第88話 覗くな
噛まれる前から、クラウディオは分かっていた。
今夜のルストは、ただ血を奪うだけではない。
地下牢の空気が、いつもより重かった。湿った石壁、銀鎖、首元の雷鎖、脇腹の灰銀印。すべてはいつも通りだったはずなのに、ルストの沈黙だけが違っていた。
クラウディオは、銀鎖に繋がれたまま赤い瞳を細めた。
「……近づくな」
声は低い。
王の声に近づいていた。飢えの底から戻り、床の血に這った記憶も、皿を舐めた屈辱も、ルストの血で傷が塞がった現実も、まだ身体の中に残っている。
それでも、言葉は戻っていた。
怒りも戻っていた。
そして、恐れも。
認めるものか。
クラウディオはそう思った。
だが、ルストが一歩近づいた瞬間、喉の奥が引き攣った。
喉の牙痕が熱を持つ。
そこだけが、もう先に思い出している。
前に噛まれた夜。
王血を啜られた夜。
ただ血を失っただけではない。自分の奥へ、灰銀の何かが入り込もうとした感覚。
クラウディオはそれを思い出し、顔を歪めた。
「やめろ」
ルストは足を止めなかった。
「今日は噛む」
「噛むなと言ったはずだ」
「必要だ」
「その言葉で何でも許されると思うな」
「許しは求めていない」
淡々とした声。
だからこそ、ひどかった。
クラウディオは銀鎖を引いた。がしゃん、と重い音が地下牢に響く。
「灰銀。これ以上近づけば殺す」
「今は無理だ」
「今はな」
「そうだな」
ルストがすぐ目の前まで来る。
クラウディオは牙を剥いた。
噛みつくためではない。
拒絶のためだった。
だが、ルストの手は迷わなかった。クラウディオの顎を取り、顔を横へ向けさせる。もう片方の腕が背に回り、逃げ場を塞いだ。
抱擁ではない。
拘束だった。
クラウディオの身体が強張る。
「離せ……ッ」
「暴れるな」
「命じるな!」
首元の雷鎖が低く鳴る。
クラウディオの身体が反射で止まった。
止まってしまった。
その一瞬を、ルストは逃さない。
白い喉が晒される。
古い牙痕のすぐ近く。
クラウディオの赤い瞳が大きく開いた。
「そこは――」
言い終わる前に、ルストの牙が沈んだ。
深く。
鋭く。
前よりも迷いなく。
「っ、あ゛……!」
クラウディオの声が裂けた。
牙が喉の肉を破り、血脈へ届く。痛みが走った次の瞬間、もっと深い場所から熱がせり上がった。
吸われる。
血を。
王血を。
喉の奥で、湿った音がした。
じゅ、と。
続けて、喉を鳴らすような低い吸血音。
じゅる、と血が引き出される。
クラウディオの背が弓なりに反った。
「や、め……ッ、灰銀……ッ!」
ルストはやめない。
唇を離さない。
牙を深く立てたまま、クラウディオの血を啜る。
音が響く。
静かな地下牢だからこそ、異様にはっきり聞こえる。
じゅる、じゅ、と血を吸う音。
クラウディオの喉から、息が引き攣った。
痛い。
屈辱だ。
それなのに、身体が反応する。
血を奪われているのに、血脈の奥が熱くなる。王血がルストの牙に引かれ、喉の痕から内側を掴まれるような感覚が走る。
快いものではない。
甘いものでもない。
だが、身体は崩れる。
麻痺と高揚と屈辱が混ざり、神経がばらばらに震える。
クラウディオの頬に赤みが差した。
それに気づいた瞬間、彼の瞳に怒りが戻る。
「見るな……ッ」
掠れた声。
「見るな、見るな……!」
ルストの腕がさらに強くなる。
クラウディオは暴れようとした。
銀鎖が鳴る。
がしゃん、がしゃん、と激しく。
だが、四肢は縛られている。背はルストの腕に押さえ込まれている。喉は牙に固定されている。
逃げられない。
反撃できない。
血を奪われている。
「ん、ぐ……ッ、離せ……!」
