
クラウディオは窯の前から目を離せなかった。
ロウェナは横で果実水を注いだ。
「熱いから近づきすぎないでね」
「分かっている」
「前より返事が早い」
「あなたが同じことを言うからだ」
「覚えてくれてるんだ」
クラウディオは黙った。
覚えている。
覚えてしまう。
それが彼の癖であり、武器であり、呪いでもある。
だが、ロウェナに関する記憶は、床下の紙片とは違った重さを持っていた。
ミルゴの靴先は冷たく残る。
ベルニエの銀輪は硬く残る。
リヴィアの笑い声は鋭く残る。
アドリアンの柔らかな声は薄刃のように残る。
ロウェナの声は、温かく残る。
同じ記憶なのに、触れた時の温度が違う。
そのことが、クラウディオには不思議だった。
店の扉が開いた。
鈴が鳴る。
入ってきたのは、痩せた少年だった。人間の子どもで、年はクラウディオより少し上かもしれない。肩から古い布袋を下げ、頬は少しこけている。
「ロウェナさん」
少年は小さな声で言った。
ロウェナは振り返る。
「ああ、ニル。お母さんの具合は?」
「まだ咳がひどい」
「そっか。待ってて」
彼女は棚から固い焼き菓子をいくつか取り、紙に包んだ。それから奥から小さな瓶を持ってきた。
「こっちは薬草を煮た蜜。少しずつね。熱い湯で溶かして」
少年は困った顔をした。
「でも、お金、今日は」
「あとでいいよ」
「前もそう言った」
「じゃあ、出世払い」
「出世って」
「大きくなって、偉くなったら払って」
少年は少し笑った。
ロウェナも笑った。
クラウディオは、それを見ていた。
薬草。
咳。
金を取らない。
人間の子ども。
ロウェナの手。
何かが胸の奥に引っかかった。
王城なら、金を払えない者へ物は出ない。
あるいは、施しとして与える。
施しは与える側を高く見せるための儀式だ。
だがロウェナのそれは違った。
あとでいい。
出世払い。
冗談にして、相手の惨めさを薄くする。
少年は包みを受け取って、何度も礼を言った。
扉が閉まり、鈴が鳴る。
ロウェナは何もなかったように作業台へ戻った。
クラウディオは言った。
「金を取らないのか」
「今日はね」
「返ってこないかもしれない」
「そうかも」
「なら損だ」
「うん」
ロウェナは頷いた。
「でも、あの子のお母さんが少し楽になるかもしれない」
「それはあなたの得ではない」
「そうだね」
「なぜする」
ロウェナは少し考えた。
それから、困ったように笑った。
「私も、昔そうしてもらったことがあるからかな」
クラウディオは黙った。
「全部、自分の得になることだけで回せたら分かりやすいけど、それだと息苦しいでしょう」
「息苦しい」
「うん」
ロウェナは窯の火を見た。
「この街はね、夜になると怖いから」
声が少しだけ低くなった。
「吸血鬼も、人間も、獣も、教会も、いろんなものが怖い。だから昼のうちに、少しでも息ができる場所があった方がいい」
クラウディオは、店の中を見た。
狭い店。
焼き菓子の匂い。
温かい水。
赤い火。
低い明かり。
これが、息ができる場所。
彼にとっても。
ロウェナはそれを知らない。
知らないまま、そういう場所を作っている。
それは危ういことのように思えた。
王城では、息がしやすい場所などすぐに潰される。
優しいものは利用される。
温かいものは奪われる。
甘い匂いは、誰かの嘲笑の種になる。
それでもロウェナは店を開けている。
窯に火を入れ、菓子を焼き、手を拭き、金のない子どもに蜜を渡す。
クラウディオは、なぜか少し苛立った。
「危ない」
彼は言った。
ロウェナは振り返る。
「何が?」
「あなたは、危ない」
彼女は瞬きをした。
