第85話 身体が覚える
逃げられない。
その事実を、クラウディオ・ルジェリウスは牙の先で理解した。
ルストの首筋は、目の前にあった。
皮膚の下に、血が流れている。
灰銀の血。
嫌悪した血。
拒絶した血。
体内に入れば王血を軋ませ、心臓を止め、身体の奥へ灰銀の楔を打ち込む血。
それなのに、飢えた身体は覚えている。
あの血が入れば、渇きが少しだけ沈むことを。
傷が塞がることを。
暴れ続ける王血が、無理やり押さえ込まれることを。
必要だと、身体が知っていることを。
クラウディオは、それが許せなかった。
「……嫌だ」
声は低く、掠れていた。
王の命令ではない。
拒絶だった。
その事実に、クラウディオ自身が顔を歪める。
「お前の血は、嫌だ……」
ルストの腕は緩まない。
背中を固定され、顎の角度を逃がされ、牙はルストの首筋に当てられている。
噛めば血が出る。
噛まなければ、雷鎖が来る。
首元の輪が、低く鳴っていた。
まだ発動していない。
だが、脅しだけで十分だった。
クラウディオの身体は、すでにあの雷を覚えている。心臓が止まる感覚も、意識が白く断たれる感覚も、戻される時の乱暴な拍動も。
身体が先に怯える。
それが屈辱だった。
「選べ」
ルストの声が耳元に落ちる。
「飲むか、雷鎖か」
クラウディオの牙が震えた。
「命じるな……」
「飲め」
「命じるなと言っている……!」
首元の雷鎖が、青白く瞬いた。
クラウディオの心臓が反射で強張る。
まだ雷は落ちていない。
それでも、身体は止まった。
止まってしまった。
その瞬間、クラウディオの中で何かが切れた。
怒りではない。
諦めでもない。
もっと深い屈辱だった。
彼は震える息を吐き、牙をルストの首筋へ押し当てた。
白い牙の先が、皮膚を破る。
ぷつり、と小さな感触。
血が滲んだ。
その匂いが、クラウディオの理性を刺した。
苦い。
冷たい。
古い。
そして、強い。
ただの血ではない。
血でありながら、血を従わせるもの。
夜の底に長く沈んでいた何かが、薄い皮膚の下から溢れてくる。
クラウディオの喉が勝手に動いた。
一口。
飲んでしまった。
その瞬間、身体の内側で王血が悲鳴を上げた。
「――ッ!」
声にならなかった。
ルストの血は、舌の上で甘くはなかった。
甘美な救いではない。
優しい伴侶の血でもない。
罰だった。
冷たい鉄のような重さが喉を通り、胸の奥へ落ちる。そこから一気に熱が広がった。
熱い。
だが、ただ熱いのではない。
王血の流れをなぞり、乱れた場所を探し、暴れる脈を押さえつける熱。
クラウディオの身体が大きく跳ねた。
ルストの腕が強く固定する。
逃げられない。
牙はまだ首筋に刺さっている。
離れようとした瞬間、ルストの手が後頭部を押さえた。
「離すな」
「ん、ぐ……ッ!」
飲みたくない。
飲みたくないのに、喉が動く。
二口目が入る。
今度は、血脈が軋む音がした気がした。
体内の奥で、何かが捻じられる。
心臓が一拍、深く沈んだ。
止まる。
止まりかける。
だが、完全には止まらない。
ルストの血が内側から拍を掴み、無理やり戻す。
「が、ぁ……ッ!」
クラウディオの喉から、崩れた声が漏れた。
牙を立てたまま、身体が痙攣する。
指先が震える。
背が弓なりに反る。
首筋に食い込んだ牙が、さらに深く沈みかけた。
ルストは動かない。
クラウディオを抱き留めたまま、逃がさない。
血を与えているのではない。
飲ませている。
罰として。
制御として。
クラウディオの頬が熱を持った。
羞恥ではない。
いや、羞恥もあった。
だがそれ以上に、血脈反応だった。
ルストの血が体内で広がるたび、身体の奥が熱を帯びる。高揚にも似た麻痺が神経を叩き、屈辱と苦痛が混ざり合い、クラウディオの表情を崩していく。
それがまた許せなかった。
身体が勝手に反応している。
