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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第87話 血の中の匂い


 血には、匂いがある。


 鉄の匂い。


 熱の匂い。


 恐怖の匂い。


 怒りの匂い。


 嘘の匂い。


 そして、記憶の匂い。


 吸血鬼は血を飲む。


 だが、血とはただの糧ではない。生きてきた時間、浴びた夜、抱えた感情、隠した傷、忘れたふりをした声。そうしたものが、薄く、時に濁って、血の奥へ沈んでいる。


 普通の吸血なら、せいぜい感情の残り香が滲む程度だ。


 恐怖。


 歓喜。


 憎悪。


 執着。


 死の寸前の震え。


 そうした断片が、舌の上に苦味や甘さとして残る。


 だが、格が違いすぎる相手が血の奥をこじ開ければ、話は変わる。


 記憶の深淵に触れられる。


 血が隠したものを、暴かれる。


 クラウディオ・ルジェリウスは、それを知っていた。


 知っているからこそ、噛まれることを嫌った。


 王として噛まれること自体が屈辱だ。


 それが一番の理由であることに、嘘はない。


 喉へ牙を立てられ、血を奪われ、首筋に痕を残される。吸血鬼の王にとって、それは王冠を踏まれるのと同じだった。


 だが、それだけではない。


 ルストに噛まれるのが嫌な理由は、もう一つあった。


 言わない。


 絶対に言わない。


 口にした瞬間、それは弱点になる。


 灰銀に弱点を差し出すなど、死より腹立たしい。


 クラウディオは地下牢の石壁へ背を預けたまま、ルストを睨んでいた。


 四肢にはまだ銀鎖。


 首には雷鎖。


 脇腹には灰銀印。


 喉には消えない牙の痕。


 前にルストに噛まれた場所が、今も熱を持つことがある。


 傷ではない。


 ただの痕でもない。


 血の奥へ残った、灰銀の楔。


 クラウディオは、それを認めたくなかった。


「見るな」


 低く言う。


 ルストはいつも通り、目を逸らさない。


「見ている」


「見るなと言っている」


「顔色が戻った」


「我を病人のように語るな」


「飢餓は少し抜けた」


「貴様の血のせいだと言いたいのか」


「そうだ」


「二度と口にするな」


 雷鎖がかすかに鳴った。


 怒りが血へ乗りかけたからだ。


 クラウディオは歯を食いしばり、怒りを沈めた。


 沈めてしまった。


 その事実に、また腹が立つ。


 ルストは、それを見ていた。


「抑えたな」


「黙れ」


「血が戻れば、抑えられる」


「黙れと言っている」


「俺の血は効いた」


 クラウディオの赤い瞳が、細くなる。


「灰銀」


 声が冷えた。


「次にその言葉を使えば、舌を裂く」


「今は無理だ」


「今はな」


 返す声に、かすかな王の芯が戻っていた。


 ルストはそれを確認するように見ている。


 それがまた腹立たしい。


 クラウディオは首をわずかに動かした。


 喉の痕が、衣の襟へ擦れる。


 その感覚だけで、胸の奥に嫌悪が広がった。


 噛まれた夜。


 血を大量に啜られた夜。


 王血が、上から押さえ込まれるような感覚。


 それだけでも屈辱だった。


 だが、あの時、クラウディオは別の恐怖も覚えた。


 血の奥を覗かれるのではないか。


 ルストなら、できるのではないか。


 そう思ってしまった。


 格の差。


 血の重さ。


 夜の古さ。


 認めたくないものが、あの男の牙にはあった。


 だからクラウディオは、噛まれたくない。


 血を奪われたくない。


 自分の中を、覗かれたくない。


 父の顔も。


 母の声も。


 焼けた砂糖の匂いも。


 火刑台の炎も。


 菓子屋の女の笑顔も。


 王城の夜も。


 兄弟の血も。


 王冠を血で濡らした記憶も。


 誰にも触れさせるつもりはなかった。


 とくに、ルストには。


「お前」


 ルストの声がした。


 クラウディオの視線が鋭くなる。


「何だ」


「今、遠くを見た」


「貴様には関係ない」


「噛まれた痕に触れた時も、同じ顔をする」


「見るな」


「そこに何がある」


「何もない」


「嘘だな」


 クラウディオの指先が、銀枷の中でわずかに動いた。


 殺意ではない。


 反射だった。


 隠したものへ触れられた時の反応。


 ルストは見逃さない。


「灰銀」


 クラウディオは、ゆっくりと言った。


「それ以上、我の中を探るな」


「探っていない」


「探るつもりだろう」


「必要なら」


 その返答に、クラウディオの喉が震えた。


 また、それだ。


 必要。


 何もかもその言葉で片づける。


 牙を立てることも。