「私?」
「そう」
「どうして?」
「弱いから」
言ってから、胸の奥がざらついた。
違う。
そう言いたいわけではなかった。
だが他の言葉を知らなかった。
ロウェナはしばらく黙った。
怒るかと思った。
悲しむかと思った。
笑うかと思った。
だが彼女は、少しだけ真面目な顔をした。
「そうだね。私は強くない」
クラウディオは唇を引き結ぶ。
ロウェナは続けた。
「でも、弱いから何もしない、っていうのも違う気がする」
「弱い者は喰われる」
それは王城で何度も聞いた言葉だった。
外縁の人間が消えた時。
崩れ種に襲われた者の話が出た時。
セヴランが笑いながら言った。
弱い者が消えるのは夜の当然。
クラウディオはそれをそのまま口にした。
ロウェナは窯の火を見ていた。
「そうかもしれない」
否定しなかった。
それが意外だった。
「でも、喰われるまでは、生きてるでしょう」
クラウディオは顔を上げた。
ロウェナは言った。
「生きてる間くらい、温かいものを食べてもいいと思う」
店の中に、窯の火が爆ぜる音がした。
クラウディオは何も言えなかった。
生きてる間くらい。
温かいものを食べてもいい。
王城では聞かない言葉だった。
王城では、生きていることは義務だった。
血を守るため。
王家の名を汚さないため。
正しい礼をするため。
誰かの失敗にならないため。
温かいものを食べてもいい、などという言葉はなかった。
ロウェナは急に笑った。
「なんて、偉そうに言ったけど、ただ売れ残りを無駄にしたくないだけかも」
「台無しだ」
「そう?」
「今の話の重さが消えた」
「重すぎると菓子が膨らまないから」
ロウェナは窯を開けた。
甘い匂いが一気に広がる。
クラウディオが並べた菓子が、淡い金色に焼けていた。いくつかは少し曲がっている。一つは端が他の菓子と近すぎて、少しくっつきかけていた。
ロウェナはそれを見て、笑った。
「これ、クラウディオが食べる?」
「なぜ」
「初めて作った菓子だから」
「並べただけだ」
「でも、並べた」
彼女はくっつきかけた菓子を取り、少し冷ましてから紙の上に置いた。
「はい」
クラウディオは受け取った。
自分が並べた菓子。
形は少し悪い。
端が歪んでいる。
王城なら、皿に乗らない。
けれど、ここでは渡される。
彼はかじった。
熱い。
舌が少し焼けた。
顔をしかめかけ、堪える。
ロウェナがすぐに気づいた。
「熱かった?」
「熱くない」
「嘘」
「熱くない」
「じゃあ、果実水」
木の杯が差し出される。
クラウディオは受け取った。
冷たい果実水を飲む。
ロウェナは笑っていた。
嘲ってはいなかった。
ただ、熱いものを熱いと言えない子どもを、少し困ったように見ているだけだった。
「熱い時は、熱いって言っていいんだよ」
クラウディオは杯を持ったまま、黙った。
痛い時は痛い。
熱い時は熱い。
おいしい時はおいしい。
嫌なら嫌。
名前を呼んでもいいか聞く。
多く払えば返す。
形が悪くても食べられる。
生きている間くらい、温かいものを食べていい。
この店の規則は、王城の規則と違いすぎた。
違いすぎて、すぐには信じられない。
だが、信じられないままでも、そこにある。
店の明かりが、彼の袖に落ちている。
王城の青白い魔導灯と違い、少し黄色く、少し赤い。
人間の火の色。
クラウディオは、菓子をもう一口食べた。
今度は少し冷めていた。
甘かった。
自分で並べたからか、形が悪いからか、ロウェナが渡したからか。
分からない。
ただ、王城の食卓のどの皿より、味がした。
外が少し暗くなり始める前に、クラウディオは帰ることにした。