クラウディオは身体を捩る。
そのたびに、牙が喉の奥で微かに動き、血がまた引き出される。
じゅ、と湿った音。
クラウディオの喉が震えた。
甘く崩れかけた声が漏れる。
「っ、ぁ……」
出てしまった声に、本人が一番傷ついた。
クラウディオの瞳が揺れる。
「違う……今のは……ッ」
ルストは答えない。
血を啜る。
いつもより多く。
いつもより深く。
ただ傷口から血を奪うのではない。喉の痕から、血脈の奥へ牙を通していくように。
クラウディオはそれを感じた。
血の中へ入ってくる。
灰銀が。
ルストが。
牙が、血を吸うだけではない。
探っている。
血の奥を。
「……やめろ」
クラウディオの声が変わった。
怒りではない。
低く、震えた拒絶だった。
「そこへ、入るな……」
ルストの牙が、喉の奥でわずかに沈む。
じゅる、と血が吸われる音。
クラウディオの背が跳ねる。
脇腹の灰銀印が熱を持った。
首元の雷鎖も低く鳴る。
だが、今のクラウディオの恐怖は雷鎖ではなかった。
記憶。
血の中の匂い。
焼けた砂糖。
火刑台。
煙。
菓子屋の女の笑顔。
父と母の血。
王城の暗い廊下。
兄弟の杯。
血で濡れた王冠。
触れさせたくないものが、血の奥で一斉にざわめいた。
ルストの吸血が、そこへ近づいている。
こじ開ける寸前まで。
クラウディオは、はじめて本気で怯えた。
「覗くな……ッ」
声が裂れる。
「灰銀、覗くな……!」
ルストの牙は離れない。
血を吸う音だけが返る。
じゅる。
じゅ、と。
クラウディオの身体が痙攣する。
銀鎖が激しく鳴る。
だが、暴れれば暴れるほど、ルストの腕が締まる。背を押さえられ、顎を固定され、喉を逃がせない。
クラウディオの手が何かを掴もうとする。
だが手首は銀鎖に繋がれている。
届くものがない。
それでも、身体はルストへ寄りかかる形になった。
支えられている。
縋っているように見える。
それに気づいたクラウディオの顔が、屈辱で歪んだ。
「違う……俺は……!」
俺。
また漏れた。
王の「我」ではない。
クラウディオ本人の声。
ルストの牙が、血の奥へさらに圧をかける。
クラウディオの瞳が見開かれた。
「いやだ……!」
今度ははっきり、そう言った。
王命ではない。
罵倒でもない。
恐怖から出た拒絶だった。
「いやだ、俺の中を覗くな……ッ!」
ルストはやめない。
血を吸う。
じゅる、と深く。
クラウディオの喉から、声にならない息が漏れる。
頬は赤い。
瞳は白く揺れかけている。
血を奪われすぎている。
だが、ただ失血しているのではない。
血脈の奥へ、何かが差し込まれている。
ルストの血ではない。
ルストの牙。
ルストの意思。
血の中にある記憶の匂いを、嗅ぎ分けようとする力。
クラウディオは必死に閉じようとした。
血を閉じる。
記憶を閉じる。
火刑台を閉じる。
焼けた砂糖の匂いを閉じる。
その女の声を閉じる。
王冠を血で濡らした夜を閉じる。
だが、喉を噛まれている。
血を啜られている。
身体の出口を、ルストに握られている。
閉じきれない。
「やめろ……ッ」
クラウディオは震えた。
「見るな……そこは、見るな……!」
ルストの腕がわずかに強くなる。
返事はない。
代わりに、吸血音が深くなる。
じゅ、じゅる、と。
血を吸う音。
王が喰われている音。
それを教え込むように、ルストは離れない。
クラウディオは血を飲む側だった。
喉を選び、首筋を撫で、相手を堕とし、血を奪い、命を喰う側だった。
今は違う。
喰われている。
自分の血が奪われている。
血の奥を覗かれかけている。
その事実が、王の尊厳を内側から裂いた。
「っ、あ……ぁ……!」