 血を飲ませることも。


 雷鎖で心臓を止めることも。


 皿で血を飲ませることも。


 飢えさせることも。


 そして、記憶を覗くことさえ。


「貴様……」


 クラウディオの声が低くなる。


「必要なら、我の血の奥まで暴くつもりか」


 ルストはすぐには答えなかった。


 その沈黙が、答えに近い。


 クラウディオの胸の奥で、冷たいものが沈む。


「答えろ」


「今はしない」


「今は?」


「今は必要ない」


「なら必要になればするのだな」


「そうだ」


 はっきりと言った。


 嘘も、言い訳も、慰めもない。


 それがルストだった。


 クラウディオは笑った。


 乾いた笑いだった。


「貴様は、本当に最低だな」


「お前に言われたくない」


「我は美しく最低だ。貴様は無表情に最低だ」


「分類はいらない」


「要る。我の気が済む」


 いつもの応酬。


 だが、クラウディオの声には微かな乱れがあった。


 怒りだけではない。


 警戒。


 そして、恐れに近いもの。


 本人は認めない。


 絶対に。


 だが、血が薄く揺れた。


 ルストの目がそれを拾う。


「恐れているのか」


「黙れ」


「記憶を読まれることを」


「黙れと言っている!」


 雷鎖が鳴った。


 首元に青白い光が走る。


 クラウディオは息を詰めた。


 怒りが一瞬で血へ乗ったからだ。


 脇腹の灰銀印も鈍く熱を持つ。


 ルストは近づかない。


 ただ、見ている。


 それだけで、クラウディオには檻の深さが分かる。


 外から開けられる檻ではない。


 血の反応を読まれる檻。


 隠した恐れが、身体の揺れで見抜かれる檻。


「違う」


 クラウディオは低く言った。


「我は恐れてなどいない」


「なら、なぜ噛まれることをそこまで嫌がる」


「王だからだ」


 即答だった。


 この答えだけは、用意してある。


 真実でもある。


 嘘でもある。


 「王が牙を立てられるなど、屈辱以外の何だ。王血を奪われ、喉に痕を残され、首を晒す。そんなものを許す王がどこにいる」


「それだけか」


「それだけで十分だろう」


「十分ではある」


 ルストは静かに返した。


「だが、それだけじゃない」


 クラウディオの赤い瞳が、細く鋭くなる。


「知ったふうに言うな」


「血が揺れた」


「我の血を読むな」


「読んでいない。見えている」


「同じだ!」


「違う」


「違わぬ」


 クラウディオは銀鎖を引いた。


 枷が鳴る。


 銀が手首を擦る。


 痛みはある。


 だが、今はそれよりも苛立ちが強い。


「貴様には関係ない」


「関係ある」


「ない」


「お前の血を管理している」


「管理という言葉で我の内側まで所有するな」


「所有ではない」


「なら何だ」


「監視だ」


「もっと悪い!」


 クラウディオは吐き捨てた。


 喉の牙痕が熱い。


 そこを見られている気がする。


 いや、実際に見られている。


 ルストは時折、喉の痕へ視線を落とす。


 クラウディオの反応を見ている。


 そこを触られると、クラウディオがどう反応するか。


 噛まれる記憶へ、どれほど血が揺れるか。


 すべて。


 「我の記憶は、我のものだ」


 クラウディオは低く言った。


「血の奥に何が沈んでいようと、貴様に触れさせるものではない」


 ルストは黙って聞いていた。


「父も、母も、火刑台も、王城も、血杯も、誰の声も、誰の死も。全部、我のものだ」


 言ってから、クラウディオは少しだけ息を止めた。


 言いすぎた。


 火刑台。


 その言葉を出した。


 ルストの目が、ほんのわずかに動く。


 クラウディオは即座に怒りで覆う。


「忘れろ」


「忘れない」


「忘れろと言っている」


「今のは重要だ」


「重要にするな!」


 雷鎖が警告を鳴らす。


 クラウディオは歯を食いしばった。


 まただ。


 また記憶が檻になる。


 口から漏れた単語を拾われる。


 それが記録になる。


 次の管理になる。


 最悪だった。


 ルストは、低く言った。


「火刑台か」


「黙れ」


「焼けた匂いがあるのか」


「黙れと言っている」


「血の奥に」


「灰銀!」


 雷鎖が強く光った。


 心臓の手前まで痛みが走る。


 クラウディオは息を詰めた。


 それでも、ルストを睨む。


「それ以上言えば、殺す」


「今は無理だ」


「今はな」


「だから、言うのをやめておく」


 クラウディオの瞳がわずかに動く。


「……何?」


「今は必要ない」


「貴様は本当に、その言葉しか使えないのか」


「便利だからな」


「腹立たしい」


 ルストはそれ以上、火刑台について触れなかった。