嫌悪している血に。
拒んだ血に。
必要だと知らされる血に。
「や、め……」
言った瞬間、クラウディオの瞳が見開かれた。
やめ。
また、その言葉。
王の言葉ではない。
ルストの耳元で、ルストの首筋に牙を立てたまま、そんな言葉を漏らした。
ルストの声が低く落ちる。
「まだだ」
「いや、だ……ッ」
「飲め」
「お前の血は……嫌だ……!」
「嫌でも飲め」
三口目。
クラウディオの喉が勝手に飲み込む。
その瞬間、体内の熱がさらに深く落ちた。
心臓が跳ねる。
脇腹の灰銀印が呼応する。
首元の雷鎖も、かすかに鳴る。
喉の牙痕が熱を持つ。
ルストに刻まれたすべてが、同じ方向を向く。
血。
印。
鎖。
噛み跡。
全部が繋がる。
クラウディオは、背筋が凍るのを感じた。
自分の身体の中に、また灰銀の道が増えていく。
飲むたびに。
飲み込むたびに。
拒むたびに、身体は覚える。
ルストの血を。
「我の中に……入るな……ッ」
クラウディオは、牙を抜こうとした。
だが、ルストの腕が逃がさない。
顎を固定され、首筋へ押し戻される。
牙が再び血へ触れる。
クラウディオの身体がびくりと跳ねた。
「入っている」
ルストが言う。
「これでさらに覚える」
その言葉で、クラウディオの怒りが一瞬だけ戻った。
赤い瞳が燃える。
牙を立てたまま、低く唸る。
「……殺す」
かろうじて言葉になった。
「貴様だけは……必ず……」
「殺意を乗せるな」
脇腹の印が焼けた。
「ぎ、ッ……!」
クラウディオの身体が跳ねる。
その拍子に、また血が喉へ落ちる。
ルストの血が、焼けた王血へ流れ込む。
熱と冷たさが同時に広がる。
痛い。
苦しい。
なのに、身体は崩れながらも、その血を受け入れていく。
飢えが沈む。
ほんの少しずつ。
牙の根の疼きが薄れる。
乱れていた心臓の拍が、ルストの血に掴まれ、無理やり整えられる。
効いている。
それが最悪だった。
クラウディオは目を見開いたまま、意識が白く遠のきかけるのを感じた。
焦点が揺れる。
ルストの首筋が近すぎる。
血の匂いが近すぎる。
拒みたい。
離れたい。
だが、身体が飲む。
身体が覚える。
身体が必要だと知っている。
「……っ、ぁ……」
声が崩れる。
舌に血が絡む。
牙を抜きたいのに、顎が震えてうまく動かない。
ルストは抱きしめるように拘束したまま、低く言った。
「息を整えろ」
「命じる、な……ッ」
「暴れるな」
「命じるな……!」
「飲み込め」
クラウディオは睨もうとした。
だが、瞳がうまく焦点を結ばない。
目が上へ揺れる。
白く霞む。
血脈反応が強すぎる。
ルストの血は、少量で王血の奥へ届く。
クラウディオの身体はそれを拒み、同時に求める。
反発と受容が同時に起こり、その矛盾が身体を痙攣させる。
背が震える。
膝が落ちかける。
銀鎖が鳴る。
ルストの腕がなければ崩れていただろう。
その事実もまた屈辱だった。
支えられている。
抱きしめられているのではない。
拘束されている。
逃がされていない。
それなのに、倒れないのはルストの腕のせいだ。
「離せ……」
クラウディオの声は弱かった。
言った瞬間、自分でそれを憎む。
ルストは離さない。
「まだ足りない」
「もう……飲まぬ……」
「飲む」
「飲まぬ……!」
「雷鎖を入れるか」
その言葉で、クラウディオの身体がまた強張った。
雷鎖。
心臓を止める罰。
白く飛ぶ意識。
床へ崩れる身体。
それを身体が覚えている。
クラウディオは、牙を立てたまま震えた。
飲む。
飲まされる。
飲まないなら雷鎖。
どちらも支配だ。
どちらも檻だ。
クラウディオの喉が、悔しさに震える。
そして、また血を飲み込んだ。
今度は、抵抗しながら。
嫌悪しながら。
怒りながら。
それでも。
「よし」
ルストの声が耳元で落ちた。