また、甘く崩れた声が漏れた。
身体が勝手に震える。
屈辱と血脈反応が混ざって、クラウディオの表情を壊していく。
彼はそれを止めようと歯を食いしばる。
だが、噛んでいるのはルストだ。
噛まれているのは自分だ。
その構図だけで、思考が焼ける。
「……我は、王だ……」
かろうじて言った。
戻そうとした。
王の声へ。
しかし、ルストの牙がさらに血を引いた瞬間、その言葉は砕けた。
「っ、俺の中に……入るな……!」
また俺。
もう取り繕えない。
ルストはようやく、牙を立てたまま低く息を吐いた。
声というより、喉の奥の振動だった。
その振動が傷口を通してクラウディオの血へ伝わる。
クラウディオの身体がびくりと跳ねた。
「……ッ!」
脇腹の灰銀印が熱い。
雷鎖が低く鳴っている。
銀鎖も鳴っている。
全部がうるさい。
だが、一番大きいのは血を吸われる音だった。
じゅる。
じゅ、と。
地下牢に、あまりにも生々しく響く。
クラウディオは耳を塞ぎたかった。
塞げない。
両手首は拘束されている。
聞こえる。
自分が喰われている音が。
血を奪われる音が。
血の奥へ踏み込まれる音が。
「嫌だ……」
クラウディオの声は、もうほとんど王ではなかった。
「嫌だ、そこは……そこだけは……」
ルストはやめない。
だが、奥を完全にはこじ開けない。
踏み込みかける。
血の匂いが濃くなる。
記憶の表層が揺れる。
焼けた砂糖の甘い焦げ。
火の音。
誰かの悲鳴。
白い手。
差し出された焼き菓子。
クラウディオの瞳が大きく見開かれた。
見られる。
このままでは。
「やめろ!」
その叫びは、ようやく王に近かった。
怒りと恐怖が混ざり、血の奥から跳ね上がる。
雷鎖が強く鳴る。
しかし、ルストは吸血をやめない。
じゅる、とさらに一度、深く血を吸う。
クラウディオの身体が大きく震えた。
喉から、声にならない息が漏れる。
膝が崩れかける。
ルストの腕が支える。
支えられている。
それも屈辱だった。
クラウディオは、ルストの衣を掴もうとした。
しかし手は届かない。
銀鎖が許さない。
だから身体だけが前へ倒れ込むようになった。
まるで、ルストへ縋るように。
「違う……」
息の中で否定する。
「違う、違う……!」
何が違うのか、もう分からない。
縋ってなどいない。
甘い声など出していない。
恐れてなどいない。
記憶を読まれることが怖いわけではない。
全部違う。
違うはずだった。
だが、クラウディオの声は震えている。
「俺を……見るな……」
血の中へ向けた拒絶。
ルストの牙は喉にある。
ルストの意識は血の奥に触れかけている。
クラウディオは必死に閉じる。
血の扉を。
記憶の匂いを。
自分の中の、一番古い焼け跡を。
「覗くな……ッ」
最後に、かすれた声でそう言った。
「俺の中を、覗くな……灰銀……」
ルストは、まだ牙を抜かない。
吸血音だけが続く。
じゅ、と短く。
また、じゅる、と深く。
血が奪われるたび、クラウディオの身体が細かく震える。
頬は赤い。
瞳は白く揺れ、唇は開き、牙の間から乱れた息が漏れる。
それでも、まだ落ちない。
気絶もしない。
記憶を閉じるために、意識の縁へ必死に爪を立てている。
ルストはそのまま、クラウディオの喉から血を啜り続けた。
奥へ踏み込みかけたまま。
完全には開けず。
だが、離れもせず。
クラウディオは、震えながらただ拒み続ける。
王としてではなく。
暴君としてでもなく。
クラウディオ本人として。
「いやだ……」
その声が、地下牢の石壁に小さく落ちた。
そして、吸血の音がそれを塗り潰した。
じゅる、と。
血を啜る音だけが、まだ続いていた。