 それが、クラウディオにはかえって落ち着かなかった。


 踏み込まれる方がまだ分かりやすい。


 触れられたくない場所の周囲で止まられると、逆にそこが見えてしまう。


 ルストは知っている。


 おそらく分かっている。


 今は開けない。


 だが、必要なら開ける。


 血の奥を。


 記憶の底を。


 クラウディオは、それを想像して吐き気を覚えた。


 見られたくない。


 焼けた砂糖の匂いを。


 火刑台の煙を。


 自分が泣かなかった夜を。


 内側で何かが冷えていった感覚を。


 奪われる側ではいられないと知った瞬間を。


 王冠へ向かった理由を。


 誰にも。


 ルストにはなおさら。


「噛むな」


 クラウディオは言った。


 唐突に。


 ルストが見る。


「貴様は、我を噛むな」


「必要なら噛む」


「噛むなと言っている」


「必要なら」


「その必要を作るな!」


 声が荒れる。


 雷鎖が鳴る。


 クラウディオは、今度は止めなかった。


 短い痛みが心臓を叩く。


「ぐ、ッ……!」


 身体が跳ねる。


 それでも彼は睨み続けた。


「噛むな……」


 低い声。


「我の喉へ牙を立てるな。血を啜るな。血の奥を覗くな。記憶へ触れるな」


 ルストは静かに言った。


「本人には言わないつもりだったのか」


 クラウディオの顔が固まる。


「何を」


「それが本当の理由の一つだと」


「違う」


 即答。


 早すぎた。


 ルストの目が細くなる。


 クラウディオは舌打ちした。


「違うと言っている」


「そうか」


「納得するな」


「納得していない」


「ならその目をやめろ!」


「見ているだけだ」


「だから見るな!」


 怒鳴りながら、クラウディオは息を乱した。


 飢餓から戻りきったわけではない身体は、怒りだけで疲れる。


 その疲れすら、ルストには見られる。


 最低だった。


 ルストは、一歩近づいた。


 クラウディオの身体が反射で強張る。


 近づくな。


 言う前に、ルストは止まった。


 牙が届かない距離。


 だが、血の匂いは届く距離。


「今日は噛まない」


 ルストが言った。


 クラウディオは睨む。


「当然だ」


「今日はな」


「二度と噛むな」


「必要なら噛む」


「殺すぞ」


「印が焼く」


「その返答も聞き飽きた」


「なら、やれ」


「今はやらぬだけだ」


 いつもの言葉が戻る。


 クラウディオは、それで少しだけ自分を取り戻した。


 会話で噛みつけるうちは、まだ獣ではない。


 王の形が残っている。


 そう思いたかった。


 ルストは言った。


「吸血で記憶が滲むことはある」


「知っている」


「普通は断片だけだ」


「知っていると言っている」


「だが、深く入れば違う」


 クラウディオの赤い瞳が冷える。


「貴様なら、こじ開けられるということか」


「できる」


 また、即答。


 クラウディオの喉が、怒りと緊張で引き攣った。


「傲慢だな」


「事実だ」


「その事実が傲慢だと言っている」


「必要がなければしない」


「必要を作るな」


「お前次第だ」


「我を脅すか」


「警告だ」


「同じだ!」


 雷鎖が鳴る。


 クラウディオは息を詰め、血を沈めた。


 沈めたことを、ルストが見た。


 見られた。


 もう、何もかもが腹立たしい。


「……我は、読ませぬ」


 クラウディオは低く言った。


「血の匂いの奥に何があろうと、貴様には触れさせぬ。こじ開けようとすれば、記憶ごと焼いてやる」


「できるなら」


「できる」


「そうか」


「その顔をやめろ」


「顔は変えていない」


「存在ごと腹立たしい」


 ルストは、ほんの少しだけ目を伏せた。


 それは疲れではない。


 何かを考えたような沈黙だった。


 クラウディオは見逃さない。


「何だ」


「血の記憶は、開ければ戻らないこともある」


「何?」


「読んだ側にも残る。読まれた側にも傷が残る」


 ルストの声は、少しだけ低い。


「だから、軽くはやらない」


 クラウディオは黙った。


 今の言葉には、経験の匂いがあった。


 まただ。


 この男は時折、古すぎる。


 ただの狩人が知るはずのないことを、実感として語る。


 血の記憶をこじ開けたことがある。


 あるいは、こじ開けられたことがある。


 そう思わせる声だった。


「貴様」


 クラウディオは目を細める。


「誰の記憶を開けた」


「今は関係ない」


「ある」


「ない」


「あると言っている」


「お前にはまだない」


 まだ。


 その言葉に、クラウディオは笑った。


「いずれ関係するのか」


「さあな」