長居しすぎた。
戻れば、またマルタに怪しまれる。
明日は血術教師との顔合わせだ。余計なことを起こすなと言われている。
もう十分、余計なことをしている。
ロウェナは紙袋に菓子を入れた。
「これは今日のお手伝い分」
「多い」
「初仕事のお祝い」
「仕事ではない」
「じゃあ、初めて菓子を並べた記念」
「記念にするほどのことではない」
「私がしたいから」
クラウディオは黙った。
私がしたいから。
それで押し切られると、返す言葉がない。
彼は紙袋を受け取った。
その時、ロウェナが少し屈んで、クラウディオの頭巾の端を直した。
指が頬の近くを通る。
クラウディオは反射的に身を硬くした。
ロウェナの手が止まる。
「ごめん。触ってよかった?」
クラウディオは、彼女を見た。
もう触れた後なのに、聞いている。
王城では、彼の身体は勝手に整えられる。
襟を引かれ、髪を梳かれ、顔を拭かれ、膝の傷を見られる。
誰も許可など取らない。
ロウェナは、触ってよかったかと聞いた。
クラウディオは答えるまで少し時間がかかった。
「……別に」
「嫌なら、次から言って」
「嫌ではない」
「そっか」
ロウェナは頭巾を整え、手を離した。
「これで顔が見えにくい」
「なぜ」
「隠したいんでしょう?」
クラウディオは黙った。
ロウェナは笑わなかった。
「隠したいものは、隠していいよ」
その言葉が、あまりに簡単に差し出された。
クラウディオは紙袋を握った。
王城では、隠したものは暴かれる。
弱み。
痛み。
好きなもの。
行き先。
名前。
全部、見つけられたら奪われる。
だがロウェナは、隠すことを許した。
彼が王城の子だと知っているのに。
クラウディオという名を知っているのに。
それでも、頭巾を直してくれた。
「また来てね、クラウディオ」
ロウェナが言った。
店の明かりの中で、彼の名が温かく響く。
クラウディオは返事をしなかった。
できなかった。
その代わり、紙袋を胸に抱えるように持った。
扉を開ける。
鈴が鳴る。
外の空気は、店の中より冷たかった。
坂道を下りながら、クラウディオは一度だけ振り返った。
菓子屋の窓から、黄色い明かりが漏れている。
丸い菓子の看板が揺れている。
硝子の向こうで、ロウェナが作業台を拭いている。白い前掛け。栗色の髪。粉のついた手。窯の火。
小さな店だった。
王城と比べれば、あまりにも小さい。
王城なら一つの部屋にもならない。
けれどクラウディオには、その小ささが不思議なほど大きく見えた。
あの中では、名前を呼ばれる。
手を温められる。
食べていいと言われる。
熱いなら熱いと言っていい。
隠したいものは隠していい。
それは、王城とは違う世界だった。
クラウディオは前を向いた。
紙袋の中から、甘い匂いが上がってくる。
月の欠片。
少し形の悪い、彼が並べた菓子。
帰り道、街は夕方の準備を始めていた。
人間たちは店を閉める支度をし、吸血鬼たちは少しずつ動きやすそうに通りへ出てくる。教会の鐘が遠くで鳴った。祈りの時間を告げる音だろう。
その鐘の音に、通りの何人かが顔を上げた。
ロウェナの言葉が蘇る。
この街は、夜になると怖いから。
吸血鬼も、人間も、獣も、教会も、いろんなものが怖い。
クラウディオは、鐘の音を聞きながら歩いた。
王城へ戻る道は、行きより冷たく感じた。
小門を抜ける頃には、外套に染み込んだ菓子の匂いが弱くなっていた。
王城の匂いがそれを押し潰す。
石。
香油。
血。
古い布。
魔導灯。
閉じ込められた冷気。
クラウディオは紙袋を外套の奥へ押し込んだ。
見つからないように。
潰れないように。
奪われないように。