褒めるような、確認するような声。
クラウディオの顔が屈辱で歪む。
「褒めるな……ッ」
「飲めた」
「黙れ……」
「身体が覚えている」
「黙れと言っている……!」
ルストの血が、また体内で熱を放つ。
クラウディオの身体が大きく痙攣した。
喉が詰まる。
牙が抜けかける。
だが、ルストが支える。
血はもう十分に入った。
それでも余韻が暴れる。
体内で、灰銀の血が王血の中を走り回る。
勝手に触れる。
勝手に押さえる。
勝手に整える。
「俺の血に……触るな……」
漏れた。
俺。
クラウディオの瞳が、ぼんやりと見開かれる。
ルストは聞いていた。
もちろん聞いていた。
耳元で、低く囁く。
「剥がれてきたな」
クラウディオの身体が、痛みとは別の理由で硬直した。
「……違う」
「今のは、我ではなかった」
「違う……ッ」
「俺の血、と言った」
「違うと言っている……!」
ルストはそれ以上追わなかった。
それがまた、余計に刺さる。
沈黙が、聞き逃していないことを告げる。
クラウディオは牙を抜いた。
いや、抜かされた。
ルストの手が顎を支え、ゆっくり首筋から離した。
クラウディオの唇には血がついていた。
ルストの血。
舌に残る。
喉に残る。
体内に残る。
クラウディオは、それを吐き出したかった。
だが、もう飲んでしまっている。
戻らない。
身体の中に入っている。
灰銀がまた増えた。
クラウディオの膝から力が抜けた。
銀鎖が鳴る。
ルストの腕が彼を支えたまま、逃がさない。
クラウディオは荒い息を吐いた。
頬はまだ熱い。
瞳は揺れ、意識の端が白く霞んでいる。
口元から、血混じりの息が漏れる。
舌が力なく覗きかけ、彼は必死にそれを戻そうとした。
戻らない。
身体がまだ痙攣している。
ルストの血の余韻が、神経を細かく震わせている。
クラウディオは、かろうじて赤い瞳をルストへ向けた。
「……忘れろ」
掠れた声。
「今の、全部……忘れろ……」
ルストは、静かに答えた。
「忘れない」
クラウディオの顔が、怒りで歪む。
だが、怒りを血に乗せる力が弱い。
それすら、また屈辱だった。
「貴様……」
「必要な反応だ」
「我の屈辱を……記録するな……」
「する」
「黙れ……」
ルストは、クラウディオの背を固定したまま、首筋の傷を押さえた。
血はすぐに止まる。
クラウディオが飲んだ量は多くない。
だが、彼の身体には十分すぎるほど重い。
クラウディオは震えながら、低く言った。
「……罰だと、言ったな」
「ああ」
「なら、覚えておけ……」
声は弱い。
だが、奥に王の怒りが戻り始めている。
「我も、この罰を覚える」
「覚えろ」
「命じるな……」
「覚えれば、次は暴れ方が変わる」
クラウディオの瞳が細くなる。
「それも、管理の一部か」
「そうだ」
「最悪だな……灰銀……」
「知っている」
クラウディオは笑おうとした。
うまく笑えなかった。
血脈がまだ震えている。
ルストの血が、体内で熱を残している。
拒んだ血。
嫌悪した血。
それなのに、身体が受け入れ、飢えを鎮めた血。
クラウディオは、それを憎んだ。
自分の身体ごと。
「お前の血は、嫌いだ……」
低く呟く。
「嫌いだ、灰銀……」
ルストは答えた。
「それでも効く」
クラウディオの瞳が、怒りで燃える。
しかし、言葉は出なかった。
効く。
事実だった。
だからこそ、殺したかった。
ルストも。
この血を必要だと覚え始めた自分の身体も。
地下牢に、銀鎖の小さな音が響く。
クラウディオはルストに支えられ、拘束され、血を飲まされたまま、荒い息を吐いていた。
甘さは、まだない。
これは罰だ。
血脈を制御するための罰。
身体へ覚えさせるための罰。
そして、クラウディオは気づいてしまっていた。
身体は、もう覚え始めている。
灰銀の血を。
嫌悪と必要を、同じ場所に刻むように。