「ごまかしたな」


「今は噛まないと言った」


「今は、だろう」


「ああ」


 クラウディオは、低く息を吐いた。


「灰銀」


「何だ」


「もし我の血の奥を覗けば、貴様を殺す」


「それは何度も聞いた」


「違う」


 赤い瞳が、静かに燃える。


「その時は、ただ殺すのではない。貴様が見たものごと、貴様の中の記憶を裂く」


 ルストは、クラウディオを見た。


「やれるなら」


「やる」


「そうか」


「軽く流すな」


「本気で言っているのは分かる」


「なら怯えろ」


「怯えない」


「本当に腹立たしい」


 クラウディオは、少しだけ顔を背けた。


 銀鎖が小さく鳴る。


 逃げたわけではない。


 ただ、喉の痕を見られたくなかった。


 それだけだ。


 ルストは何も言わない。


 その沈黙が、また見抜いているようで不快だった。


 血の中には匂いがある。


 感情も、記憶も、傷も、罪も。


 クラウディオはそれを知っている。


 ルストも知っている。


 そして、ルストにはそれをこじ開ける力がある。


 その事実が、クラウディオの喉の痕をひどく熱くした。


 噛まれることは屈辱だ。


 王として、それだけで十分に許しがたい。


 だが、それだけではない。


 記憶を読まれるかもしれない。


 自分の奥へ入られるかもしれない。


 その恐れがあるからこそ、牙を嫌う。


 本人には言わない。


 絶対に。


 クラウディオは、赤い瞳でルストを睨み直した。


「今日は噛まぬのだな」


「ああ」


「なら、出ていけ」


「まだ確認が終わっていない」


「我を確認するな」


「する」


「灰銀」


「何だ」


「噛まずとも、我の中を見るな」


 ルストは少しだけ黙った。


 それから、低く言った。


「見えてしまうものはある」


「閉じろ」


「目をか」


「感覚をだ」


「無理だな」


「貴様……」


「お前も血の匂いを閉じられないだろう」


 クラウディオは言葉を詰まらせた。


 それは、正しい。


 血の匂いを嗅ぐなと言われて、吸血鬼が止められるものではない。


 クラウディオもまた、ルストの血の匂いを拾ってしまう。


 嫌悪していても。


 欲していないと言い張っても。


 身体が覚えていても。


 匂いは届く。


 血の奥の気配も、少しだけ。


 ルストの古い夜の底のような匂いも。


 クラウディオは低く舌打ちした。


「なら近づくな」


「必要なら近づく」


「またそれか」


「まただ」


「本当に腹立たしい」


 ルストは、ようやく一歩下がった。


 クラウディオは、その動きにほんの少しだけ呼吸を取り戻す。


 距離ができる。


 血の匂いが薄くなる。


 喉の痕の熱も、少しだけ静まる。


 それをルストが見ていた。


 クラウディオはすぐに睨む。


「見るな」


「見ている」


「忘れろ」


「忘れない」


「記録するな」


「する」


「殺す」


「今は無理だ」


「今はな」


 何度も交わした言葉。


 それでも今回は、いつもより重かった。


 噛まないまま終わった。


 けれど、牙の影は残った。


 血の中の匂い。


 記憶の断片。


 読まれるかもしれない恐れ。


 そして、ルストならできるという事実。


 クラウディオは、それを認めない。


 口にしない。


 だが、喉の痕は熱い。


 血は揺れている。


 ルストは、それを見ていた。


 目を逸らさずに。


 クラウディオは、低く吐き捨てた。


「我の記憶は、我のものだ」


 ルストは答える。


「ああ」


「触れるな」


「必要がなければ」


「必要を作るな」


「それはお前次第だ」


「最後まで腹立たしい男だな」


 ルストは何も言わなかった。


 地下牢の扉へ向かう。


 クラウディオはその背を睨み続ける。


 灰銀の背中。


 ただの狩人にしては古すぎる背中。


 血の奥をこじ開ける力を持つ男。


 クラウディオは、噛まれるのを嫌う理由を、決して言わない。


 だが、今夜、その理由の一部は、少しだけ形を持ってしまった。


 血の中には匂いがある。


 そして記憶は、匂いを持つ。


 ルストが扉を閉める直前、クラウディオは低く言った。


「灰銀」


「何だ」


「我の中へ入るな」


 ルストは振り返らなかった。


 ただ、短く答えた。


「必要なら入る」


 扉が閉まる。


 地下牢に、重い音が響いた。


 クラウディオは、しばらく扉を睨んでいた。


 怒りで。


 屈辱で。


 そして、決して認めない恐れで。


 喉の痕が、まだ熱かった。



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