部屋へ戻ると、マルタが待っていた。
「どちらへ」
同じ問い。
同じ声。
同じ冷たさ。
クラウディオは頭巾を外した。
「歩いていた」
「王城の中を?」
「そう」
嘘だった。
だが、完全な嘘でもない。
彼は歩いていた。
王城の中も。
外も。
マルタは疑わしそうに彼を見たが、外套の内側までは探らなかった。
「明日は血術教師との顔合わせです。くれぐれも、陛下のお顔に泥を塗るような真似はなさらないでください」
「泥は塗らない」
「言葉の綾です」
「泥なら洗えば落ちる」
マルタは疲れたように目を閉じた。
「そういうことではありません」
クラウディオは、それ以上言わなかった。
マルタが去る。
扉が閉まる。
部屋が静かになる。
ようやく、彼は紙袋を取り出した。
中には菓子が三つ入っていた。
月の欠片が二つ。
そして、形の悪い小さな菓子が一つ。
端が少しくっついて、歪んでいる。
クラウディオが並べたものだった。
彼はそれを手に取った。
王城の青白い光の下で見ると、店で見た時より不格好に見えた。
歪んでいる。
綺麗ではない。
王城の食卓には出ない。
けれど、ロウェナは捨てなかった。
彼に渡した。
クラウディオは、それを食べた。
冷めていた。
それでも甘かった。
熱い時ほど香りは立たない。
けれど噛むたびに、小麦と砂糖と火の匂いが戻ってくる。
店の明かり。
踏み台。
指二本分。
だいたいでいい。
形が悪いだけ。
熱い時は熱いって言っていい。
生きてる間くらい、温かいものを食べてもいい。
クラウディオは、最後まで食べた。
欠片も残さず。
それから机に向かい、紙を出した。
罪の記録ではない方の紙。
ロウェナのことを書く紙。
彼はペンを取る。
ロウェナ・ミル。
今日も名前を呼んだ。
手を温かい水で拭いた。
月の欠片。
菓子に名前をつける。
だいたいでいいと言った。
形が悪いだけと言った。
金のない少年に菓子と薬草蜜を渡した。
弱いから何もしないのは違うと言った。
生きてる間くらい、温かいものを食べてもいいと言った。
頭巾を直した。
触ってよかったかと聞いた。
隠したいものは隠していいと言った。
クラウディオは、そこでペンを止めた。
書きすぎだと思った。
だが、消さなかった。
忘れたくなかった。
それは床下の名前と同じ記録ではない。
けれど、記録しなければ不安だった。
王城の冷たさは強い。
いつか、この温かさの方が嘘だったと思ってしまうかもしれない。
だから書く。
ロウェナが言ったこと。
店の匂い。
菓子の名前。
手の温かさ。
逃げ場所の明かり。
クラウディオは紙を机の奥へしまった。
床下ではない。
罪の帳簿とは別の場所。
それから寝台へ座った。
部屋は寒い。
暖炉には火がない。
明日は血術教師と会う。
王が見ている。
正妃が見ている。
兄弟たちも、従者たちも、教師たちも。
誰もが、妾の子が力を持つかどうかを見る。
クラウディオは自分の手を見た。
今日、菓子を並べた手。
明日、血術を学ぶかもしれない手。
同じ手だった。
ロウェナは、手を温めた。
王城は、その手に血を覚えさせようとしている。
クラウディオは、ゆっくり指を握った。
甘い匂いは、もうほとんど消えている。
それでも胸の奥に、店の明かりが残っていた。
小さな、黄色い明かり。
王城の青白い火とは違う。
命じない火。
嘲らない火。
ただ、菓子を焼くための火。
その明かりを思い出しながら、クラウディオは目を閉じた。
逃げ場所。
その言葉を、彼はまだ認めたくなかった。
けれど、王城の冷たい闇の中で、菓子屋の甘い匂いだけが、彼をほんの少し眠らせた。




